この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第百三十六章 国王たる者の記憶力

 リシュリュー元帥はタヴェルネ男爵との約束通り、果敢にも国王陛下の目の前に進み出た。コンデ公がシャツを手渡している時だった。

 国王がリシュリューを目にして慌てて顔を背けた。そのせいでシャツが落ちそうになったうえ、コンデ公もぎょっとして後じさった。

「済まぬな」ルイ十五世がコンデ公に声をかけ、急に動いたのは公のせいではないと伝えた。

 だからリシュリューとしては、国王の怒りは自分に向けられているのだとはっきりと悟った。

 だが此処に来たのはほかでもない。しっかりと説明をしてもらうために、必要とあらばその怒りに火をつけようとまで覚悟して来たのだ。そこでフォントノワ戦の時のように状況を変え、国王の仕事部屋への通り道に陣取ることにした。

 国王はもはや元帥には見向きもせず、寛いだ様子で会話を再開した。着替えをして、マルリーに狩りに行く計画を立て、コンデ公と長々と話し合った。コンデ家の人間は代々名高い狩猟家だったのだ。

 だが廷臣たちが退出したので仕事部屋に向かおうとしたところ、リシュリューが愛想の限りを尽くして恭しくお辞儀をしているのに気づいた。ご存じローザン公以来とも言うべき優雅なお辞儀であった。

 ルイ十五世は狼狽えたように立ち止まった。

「まだいたのかね、リシュリュー殿?」

「仰せの通りです」

「ずっとヴェルサイユにいるつもりかね?」

「四十年来、ほかならぬ陛下のためにヴェルサイユを離れたことを除けば、ほとんど離れたことはありませぬ」

 国王はリシュリューの正面に移動した。

「何か言いたいことでもあるのか?」

「言いたいこと?」リシュリューはにこやかに答えた。「いったいどうして?」

「余を追いかけ回しているではないか! ちゃんと気づいておるのだぞ。気のせいではあるまい?」

「愛と敬意の賜物でございます。仰せのままに」

「とぼけておるようだが、ちゃんとわかっておるのだろう。はっきりさせておくぞ、元帥殿、そなたに話すことなど一つもない」

「一つも、でございますか?」

「一つとしてない」

 リシュリューは無関心を装った。

「いつでも断言できますが、老生は魂と良心にかけて、私心なく陛下のおそばに仕えて参りました。心に留めていただきたいのは、この四十年来、陛下に何をお伝えしようと、その点で変わりはないということです。ですから妬んだり僻んだりしている連中とて、陛下がこれまで老生に便宜を図って下さったことがあるとは言えますまい。幸いなことにその点では世評も定まっておりましょう」

「公爵、要望があるのなら言いなさい。ただしさっさとすることだ」

「要望など一切ありません。差し当っては、お耳に入れていただきたいことが……」

「何だ?」

「是非とも陛下に感謝をお伝えしたいと……」

「誰がそんなことを?」

「陛下に大変な恩義のある者です」

「つまり誰なのだ?」

「陛下から輝かしい栄誉を承った者でして……さいですな、陛下と食卓を共にする栄誉を賜り、崇高な会食者たる陛下の洗練された会話や朗らかな魅力を味わった者は、そのことを決して忘れませんし、瞬く間にそうした幸せが癖になってしまうものでございます」

「おべっかは結構だ、リシュリュー殿」

「陛下……」

「要するに誰のことを話しておるのだ?」

「友人のタヴェルネのことでございます」

「友人の――?」

「はい?」

「タヴェルネだと!」国王が怯えたような声をあげたので、公爵はひどく驚いてしまった。

「いけませんか? 昔の同僚で……」

 そこでいったん言葉を切り、

「共にヴィラールで軍役に就いておりましたが」

 そこで再び言葉を切った。

「ご存じの通り世間では友人という言葉を、知り合いであるだとか敵ではないという意味合いで使っておりまして。これといって裏のない型通りの言葉でございます」

「危うい言葉、ではないかな、公爵」国王は辛辣だった。「慎重に用いた方がよい言葉だ」

「陛下のお言葉ありがたく拝聴いたしました。改めましてタヴェルネ殿は……」

「タヴェルネ殿は不道徳な人間だ」

「貴族の名誉にかけて、老生もかねがねそう思っておりました」

「品性に欠けた人間だ」

「品性につきましては意見を申し上げるのを控えさせていただきます。知らないことは請け合えませぬゆえ」

「何だと! 自分の友人にして、古くからの臣下であり、ヴィラールの下で共に軍務に就いていた男、今から余に引き合わせようとしている男のことを、請け合えぬと申すか。あの男のことはよく知っているのだろう?」

