この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百三十五章 再び地に落ちる次第

 ド・リシュリュー公爵はヴェルサイユにある自宅の寝室にいた。バニラ入りのチョコレートを飲みながら、ラフテ氏から会計についての報告を聞いていた。

 とは言うものの秘書が伝える正確な数字にはなおざりな注意しか払わず、鏡に映った自分の顔を遠くから見つめるのに忙しかった。

 不意に短靴の鳴る音が聞こえた。控えの間を誰かが訪れたのだ。公爵はチョコレートの残りを急いで飲み干して気がかりな様子で戸口を見つめた。

 リシュリュー氏には年老いた悪女のように、誰にも邪魔されたくない時間があるのだ。

 召使いがド・タヴェルネ氏の来訪を告げた。

 公爵としては別の日に出直してくれとか、せめて別の時間に改めて訪問してくれないかと言い訳するつもりであった。ところがそうする間もなく、開いた扉から矍鑠とした老人が部屋に飛び込んで来た。そうして元帥を指さしながら、大きな安楽椅子に駆け寄り腰を沈めると、椅子はその重さというよりもその衝撃に呻きをあげた。

 リシュリューはそれをホフマンの作品に出て来る奇怪な人間のように見つめた。椅子が大きく軋み、大きな溜息が洩れるのを聞いて、リシュリューは男爵に向き直った。

「やあ男爵、何か新しい報せでも? 随分と辛そうだな。まるで死人のようではないか」

「辛い? 辛いじゃと!」

「はてさて? 嬉しくて息をついているようには見えんぞ」

 男爵は元帥を見つめた。ラフテがいる間は溜息の理由を説明せぬぞ、とでも言いたげだった。

 ラフテは背中を向けたままそれを理解した。主人同様よく鏡を覗き込んでいたからだ。

 そこでラフテはさり気なく退出した。

 男爵はそれを目で追って、扉が閉まるのを確認した。

「辛いとは言わんでくれ、公爵。不安なのだ。死ぬほど不安なのだ」

「ほほう!」

「せいぜいとぼけなされ」タヴェルネが手を擦り合わせた。「もう丸一月近く、曖昧な言葉でごまかしてわしを引きずり回しておるな。ある時は『国王にお会い出来なかった』、ある時は『国王が会って下さらなかった』、ある時は『国王はご機嫌斜めだ』。いい加減にせんか! それが旧友に対する返答か? たかが一月とはいえ、永遠のように感じておるのだぞ」

 リシュリューは肩をすくめた。

「何をどう言えば満足なのだ、男爵?」

「真実に決まっておろう」

「おいおい、わしが伝えたのは真実じゃぞ。貴殿の耳に入れるのは真実だ。信じたくないのならそれで構わんがな」

「ふん、公爵にして大貴族、フランス元帥、部屋付き侍従のあなたが、国王にお会い出来ないと言ってわしを騙すおつもりか? 毎朝起床の儀に参加しているあなたが? 馬鹿馬鹿しい!」

「事実そうなのだから繰り返すしかあるまい。たとい信じられなくとも、事実なのだ。三週間前からは昼にならぬとお部屋に入れぬ。公爵にして大貴族、フランス元帥にして部屋付き侍従のこのわしがな!」

「国王があなたと口を利かぬと言うつもりか?」タヴェルネが口を挟んだ。「あなたが国王と口を利かぬと? そんな嘘が信じられるか!」

「さすがに無礼が過ぎぬか、男爵。四十年のつきあいも無視して、そんな汚い言葉で罵倒するとはの」

「だが口惜しいのだ、公爵よ」

「何を言うか。口惜しいだと。わしだって口惜しいわい」

「あなたが?」

「当然だ。あの日からというもの、国王はわしのことを見ようともしてくれん! 陛下はわしに背中を向けたままじゃ! 気持ちよく笑ってもらえるに違いないと思うたびに、恐ろしく顔をしかめて返事が返って来るのだぞ! わざわざ愚弄されるためにヴェルサイユに行くのはうんざりだわい! どうしろと言うのだ?」

 タヴェルネは言い返されている間中、ぎりぎりと爪を咬んでいた。

「わしにはわからん」ようやくそう答えた。

「わしもだよ、男爵」

「実際のところ、あなたがやきもきするのを国王は楽しんでいる、と見てよいのだろうな。要するに……」

「うむ、わしが言っているのはそういうことだ。要するにな!……」

「そうなると公爵、わしらはこうした窮状から抜け出さなくてはならぬぞ。すべてに説明がついて丸く収まるような上手いやり方を考え出さなくてはならん」

「男爵、男爵」リシュリューが反論した。「国王に説明を求めるのは危険だ」

「そうであろうか?」

「うむ。話しても構わぬか?」

「頼む」

「どうにも解せぬことがあってな」

「何のことかな?」男爵がたずねた。

「ふん、怒っておるな」

「それも当然、ではないかな」

「では話すのをやめよう」

「いやいや、話は続けよう。だが説明してくれ」

「貴殿は説明が好きだのう。いやまったく、気違いじみておるぞ。気をつけんとな」

「嫌なお人じゃな、公爵。わしらの計画が支障を来し、どういうわけか停滞しているというのに、あなたと来たら『待て』と忠告するのだからな!」

「停滞だと?」

「まずはこれだ」

「手紙か?」

「うむ、わしの伜からじゃ」

「ほう、聯隊長殿か!」

「たいした聯隊長だわい!」

「ふん、何かあるのか?」

「こういうことじゃ。これも一か月ほど前から、国王が約束された辞令をフィリップはランスで待っておるのだが、とんと音沙汰がない。ところが聯隊は二日後には出発するという始末じゃよ」

