蹴るような叩くような音は、だんだんと大きくなる。ついにどこか近くのドアが開いた。「『どうぞ!』と仰いましたよね?」女将がおそるおそるたずねた。
「ああ、ええどうぞ!」ぼくは答えた。「どうしたんです?」
「手紙があったんですよ、パン屋の坊主からです。
手紙はたった二言だけだった。「すぐにきてください。ミュリエル」
不意に恐ろしい予感に駆られて心臓がちぢみあがった。「伯爵の具合がよくないんだ! 危ないのかもしれない!」と口のなかでつぶやき、大急ぎで出かける準備をした。
「悪い報せじゃないでしょうね?」出がけに女将さんが訊いた。「誰かが突然やって来たとか、坊主は言ってましたけど――」
「悪い報せじゃないと祈ってますよ!」そうは言ったものの、ぼくは祈るというより恐れていた。だがなかに入ってみると、幾分ほっとしたことに旅行鞄が玄関に置いてあって、それには「E・L」というイニシャルがついていた。
「なんだエリック・リンドンだったのか!」ぼくの心のなかでは、安心と戸惑いが半ばしていた。「そんなことで呼び出す必要はないじゃないか!」
廊下でミュリエル嬢と出くわした。目がうるおっていたが――悲しみのせいではなく、喜びで感極まっているのだ。「驚かせてしまったみたいですね!」とミュリエル嬢が小さくささやいた。
「エリック・リンドンが来たということですか?」ついつい嫌味な調子になるのを止められなかった。「『葬式に用うた其の炙肉をばそのまま婚礼の膳部へも廻す冷いもてなし』ですか」と暗唱せ…ずにはいられなかった。何と残酷な誤解をしてしまったのだろう![*1]
「違うんです!」ミュリエル嬢が必死に訴えた。「それは――エリックはここにいます。でも――」声が震えた。「でもほかにもいるんです!」
それ以上の質問は無用だ。ぼくは気もそぞろにミュリエル嬢についていった。ベッドに横たわっていたのは――青ざめてやつれており――昔ながらの本人と比べればただの抜け殻だが――昔ながらの友人が、死から舞い戻ってきたのだ!
「アーサー!」と声をあげるほかは何も言えなかった。
「ええ、戻ってきたんです!」手を握ると微笑んでつぶやいた。「この人が」と、そばに立っていたエリックを指さした。「命を救ってくれたんです――連れて帰ってくれたんです。エリックは神さま同然だよ、感謝しなくてはね、ミュリエル!」
ぼくは黙ってエリックと伯爵の手を握った。三人で部屋の日陰側に移動することにした。そこでなら話をしても病人の邪魔にならない。横たわるアーサーは何も言わず幸せそうに妻の手を握り、見つめる目には変わらぬ深い愛の光がきらめいていた。
「今日まで錯乱状態だったんです」エリックが小声で説明した。「それどころか今日だって一度となく正気を失っていたんです。ところがミュリエルの姿こそ、アーサーには新しい命だったんですね」それからもエリックは話し続けた。何でもなさそうな調子で――アーサーがどんな感情も見せようとはしなかったこと。伝染病に襲われた町に戻るんだと言い張っていたのは、もう助からないからと医者に見捨てられた人を連れに戻るためで、病院に連れて来さえすれば回復するかもしれないと思ったからだということ。やつれた顔にはアーサーを連想させるようなところは一つも見当たらなかったので、一月後に病院を訪れるまでまったく気づかなかったこと。ショックを与えると脳に負担がかかりすぎて死んでしまうかもしれないので、気づいたことを本人に伝えないように医者に言われたこと。病院に泊まり込んで昼夜かかさず病人を看護したこと――エリックはこうしたことをすべて、何でもないことのように話していた。たまたま遭遇したので当たり前のことをしたまでだとでもいうように。
「これが恋敵だろうか!」と、ぼくは考えた。「愛した女性の心を奪った男だというのに!」
