これまでお伝えして来た恐ろしい光景がバルサモと五人の親方の間で繰り広げられている間も、家のほかの部屋には見たところ何一つ変化はなかった。一つだけ変わったところといえば、バルサモが部屋に戻ってロレンツァの死体を運び出すのを見たアルトタスが、こうした新たな動きに触発され、周りで起こっていたことを思い出して正気を取り戻したことだった。
バルサモが肩に死体を担いで階下に降りて行くのを見て、これで終わりだ、心を打ち砕かれたあの男は永久に去ってしまうのだと思い込んだ。取り残されるという不安が老人を捕えた。アルトタスにとって、なかんずく不死にすべてを捧げて来た男にとって、それは死の恐怖を何倍にも膨れ上がらせる感覚だった。
バルサモが何をしに行ったのかも何処に向かったのかもわからなかったが、とにかく声をあげて叫んだ。
「アシャラ! アシャラ!」
幼名を呼べば、素直だった頃のように従順になるのではないかと期待して。
だがバルサモは降り続けた。下に降りても揚げ戸を戻そうともせず、廊下の奥に姿を消した。
「糞ッ! 所詮こんな男だわい。無知で恥知らずの畜生め。戻って来い、アシャラ! 戻って来い! そちは女という馬鹿げたものより、儂のような完璧な人間の方を選ぶであろうな! 永遠の生命の欠片を選ぶであろうな!
「巫山戯おって!」すぐに声を荒げた。「あのチンピラは師匠を裏切り、儂の信頼をもてあそんだのじゃ。長生きした儂に科学の分野で追い越されるのが怖かったのじゃろう。完成間近の研究成果を奪い取ろうとして、儂を罠に嵌めおって。師匠であり恩人であるこの儂を。アシャラよ!……」
老人の怒りはだんだんと熱を帯び、頬には赤味が戻って来た。閉じかけていた目にも暗い光が戻り、悪戯小僧が髑髏の眼窩に塗りつけた燐光のような輝きを放った。
アルトタスは再び声をあげた。
「戻って来い、アシャラ! さもなくば覚悟はいいな。知っての通り、儂は地獄の火を呼び出しあの世の精霊を召喚する呪文を心得ておる。マギたちからフェゴールと呼ばれていた悪魔を、ガドの山脈で召喚したこともある。すると悪魔は闇深き奈落から引き離されて儂の前に姿を現した。怒れる神より遣わされた七人の天使と口を利いたこともある。モーセが十戒の石板を授かったあの山の上でじゃぞ。トラヤヌスがユダヤ人から奪った七つの炎を灯せる大三脚台を、意思の力だけで燃え上がらせたこともある。覚悟せい、アシャラよ、今に見ておれ!」[*1]
だが答えはなかった。
アルトタスはだんだんと意識が朦朧として来るのを感じていた。
「馬鹿め、そちにはわからぬのか」絞り出すように声をあげた。「この儂に、そこらの人間同様、死が迫っておるのだぞ。いいか、戻って来ても構わぬ、アシャラ。悪いようにはせん。戻って来い! 火を呼び出したりはせぬ。邪悪な精霊や復讐の七天使を恐れんでもよい。復讐は諦めよう。そんなことはせずともそちを恐怖に陥れることは出来るのだ。ナニ、智性を奪い、大理石のように凍えさせるだけのこと。儂には血の巡りを止めることが出来るからの。アシャラ。戻って来い。ひどいことをするつもりはない。それどころか幾らでもそちの役に立ってやろう……アシャラよ、見捨てんでくれ。儂の命を見守ってくれ。儂の財産も秘密もすべてそちのものじゃ。それを伝えるまでは、生き長らえさせてくれ、アシャラ。頼む!……アシャラ、頼む!……」
アルトタスは目を彷徨わせ、指を震わせ、広い部屋中に散らばった幾つもの器具や素材、書類や巻物に、バルサモの注意を向かわせようとした。
そうして少しずつ抜け出してゆく体力をかき集めながら、耳をそばだてて待った。
「そうか、戻っては来ぬのか。儂がこのまま死ぬと思っておるのか? 見殺しにすればすべて手に入ると思っておるのか? 儂が死んだら殺したのはそちじゃぞ。糞ッ垂れめ、儂にしか読めぬ覚書を読めるようになったとしても、一生どころか百年を二生、三生と繰り返して儂の科学を、ひいては儂が集めたこれら資料の活用法を精霊から学んだとしても、無駄じゃよ。百生を経ようと引き継ぐことは出来ぬ。考え直せ、アシャラ。アシャラ、戻って来い。この家が滅びるのを見届けに来るだけでもよい。見応えのある最期を用意しておくから、それを見物しに来るだけでもよい。引き返してくれ、アシャラ! アシャラ! アシャラ!」
答えはなかった。その頃バルサモは