「それはもちろんです。ですが品性については存じませぬ。シュリーは高祖アンリ四世に対して、緑の服を着た熱が出て行くのを見たと申しました。恐れながら老生といたしましては、タヴェルネの品性がどんな服を着ているのかは存じ上げぬと申すほかありません」[*1]

「もうよい。余が言おう。あやつは薄汚い人間だ。薄汚い役割を務めおった」

「陛下が仰るのでしたら……」

「その通り、余の言葉だ!」

「陛下にそう仰っていただけますとこちらも気が楽になります。正直に申し上げれば、タヴェルネは品性などなく、そのことは老生もはっきりとわかっておりました。ですが陛下のお考えを教えていただかなければ……」

「考えていることを言おう。余はあの男が嫌いなのだ」

「判決が下されましたな。とは言え、陛下のおそばで関係を執り成す力強い味方がいることは、あの男にとっては幸いなことですな」

「何のことだね?」

「不幸にも父親が国王に疎まれたとしても……」

「心底、疎うておる」

「否定はいたしません」

「だから何の話だ?」

「青い目と金色の髪をした天使の話でございます……」

「わからんな、公爵」

「そうかもしれませんな」

「わかるように言ってもらいたいのだ」

「老生のように敬虔とは言えぬ人間は、神秘的な愛情と魅力を秘めたヴェールの裾をめくろうと考えただけで震えてしまいます。ですが改めて申しますと、寵愛ゆえに国王のお怒りを鎮められる女性に、タヴェルネはどれほどの感謝をしなければならぬでしょうか。さよう、アンドレ嬢は天使にほかなりませぬ!」

「父親が道徳的に化け物なら、アンドレ嬢は肉体的に化け物だ!」

「何ですと?」リシュリューはすっかり途方に暮れてしまった。「わしらはすっかり勘違いしておったようですな。あの美しい見た目が……」

「あの女子おなごの話はよしてくれ、公爵。考えただけで怖気立つ」

 リシュリューは同情したようなふりをして手を合わせた。

「まさか、あんな姿形の娘が……王国一の観察眼をお持ちで、無謬を体現されている陛下が仰ったことでなければ、信じられますまい……それほどおぞましい姿でしたか?」

「それどころではない。病気の発作……ぞっとする……罠だ、公爵。もうあれの話はせんでくれ、恐ろしゅうて死んでしまう」

「もう口を開きますまい。陛下を殺してしまうとは! 恐ろしい! 何という一家なのだ! あの青年も気の毒に!」

「今度は誰の話をしておるのだ?」

「忠実にして献身的な偽りなき陛下の奉仕者のことです。言うなればあれこそ臣下の鑑、陛下の判断に間違いはございません。今回こそ陛下のご厚意は過たず届いていらっしゃいました」

「だから誰の話だというのに。さっさと言わんか、焦れったい」

「申し上げているのは――」リシュリューは穏やかに答えた。「あれの息子であり、あの子の兄のことです。フィリップ・ド・タヴェルネ、陛下が聯隊をお任せになった勇敢な若者の話をしております」

「余が聯隊を任せただと?」

「左様です。フィリップ・ド・タヴェルネが待ちわび、陛下がお任せになった聯隊のことでございます」

「余が?」

「そのはずですが」

「馬鹿を言うな!」

「はて?」

「そんなもの一切任せてはおらぬ」

「まことですか?」

「どうしてそんな話を持ち出したのだ?」

「しかし陛下……」

「そなたに関係があるのか?」

「まったくありません」

「ではそんな面倒ごとで余を苦しめるつもりだったのか?」

「何を仰います! どうやら――老生が間違っていたようですが――陛下が約束なさったとばかり思っておりましたもので……」

「余には関係ない。そもそも陸軍大臣がおるのだぞ。聯隊を任せるにしても、余がすることではない……聯隊だと! たいした法螺を吹き込まれたものだな。そなたはそのひよっこの代理人なのか? 話を聞くのはうんざりだと言ったではないか。そなたのせいで腹が立って来たぞ」

