一人の男が二つの部屋の境で王妃を待っていた。
血塗れのシャルニー伯爵であった。
「国王は?」マリー=アントワネットは血に染まった服を見て絶叫した。「国王を助けると約束したではありませんか!」
「国王はご無事です」シャルニー伯爵が答えた。
王妃が開けたままにしておいた扉の向こうを覗き込んだシャルニーは、王妃の寝室から繋がっている牛眼の間(l'Œil-de-Bœuf)に王妃、マリー=テレーズ王女(Madame royale)、王太子、それに衛兵が何人かがいるとわかり、王妃と目が合うまではアンドレの行方をたずねようと考えていた。
王妃と目が合うと言葉は引っ込んだ。
だが王妃の眼差しはシャルニーの心の奥まで深く穿っていた。
言葉にされるまでもなく、王妃はシャルニーの考えを見抜いた。
「いらっしゃいましたよ。心配なさらないで」
そう言うと王妃は王太子に駆け寄り抱きしめた。
その言葉に違わずアンドレが最後の扉を閉め、牛眼の間に入って来た。
アンドレとシャルニーは言葉を交わさなかった。
微笑みに対し微笑みを返す、それで充分であった。
不思議なもので、久しく離ればなれになっていた二人の心が、呼応して打ち交わし始めた。
その間に王妃は周囲に目を走らせ、シャルニーの不実を見つけて勝ち誇ったかのようにたずねた。
「国王は? 国王は何処です?」
「あなたを捜しておいででした」シャルニーは冷静に答えた。「廊下からあなたの寝室に向かったのと入れ違いに、別の廊下からあなたが出ていかれたのです」
その時、隣の部屋から怒鳴り声が聞こえた。
侵入者たちだった。「オーストリア女を殺せ! メッサリーナ(Messaline)を殺せ! 拒否権夫人を殺せ! 縊り殺せ、吊るしてしまえ!」[*1]
そして二発の銃声が聞こえ、扉のそちこちに二つの穴が開いた。
一発は王太子の頭をかすめて化粧壁(lambris)にめり込んだ。
王妃がひざまずいて声をあげた。「もう駄目です。みんな殺されてしまう」
すぐにシャルニーの合図をもとに、五、六人の衛兵が王妃と王女と王太子を守るため壁になった。
その時になって国王が姿を見せた。目には涙を溢れさせ、顔は青ざめていた。王妃が国王を捜していたように、国王も王妃のことを捜していたのだった。
国王は王妃の姿を目にして駆け寄って抱きしめた。
「生きていらしたのですね!」王妃が声をあげた。
「この者のおかげだ」国王はシャルニーを「そなたも無事だったのだな」
「この者の弟君のおかげで」王妃も答えた。
「伯爵殿」ルイ十六世がシャルニーに声をかけた。「そなたたち兄弟には返しても返し切れぬ恩を受けたようだ」
王妃はアンドレと目が合い、赤くなって顔を背けた。
侵入者が扉を打ち鳴らす轟音が聞こえ始めた。
「皆さん、一時間ここを死守しましょう」シャルニー伯爵が言った。「今は七時です。こっちだって全力で身を守るんですから、それを全滅させようとすれば一時間はかかるはずだ。一時間のうちには必ずや助けが来て、国王一家を救ってくれます」
シャルニーはそう言って部屋の隅にあった巨大な戸棚に手を掛けた。
すぐに家具が次々と積まれ、衛兵たちがその防壁に銃眼を作って狙いを定めた。
王妃は子供二人を抱きしめ、両手で頭を撫でて祈りを捧げた。
子供たちは呻きと涙を飲み込んだ。
国王が牛眼の間に連なる小部屋(cabinet)に向かった。重要な書類を燃やして侵入者の手に渡らないようにするためだ。
侵入者たちは扉を壊し続けていた。斧が穿ち鉄梃が突き刺さるたびに木っ端が舞った。
開いた穴の向こうに、赤く染まった槍の先や血にまみれた銃剣の切っ先がよぎり、死を放った。
同時に銃弾が立て続けにバリケードの上の鴨居に穴を穿ち、金張りされた天井の漆喰に跡を残した。
遂に長椅子が戸棚の上から崩れ落ちた。戸棚も壊れ、戸棚に隠れていた扉の羽目板が深淵のようにぱっくりと口を開いた。扉の穴からは銃剣や槍ではなく血塗れの腕が見えた。穴を広げようと休みなく蠢いている。
衛兵が最後の一発まで撃ち尽くすと、その甲斐あって、大きく開いた穴から見える回廊の床に、怪我人や死人が散らばっていた。
とうとう穴から死が入り込んで来たと信じた女たちが声をあげ、それを聞きつけた国王が戻って来た。
「陛下」シャルニー伯爵が声をかけた。「王妃とご一緒にここから一番離れた部屋にいらっしゃって、すべての扉を閉ざして下さい。扉の後ろには二人ずつ配置いたします。最後の一人になるまでしのぎ、扉の最後の一枚まで守り抜きます。ここの扉が打ち破られるのに四十分はかかったことから考えるに、二時間はこらえてみせましょう」