「そうか、戻っては来ぬのか! 馬鹿にしおって! 死にかけていることにつけ込もうというわけか! よかろう、見ているがいい。火事じゃぞ、火事じゃ、火事じゃ!」
アルトタスはこうした恨み辛みを大声で叫んだ。だから訪問者を怖がらせて追い払うことに成功したバルサモも、苦しみの奥底から正気の世界に引き戻された。ロレンツァの死体を抱え直して階段を上り、二時間前には催眠術で寝かせていた長椅子に今は亡骸を横たえ、昇降台に上がると、前触れもなくアルトタスの目の前に姿を現した。
「ほほっ! やはりな」老人の声は喜びに酔いしれていた。「不安か? 儂が自分で片をつけられるとわかって、やって来おったな。それで正解じゃった。もう少し遅ければ、この部屋に火をつけていたところだわい」
バルサモは肩をすくめてアルトタスを見つめたが、一言も口を利こうとはしなかった。
「喉が渇いた」アルトタスが叫んだ。「喉が渇いたぞ! 水をくれ、アシャラ」
バルサモは口も開かず、動きもしなかった。死にかけた老人の断末魔の苦しみを目に焼きつけておこうとでもするように、じっと見つめているだけだった。
「聞いておるのか?」アルトタスが吠えた。
バルサモはなおも死んだように沈黙と不動を貫いていた。
「聞いておるのか、アシャラ?」アルトタスは喉も張り裂けんばかりに声をあげ、最後の力を振り絞って怒りをほとばしらせた。「水じゃ、水をくれ!」
アルトタスの顔が見る見るうちに苦痛に歪んだ。
目にはもはや炎はなく、邪悪でおぞましい光があるだけだった。肌の下にはもはや血の気もなく、身体も動かず、息さえほとんどしていなかった。長く筋張った腕は、先ほどまではロレンツァを赤子のように軽々と抱え上げていたというのに、持ち上げようとしても動かず、ポリプの触手ように揺れるだけであった。絶望に駆られて束の間甦っていた力も、怒ったせいで使い果たしてしまった。
「は、は! そう簡単にはくたばらんぞ。は! 干涸らびさせて死なせるつもりなのであろう! 儂の研究、儂の宝を物欲しそうに見つめおって! はん! もう手に入れたつもりなのじゃろう! ふん、待っておれ!」
アルトタスは力を振り絞って、椅子に敷いてあった座布団の下からガラス壜を取り出し、栓を抜いた。空気に触れると、液体が炎となって壜から流れ出し、アルトタスは魔法使いのようにその炎を操って周りを囲った。
途端に、椅子のそばに積み上げられていた研究成果や、部屋に散らばっている書籍、クフ王のピラミッドやヘルクラネウムの遺跡から苦労して盗んで来た巻物が、火薬に着火したように瞬く間に燃え上がった。火は大理石の床にまで届き、ダンテが語った地獄の火の輪のようにバルサモの面前で揺らめいた。
すべてを道連れにしようとすれば、バルサモは貴重な財産を救おうとして炎に飛び込むのではないかと、アルトタスは考えていたのだろう。だがそうはならなかった。バルサモは慌てる素振りも見せずに、炎が届かぬように昇降台の上でじっとしていた。
炎がアルトタスを包み込んだ。だが老人は怯えたりせず、むしろ落ち着きを取り戻したように見えた。古い城館のペディメントに彫られているサラマンダーと同じように、炎が老人を焼き尽くすのではなく愛撫しているかのようだった。
バルサモはアルトタスを見つめ続けていた。炎は板張りにまで達し、老人を完全に包み込んでいる。炎は楢で出来たどっしりした椅子の脚を舐め、とうに下半身に喰らいついているというのに、どういうわけか老人は何も感じていないようだった。
それどころか、すべてを浄化するかのような炎に触れられると、筋肉がだんだんと緩んでゆき、得も言われぬ安らぎが顔中の表情という表情を仮面のように覆い尽くした。最後の瞬間に至って肉体から切り離された老預言者は、炎の戦車に乗って天に昇ろうとしているように見えた。全能の老人の心は最後の瞬間になって物質界のことなど忘れ捨て、もう何も期待する必要はないのだと確信し、炎に連れ去られるようにして至高の世界を真っ直ぐに目指した。
それまでは炎に照らされてこの世に舞い戻ろうとしているように見えたアルトタスの目も、その瞬間から行き場をなくした虚ろな目つきになり、天でも地でもなく地平線を穿とうとしているように見えた。穏やかなまま醜態も見せず、あらゆる感覚を分析しあらゆる苦しみに身体を預け、この世に別れを告げでもするように、力と生と希望に向かってひっそりと声を洩らした。
