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映画の感想 | ||
本の感想 |
04/10/01 | 『雨月物語』 |
溝口健二監督作品。 これぞ映画。源十郎(森雅之)が浅茅が宿に帰ると宮木(田中絹代)が待っていた。眠る源十郎。燭台を灯して針仕事をする宮木。フェイドアウト。夜の闇。そしてフェイドイン。浅茅が宿に朝日が差し込む。朝が来たのだ。だが――朝日? 雨戸は閉めてあるはずなのに……? そこで観ている者はすぐに気づく。破れた雨戸や破れた壁から、朝日が洩れているのだ。同時に悟る。宿は廃屋で、宮木はとうに死んでいる、と。 ストーリー・構成・映像美・俳優・音楽……映画の魅力は色々ある。そして。朝日が洩れる――こんな当たり前のシーンたった一つですべてを明らかにしてしまうテクニックというのも映画の魅力の一つだと思う。絵で表現する。それができないのであれば、映画ではなくラジオや小説を作ればよいのだ。 藤兵衛(小沢栄)の妻阿浜(水戸光子)が武士に襲われるシーンにも、似たようなテクニックがある。襲われる阿浜。場面転換。時間の経過。泣き崩れる阿浜。普通ならこれで終わりだろうし、このままでも充分に意味が通じる。けれど映画のこの場面には続きがある。武士が阿浜に金をやるのだ。引導を渡したといってもよい。もはや「事故」ですらない。完全に阿浜の人格は否定されたのだ。 お金をやる――もしこのシーンがなければ、藤兵衛と再会した阿浜は、どれだけ自分の人格がズタズタにされたかを、言葉で説明していたかもしれない。でも説明は余計なことだし、不要なことだ。 それだけに、宮木による最後のナレーションは余計だった。完全なハッピーエンドにするにはああするほかはなかっただろう。けれどなにもハッピーエンドでなくともよいのだ。というか、ハッピーエンドにはなり得ないのに。二重の意味で余計なナレーション。無駄な説明。無理矢理なハッピーエンド。 京マチ子の舞のシーンも圧巻でした。 |
04/09/28 | 「探偵、夢を解く」ジーン・ウルフ (『闇の展覧会 I 』より) |
フロイトとホームズのパロディ。ドイツ系の肩書きを持つ人々が登場するのは明らかにフロイトを意識したものだろうけれど、探偵がフランス人であるのはなぜなのだろう。「マドレーヌ街」というお菓子の名前を冠せられた通りは、「ベイカー《パン屋》街」をイメージさせるとともに、プルースト『失われた時を求めて』を思い起こさせる。精神分析と対峙する自意識。 ジーン・ウルフの作品は、そもそも作品全体が難解なのだけれど、特にラストがむずかしい。探偵がむさぼり食った「白い、小麦粉でできた肉」とは何か? ここにも「パン」すなわち「ベイカー街」が響く。探偵よ、さらば。そして「白」くはないが、マドレーヌもまた「小麦粉でできた肉」には違いない。ではこの物語が終わったところから、『失われた時』が始まるのだろうか。 だけど。「白い、小麦粉でできた」ものが「パン」であるならば、それが「肉」と表現されたときに連想するのは「キリストの肉」にほかならない(ここは原文を見ないと断言できないけど)。父であり子であり精霊であるキリスト。父――そう、ここにもフロイトが顔を出す。 けれどこれはあまりにも探偵小説的な見方。犯人が誰かではなく、探偵とは誰なのかを探らなくては、この物語は解けない。なぜフランス人なのか? 秘書のアンドレーという名はアンドレの女性形、そしてアンドレとは十二使徒の一人。ということは、アンドレーという助手を持つ探偵こそは、アンドレという弟子を持つ存在そのものである、というのは牽強付会にもほどがあるか。あるいは「I am」にあたるフランス語は「Je suis」であるが、これは「Jesus」を想起させる……などと取り留めのない妄想が続く。 ジーン・ウルフのファンサイトはたくさんあっても、断定的な結論を書いているサイトは見つからなかった。とあるサイトでは「この巧みで衝撃的なラストには、笑うか、哲学的に頷くか」だそうで、いろいろ考えるのは思う壺か。あるいは作家メリッサ・マイア・ホールによれば「夢とキリストに関する奇妙な話」だそうで、こうなると wilder の解釈もあながち間違いじゃないか。 手には血、薔薇の冠、鬚、木に縛りつけられて銃殺……薔薇→荊、銃殺→磔刑と捉えなおせば、確かにキリストではある。 |
04/09/20 | 「ビンゴ・マスター」ジョイス・キャロル・オーツ(『闇の展覧会 I 』より) |