国王は躊躇いを見せた。部屋から部屋へと逃げ惑い、幾重の壁の陰に立て籠るのはみっともないと考えていたのだろう。
王妃がいなければ一歩も引かなかっただろう。
子供がいなければ、王妃も国王のように断固として動じなかっただろう。
だが悲しいかな人間というものは、王族であれ家臣であれ、心の中に見えない出入口を持っていて、そこから勇気を逃し恐怖を招じ入れてしまうものなのだ。
だから国王はもっとも離れた部屋に退却するよう命令を出そうとした。不意に腕が引っ込み、槍や銃剣が見えなくなり、怒声が消えた。
口を開け、耳をそばだたせ、息を呑むと、一瞬の沈黙が生じた。
やがて規則的に調べを刻む足音が聞こえた。
「国民衛兵だ!」シャルニー伯爵が声をあげた。
「シャルニーさん! シャルニーさん!」と呼ぶ声が聞こえた。
声と共によく知ったビヨの顔が穴から現れた。
「ビヨ! 君なのか?」
「ええ、あたしですよ。国王と王妃は何処です?」
「そこだよ」
「無事ですかい?」
「無事だとも」
「ありがたや! ジルベールさん! こっちです!」
ジルベールという名を聞いて、二つの心臓がそれぞれ別の形でおののいた。
王妃の心臓と、アンドレの心臓だ。
シャルニー伯爵が思わず振り返って見ると、アンドレと王妃の顔がその名前に反応して真っ青になっていた。
シャルニーはかぶりを振って溜息をついた。
「扉を開けよ」国王が命じた。
護衛隊が大急ぎでバリケードの残骸を蹴散らした。
そのうちにラファイエットの声が聞こえて来た。
「パリの国民衛兵の諸君、
扉が開いて目に入ったのはラファイエット将軍とジルベール二人の姿だった。左にはビヨが、国王救出に一役買えたことに喜びを漲らせて立っていた。
ラファイエットを起こして来たのはビヨであったのだ。
ラファイエット、ジルベール、ビヨの後ろには、サン=フィリップ=デュ=ルール(Saint-Philippe-du-Roule)の中央部隊を率いていたゴンドラン大尉(capitaine Gondran)が立っていた。
マダム・アデライードが真っ先にラファイエットの前に飛び出し、恐怖を隠すことなく首っ玉にしがみついた。
「あなたが助けてくれたのですね!」
ラファイエットは恭しく牛眼の間の敷居を越えようとしたが、将校に止められた。
「失礼ですが大入室権(vos grandes entrées)はお持ちですか?」
「ないのであれば」国王がラファイエットに手を差し出した。「授けようではないか」
「国王万歳! 王妃万歳!」ビヨが雄叫びをあげた。
国王が振り返って微笑んだ。
「この声には聞き覚えがあるな」
「仰る通りですよ。パリにいらした時に聞いたんです。ヴェルサイユに戻らずにパリにずっといらっしゃればよかったのに」ビヨが国王に答えた。[*2]
王妃が眉をひそめた。
「そうですね。何せパリの者たちは親切ですもの」
「そうかね?」国王はラファイエットにたずねた。「そなたならどう思う? 何をすべきかね?」という意味であった。
「恐れながら、バルコニーにお姿を見せることが最善の行動かと存じます」ラファイエットは恭しく答えた。
国王は目だけでジルベールに問いかけた。
国王は真っ直ぐ窓に向かい、躊躇せず窓を開いてバルコニーに姿を見せた。
大きな声が一斉に響き渡った。
「国王万歳!」
それに続いてまた別の声があがった。
「国王をパリに!」
その二つの声に紛れて、大きく叫ぶ声がそこかしこから聞こえて来た。
「王妃! 王妃!」
その声を聞いて震えぬ者はいなかった。国王も青ざめ、シャルニーも青ざめ、ジルベールも青ざめた。
王妃が顔を上げた。
王妃の顔も青ざめていた。口唇を結び、眉をひそめて、窓辺に立ち尽くしていた。マリー=テレーズ王女(Madame Royale)に身体を預けられ、王太子の金髪の上で大理石のような白い手を強張らせていた。
「王妃を! 王妃を!」声はますます大きくなった。
「みんなあなたのお姿を目にしたがっています」ラファイエットが言った。
「行ってはなりません、母上」マリー=テレーズ王女が泣きながら王妃の首にかじりついた。
王妃はラファイエットを見つめた。
「恐れることはありません」ラファイエットが答えた。
「どうしろと? 一人でですか?」
