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翻訳:東 照
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プロジェクト杉田玄白 正式参加テキスト

シルヴィーとブルーノ完結編

ルイス・キャロル


第十章
おしゃべりとジャム

 ご婦人が一人残らず立ち去ると、上座に着いていた伯爵が、軍隊式に号令をかけた。「紳士諸君! どうか、前に詰め!」。そこでぼくらは言われるままに伯爵を囲んで集まった。威張り屋がほっと大きく息を吐き、縁までグラスを満たしてワインを押しやり、お得意の演説を開始した。「ほんとうに魅力的ですなあ。魅力的だがおつむが弱い。言うなれば、こちらのレベルも引きずり降ろしてしまうところがある。あの――」

「代名詞というものには、先行する名詞が必要ではありませんかな?」伯爵が穏やかにたずねた。

「これは失礼」威張り屋は形だけへりくだって見せた。「名詞を忘れていましたか。ご婦人たちですよ。いないのは残念だ。だが心が安まる。思う分には意のまま気まま[*1]。女といると、つまらない話題にせ…ざるを得ません――芸術、文学、政治などなど。そういったたわいない事柄についてなら女と話もできましょう。だが正気の人間が――」(異議は認めないとでもいうように食卓の周りをぎっとねめつけた)「――ワインの話を女とできますか!」威張り屋は椅子にもたれてポート・ワインのグラスをすすり、ゆっくりと目の高さまで持ち上げて、明かりに透かしてためつすがめつした。「年代物ですね?」と伯爵に目をやる。

 伯爵が年代を伝えた。

「そうだと思ってました。だが確かめるに越したことはない。色合いは、ことによると、やや淡め。コクは申し分ありません。花のような香りに関しては――」

 ああ、花のような! その魔法の言葉が、驚くほど鮮やかにあの光景をよみがえらせた! 道路でとんぼ返りしている乞食の少年――腕に抱いた松葉杖の少女――かき消えた不思議な子守り[*2]――何もかもがごちゃまぜになって心を駆け巡り、まるで夢のなかの出来事のようだ。そうして心にかかった靄の向こうに、ずっとベルのように鳴り響いていたのは、ワイン鑑定家の真面目ぶった声だった!

 その声さえ奇妙な夢のような色合いを帯びている。「いや」と威張り屋があとを続けた――ふと疑問に思ったのだが、途切れた会話をふたたび始めるときに、人がいつもそっけない一言で始めるのなぜなのだろう? 気になって考えたすえに、目下の問題は少年の問題と同じなのだ、という結論に達した。算数の計算が行き詰まってしまい、困ったときにはスポンジですべて洗い流し、一から始める。途方に暮れた演説家も同じように、今までの主張をすべて退けるという簡単なことをするだけであらゆる議論を一掃し、新しい持論を「きれいに始める」ことができる。「いや」と威張り屋は言った。「何と言ってもチェリー・ジャムだとも。それに尽きる!」

すべての点においてではないでしょう!」でしゃばりな小男がキンキン声で割って入った。「口当たり全体の豊かさで言えば敵がいるとは言えませんが。だが繊細な味の変化――風味の『和音』という人もいますね――それで言ったらラズベリー・ジャムに軍配を上げさせて――」

「私にも一言!」恰幅のよい赤ら顔が興奮で声をしゃがらして口を挟んだ。「これほど重大な問題を素人には任せておけません! プロの見解をお聞かせできるんですが――おそらく現存するジャム鑑定人のなかではもっとも経験豊かな人物かと。なにせ、ストロベリージャムの年代を特定したのです、日付まで――ご存じの通りストロベリー・ジャムというのは年代を特定するのが難しい――それもテイスティングを一回しただけでは! それでですね、皆さんがたが議論している疑問をずばりぶつけてみたのです。答えてくれたには、『チェリー・ジャムが一番だ、風味のコントラストに限るなら。ラズベリー・ジャムは、いつまでも舌の上に鮮やかに残る確かな不協和音には一目置くべきだろう。だが完璧な甘さのなかに広がるぴりりとした苦味で言えば、あんずジャムを措いて並ぶものなどほかにない!』そうです。その通りではありませんか、どうでしょう?」