「日が暮れますね」ミュリエル嬢が立ち上がって、開いている窓まで歩いていった。「あの西の空を見てください! きれいな夕焼け! 明日は素晴らしい日になるわ――」ぼくらも部屋のなかを移動して、ひとかたまりになって立ちつくしたまま、夕闇の深まるなか低い声で話をしていた。そのとき病人が何かつぶやいたのでびくっとさせられたが、だいぶ不明瞭だったので聞き取れなかった。
「またうわごとを言っているんです」ミュリエル嬢がささやいて枕元に戻った。ぼくらもそのあとを追った。だが違った。錯乱などではなかった。「主はわたしに報いてくださった」という言葉が震える唇から洩れていた。「わたしはどのように答えようか? 救いの杯を上げて、主の――主の――」だがここで弱った記憶はついえ、か細い声も途絶えた。[*2]
妻は枕元にひざまずき、腕を取って、自分の腕を巻きつけるようにすると、ぐったりとした白い手を温かく握りしめ、優しくキスをした。暇乞いのやり取りをせ…ずにそっと立ち去るにはちょうどいい機会だと思われた。そこで伯爵とエリックにうなずくと、ぼくは静かに部屋を出た。エリックもぼくのあとから階段を降りて夕闇のなかに出た。
「生か死か、ですね?」家から充分に離れて普通の声で話しても問題ないと思ったころに、ぼくはたずねた。
「生ですよ!」力強い答えが返ってきた。「医者も同じように言ってます。差し当たって必要なのは休息だそうです。完全な安静と充分な看護。ここでなら確かに休息も安静も手に入れられます。看護は言うに及びませんね、これ以上は考えられないほど――」(声が震えているのはふざけているからだと思わせようと頑張っているのがわかった。)「自らの城で、充分すぎるほどの看護を受けられることでしょう!」
「その通りだ!」ぼくも言った。「よく言ってくれました、ありがとう!」エリックは言わなくてはならなかったことをたった今すべて言ったのだと考えながら、ぼくは手を差し出して別れの挨拶をした。エリックそれをしっかり握ってから、顔をそむけてつけ加えた。「ところで、話しておきたいことがもう一つあるんです。たぶんお知りになりたいのではないかと――ぼくは――ぼくらがこのあいだ会ったときの、あれは本心じゃありません。つまり――キリスト教の信仰を受け入れられるというのは――少なくともまだ受け入れられません。でも不思議なことに何もかも起こったのは事実なんです。ミュリエルは祈りました。ぼくも祈った。そして――そして」声が途切れたので、聞き取れたのは最後の一言だけだった。「祈りに答える神はいるんです! 今ではぼくも確信しています」エリックはもう一度手を握ると、ふいと去っていった。こんなに深く感動しているエリックを見たのは初めてだった。
そんなわけで、深まりゆく薄明のなかを、幸せな思いにかき乱されながらゆっくりと家路についた。心は満たされ、喜びと感謝ではちきれそうだった。ぼくが心から求めてきたもの、祈ってきたものがすべて、とうとう実現したような気がした。誠実なミュリエル嬢に対して一瞬でもさもしい疑いを抱いたことで、自分をひどく責めたはしたが、それが一時のことでしかなかったとわかっているのが慰めだった。
たとえブルーノであってもはずむような足取りで階段を上ることはできなかっただろう。ぼくは暗闇のなかを手探りで進んだ。部屋にランプがつけっぱなしなのがわかっていたので、玄関で立ち止まって明かりをつけたりはしなかった。
だが足を踏み入れてみると、ランプの明かりがどこかおかしい。奇妙で見慣れぬ、淡い魔法のような幻想的な感覚が辺りを覆っていた。どんなランプよりも明るい黄金色の光が部屋にあふれ、なぜかそれまで存在に気づきもしなかった窓から流れ込んでいる。三つの人影が明かりに照らされ、すぐにはっきりと姿を見せた――王衣をまとった威厳のある老人が肘掛椅子に背を預け、二人の子ども、女の子と男の子が、かたわらに立っていた。
「まだ宝石を持っているかな、シルヴィー?」老人が口を利いた。
「ええ、もちろん!」シルヴィーの声には珍しく興奮の色が感じられた。
