子どもたちは喜んでついてきた。二人に挟まれたまま、ぼくは「ミステル」のいる隅っこに近づいていった。「子どもたちとご一緒でもかまいませんか?」
「『気むずかし屋の年寄りと若者は一緒には暮らせない!』というわけか[*1]」老人はにっこり笑ってほがらかに答えた。「さあ、わしの顔をよく見てご覧! 昔っからの友だちに思えぬかな、ほれ?」
初めに見たときには不思議なことに〈教授〉の顔を思い出したものの、どうやら明らかにもっと若い人物のようだった。だが夢みるような大きな瞳の奥に潜む謎めいた深淵に見つめられると、なぜかしら恐ろしいことに、遙かに年を取っているのだと感じられた。何世紀もの時の流れを越えて、ぼくらをじっと見つめているようだった。
「むかしの人かどうかわかんないけど」優しい声に安心して、ブルーノはミステルにずるずると近寄っていた。「八十三さいだと思うな」
「実に正確だ!」ミステルが言った。
「近いんではなく?」ぼくはたずねた。
「わけありでして」ミステルは穏やかに答えた。「説明できぬのですがわけがありましてな。というのは、個人情報も、場所も、日時もはっきりとは申し上げられないものですから。一つだけ言えることは――人生を終えるなら、一六五才と一七五才のあいだに終えるのが、無難中の無難なのですぞ」
「どうしてですか?」
「さよう。海で死んだという話さえそんなになければ、水泳とは安全な娯楽だと考えることでしょうな。一六五才から一七五才のあいだに死んだ人の話はいまだかつて聞いたことがないというのは馬鹿げた考えでしょうかな?」
「仰っていることはわかります。でもその理屈にしたがえば、残念ながら水泳が安全だとは証明できませんね。人が溺れたというのは珍しい話じゃない」
「私の国では」ミステルが言った。「いまだかつて溺れた人など一人もおりません」
「そんなに浅いところばかりなんですか?」
「どっぷり深いですぞ! だが沈まぬのです。私らは水より軽いのでな。説明しましょう」驚いているぼくを尻目にミステルは続けた。「ある特定の色や姿形の鳩がほしいと仮定した場合、望む色形に近いものを残し、ほかは捨てるといったふうに、年々そうやって選んでゆきますな?」
「ええ」ぼくは答えた。「『人為淘汰』と呼ばれていますね」
「まさしくその通り」ミステルが言った。「そうです、我々は何世紀かにわたってそれを実行したのです――とりわけ軽い人間を選び続けた。その結果、今や誰もが水より軽いのです」
「それでは海で溺れる恐れなど少しもない?」
「まったくありません! 陸は別ですがな――例えば、劇場で観劇しているとき――これは危険ですぞ」
「劇場でどんなことが起こるというんです?」
「われわれの劇場はどれも地下にありましてな。大きな貯水タンクが地上にある。火事が起これば栓がひねられ、一分で劇場は天井まで水浸しです! かくして火事は消し止められます」
「すると観客は?」
「些細なことです」ミステルは気にせ…ず答えた。「だが溺れようと溺れまいと、水より軽いということがわかれば満足なのでしてな。だが空気より軽い人間を作るところまではいまだ到達できないでおります。しかし目指してはおりますぞ。もう何千年かそこらすれば――」
「とっても重い人びとたちはどーなっちゃうの?」ブルーノが真剣な面持ちでたずねた。
「同じように適応いたしておるでしょう」ミステルはブルーノの質問には気づかずに話を続けた。「目的に応じてさまざまに。杖を選び続けたとします――歩くのに最適な人間を残し続けるのです――そうすればやがてついに、杖を使わずに歩ける人間が完成するのです! 綿を選び続ければ、ついには空気より軽い人間が完成いたします! どれほど役に立つものかわかりますまい! 我々の方では『計り知れぬ』と名付けております」
「なんの役に立つんです?」
「さよう、主に郵便で送る小包ですかな。何しろあれは軽いほどいい」
「郵便局の人は、どうやって支払料金を計ってるんです?」
「そこがこの新システムの素晴らしいところで!」ミステルが誇らしげに叫んだ。「局員が我々に払うのです。我々が向こうに払うのではない! 小包ひとつ送るのに、五シリングばかり手に入ることもよくあることです」
「政府は反対しないんですか?」