「陛下!」

「ああ、腹が立ったとも。たとい悪魔が代理人に就こうと、一日たりとも我慢するつもりはない」

 国王はそれだけ言うと背を向けて不機嫌も露わに執務室に引っ込んだ。気落ちしたリシュリューの様子と来たら、見ていられないほどだった。

「まあ、これでどうすべきかわかったわい」

 動揺のあまり汗まみれになっていたのをハンカチで拭うと、友人が今か今かと待ちわびている回廊の一隅に歩いて行った。

 元帥に気づいた男爵は、獲物を襲う蜘蛛のように、最新の報せを求めて駆け寄った。

 目を輝かせ、媚びるように口をすぼませ、腕を広げて進み出た。

「何か報せは?」

「報せはある」リシュリューは胸を反らせると、口に蔑みを浮かべ、馬鹿にしたように胸飾りをつついた。「二度とわしに話しかけないでもらいたい」

 タヴェルネは啞然として公爵を見つめた。

「貴殿は国王から嫌われておる。国王に嫌われおる人間は御免蒙りたい」

 タヴェルネは足が大理石に根づいてしまったかのように、呆然として立ちつくしていた。

 だがリシュリューはそのまま歩き続けた。

 やがて鏡の間の出口まで来ると、待っていた召使いに声をかけ、姿を消した。

「リュシエンヌまで!」


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXXVI「La mémoire des rois」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月8日(連載第135回)


Ver.1 11/12/24
Ver.2 25/08/30

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[註釈・メモなど]

・メモ
・ローザン公(Lauzun)のお辞儀。未詳。

 

[更新履歴]

・25/08/24 Richelieu, comme il l'avait promis, s'était allé poster bravement sous le regard de Sa Majesté au moment où M. de Condé lui tendait sa chemise. 前章の最後でリシュリューとタヴェルネが同じ鏡の間にいると勘違いしていたが、実際にはタヴェルネは鏡の間で待機し、リシュリューが国王の部屋で起床の儀(?)か何かに参列しているところなので、「リシュリューが約束通り果敢にも国王陛下の目の前に進み出たため、ド・コンデ氏が国王のシャツを引っ張った。」 → 「リシュリュー元帥はタヴェルネ男爵との約束通り、果敢にも国王陛下の目の前に進み出た。コンデ公がシャツを手渡している時だった。」に訂正。

・25/08/24 – De mon ami Taverney./– De votre ami ? s'écria le roi./– Pardon, sire. ここではフランス語の通常の語順ではなく、日本語と同じ語順になっている。つまり「友人のタヴェルネです」「友人の? え? 誰だって?」のようなニュアンスだろう。「友人のタヴェルネのことでございます」/「友人だと?」国王が声をあげた。/「はあ」 → 「友人のタヴェルネのことでございます」/「友人の――?」/「はい?」に変更。

・25/08/30 – Un homme qui a servi sous Villars avec moi. ヴィラールとは地名ではなく人名なので、「共にヴィラールで軍役に就いておりましたが」 → 「共にヴィラールの下で軍務に就いておりました」に訂正。

・25/08/30 – Je veux parler, répondit moelleusement Richelieu, du fils de l'un, sire[Sire], et du frère de l'autre. リシュリューがせっかくぼかして言っているのだから、「「申し上げているのは――」リシュリューは落ち着いて答えた。「タヴェルネの息子であり、アンドレ嬢の兄のことです。」 → 「「申し上げているのは――」リシュリューは穏やかに答えた。「あれの息子であり、あの子の兄のことです。」に変更。

・25/08/30 Vous avez donc juré alors de me brûler à petit feu avec ce fagot d'épines ? 「brûler ~ à petit feu」で「~をじわじわと苦しめる,なぶり殺しにする」なので、「ではそんな厄介ごとの山で余を火あぶりにしようとでも思ったのか?」 → 「ではそんな面倒ごとで余を苦しめるつもりだったのか?」に訂正。

・25/08/30 「」 → 「」

 

[註釈]

*1. [緑の服を着た熱]
 シュリーはアンリ四世の部屋から緑色の服を着た愛人が出て来るのを見て、国王に『お加減が悪そうですね』と声をかけた。すると国王は『一晩中熱があって、ようやく熱が引いたところなのだ』と答えた。それを聞いたシュリーは『さっきその熱が通り過ぎるのを見ましたよ。全身緑ずくめでした』と言った。[]
 

*2. []
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*3. []
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*4. []
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*5. []
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*6. []
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