ラファイエットは微笑み、恭しく、そして老境に至っても失うことのなかった優雅な身ごなしで、子供二人を母親から引き離し、バルコニーに向かわせた。
それから王妃に手を差し出した。
「どうか私を信用して下さい。すべて保証いたします」
そして王妃をバルコニーまで連れ出した。
目も眩むほどの恐ろしい光景だった。大理石の中庭が人間の海に変わり、唸りをあげる波となっていた。
王妃の姿を目にした群衆から巨大な叫び声があがった。憎悪とも歓喜ともつかない叫びだった。
だがラファイエットが王妃の手に口づけをすると、歓声があがった。
要するに気高いフランス国民の血管の中には、どんな庶民にも騎士の血が流れているということだ。
王妃は一つ息をついた。
「おかしな人たちだこと!」
それから不意に身体を震わせた。
「わたしの衛兵たちは――わたしの命を救ってくれた衛兵たちは、あの者たちに何も出来ないのですか?」
「一人お貸し下さい」ラファイエットが答えた。
「シャルニー殿!」王妃が名前を呼んだ。
だがシャルニー伯爵は動かなかった。用件が何であるのかわかっていたからだ。
シャルニーには十月一日の晩のことを謝罪するつもりはなかった。
悪くはないのだから、許される必要もない。
アンドレも同じことを感じていたので、シャルニーを引き留めようと手を伸ばした。
アンドレの手とシャルニーの手がぶつかり、握り合わされた。
それを目撃してしまった王妃は、その一瞬で幾つものことを悟らねばならなかった。
王妃の目は燃え上がり、胸は波打ち、声は割れていた。
「ではあなた」と別の衛兵に声をかけた。「こちらに。話があります」
衛兵は言われた通りにした。それというのもその衛兵にはシャルニーのように躊躇する理由がなかった。
ラファイエットが衛兵をバルコニーに連れ出し、自分の三色徽章を衛兵の帽子につけて抱擁した。
「ラファイエット万歳! 護衛隊万歳!」五万人の声が轟いた。
声の中にはその低い唸りという形で去りゆく嵐の脅威をいまいちど聞かせようとするものもあった。
だがすべて歓声に掻き消されてしまった。
「もう大丈夫だ」ラファイエットが言った。「晴れ間が戻って来た」
それから部屋に戻り、
「ですが再び曇らぬように、していただかなくてはならないことが一つだけ残っております」
「うむ。ヴェルサイユを離れるのだな?」国王は眉間に皺を寄せた。
「パリにいらっしゃるのです」
「では国民に伝えてくれ。王妃と余と子供たちは一時にはパリに発つ」
次に王妃に声をかけた。
「部屋に寄って支度を始めてくれ」
この言葉を聞いて、どうやらシャルニーは忘れていた重要な出来事でも思い出したようだった。
シャルニーが駆け出して王妃を追い抜いた。
「わたしの部屋に行ってどうするのですか?」王妃の言葉は辛辣だった。「何の用もないでしょう?」
「そうであって欲しいものです」シャルニー伯爵が答えた。「ですがご心配は無用です。本当に用がなければ、陛下のご不興をこうむるほど長くはお邪魔いたしません」
シャルニーの後ろを歩く王妃は、床を汚している血の痕を目にして目を閉じた。手探りしてシャルニーの腕をつかむと、そのまましばらく目を閉じたままで歩いた。
ふと、シャルニーの全身が震えていることに気づいた。
「どうしたのですか?」王妃は再び目を開けた。
それから気づいた。
「死んでいる! 人が死んでいます」
「腕を放していただけますか。お部屋まで捜しに来たものが見つかりました。この死体は弟のジョルジュです」
それは確かに王妃のために命を賭せと兄から命じられたあの若者の死体だった。[*3]
命令に忠実に従ったのだ。
Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre LV Le matin」の全訳です。
Ver.1 17/09/01
[訳者あとがき]
初出『La Presse』紙、1851年5月14日。
[更新履歴]
[註釈]
▼*1. [メッサリーナ]。
ローマ皇帝クラウディウスの妻。残虐、淫乱で知られる。[↑]
▼*2. [パリにいらした時に…]。第37章でビヨは国王のそばで「国王万歳!」と叫んでいる。
[↑]
▼*3. [兄から命じられた…]。
第54章に「変わらずに忠実でいてくれるのですね」/「私の務めではありませんか」/「誰に任されたのです?」/「兄に」という王妃とのやり取りがある。[↑]
▼*4. []。
[↑]
▼*5. []。
[↑]