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映画の感想
本の感想


04/10/08 「一度にわれを咲かせるようにくちづけるベンチに厚き本を落として」梅内美華子(『横断歩道《ゼブラ・ゾーン》』より)
 
   

 キャンパス・ライフが目に浮かぶようです。
 ところがどっこい。京極夏彦やハリポタが売れている昨今では、学生でなくともぶ厚い本を読むのです。辞書や文学全集や哲学書とは限らない。ベンチがある場所も、学内かもしれず、公園かもしれず、駅の構内かも喫茶店かもしれないのである。

 もしかすると、ぶ厚い『北斗の拳』のコンビニコミックを、遊園地のベンチに落としたシーンかもしれません。
 でもやはり、こういうのには文学的なのが似合います。

 少しわかりにくいですが、上の絵の本は象牙色に塗ってあります。創元ライブラリ『中井英夫全集』の色です。読んでいたのは『虚無への供物』。〈青い薔薇〉を「咲かせるよう」な「くちづけ」――〈青い薔薇〉とは不可能の薔薇。そんな不可能を可能にする力が、恋をする二人にはあります。無敵の一瞬。

 徐々に「咲かせる」のではありません。「一度に」「咲かせる」とあります。ということはおそらく激しい「くちづけ」なのでしょう。ところがこの歌には肉感的なところもエロティックなところもない。情熱的ではありますが、受ける印象はむしろさわやかなものでしょう。「厚き本」という言葉にはどこか、そう思わせる力があります。

 絵にするとわかりやすいですが、この歌を上の句から読んでいくと、最後に視線はベンチに落ちた「厚き本」のところに向かいます。絵には描かれていない上の部分で何が行われているかは、「あとはわかるでしょ」といったような感じでしょうか。

 これが、落としたのが「厚き本」ではなく、食べ物か何かだったりしたら、さわやか路線からぐっとエロティック路線に近づいていたんじゃないかと思うのです。
横断歩道(ゼブラ・ゾーン)・若月祭(みかづきさい) 梅内美華子歌集
(2in1シリーズ 6)雁書館
04/10/05 「針と針すれちがふとき幽かなるためらひありて時計のたましひ」水原紫苑(『びあんか』より)
 
   
 
 この短歌は尻切れとんぼです。〈針と針がすれ違うときためらいがあって、時計の魂……〉。いったい「時計のたましひ」がどうなったというのでしょう? 時計の魂が抜けてしまった。時計の魂の存在を詠み人が感じた。……

 そもそも時計の針というのは、長針も短針も秒針も、すべて同じ方向に動いています。そのため、針が針を追い越すことはあっても、「すれちがふ」ことはありません。時計の針と針が「すれちがふ」のは、時がねじれたとき――ねじれを生み出した張本人は、時計――「時計のたましひ」でしょう。

 時を歪ませる瞬間に、自分が行おうとしている事実の恐ろしさに気づいてためらったのでしょうか。あるいは上の絵のような光景も思い浮かびました。すれ違う際に、どちら側に避けようかためらった挙句に、同じ方向に避けようとしてぶつかりそうになった通行人です。水原紫苑の短歌にこんなユーモラスな解釈はあまり似合いませんが。

 さて。この歌も下世話に考えてみれば、「時計のたましひ」とは電池ということになるでしょうから、この歌は電池が切れかかって針がピクピク動いているのを見て、電池を取り替えなくっちゃ、と思った歌ということになってしまいます。〈針と針がすれ違うときためらいがあって、時計の魂を取り替えなくっちゃ〉です。これはこれで面白い、なんて思ってしまいますが。
びあんか・うたうら 水原紫苑歌集
(2in1シリーズ 4)雁書館
04/10/04 「光線をおんがくのごと聴き分くるけものか良夜眼《まなこ》とぢゐる」水原紫苑(『びあんか』より)
 
   

 「良夜」の「光線」といえば、普通であれば〈月の光〉にほかならないし、月光のことだと捉えるのが正しい解釈だと思います。けれどわたしには、オーロラという「光線」が〈五線譜〉に見えて仕方がありません。オーロラという〈五線譜〉に書かれた曲を「聴き分」けている。もちろん「眼とぢ」ているのだから、どう〈見え〉るかなどというのはまったく無意味なことでしょう。これは「光線」を「眼」ではなく耳で――あるいは全身で――感じている、そういう歌です。月光の下にたたずむ孤高の狐が一匹。そんな絵が目に浮かびます。