「ふむ、多少は反対しますな。長距離便に金がかかりすぎると言うわけですな。だがそもそもの規則に照らして、事態は昼間の光みたいにはっきりしとる。小包を送るときには、一ポンド重くなるごとに三ペンス払う。それなら当然、一ポンド軽くなるごとに三ペンス受け取ってしかるべきですな」
「実に便利なものですね!」
「それでも『計り知れず』にも不都合はありまして」ミステルが続けた。「何日か前に買った物を、帽子に入れて家に持って返ろうとしても、帽子が浮かんで消えてしまうだけなんですわ!」
「今日ぼーしになんか変わったものはいってるの?」ブルーノがたずねた。「シルヴィーとぼくが道で見たとき、ぼーしはすっごく高くなってたよ! ねえ、シルヴィー?」
「ああ、あれはまた別の話。雨がぱらぱらと落ちてきたので、帽子を杖の先に載せたのだよ――傘のようにしたわけでな。来る途中で――」ミステルはぼくに向かって話を続けた。「我が身に降りかかったことと言ったら――」
「――どしゃぶりが降りかかったの?」ブルーノが言った。
「それが、犬のしっぽのように見えたのだが」ミステルが答えた。「奇怪千万! 何かが膝の辺りにそっと擦りついてきたのです。それで下を見たのだが何も見えぬではありませんか! ただ一ヤードほど離れたところに犬のしっぽがあるだけで、しっぽだけが揺れていたのですぞ!」
「あー、シルヴィー!」ブルーノが小声でとがめた。「シルヴィーったら、ぜんぶを見えるようにしなかったんだ!」
「やっちゃったわ!」シルヴィーは本当にすまなそうだった。「背中をこすったつもりだったのに、あんなに急いでたから。明日もどって全身が見えるようにしなくちゃね。かわいそうに! たぶん今夜は餌がもらえないわ!」
「そりゃそーだよ!」ブルーノが言う。「だれもいぬのしっぽに骨なんかあげないもん!」
ミステルはぽかんとしながら代わる代わる見比べていた。「さっぱりわからん。道に迷ってしまったので、小型の地図を調べようとしたのだが、どうしたわけか手袋を落としてしまってな。すると膝に擦りよっていた見えない何かが、目の前に持ってきてくれよった!」
「そりゃそーさ! ものをひろってくるのはとってもに好きなんだから」
ミステルがすっかり戸惑っているようだったので、ぼくは話題を変えるのが一番だと考えた。「それにしても小型の地図とは便利なものですね!」
「あなたがたのお国から学んだことの一つというのが」ミステルが言った。「地図作りです。しかし我々はさらなる上を目指しました。実用に耐える地図の大きさとは最大でいかほどと考えますかな?」
「一万分の一ほどでしょうか」
「たった一万!」ミステルが叫んだ。「我々はとっくに三百分の一にしております。それから二十分の一に取り組みました。さらにとびきりの素晴らしい計画を立てました! 縮尺一分の一の地図を作ったのですぞ!」
「よく使ってるんですか?」ぼくはたずねた。
「ところが広げられん」ミステルが言った。「農家の人たちが反対しましてな。国中が地図で覆われたら、日光が届かぬと言うのですよ! ですから今では地上そのものを地図に使っとります。代用にはなりますぞ。さて、もう一つお訊きしましょうか。この世で一番小さな世界に住むとしたら、どんなところがお望みですな?」
「はーい!」聞き入っていたブルーノが声をあげた。「シルヴィーとぼくでちょうどぴったりなすんごくちっちゃい星がいいな!」
「するとそれぞれ星の対極に立たねばならぬのだから」ミステルが言った。「お姉ちゃんにまったく会えないですぞ!」
「じゃあ勉強しなくていいんだ」ブルーノが言った。
「その方面の計画を立てていたわけではないですよね!」ぼくは言った。
「さよう、計画があるわけではありませんな。惑星を作るとは申しませんわ。だが科学者の友人がおりましてな、よく気球で旅をしとります。徒歩二十分で一周できるほど小さい星を訪れたことがあると言っておりました! 大戦争があったばかりで、それが奇妙な決着を見たそうです。全速力で逃げ出した敗軍がほんの数分で、凱旋中の勝利軍と顔をつきあわせることになったのですが、勝利軍は二つの軍隊に挟まれたと思って大慌てになり、すぐに降伏したそうですぞ! だがもちろん戦争に負けたとはいえ、実のところは、敵側の兵士を皆殺しにしていたのですが」
「ころされたへいたいは逃げれないよ」ブルーノが悩んでいる。