「まったくその通りでしょうね!」でしゃばりな小男がキンキン声をあげた。

「君のご友人のことはよく知ってるよ」威張り屋が言った。「ジャム鑑定人として並ぶものはない! だが私にはどうも――」

 だがここで議論が広がった。小男の言葉は罵詈雑言にかき消され、客たちがお気に入りのジャムを口々に褒め始めた。ついに騒ぎのなかから伯爵の声が言葉を伝えた。「ご婦人方のところに行きましょう!」どうやらこの言葉で、ぼくはうつつに戻ってきたらしい。ここ数分のあいだ、確かにぼくはまたもや〈あやかし〉状態に陥っていたのだ。

「不思議な夢だった!」ぼくは独り言ち、ぞろぞろと二階に上がった。「いい大人が、まるで生死に関わるかのように真剣に、ただのに関するどうでもいいような細部について必死に議論していたなんて。舌神経と味覚こそ人間のもっとも鋭い機能なのだと言わんばかりだったな! こんな議論がうつつの世界で行われていたとしたら、さぞかしみっともない光景だろうに!」

 客間へ向かう途中で、家政婦から小さな友人たちを預かった。お洒落な夜会服に身を包み、興奮でわくわくしている二人は、今まで以上に美しく輝いていた。ぎょっとすることもなく、夢のなかで起こったことを受け入れるようにわけもなく淡々とその事実を受け入れていた。二人が慣れない舞台でどう振る舞うのだろうかと漠然と不安に思った程度だった――アウトランドの宮廷生活が、より物質的な世界の社交界で必要とされるようなよい予行練習になっていることを忘れていたのだ。

 一番いいのは、なるべく早めに気立てのよい女性客に紹介することだろうと考え、ピアノのことで話に出ていた若い女性を選ぶことにした。「子どもは嫌いじゃありませんよね。友人を二人紹介させてもらえますか? こちらがシルヴィー――そしてブルーノです」

 若い女性はとても優雅にシルヴィーにキスをした。同じようにキスしようとしたのでブルーノはあわてて逃げ出した。「初めてお目にかかるわね。どこから来たのかしら?」

 これほど困った質問をされるとは予想していなかった。シルヴィーを困らせないように、ぼくが答えておいた。「ちょっとそこから。今晩だけここに来てるんです」

「けっこう遠いのかしら?」若い女性はなおも質問を続けた。

 シルヴィーは困っているようだ。「一、二マイルかな」と自信なさげに答えた。

「一、マイルだよ」ブルーノが言った。

「『一、マイル』じゃないでしょ」シルヴィーが訂正した。

 若い女性もうなずいて賛成した。「シルヴィーが正しいわ。『一、マイル』とは普通は言わないわね」

「普通になるよ――しょっちゅう使ってれば」ブルーノが言った。

 今度は女性の方が困ってしまった。「年のわりに頭が回るわね」とつぶやいて、「せいぜい六つか七つでしょう?」とたずねた。

そんなにたくさんいるもんか」ブルーノが言った。「ぼくが一つでしょ。シルヴィーが一つでしょ。あわせて二つシルヴィーから数えかた習つたもんね」

「あら、あなたを数えたんじゃないのよ!」女性は笑いながら答えた。

「かぞえ方ならってないの?」

 女性が唇を噛んだ。「もう! 何て七面倒な質問をする子なんだろう!」聞き取れるほどの「独り言」だった。

「ブルーノ、ダメよ」シルヴィーがたしなめた。

何がダメさ?」

「何がダメって――そんな質問よ」

どんなしつもん?」ブルーノはからかうようにたたみかけた。

この人があなたに言ったことないよ」シルヴィーはおずおずと女性を見つめたが、困りきって文法をすっかり忘れてしまっていた。

「言えないんだ!」ブルーノが勝ち誇って叫んだ。そして勝利を祝ってもらおうと女性に振り返った。「シルヴィーが『しちめんちょうな』ってうまく言えないのはわかってたったもんね!」