「さよう、後悔はしておらぬぞ。儂は地上のすべてを手に入れた。すべての智識を身につけた。力ある人間に授けられたことはすべて成し遂げて来た。もう少しで不死にも手が届くところであったのだ」
バルサモがくつくつと笑い出した。その嘲るような響きを聞いて、老人ははっと我に返った。
アルトタスはヴェールのように覆っている炎の向こうから、威厳と憤怒に満ちた目つきで睨みつけた。
「うむ、そちが正しい。儂に予想できなかったことがある。それは、神の存在じゃ」
その激しい言葉に魂を引っぺがされたように、アルトタスは椅子に倒れ込んだ。神から掠め取ろうとしていた死という運命を、今ようやく神に返したのだ。
バルサモはため息をついた。アルトタスという第二のツァラトゥストラが死の床に選んだ火葬台から、貴重な叡智の数々を救い出そうともせずに、ロレンツァの横たわっている階下に戻ると、揚げ戸のバネを緩めて天井に戻し、噴火口の如く燃え立つ業火から視界を塞いだ。
炎は一晩中頭上で嵐のように唸っていたが、バルサモは火を消そうとも逃げようともせず、危険も顧みずにロレンツァの冷たい死体から離れずにいた。だが炎の勢いも続かなかった。すべてを貪り尽くし、絢爛たる装飾を破壊して煉瓦の穹窿を剥き出しにしてしまうと、炎は勢いを失った。アルトタスの声にも似た咆吼が最後に洩れると、それもやがて衰えて呻き声に変わり、臨終の溜息を吐くのが聞こえた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXXIV「L'homme et Dieu」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月7日(連載第134回)
Ver.1 11/12/10
Ver. 25/07/16
[註釈・メモなど]
・メモ
[更新履歴]
・25/07/16 En voyant Balsamo charger sur ses épaules le corps et redescendre avec lui dans les étages inférieurs, il crut que c'était le dernier, l'éternel adieu de cet homme dont il avait brisé le cœur, et la peur le prit d'un abandon qui, pour lui, pour lui surtout qui avait tout fait pour ne pas mourir, doublait les horreurs de la mort. 「cet homme dont il avait brisé le cœur,」 「バルサモがアルトタスの心を砕いた」のではなく、「アルトタスがバルサモの心を砕いた」ので、「バルサモが肩に死体を担いで階下に降りて行くのを見て、これが最後だ、老いた心を打ち砕いた男ともこれで永久にお別れだ、と思い込んだ。取り残された老人を恐怖が捕らえた。アルトタスにとって、それも不死にすべてを捧げて来たとあっては、常人以上に死ぬのが恐ろしかった。」 → 「バルサモが肩に死体を担いで階下に降りて行くのを見て、これで終わりだ、心を打ち砕かれたあの男は永久に去ってしまうのだと思い込んだ。取り残されるという不安が老人を捕えた。アルトタスにとって、なかんずく不死にすべてを捧げて来た男にとって、それは死の恐怖を何倍にも膨れ上がらせる感覚だった。」に訂正。
・25/07/16 – Ah ! tu ne reviens pas, continuait-il ; ah ! tu crois que je mourrai ainsi ? tu crois que tout t'appartiendra par ce meurtre, car c'est toi qui me tues ? Insensé, quand bien même tu saurais lire les manuscrits que mes yeux seuls ont pu déchiffrer ; quand même pour une vie, deux fois, trois fois centenaire, l'esprit te