「失くしたり、忘れてたりしたとでも思ったの?」シルヴィーは首飾りをはずし、父の手に宝石を置いた。
ブルーノが目を丸くしてそれに見入った。「すっごくきらきらしてる! あかいお星さまみたい! 持ってもいい?」
シルヴィーはうなずいた。ブルーノは窓のところに宝石を持っていき、空にかざした。紺青の空にはすでに星がきらめいている。ブルーノはすぐに興奮して戻ってきた。「シルヴィー! 見て! そらにもちあげたら、すかして見れるんだ。そいでちっとも赤くないや。ほら、きれいな青いろ! もじもぜんぜんちがってる! 見てよ!」
そのころにはシルヴィーもすっかり興奮していた。二人は競って宝石を明かりにかざすと、刻まれた文字を読み上げた。「皆、シルヴィーを、愛す」
[*3]
「これもういっこのほうせきだ!」ブルーノが叫ぶ。「おぼえてる、シルヴィー? えらばなかったほうのやつ!」
シルヴィーは戸惑いながら宝石を受け取り、光にかざしたり降ろしたりした。「こうすると青いわ」シルヴィーはそっとつぶやいた。「でもこうすると赤い! 赤と青の二つともあったのね――お父さま!」シルヴィーは声をあげて宝石を父の手に戻した。「ずっと一つの同じ宝石だったんだわ!」
「てことはそれからそれをえらんだったんだ」ブルーノが考え込んだ。「おとーさん、えらんだものからえらんだものをえらべたりできるの?」
「ああ、そうだよ」老人はシルヴィーに答えたものの、ブルーノのややこしい質問には気づかなかった。「同じ宝石だった――だがおまえはちゃんと選んだのだ」そしてふたたび宝石をシルヴィーの首にかけて紐を留めた。
「シルヴィーは、皆を、愛す――皆は、シルヴィーを、愛す」
ブルーノがつぶやいて、「赤いお星さま」にキスしようと背伸びした。「ふつーに見てたら、たいよーみたいにあかく燃えてるのに――かざして見たら、そらみたいにしずかな青なんだ!」
「神渡る空よ」シルヴィーがうっとりした口調で言い直した。
「かみわたるそら」ブルーノも繰り返した。二人は寄り添って立ったまま、夜空を眺めていた。「でもさ、シルヴィー、あんなすてきなあおいそらって、なにでできてるの?」
シルヴィーの愛らしい唇が動いてそれに答えたが、その声はかすかにしか聞こえなかったし、どんどん遠のいていた。目の前の景色もあっという間に過ぎ去っていった。だがあわただしい最後の一瞬、シルヴィーではなく天使が真摯な茶色の瞳越しに眺めているのが、シルヴィーではなく天使の声がささやいているのが聞こえたような気がした。
「愛よ」
Lewis Carroll "Sylvie and Bluno Concluded" -- Chapter XXV 'Life Out of Death' の全訳です。
Ver.1 03/09/13
Ver.2 11/07/17
[註釈]
▼*註1 [葬式に用いた……]。[↑]『ハムレット』第一幕第二場より。坪内逍遙訳。
▼*註2 [主はわたしに……]。[↑]『旧約聖書』詩篇116:12-13。
▼*註3 [宝石のイラスト]。[↑]
キャロルは正編の序文で、「本書の絵のうち、87ページの魔法の宝石を描いた小品は、ミス・アリス・ヘイヴァーズによるものだ。表紙には表記していない。というのも、その名を単独で記すことは、多くの(思うに)素晴らしいイラストを描いた画家にこそ、ふさわしいからだ。」と述べています。(ページ数はちくま文庫版による)
完結編のこのイラストも、どうやら正編のものと同じものに見えるので、作品中でこのイラストだけがハリー・ファーニスのものではないということになります。
※なお、底本の違いからか邦訳『シルヴィーとブルーノ』正編序文には上に引用した箇所は存在しません。(Penguin Book版にもこの箇所はありませんでした。Penguin版はイラストが収録されていないので当然といえば当然ですが。)