 算数の問題に戻るのが一番だと女性は考えたようだ。「七つなのかなって訊いたのはね、『人数は?』って意味じゃなくて、『は?』って――」

「腰は一つっきゃないよ」ブルーノが言った。「腰が七つある人なんていないもん」

「この子と一緒に来たの?」女性は解剖学の問題をうまくはぐらかした。

「ううん、ぼくはシルヴィーと一緒じゃないよ! シルヴィーがぼくと一緒!」ブルーノは腕をシルヴィーに回した。「シルヴィーはぼくのものだかんね!」

「それでね。わたしの家にも、君のお姉さんと同じくらいの妹がいるんだけど。仲良くなれるんじゃないかな」

「ふたりともとっても便利だね」ブルーノはいかにももったいぶって答えた。「髪をとかすのに鏡がいらなくならるなあ」

「どうして?」

「どうしてって、そりゃもっちろんおたがい鏡がわりになるからさ!」

 だがここで、この厄介な会話をそばで聞いていたミュリエル嬢が、女性に向かって音楽でもてなしてくれないだろうかと口を挟んだ。子どもたちは新たな友人のあとからピアノまでついていった。

 アーサーもやって来てぼくの隣に座り、耳打ちした。「噂が本当なら、素晴らしい経験ができるでしょうね!」呼吸一つ聞こえない静けさのなか、演奏が始まった。

「名手」だと評判になるようなピアニストだった。彼女は美しいハイドンのシンフォニーに取りかかった。その演奏が、何年ものあいだ名教師のもとで苦しい訓練を積んだ成果なのは明らかだった。最初のうちは完璧な演奏に思えた。だがしばらくするとぼくはがっかりして自問していた。「何が足りないのだろう? なぜ楽しめないのだろう?」

 すべての音をしっかり聴き取り始めたところ、謎は自ずから明らかになった。機械のように完璧に正確だ――だがそれだけだ! もちろん音がずれることはない。曲を知りつくしているのだ。だがその不揃いなテンポを聴けば、実は音楽的な「耳」を持ってはいないのだというのは明らかだった――さらに複雑な一節になると舌足らずになるのを聴けば、聞き手のことを本当の苦労に値するとは考えていないのがわかった――その単調で機械的な強弱を聴けば、素晴らしい抑揚を汚されて聞き手のが離れていった――はっきり言えば、イライラさせられるだけなのだ。最終楽章をかき鳴らし、最後の和音を叩きつけた。楽器など用済みだから弦が何本切れようと知ったことではないかのように。ぼくの周りで沸き起こった「すばらしい!」の決まり文句に加わろうとするふりさえできなかった。

 しばらくするとミュリエル嬢がやって来た。「素敵じゃなかった?」茶目っ気たっぷりに微笑んでアーサーにささやいた。

「うん、なかったね!」とアーサーが答えた。だが穏やかな顔のおかげで無礼な答えも和らいでいた。

「あんな演奏だったのに!」

分相応だね」アーサーも頑固だった。「でも世間の人たちは権威に弱いから――」

「またわけのわからないことを言い始めたわね!」ミュリエル嬢が声をあげた。「だけど音楽が好きだったんじゃないの? さっきそう言っていたじゃない」

音楽が好きだって?」ドクターは静かに自問した。「ミュリエル、どこもかしこも音楽だ。ひどく曖昧な質問だね。『人は好きかい?』って訊いてるのと同じだよ」

 ミュリエル嬢は唇を噛んで顔をしかめ、小さな足を踏みならした。芝居じみてみせたほどには、怒りを表わすのにまるで成功していなかった。だが一人だけには届いていたので、ブルーノがあわてて割って入って、一触即発の争いを仲裁しようとした。「ぼく、ひとびとたち好きだよ!」

 アーサーはいつくしむように縮れ頭に手を載せてたずねた。「へえ? 人々たちみんなかい?」

「ひとびとたちみんなってわけじゃないけどさ」ブルーノが説明する。「シルヴィーと――ミュリエルさんと――あのひとと――」(と伯爵を指さした)「あなたと――あなただけ!」

「人に指を向けちゃダメよ」シルヴィーが言った。「失礼でしょ」

「ブルーノの世界では」ぼくは言った。「語るに値する人々は――四人だけなんだね!」

「ブルーノの世界!」ミュリエル嬢が神妙な顔をして繰り返した。「光と花に満ちた世界。草は枯れることなく、風はいつも穏やかで、雨雲ひとつないところ。猛獣もいなくて、砂漠もない――」