 けれどオーロラという絵も捨てがたいものでした。オーロラの下では、狐は座っているのではなく眠っています。月光の下でたたずむ「けもの」が研ぎ澄まされた孤高の騎士だとしたら、オーロラの下で眠る「けもの」は柔らかで温かい存在です。

 ところで――これまで〈狐〉と書いてきましたが、原文には「けもの」とあるだけで、どこにも〈狐〉の文字はありません。けれど水原紫苑が「けもの」と書くとき、それはおそらく〈狐〉か〈犬〉にほかならない――直感的にそう思いました。

 むろん、「けもの」と疑問詞が付く以上は、いるのは「けもの」とは断定できない存在です。「光線」が月光にしろオーロラにしろ闇夜ではないのだから、目の前にいる「けもの」を見誤るはずはない。「けもの」ではない存在が「眼とぢ」ているのを見て、実は「けもの」なのだろうか、と感じたのでしょう。

 つまり「眼とぢ」て座っているのは〈人間〉、「けもの」かと紛うような人間です。「光線をおんがくのごと聴き分くる」能力を持っているかの如き雰囲気を備えた人間です。ぐっと下世話に考えれば、「良夜」すなわち名月を縁側に座り眺める二人――歌い手(水原紫苑と同一視するなら女性)とその恋人――が登場人物です。恋人である必要はありません。父親でもいいし、母親でもいい。むしろ家族の方がしっくりくるかもしれません。「けもの」のごとき肉親を見て、自分にも「けもの」の血が流れているのを実感する詠み人。

 あるいは――わたしはこちらの解釈の方が好きなのですが――「けものか」と紛うのは、たったひとりで「光線」の下にいる人間ではないでしょうか。詠み人自身か、もしくはそれ以外の人物でもよいですが、とにかく周りには誰もいない唯一の存在です。その場合いるのが第三者であるのならば、詠み人の存在は〈空《くう》〉になります。誰もいない場所で、つい人間であることを忘れ、古より自らの身体に流れる「けもの」の感性を満喫する――オーロラの夜、あるいは名月の夜には、人はそんなことを感じるのではないでしょうか。
 びあんか・うたうら 水原紫苑歌集
(2in1シリーズ 4)雁書館
04/10/01 『雨月物語』
 溝口健二監督作品。
 これぞ映画。源十郎(森雅之)が浅茅が宿に帰ると宮木(田中絹代)が待っていた。眠る源十郎。燭台を灯して針仕事をする宮木。フェイドアウト。夜の闇。そしてフェイドイン。浅茅が宿に朝日が差し込む。朝が来たのだ。だが――朝日? 雨戸は閉めてあるはずなのに……? そこで観ている者はすぐに気づく。破れた雨戸や破れた壁から、朝日が洩れているのだ。同時に悟る。宿は廃屋で、宮木はとうに死んでいる、と。

 ストーリー・構成・映像美・俳優・音楽……映画の魅力は色々ある。そして。朝日が洩れる――こんな当たり前のシーンたった一つですべてを明らかにしてしまうテクニックというのも映画の魅力の一つだと思う。絵で表現するそれができないのであれば、映画ではなくラジオや小説を作ればよいのだ。

 藤兵衛(小沢栄)の妻阿浜(水戸光子)が武士に襲われるシーンにも、似たようなテクニックがある。襲われる阿浜。場面転換。時間の経過。泣き崩れる阿浜。普通ならこれで終わりだろうし、このままでも充分に意味が通じる。けれど映画のこの場面には続きがある。武士が阿浜に金をやるのだ。引導を渡したといってもよい。もはや「事故」ですらない。完全に阿浜の人格は否定されたのだ。
 お金をやる――もしこのシーンがなければ、藤兵衛と再会した阿浜は、どれだけ自分の人格がズタズタにされたかを、言葉で説明していたかもしれない。でも説明は余計なことだし、不要なことだ。