「『殺される』というのは専門用語でな」ミステルが答えた。「その小惑星では、黒くて柔らかい物質で出来た弾丸を使っておって、当たれば印がつくようになっておる。してからが戦のあとにやるべきことは、『殺された』――というのはつまり『背中に印がついた』ということだが――『殺された』兵士の数を数えることでしてな。前に印がついてるのは数に入りません」
「それなら兵士が逃げないかぎり、『殺され』たりしないのでは?」ぼくは言った。
「科学者の友人は、それ以上の名案に気づいておりましたぞ。友人が指摘するところによると、弾丸が逆方向に一周しさえすれば、敵の背中に当たるだろうと。そうなるとですぞ、射撃が下手な兵士ほどいい兵士ということになりました。一番下手くそな人間が決まって一等を勝ち得ておるのです」
「一番下手くそな人間をどうやって判断するんですか?」
「簡単至極。射撃が上手いというのは、正面を正確に撃つことですからな。であれば下手くそな射撃とは、背中を正確に撃つことに決まっておりましょう」
「その星の人間は変わっていますねえ!」ぼくは言った。
「まさしくその通り! なかでも政治が変わり種中の変わり種のようですぞ。聞いたところによるとこの星では、国を構成しているのは多くの家来と一人の王だそうですな。だがその小惑星では、多くの
「この星の出来事を『聞いた』とおっしゃいましたが」ぼくはたずねた。「あなたご自身もどこかほかの惑星からの訪問者と考えてよいのでしょうか?」
ブルーノが興奮して手を打ち鳴らした。「おぢさん、月のひとなの?」
ミステルは困ったように見えた。「月の人間ではないんじゃよ」と言葉を濁した。「話を戻しますと、政治というのはきちんと責任を負うのが当然でありましょう。考えてもご覧なさい、まず確実に王たちは一人ひとりが相矛盾した法律を勝手に作るでしょうな。さすれば家来は絶対に処罰されますまい。と申しますのも、どんな行動を取ろうとも、いずれかの法律に従ってるのですからな」
「それにさ、どんなこーどーをしても、どのほーりつにもしたがってないんだ!」ブルーノが叫んだ。「だからしょばつされてばっかり!」
このとき通りかかったミュリエル嬢が、会話の最後の部分を耳にした。「ここでは誰も罰されたりはしませんよ!」と言ってブルーノを抱きしめた。「ここは自由ホールなんだから! ちょっと子どもたちをお借りしていいかしら?」
「子供たちに見捨てられちゃいましたね」ミュリエル嬢が二人を連れて行くと、ぼくはミステルに話しかけた。「年寄りどうし仲良くするとしましょう!」
老人はため息をついた。「ああ、さよう! 今は年寄りだが、私とてかつては子どもだった――まあそう思ってはおります」
白状してしまうと、とてもそうは思えなかった――もじゃもじゃの白い髪、長い髭――それがかつて子どもだったとは。「若い人は好きですか?」ぼくはたずねた。
「若い人間」とミステルは繰り返した。「子どもというわけではないのですが。若者を教えていたこともありました――何年も前ですが――大学におりましてな!」
「何という大学でしたっけ?」ぼくはかまをかけてみた。
「名前は申せません」老人は穏やかに答えた。「言ったとしても知らぬでしょうな。私がそこで目撃したあらゆる変革のなかでも、不思議な話をいくつかお聞かせいたしましょう! だが退屈かもしれませんな」
「とんでもない! 続けてください。どういった変革なんでしょうか?」
だが老人は答えるではなく質問したい気分のようだった。「教えてくださらんか」と言ってぼくの腕に重々しく手を置いた。「教えてくだされ。この国では私はよそ者ですからな、この国の教育法をあまり知らんのです。だが聞いたかぎりでは、変革の循環周期に関しては、あなた方よりも我々の方がはるかに進んでいるようですな――我々は数々の理論を試み、失敗しました。あな方も熱意を傾けて試みることになるでしょうし、苦い絶望のうちに失敗することになるでしょう!」
不思議な光景だった。話しているうちに、ミステルの言葉はどんどんよどみなく流れ出し、まさに立て板に水、顔には内なる光が現われたように見え、人間そのものが変化したように見える。まるで一瞬のうちに五十才も若返ったようだった。
"Sylvie and Bruno Concluded" Lewis Carroll -- Chapter XI 'The Man in the Moon' の全訳です。
Ver.1 03/06/08
Ver.2 11/03/23
[註釈]
▼*註1 [気むずかし屋の……]。シェイクスピア「情熱の巡礼」より。[↑]