リシュリュー公爵はヴェルサイユにある自宅の寝室にいた。バニラ入りのチョコレートを飲みながら、ラフテ氏から会計についての報告を聞いていた。
とは言うものの秘書が伝える正確な数字にはなおざりな注意しか払わず、鏡に映った自分の顔を遠くから見つめるのに忙しかった。
不意に靴の鳴る音が聞こえた。控えの間を誰かが訪れたのだ。公爵はチョコレートの残りを急いで飲み干して不安げに戸口を見つめた。
リシュリュー氏には年老いた悪女のように、誰にも邪魔されたくない時間があるのだ。
召使いがタヴェルネ氏の来訪を告げた。
公爵としては別の日に出直してくれとか、せめて別の時間に改めて訪問してくれないかと言い訳するつもりであった。ところがそうする間もなく、開いた扉から矍鑠とした老人が部屋に飛び込んで来た。そうして指先を公爵の方に差し出しながら、大きな安楽椅子に駆け寄り腰を沈めたものだから、椅子が体重のせいではなく勢いのせいで呻きをあげた。
斯かる人物が目の前を通り過ぎたのを見て、リシュリューは空想上の人物でも通り過ぎたのかと思った。まるでホフマンがその筆によって命を吹き込んだ人物のようではないか。椅子が大きく軋み、大きな溜息が洩れるのを聞いて、リシュリューは改めてタヴェルネ男爵に目を向けた。
「やあ男爵、何か新しい報せでも? 随分と辛そうだな。まるで死人のようではないか」
「辛い? 辛いじゃと!」
「はてさて? 嬉しくて息をついているようには見えんぞ」
男爵はリシュリュー元帥を見つめた。ラフテがいる間は溜息の理由を説明せぬぞ、とでも言いたげだった。
ラフテは背中を向けたままそれを理解した。主人同様よく鏡を覗き込んでいたからだ。
そこでラフテはさり気なく退出した。
男爵はそれを目で追って、扉が閉まるのを確認した。
「辛そうだとは、あなたに言われたくはないな、公爵。言うべきは、不安そうという言葉ではないか。死ぬほど不安なのだ」
「ほほう!」
「せいぜいとぼけなされ」タヴェルネ男爵は手を擦り合わせた。「もう丸一月近く、曖昧な言葉でごまかしてわしを引きずり回しておるではないか。ある時は『国王にお会い出来なかった』、ある時は『国王が会って下さらなかった』、ある時は『国王はご機嫌斜めだ』。いい加減にせんか! それが旧友に対する返答か? 一月どころか、永遠にも感じておるのだぞ」
リシュリューは肩をすくめた。
「何をどう言えば満足なのだ、男爵?」
「真実に決まっておろう」
「おいおい、わしが伝えたのは真実じゃぞ。貴殿の耳に入れるのは真実だ。信じたくないのならそれで構わんがな」
「ふん、公爵にして重職貴族、フランス元帥、部屋付き貴族のあなたが、国王にお会い出来ないと言ってわしを騙すおつもりか? 毎朝起床の儀に参加しているあなたが? 馬鹿馬鹿しい!」
「事実そうなのだから繰り返すしかあるまい。たとい信じられなくとも、事実なのだ。この三週間、毎日起床の儀に通っておるのだ。公爵にして大貴族、フランス元帥にして部屋付き貴族のこのわしがな!」
「それなのに国王から話しかけられないと言うのか?」タヴェルネ男爵がリシュリューの言葉を遮った。「それに、あなたから国王に話しかけもしないだと? そんな噓が信じられるか!」
「さすがに無礼が過ぎぬか、男爵。あと四十歳若かった頃のように、言葉の切っ先で綺麗に一突きしおって」
「だが公爵よ、口惜しがって何が悪い」
「悪いものか。口惜しがるがいい。わしだって口惜しいわい」
「あなたが?」
「当然だ。あの日からというもの、国王はわしのことを見ようともしてくれん! 陛下はわしに背中を向けたままだ。気持ちよく笑ってもらえるに違いないと思うたびに、恐ろしく顔をしかめた返事が返って来るのだぞ! わざわざ嘲笑されるためにヴェルサイユに行くのはうんざりなのだ! これ以上どうしろと言うのだ?」
タヴェルネ男爵はぎりぎりと爪を咬みながら反論を聞いていた。
「わしにはわからん」ようやくそう答えた。
「わしもだよ、男爵」
「実際のところ、あなたがやきもきするのを国王は楽しんでいる、と見てよいのだろうな。要するに……」
「うむ、わしが言っているのはそういうことだ。要するにな!……」
「そうなると公爵、わしらはこうした窮状から抜け出さなくてはならぬぞ。すべてを上手く理屈づけられるような手だてを試さねばならん」
「男爵、男爵」リシュリューが反論した。「国王のような地位の者に理屈づけの余地を与えるのは危険だ」
「そうであろうか?」
「うむ。話を聞く気はあるか?」