 それだけに、宮木による最後のナレーションは余計だった。完全なハッピーエンドにするにはああするほかはなかっただろう。けれどなにもハッピーエンドでなくともよいのだ。というか、ハッピーエンドにはなり得ないのに。二重の意味で余計なナレーション。無駄な説明。無理矢理なハッピーエンド。

 京マチ子の舞のシーンも圧巻でした。
04/09/28 「探偵、夢を解く」ジーン・ウルフ (『闇の展覧会 I 』より)

 フロイトとホームズのパロディ。ドイツ系の肩書きを持つ人々が登場するのは明らかにフロイトを意識したものだろうけれど、探偵がフランス人であるのはなぜなのだろう。「マドレーヌ街」というお菓子の名前を冠せられた通りは、「ベイカー《パン屋》街」をイメージさせるとともに、プルースト『失われた時を求めて』を思い起こさせる。精神分析と対峙する自意識

 ジーン・ウルフの作品は、そもそも作品全体が難解なのだけれど、特にラストがむずかしい。探偵がむさぼり食った「白い、小麦粉でできた肉」とは何か? ここにも「パン」すなわち「ベイカー街」が響く。探偵よ、さらば。そして「白」くはないが、マドレーヌもまた「小麦粉でできた肉」には違いない。ではこの物語が終わったところから、『失われた時』が始まるのだろうか。

 だけど。「白い、小麦粉でできた」ものが「パン」であるならば、それが「」と表現されたときに連想するのは「キリストの肉」にほかならない(ここは原文を見ないと断言できないけど)。父であり子であり精霊であるキリスト。――そう、ここにもフロイトが顔を出す。

 けれどこれはあまりにも探偵小説的な見方。犯人が誰かではなく、探偵とは誰なのかを探らなくては、この物語は解けない。なぜフランス人なのか?

 秘書のアンドレーという名はアンドレの女性形、そしてアンドレとは十二使徒の一人。ということは、アンドレーという助手を持つ探偵こそは、アンドレという弟子を持つ存在そのものである、というのは牽強付会にもほどがあるか。あるいは「I am」にあたるフランス語は「Je suis」であるが、これは「Jesus」を想起させる……などと取り留めのない妄想が続く。

 ジーン・ウルフのファンサイトはたくさんあっても、断定的な結論を書いているサイトは見つからなかった。とあるサイトでは「この巧みで衝撃的なラストには、笑うか、哲学的に頷くか」だそうで、いろいろ考えるのは思う壺か。あるいは作家メリッサ・マイア・ホールによれば「夢とキリストに関する奇妙な話」だそうで、こうなると wilder の解釈もあながち間違いじゃないか。
 手には血、薔薇の冠、鬚、木に縛りつけられて銃殺……薔薇→荊、銃殺→磔刑と捉えなおせば、確かにキリストではある。

04/09/20 ビンゴ・マスタージョイス・キャロル・オーツ(『闇の展覧会 I 』より)
 この物語を不条理に感じるのは、主人公が三十九歳であるからに過ぎない。彼女が十代であれば、ありふれた(しかし屈折した)青春の物語。サリンジャーあたりにでもありそうな。

 しかし、三十九歳というのは外面的な年齢であり、ローズ自身は「もちろん彼女は純潔な、まだ若い女性で、セックスについての漠然とした意識は、ずっと以前、もっと粗野で、無鉄砲で、小ざかしい子どもたちが、ある種の言葉を節をつけて唱えることで、哀れなローズ・マロー・オウダムに耳をふさがせる力を持っていた小学校時代とさして変わってはいない」のである。

 だが世界はそれを認めない。いや、ローズ自身が認めていない。そのことが不安を呼び、不眠症や病気を呼ぶ。世界とのズレと、ローズ自身のズレ、それらが二重にズレることで、はじめて〈不条理〉が生まれる。ズレがどちらか一方だけなら、単なる「おかしな人」の話、あるいは「ありふれた青春」の一変奏、で終わったのかもしれないのに。