「何と! 聯隊が出発すると?」

「うむ、行き先はストラスブールじゃ。つまりフィリップが二日後に辞令を受け取れぬ場合は……」

「うむ?」

「二日後にもフィリップはここにいることになるじゃろう」

「なるほどな。忘れられておるのか。新しい大臣を任命する時のように、普通ならばすっかりお膳立てされておるはずじゃからのう。わしが大臣であったなら、とっくに辞令を出しておるのだがな!」

「ふん!」タヴェルネは吐き捨てた。

「何じゃ?」

「一言だって信用できんわ」

「ほう?」

「あなたが大臣だったとしたら、フィリップを追放しておったであろうに」

「おい!」

「そして父親もな」

「おいおい!」

「そして妹はさらに遠くにやらされてしまうわけじゃ」

「貴殿と話をするのは面白いのう、タヴェルネ。極めて頭がよい。しかしそういう話はやめにしようではないか」

「わしは自分のために善処を請うているのではない。息子のために話をやめるわけにはいかぬのだ。今の地位では耐え難い。公爵、国王に会わなくてはならん」

「わしには会うことしか出来ぬと言ったはずだ」

「話がしたい」

「国王が話を拒めば話すことなど出来ぬ」

「そこを無理にでも」

「わしは教皇ではないのだぞ」

「のう、わしは娘と話をするつもりだ。すべてにおいて疑わしい点があるのでな、公爵殿」

 この言葉が魔法のように効いた。

 リシュリューはタヴェルネのことをしっかりと調べていた。若い頃の友人だったラ・ファル氏やド・ノセ氏のように奸智に長けた人物であり、それは今も衰えていないことはわかっていた。それ故、父と娘が手を組むことを恐れていた。失脚をもたらしかねない未知のものを恐れていたのである。

「まあ怒るでない。もう一つやってみようと思っておることがあるのだが、口実がないのでな」リシュリューは答えた。

「口実ならあるではないか」

「何?」

「違うか?」

「何のことだ?」

「国王が約束なさった」

「誰に?」

「わしの伜に。その約束を……」

「ふむ?」

「思い出してもらえばよい」

「搦め手じゃな。手紙はあるのか?」

「うむ」

「見せてくれ」

 タヴェルネは上着のポケットから手紙を取り出し、大胆且つ慎重に、公爵に手渡した。

「火と水じゃな」リシュリューが言った。「人が見たら気が違ったと思われるじゃろうが。それでも乗りかかった船じゃ、もう後には引けん」

 呼び鈴を鳴らした。

「着替えの用意と、馬を繋いでくれ」

 それからタヴェルネに向かって落ち着かなげにたずねた。

「着替えを手伝ってくれるおつもりかな、男爵?」

 そのつもりだと答えれば友人の機嫌を損ねるのはタヴェルネにもわかった。

「いや、無理じゃな。ちょっと町まで行かねばならんのでな。何処かで落ち合えんかな」

「では宮殿で」

「では宮殿で」

「重要なのは貴殿も陛下にお会いすることじゃぞ」

「そうかね?」タヴェルネが喜色を浮かべた。

「絶対にだ。わしの言葉が正しいことを貴殿が自分で確かめてみればよいではないか」

「もとよりそのつもりだ。まあなんだ、あなたがそこまで言うのなら……」

「そこまで思っておるのか?」

「無論だ」男爵は即答した。

「では鏡の間で、十一時に。わしは陛下のお部屋にお邪魔することにする」

「心得た。ではまた」

「恨みっこなしじゃぞ、男爵」リシュリューは飽くまでも、相手の力がはっきりする瞬間までは、敵に回そうとはしなかった。

 タヴェルネは馬車に戻ることにして、一人物思いに耽りながら延々と庭を歩いた。リシュリューは召使いの手を借りてあっさりと若作りをした。著名なマオンの勝者がそうした重要な作業を終えるのには二時間もかからなかった。

 しかしながら、タヴェルネ男爵が悩んでいたのはわずかな時間だった。やきもきしながら見張っていると、十一時ちょうどに元帥の馬車が宮殿の石段前に停まり、リシュリューに向かって宮殿の士官たちが挨拶し、取次たちが迎え入れた。

 タヴェルネの心臓は激しく脈打っていた。散策をやめ、はやる心の許す限りゆっくり落ち着いて、鏡の間に向かった。そこには寵愛の薄い廷臣たちや、請願書を持った士官たちや、野心を抱いた貧乏貴族たちが、彫像のように立ちつくしていた。つやつやに磨き上げられた床は、運命に焦がれるモデルたちにぴったりの台座であった。

 タヴェルネは人混みの中で途方に暮れて溜息をついたが、元帥が国王の部屋から出て来ると、周りを気にしながら隅に近寄って行った。

「何たることだ!」田舎貴族や汚れた羽根飾りを除けながら、歯の隙間から声を洩らした。「一か月前には陛下と差し向かいで夜食を取っていたというのに!」

 顰めた眉には哀れなアンドレを恥じ入らせるようなおぞましい疑いが浮かんでいた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXXV「Où l'on redescend sur la terre」の全訳です。


Ver.1 11/12/24

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