「頼む」
「どうにも解せぬことがあってな」
「何のことだ?」男爵が険しい顔でたずねた。
「何だ? 怒っておるのか?」
「それも当然ではないかな」
「では話すのはやめておこう」
「いやいや、話は続けよう。だが理屈は説いてもらうぞ」
「理屈が好きだのう。いやまったく、気狂いじみておるぞ。落ち着かんか」
「そんなお人じゃったとはなァ。公爵よ、わしらの計画が支障を来し、原因不明の停滞を余儀なくされているというのに、待てと言いよるのか!」
「停滞だと?」
「まずは、ほれ」
「手紙か?」
「うむ、伜からじゃ」
「ほう、聯隊長殿か!」
「たいした聯隊長だわい!」
「ふん、まだ何かあるのか?」
「こういうことじゃ。一か月ほど前から、国王が約束された辞令をフィリップはランスで待っておるのだが、とんと音沙汰がない。ところが聯隊は二日後には出発するという次第じゃよ」[*1]
「聯隊が出発してしまうだと?」
「うむ、行き先はストラスブールじゃ。つまりフィリップが二日後に辞令を受け取れぬ場合は……」
「うむ?」
「二日後にもフィリップはここにいることになるじゃろう」
「なるほど、忘れられておるのだな。閣僚を一新したような時もそうだが、役所の部署ではよくあることだ。わしが大臣であったなら、とっくに辞令を出しておるのだがなあ!」
「ふん!」タヴェルネ男爵は吐き捨てた。
「何だ?」
「一言だって信用できんわ」
「ほう?」
「あなたが大臣だったとしたら、フィリップを追放しておったであろうに」
「おい!」
「そして父親もな」
「おいおい!」
「そして妹はさらに遠くに飛ばされるじゃろう」
「面白い話だのう、タヴェルネ。たいした想像力だ。だがここらでやめておこうではないか」
「わしのことであればそれで一向に構わんが、伜のためにここでやめるわけにはいかぬ。今の地位を維持できぬのだ。公爵よ、是が非でも国王に会わなくてはならん」
「ずっと会おうとして来たと言ったはずだ」
「話がしたい」
「国王が話を拒めば話すことなど出来ぬ」
「そこを無理にでも」
「わしは教皇ではないのだぞ」
「こうなったからには娘と話をするつもりだ。不審な点があり過ぎるのでな、公爵殿」
この言葉が魔法のように効いた。
リシュリューはタヴェルネのことを調べ尽くしていたから、油断ならない男だと承知していた。その評判の今なお色褪せぬラ・ファル氏やド・ノセ氏――リシュリュー若き日の友たちのように、油断ならない男だと心得ていた。それ故、父と娘が手を組むことを恐れていた。失脚をもたらしかねない未知のものを恐れていたのである。[*2]
「まあ怒るでない。試そうと思っている手だてがまだ一つあるのだが、口実がないのだ」
「口実ならあるではないか」
「何?」
「違うか?」
「何のことだ?」
「国王が約束なさった」
「誰に?」
「わしの伜に。その約束を……」
「ふむ?」
「……思い出してもらえばよい」
「なるほどその手があるか。手紙はあるか?」
「うむ」
「見せてくれ」
タヴェルネ男爵はポケットから取り出した手紙を公爵に手渡し、大胆且つ慎重に臨むよう訴えた。
「矛盾しておるではないか」とリシュリューは指摘しつつ、「まるで狂人の会話だのう。だが仕方ない、乗りかかった船だ、もう後には引けん」
リシュリューは呼び鈴を鳴らした。
「着替えの用意と、馬を繋いでくれ」
それからタヴェルネ男爵に向かって苛立たしげにたずねた。
「着替えを手伝ってくれるおつもりかな、男爵?」
そのつもりだと答えれば友人の機嫌を損ねるのはタヴェルネにもわかった。
「いや、無理じゃな。ちょっと町まで行かねばならん。何処かで落ち合えんかな」
「無論、宮殿で(au château)」
「では宮殿で」
「そこで大事なのは、貴殿も陛下に会うことだ」
「そう思うか?」タヴェルネが喜色を浮かべた。
「是非そうすべきだ。わしの言葉が正確かどうか、自身で確かめてもらいたい」
「疑ってはおらんさ。だがまあなんだ、そこまで言うのなら……」
「そうしたい、ということでいいな?」
「無論だ」男爵は即答した。
「では鏡の間で、十一時に。それまでにわしは陛下の部屋にお邪魔しておこう」
「心得た。ではまた」
「恨みっこなしじゃぞ、男爵」リシュリューは飽くまでも、相手の力がはっきりする瞬間までは、敵に回そうとはしなかった。
タヴェルネ男爵は馬車に戻ることにして、一人物思いに耽りながら長々と庭を歩いた。リシュリューは召使いに世話されて、寛いだ様子で身だしなみを若々しく整えていた。マオンの英雄にも二時間かかる大仕事だ。