 でも終わらない。終われない。それが三十九年という時間を経た現実だ。ローズは「変わってはいない」ことを罰せられたわけではない。これが「変わってはいない」ということの現実なのだ。
 『闇の展覧会 1』スティーブン・キング他(ハヤカワ・ミステリ文庫)
04/09/12 麻耶雄嵩
 『鴉』から七年、なんてわざわざ帯に書かれているものだし、おまけに『鴉』と同じく漢字一文字で幻冬舎の本だから、期待しまくりでした。
 う〜ん。『鴉』みたいのを期待してしまいました。
 ところが読み終えてみればこれが堅固な新本格で。本格ミステリが好きなら『翼ある闇』『木製の王子』新本格ミステリが好きなら『螢』。そんな感じ。

 『』という作品は、トリックに気づいて読めばもちろんミステリとして傑作なんだけど、トリックに気づかなくても幻想小説として傑作だ、という感想を持てる点が、傑作の傑作たるゆえんだと思う。まぁ幻想小説として傑作だ、というのは誤読ではあるんだけど。

 あるいは『翼』にしろ『木製』にしろ『夏と冬』『痾』にしろ『まほろ市』にしろ、真相がわかった時点で、その真相自体が幻想的というか、そういう犯罪を目論んだ犯人の論理自体がイッちゃってる。そういうところが好きだったんだけど。『螢』もイッちゃってるといえばイッちゃってるんだけど、「シリアルキラー」とか「オタク」とかいう一言であらわせちゃう程度のイキ方なのでモノタリナイ

 つーことで、カナメは 叙述トリック。『鴉』以上にオーソドックスなネタと、技ありネタの二本立て。そう、麻耶作品としては物足りなくとも、ミステリ的には大満足ですとも。

 最後の「大学生」とは誰か?てところを考えて悩んでしまう、が。『鴉』や『木製』みたいな割り切れる話が続いて出版されていたし、『螢』もとちゅうまではすっきりしすぎるくらいすっきり割り切れる話だから、最後もきっと確定できる手がかりがあるに違いない、と思ってはみたものの。『夏と冬』の作者なんだよなぁこの人は。『螢』のエピローグも、もしかすると『夏と冬』のメルの一言みたいな思わせぶり(?)なのかもしれない。
 『螢』麻耶雄嵩(幻冬社)
04/09/10 熱中時代』1&2
 DVD-BOXを鑑賞。
 スレッサー『うまい犯罪、しゃれた殺人』が文庫化された。解説を読むと、ヒッチコック劇場ナレーターとして熊倉一雄氏の名前が。『熱中時代』にて、天城校長(船越英二)を目の敵にする落選議員の黒丸役をやっていた人こそ熊倉氏。めちゃくちゃ憎たらしい役なんだけど、ヒッチコックの声かぁ、と思った途端に親しみが湧く。NHKのポワロの声もやってるんだね、この人。顔に似合わぬ茶目な声です。

 『熱中時代』には、熊倉氏のほかにも、安原義人氏や山田康夫氏などなど、なぜか声優さんが登場する。

 船越&草笛&水谷のレギュラー3人は本当にいい俳優さんだなあ。ちょっとこの話はイマイチかなって回でも、この人たちの演技みてるだけで楽しいもんな。
 水谷豊には『傷だらけの天使』『熱中時代』『刑事貴族』のようなはじけちゃってる役が似合ってる。年を重ねても、落ち着いた役よりはじけてる役をどんどんやってほしいなぁ。 
 熱中時代 DVD-BOX』(バップ)
04/09/01 激突!
 スピルバーグの昔の映画。
 思っていた以上に面白かった。というわけで※マイナス点(1)最後にトラックが炎上しなかったのがものたりない。なんだかんだいって自分も最近の特撮にすっかり毒されているんだなァ。(2)時速145kmでカーブを走っている最中に真後ろを振り向いてトラックを確認するドライヴァー、怖いのはあんただ! 
 『激突!』(ユニバーサル)
04/08/27 青空文庫掲示板こもれび
 ふたたび「こもれび」について。

 今回は「長篇 or 短篇」
 『源氏物語』のような長篇作品は長篇の形で読みたい、というごく当たり前の意見が、「何を問題にされているのか理解できませんでした。」というひとことで片づけられてしまっていた。