この物語を不条理に感じるのは、主人公が三十九歳であるからに過ぎない。彼女が十代であれば、ありふれた(しかし屈折した)青春の物語。サリンジャーあたりにでもありそうな。 しかし、三十九歳というのは外面的な年齢であり、ローズ自身は「もちろん彼女は純潔な、まだ若い女性で、セックスについての漠然とした意識は、ずっと以前、もっと粗野で、無鉄砲で、小ざかしい子どもたちが、ある種の言葉を節をつけて唱えることで、哀れなローズ・マロー・オウダムに耳をふさがせる力を持っていた小学校時代とさして変わってはいない」のである。 だが世界はそれを認めない。いや、ローズ自身が認めていない。そのことが不安を呼び、不眠症や病気を呼ぶ。世界とのズレと、ローズ自身のズレ、それらが二重にズレることで、はじめて〈不条理〉が生まれる。ズレがどちらか一方だけなら、単なる「おかしな人」の話、あるいは「ありふれた青春」の一変奏、で終わったのかもしれないのに。 でも終わらない。終われない。それが三十九年という時間を経た現実だ。ローズは「変わってはいない」ことを罰せられたわけではない。これが「変わってはいない」ということの現実なのだ。 |
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『闇の展覧会 1』スティーブン・キング他(ハヤカワ・ミステリ文庫) |
04/09/01 | 『激突!』 |
スピルバーグの昔の映画。 思っていた以上に面白かった。というわけで※マイナス点(1)最後にトラックが炎上しなかったのがものたりない。なんだかんだいって自分も最近の特撮にすっかり毒されているんだなァ。(2)時速145kmでカーブを走っている最中に真後ろを振り向いてトラックを確認するドライヴァー、怖いのはあんただ! |
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『激突!』(ユニバーサル) |
04/08/27 | 青空文庫掲示板「こもれび」 |
ふたたび「こもれび」について。 今回は「長篇 or 短篇」 『源氏物語』のような長篇作品は長篇の形で読みたい、というごく当たり前の意見が、「何を問題にされているのか理解できませんでした。」というひとことで片づけられてしまっていた。 少なくとも「一作品=一ファイル」が原則でしょ。その上で、「読者の便宜を考えて、章ごとの公開にする」とかなんとか註を付けるべきで。「作品」という概念が欠如しているとしか思えない。 『源氏物語』みたいな長篇はまだいいよ。読者がファイルを54個ダウンロードするなりの苦労をすればいいだけだから。 けど例えば太宰の『晩年』。この作品は、今も昔も『晩年』というタイトルの短篇集としてまとめられることが多い。にもかかわらず、驚くなかれ青空文庫では『晩年』という総題からはこの作品にたどり着けない仕組みになっている。索引はおろか検索も出来ない。個々の短篇の作品データや底本データにも、『晩年』の文字がないものがあるから、お手上げなのだ。読者が初めから知識として『晩年』所収の短篇を知っていなければならない。 確かに初出は雑誌だ。単独の作品として発表された。例外を認めるとそのたびごとに采配しなければならず、青空文庫ほどの規模ではそれが難しいから、機械的に規則に従うという事情も分かる(※どの作品を短編集として登録するか、または登録しないか、の曖昧な基準を見定める必要が出来てしまう)。だからあくまで独立した短篇として登録してあるのだろう。 しかし結局例外はあるのだ。索引に『シャーロック・ホームズの冒険』という項目はないのに、『半七捕物帳』という項目はある。理由は不明。『晩年』にしろ『ホームズ』にしろ、短篇がすべて公開され終わったら、そのあとで総題としてまとめるつもりなのだろうか。そうは思えない。著者が亡くなっているのだから収録作品が増える可能性も収録順序が変更される可能性もない。最終的に短編集の形でまとめるつもりがあるのなら、初めから『ホームズの冒険』01「ボヘミアの醜聞」という形で公開すればよいのだ。その方が楽だろうし。 結局、青空文庫ってのは大きくなり過ぎちゃったんだな。子供の頃は怪我の治りも早い。でも今の青空文庫は成長しすぎていて、大手術に耐えられないんだ。システムの欠陥にメスを入れることも出来ずに、このままさらに大きくなり続けていくしかない運命なのだろうな。 |
04/08/25 | 青空文庫掲示板「こもれび」 |