だがタヴェルネ男爵が感じていたより時間は早く過ぎていた。見張りを続ける男爵の眼前で、十一時きっかり、リシュリュー元帥の馬車が宮殿の石段前に停まると、当番兵たち(les officiers de service)に挨拶されたリシュリューが、衛兵たち(les huissiers)に招き入れられた。
タヴェルネの心臓は激しく脈打っていた。散策をやめ、はやる心の許す限りにゆっくりと落ち着いて、鏡の間に向かった。そこには寵愛の薄い廷臣たちや、請願書を持った士官たちや、野心を抱いた貧乏貴族たちが、彫像のように立ちつくしていた。つやつやに磨き上げられた床は、運命の女神に愛されたいと願う者たちにはぴったりの台座だった。
タヴェルネ男爵は人込みの中で途方に暮れて溜息をついたが、リシュリュー元帥が国王の部屋から出て来た時に備えて、あまり離れていない片隅で成り行きを見守った。
「糞ッ!」男爵は口唇の隙間から言葉を洩らした。「田舎貴族やあの薄汚れた羽根飾りの連中と一緒にされるとはのう。一か月前には陛下と差し向かいで夜食を取っていたというのに!」
顰めた眉からだけでも、おぞましい猜疑心が溢れ出ていた。アンドレが知れば恥じ入るようなおぞましさだった。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXXV「Où l'on redescend sur la terre」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月7日(連載第134回)※134章と同時掲載。
Ver.1 11/12/24
Ver.2 25/07/30
[註釈・メモなど]
・メモ
[更新履歴]
・25/07/30 章タイトル Où l'on redescend sur la terre. 「redescendre sur terre」で「夢から現実に戻る,我に返る」の意なので、「再び地に落ちる次第」 → 「覚めかけた夢」に変更。
・25/07/30 Taverney la tira de la poche de sa veste, et la tendit au duc en lui recommandant la hardiesse et la circonspection tout à la fois. 「la hardiesse et la circonspection」なのはタヴェルネ男爵の態度ではなく、リシュリューにそうするようタヴェルネが念を押している。「タヴェルネは上着のポケットから手紙を取り出し、大胆且つ慎重に、公爵に手渡した。」 → 「タヴェルネ男爵はポケットから取り出した手紙を公爵に手渡し、大胆且つ慎重に臨むよう訴えた。」に訂正。
・25/07/30 「」 → 「」
・25/07/30 「」 → 「」
[註釈]
▼*1. [国王が約束された辞令……]。
第92章で、フィリップは王太子妃から中隊長(capitaine)の地位を約束されたが肝心の中隊(compagnie)がないと、リシュリューが国王に取り計らっていた。第112章では、フィリップが中隊長になり中隊の費用は国王が出してくれている、というリシュリューとタヴェルネの会話がある。第118章では、フィリップには中隊ではなく聯隊を任せるとその日の朝に国王が断言していたと、リシュリューがタヴェルネに伝えている。[↑]
▼*2. [ラ・ファル氏やド・ノセ氏]。
Philippe-Charles de La Fare(1687-1752)、リシュリュー同様、Languedoc 中将(lieutenant-général)だった時期がある。Charles de Nocé(1664-1397)か? リシュリューとの関係は不明。[↑]
▼*3. []。
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▼*4. []。
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▼*5. []。
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▼*6. []。
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