「砂漠は必要だよ」アーサーが断言した。「ぼくの理想の世界にはね」

「でも砂漠が何の役に立つの? まさかあなたの理想の世界には荒野なんてないでしょう?」

 アーサーが微笑んだ。「ところがどっこい! 荒野が必要なこと線路より多し。世間のためになること教会の鐘よりはるかに大かりだ!」

「でも何に使うの?」

音楽の練習のとき」アーサーは答えた。「音感なんてないのに音楽を学んでるつもりの若い女の子たちはね、朝ごとに荒野まで二、三マイル運ばれればいいんだ。快適な部屋も用意されているし、安物の中古ピアノも用意されているから、そこで何時間でも弾けばいい。人間の不幸の集積に、無用な苦痛を加えずに済むからね!」

 ミュリエル嬢はこの乱暴な意見が聞かれやしないかと、ぎょっとして辺りを見回したが、立派な音楽家は声の届かない距離にいた。「どうでもいいけど、あのひとが素敵なひとだってことは認めるでしょう?」

「ああ、そうだね。砂糖水オ・シュクレのように甘く素敵だ、と言えばいいのかな――それに同じくらい興味深いな!」

「手に負えないわ!」それからミュリエル嬢はぼくの方を向いた。「ミルズさんとはお話がはずまれまして?」

「おや、そんな名前でしたか? もっとたくさんあったかと思いました」

「そうですよ。『ミルズさん』って呼ぶつもりでしたら、『しかるべき危険』を覚悟してください(それが何なのかはお好きなようにお考えください)。あの人の名前は『アーネスト――アトキンソン――ミルズさん』です!」

「貴族連中のつもりなんですよ」アーサーが言った。「余っているクリスチャン・ネームを名字にくっつけて、あいだをハイフンでつなげば、貴族らしさが出ると思ってるんです。一つの名字を覚えるようなものだと思ってるんだろうな!」

 このころには招待客も集まり始めて部屋がにぎわってきたため、ミュリエル嬢は出迎えに向かわねばならなかった。その様子は、考えうるかぎりもっとも素晴らしく洗練されていた。シルヴィーとブルーノがそばに立って、なりゆきに興味津々の様子だった。

「お友達を気に入ってくれるといいんだけど」ミュリエル嬢が二人に言った。「特にミステルは大親友で(どうしてるのかしら? あっ、あそこ!)、眼鏡をかけている、長いお髭のおじいちゃんがいるでしょう!」

「すごくお年を召した方ね!」シルヴィーは「ミステル」に見とれていた。片隅に座っていたミステルが、大きな眼鏡越しに穏やかな視線をこちらに送った。「それにすごく素敵なお髭!」

「なんて名のってるのかな?」ブルーノがささやいた。

「『ミステル』よ」シルヴィーもささやき返した。

 ブルーノはイライラと頭を振った。「見ってる話なんかしてないよ、名のってるか聞いてるのに、ばか!」ブルーノはぼくにたずねた。「あのひと、なんて名のってるの、あなたさん?」

「ぼくが知ってる名前はその一つだけだよ。だけど一人きりみたいだね。見てるとずいぶん寂しそうだとは思わないかい?」

名のってるのに一人なのならさびしそうだよ」ブルーノは言い間違えたままぶうぶうしていた。「でも見ってるんなら別に。見てるだけなら何にも思わないもん!」

「お昼に会ったんです」シルヴィーが言った。「ネロに会いに行って、また見えなくしてあんなにネロと楽しんで来ました! 戻る途中であの素敵なおじいさんを見かけて」

「よし、おしゃべりして元気づけてあげようじゃないか」ぼくは言った。「たぶん呼び名もはっきりするよ」


"Sylvie and Bruno Concluded" Lewis Carroll -- Chapter X 'Jabbering and Jam' の全訳です。

Ver.1 03/05/28
Ver.2 11/03/16


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[註釈]
*註1 [思う分には意のまま気まま]。「Thought is free」。シェイクスピア『あらし』第三幕第二場、『十二夜』第一幕第三場に同様の台詞がある。引用部分の言い回しは福田恆存訳よりいただきました。[

*註2 [とんぼ返りする乞食の少年]。正編第19章より。乞食の少年はブルーノ、松葉杖の少女はシルヴィー、子守り(お守役)は電柱にぶつかってふたつに分れてしまいました。[

*註3 []。[

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