「芸《ウン》」という漢字を入力しようと思ったのだが、どうがんばっても「芸《ゲイ》」しか見つからない、というわけで検索してみたところ、このページに引っかかった。JISでは区別してないのか……。 以前から青空文庫というのは、なーんかヘンに生真面目で(かつトンチンカンで)近寄りがたい雰囲気があった。今回もいまだに「ケ」と「ヶ」の論争やってるよ。もうすでに決着がついてると思うんだけどな。「句点番号5-17と5-86の使い分け方針」。これで解決してるじゃん。 「ケ」に見える字形の日本語文字には、カタカナの「ケ」と符号の「ヶ」の二種類があるという議論以前の事実。符号の「ヶ」は大振りに表記するときも小振りに表記するときもあるという事実。要するに日本語には三種類の「ケ」がある。カタカナの「ケ」、符号の「ケ(大振り)」、符号の「ケ(小振り)」。カタカナの「ケ」と符号の「ケ(小振り)」については、JISどおりに入力すればいい。問題はJISに存在しない符号の「ケ(大振り)」だ。JISにないのだから、テキスト入力するときには、何かで代用しなければならない。 1.カタカナの「ケ」で代用する。2.符号の「ケ(小振り)」で代用する。3.「※」で代用する。 で、青空文庫では2.を採用しているわけで。これ以上なんの議論の余地があるのだろう? 議論するとしたら、2.ではなく1.にすべきだ、いや3.にすべきだ、って問題だけでしょ? 符号の「ケ(小振り)」の名称が「小書き片仮名ケ」だというのにまどわされているのだろうか。 けど、「JISではこれこれこうだから」なんて言うからややこしくなる。JIS先にありきなわけ? 日本語先にありきでしょうが。日本語に於いては「小書き片仮名ケ」なんて存在しないの。JISでの通称がそうなってるだけ。仮に、それほどJISを大事にしたいんだったら、――JISには符号の「ケ(小振り)」が存在しないのだから、それを「小書き片仮名ケ」で代用する。――とかしなけりゃね。 a.カタカナの「ケ」は「片仮名ケ」をそのまま入力する。 b.符号の「ケ(大振り)」は「小書き片仮名ケ」で代用する。 c.符号の「ケ(小振り)」は「小書き片仮名ケ」で代用する。 もちろん「小書き片仮名ケ」の変わりに、「片仮名ケ」で代用したってかまわない。そうしたけりゃさ。でも青空文庫では「小書き片仮名ケ」で代用するって方針なんだから。どの文字で代用するかを議論するのは不毛もいいところ。しょせん「代わり」の記号だもの。箇条書きの文の頭に、●をつけようか★をつけようかで議論するようなもんだよ。 |
04/08/12 | 怪談専門雑誌『幽 Vol.1』 |
実は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の翻訳をする気になったのは、この雑誌を読んだからにほかならない。われながらミーハーだなぁ。 ちくま文庫からは『妖怪・妖精譚 小泉八雲コレクション』が発売されるし(おそらく教養文庫の再発か?)、国書刊行会からは『稲生物怪録絵巻集成』『北斎妖怪百景』が発売されるし、今年の猛暑に夏を感じずに、こんな妖怪・怪談本新刊ラッシュに夏を感じてしまっている……。インドア派にもアツい夏だナ……。 東雅夫編集長が罪なことをやっております。「耳なし芳一」の訳文を訳者ごとに比較してる。何が罪って、訳者が可哀想なのではなく、こりゃあアタシに対する責め苦じゃござんせんか、と。例によって平井翁の訳文にホレボレした挙句、現代文と擬古文の二通りで訳す羽目になってしまいました。バカなオレ。 |
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『幽 第1号』(メディアファクトリー) |
04/06/19 | 『パンと恋と夢』 |
1953年のイタリア映画。古き良き恋愛コメディであります。 ヒゲの署長さんがピーター・セラーズみたいでよろしい。しかも何だあの自転車は!? すごいぞ。電動自転車じゃん。ガソリン自転車? ほしい。 貧乏な〈若い娘〉と〈女盛り〉の産婆さんに二心ある署長さん。〈若い娘〉に恋する署長の部下。田舎のことゆえ事件らしい事件も起きないから恋愛に精が出る? 留置場の利用法は、やきもち焼きのお嬢さんと痴話喧嘩した容疑で〈若い娘〉を逮捕、なのでした。遠く離れた二軒の家で同時にお産が始まれば、たった一人の産婆さんを村唯一の文明的な乗物ガソリン自転車に乗せて、何度も往復。これも仕事です。しかも道中 口説きっぱなし。 ピーター・セラーズが原節子を口説いてるみたいで面白かった。 |
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