 少なくとも「一作品=一ファイル」が原則でしょ。その上で、「読者の便宜を考えて、章ごとの公開にする」とかなんとか註を付けるべきで。「作品」という概念が欠如しているとしか思えない
 『源氏物語』みたいな長篇はまだいいよ。読者がファイルを54個ダウンロードするなりの苦労をすればいいだけだから。

 けど例えば太宰の『晩年』。この作品は、今も昔も『晩年』というタイトルの短篇集としてまとめられることが多い。にもかかわらず、驚くなかれ青空文庫では『晩年』という総題からはこの作品にたどり着けない仕組みになっている。索引はおろか検索も出来ない。個々の短篇の作品データや底本データにも、『晩年』の文字がないものがあるから、お手上げなのだ。読者が初めから知識として『晩年』所収の短篇を知っていなければならない。

 確かに初出は雑誌だ。単独の作品として発表された。例外を認めるとそのたびごとに采配しなければならず、青空文庫ほどの規模ではそれが難しいから、機械的に規則に従うという事情も分かる(※どの作品を短編集として登録するか、または登録しないか、の曖昧な基準を見定める必要が出来てしまう)。だからあくまで独立した短篇として登録してあるのだろう。

 しかし結局例外はあるのだ。索引に『シャーロック・ホームズの冒険』という項目はないのに、『半七捕物帳』という項目はある。理由は不明。『晩年』にしろ『ホームズ』にしろ、短篇がすべて公開され終わったら、そのあとで総題としてまとめるつもりなのだろうか。そうは思えない。著者が亡くなっているのだから収録作品が増える可能性も収録順序が変更される可能性もない。最終的に短編集の形でまとめるつもりがあるのなら、初めから『ホームズの冒険』01「ボヘミアの醜聞」という形で公開すればよいのだ。その方が楽だろうし。

 結局、青空文庫ってのは大きくなり過ぎちゃったんだな。子供の頃は怪我の治りも早い。でも今の青空文庫は成長しすぎていて、大手術に耐えられないんだ。システムの欠陥にメスを入れることも出来ずに、このままさらに大きくなり続けていくしかない運命なのだろうな。
04/08/25 青空文庫掲示板こもれび
 「芸《ウン》」という漢字を入力しようと思ったのだが、どうがんばっても「芸《ゲイ》」しか見つからない、というわけで検索してみたところ、このページに引っかかった。JISでは区別してないのか……。

 以前から青空文庫というのは、なーんかヘンに生真面目で(かつトンチンカンで)近寄りがたい雰囲気があった。今回もいまだに「ケ」と「ヶ」の論争やってるよ。もうすでに決着がついてると思うんだけどな。「句点番号5-17と5-86の使い分け方針」。これで解決してるじゃん。

 「ケ」に見える字形の日本語文字には、カタカナの「ケ」と符号の「ヶ」の二種類があるという議論以前の事実。符号の「ヶ」は大振りに表記するときも小振りに表記するときもあるという事実。要するに日本語には三種類の「ケ」がある。カタカナの「ケ」、符号の「ケ(大振り)」、符号の「ケ(小振り)」。カタカナの「ケ」符号の「ケ(小振り)」については、JISどおりに入力すればいい。問題はJISに存在しない符号の「ケ(大振り)」だ。JISにないのだから、テキスト入力するときには、何かで代用しなければならない

 1.カタカナの「ケ」で代用する。2.符号の「ケ(小振り)」で代用する。3.「※」で代用する。

 で、青空文庫では2.を採用しているわけで。これ以上なんの議論の余地があるのだろう? 議論するとしたら、2.ではなく1.にすべきだ、いや3.にすべきだ、って問題だけでしょ? 符号の「ケ(小振り)」の名称が「小書き片仮名ケ」だというのにまどわされているのだろうか。
 けど、「JISではこれこれこうだから」なんて言うからややこしくなる。JIS先にありきなわけ? 日本語先にありきでしょうが。日本語に於いては「小書き片仮名ケ」なんて存在しないの。JISでの通称がそうなってるだけ。仮に、それほどJISを大事にしたいんだったら、――JISには符号の「ケ(小振り)」が存在しないのだから、それを「小書き片仮名ケ」で代用する。――とかしなけりゃね。

 a.カタカナの「ケ」は「片仮名ケ」をそのまま入力する。
 b.符号の「ケ(大振り)」は「小書き片仮名ケ」で代用する。
 c.符号の「ケ(小振り)」は「小書き片仮名ケ」で代用する。