donnerait ma science, l'usage enfin de tous ces matériaux recueillis par moi, eh bien, non, cent fois non, tu n'hériterais pas encore de moi : arrête-toi, Acharat ; Acharat, reviens, reviens un moment, ne fût-ce que pour assister à la ruine de toute cette maison, ne fût-ce que pour contempler ce beau spectacle que je te prépare. Acharat ! Acharat ! Acharat ! 「l'esprit te donnerait 『ma science』=『l'usage enfin de tous ces matériaux recueillis par moi,』」のような文章の構造であろう。また、「cent fois non,」は、「何度でも non と言う」ではなく、「何度人生を繰り返しても non だ」だと読める。「そうか、戻っては来ぬのか。儂がこのまま死ぬと思っておるのか? 見殺しにすればすべて手に入ると思っておるのか? 儂が死んだら殺したのはそちじゃぞ。糞ッ垂れめ、儂にしか読めぬ覚書を読めたとしても、一生と引き替えにして二百年三百年をかけて儂の科学を精霊から学ぶことが出来たとしても、儂が集めた材料をどう用いればよいかはわからぬぞ。何度でも言おう。絶対にわからぬ。そちには引き継ぐことは出来ぬ。考え直せ、アシャラ。アシャラ、戻って来い。戻って来てこの家が滅びるのを見るがいい、そちのために素晴らしい光景を用意しておくから見とれるがいい。アシャラ! アシャラ! アシャラ!」 → 「そうか、戻っては来ぬのか。儂がこのまま死ぬと思っておるのか? 見殺しにすればすべて手に入ると思っておるのか? 儂が死んだら殺したのはそちじゃぞ。糞ッ垂れめ、儂にしか読めぬ覚書を読めるようになったとしても、一生どころか百年を二生、三生と繰り返して儂の科学を、ひいては儂が集めたこれら資料の活用法を精霊から学んだとしても、無駄じゃよ。百生を経ようと引き継ぐことは出来ぬ。考え直せ、アシャラ。アシャラ、戻って来い。この家が滅びるのを見届けに来るだけでもよい。見応えのある最期を用意しておくから、それを見物しに来るだけでもよい。引き返してくれ、アシャラ! アシャラ! アシャラ!」に訂正。
・25/07/16 「」 → 「」
・25/07/16 「」 → 「」
[註釈]
▼*1. [フェゴール/ガド/七人の天使/三脚台]。
・フェゴール。フェゴール(Phégor、Baalphegor)は、後のキリスト教では怠惰と好色の悪魔。旧約『民数記』第25章に、カナンを目指す一行がモアブで地元の娘たちと共にモアブの神バアル・ペオルを拝んだため、激怒したヤハウェが大虐殺を命じた記述がある。バアルフェゴール、ベルフェゴールとも。
・ガド。『創世記』第30章。ガド(Gad)は、レアの召使いジルパとヤコブの子。その一族はガド族と呼ばれ、バアル・ガドという町の名の由来にもなった。
・七人の天使。『ヨハネ黙示録』に登場する七人の天使。それぞれのラッパの合図により世界に破壊がもたらされる。
・トラヤヌスがユダヤ人から奪った七つの炎を灯せる大三脚台。トラヤヌス(53-117)はローマ皇帝だが、三脚台については不詳。[↑]
▼*2. []。
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▼*3. []。
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▼*4. []。
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▼*5. []。
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▼*6. []。
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