 もちろん「小書き片仮名ケ」の変わりに、「片仮名ケ」で代用したってかまわない。そうしたけりゃさ。でも青空文庫では「小書き片仮名ケ」で代用するって方針なんだから。どの文字で代用するかを議論するのは不毛もいいところ。しょせん「代わり」の記号だもの。箇条書きの文の頭に、●をつけようか★をつけようかで議論するようなもんだよ。
04/08/12 怪談専門雑誌『幽 Vol.1
 実は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の翻訳をする気になったのは、この雑誌を読んだからにほかならない。われながらミーハーだなぁ。

 ちくま文庫からは『妖怪・妖精譚 小泉八雲コレクション』が発売されるし(おそらく教養文庫の再発か?)、国書刊行会からは『稲生物怪録絵巻集成』『北斎妖怪百景』が発売されるし、今年の猛暑に夏を感じずに、こんな妖怪・怪談本新刊ラッシュに夏を感じてしまっている……。インドア派にもアツい夏だナ……。

 東雅夫編集長が罪なことをやっております。「耳なし芳一」の訳文を訳者ごとに比較してる。何が罪って、訳者が可哀想なのではなく、こりゃあアタシに対する責め苦じゃござんせんか、と。例によって平井翁の訳文にホレボレした挙句、現代文擬古文の二通りで訳す羽目になってしまいました。バカなオレ。
 幽 第1号』(メディアファクトリー)
04/06/19 パンと恋と夢
 1953年のイタリア映画。古き良き恋愛コメディであります。
 ヒゲの署長さんがピーター・セラーズみたいでよろしい。しかも何だあの自転車は!? すごいぞ。電動自転車じゃん。ガソリン自転車? ほしい。

 貧乏な〈若い娘〉と〈女盛り〉の産婆さんに二心ある署長さん。〈若い娘〉に恋する署長の部下。田舎のことゆえ事件らしい事件も起きないから恋愛に精が出る? 留置場の利用法は、やきもち焼きのお嬢さんと痴話喧嘩した容疑で〈若い娘〉を逮捕、なのでした。遠く離れた二軒の家で同時にお産が始まれば、たった一人の産婆さんを村唯一の文明的な乗物ガソリン自転車に乗せて、何度も往復。これも仕事です。しかも道中 口説きっぱなし。

 ピーター・セラーズが原節子を口説いてるみたいで面白かった。
 
04/01/07 新約聖書
 翻訳をする、聖書やシェイクスピアの引用がある、原文を検索、該当箇所を邦訳で調べる、というのが現在のwilderの翻訳スタイル。今はネットという便利なものがあるから、「引用」の場合だとこれでも用が足りる。

 しかし誰もがカギカッコつきで「引用」してくれるとは限らない。微妙に言い回しを変えたり、地の文に溶け込ませたり、読んでいて何となく聖書っぽい記述やシェイクスピアやワイルド、ゲーテやダンテなどの古典っぽい記述にぶつかっても見当がつかないのだ。それでまあ通読しようと思ったわけなのだが、翻訳のおかげで前知識があることもあって面白い。

 アナトール・フランスの「ユダヤの総督」で、ピラトゥスが愚痴をこぼすユダヤ人のむちゃくちゃ加減も、ちゃんと聖書には書かれてあった。より正確にはパリサイ派とサドカイ派のむちゃくちゃ加減なわけだけれど。福音書の作者によって書き方が違う。マタイとマルコはわりとあっさりしている。これだけ読んだらピラトゥスとパリサイ派はどっちも悪役なのだが、ルカとヨハネを読むと、ピラトゥスの何百倍もパリサイ派が極悪に書かれている。ルカとヨハネは何か恨みがあったのかなー、あったんだろうなぁ。
 『新約聖書 共同訳・全注』(講談社学術文庫 318)


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