この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第百三十八章 ルイ医師

 アンドレが気絶した場所からほど近いところに、庭師助手が二人働いていた。二人はジルベールの叫び声を聞いて駆けつけて来ると、ジュシュー氏の指示に従ってアンドレを部屋まで運びあげた。それをジルベールは遠くから顔を伏せて追いかけていた。標的を付け狙う殺し屋のように、生気のない動かぬ身体を追いかけていた。

 使用人棟の玄関までたどり着くと、ジュシュー氏は庭師たちを重荷から解放した。その時になってちょうどアンドレが目を開けた。

 騒ぎ声や慌ただしい様子を聞きつけてタヴェルネ男爵が部屋から出て来た。そこで目にしたのが娘の姿だった。まだふらついているものの、ジュシュー氏の助けを借りて身体を起こして階段を上ろうとしている。

 男爵は駆け寄って国王と同じ質問をした。

「どうしたんだ?」

「何でもありません、お父様」アンドレが弱々しい声で答えた。「ただちょっと気分が悪くなって、頭痛がするだけです」

「あなたの娘さんでしたか?」ジュシュー氏が男爵に会釈した。

「まあそうじゃな」

「でしたらこれほど安心なこともありませんね。とは言え、医者にお見せした方がいい」

「そんな、大丈夫です!」アンドレが口を挟んだ。

 これにタヴェルネ男爵も同調した。

「もちろん大丈夫じゃとも」

「それに越したことはありませんが、お嬢さんは真っ青じゃありませんか」

 ジュシュー氏はそう言って玄関の石段までアンドレに手を貸すと、いとまを告げた。

 父と娘だけが残された。

 タヴェルネ男爵はアンドレのいない間に時間をかけてじっくりと考え抜いていたので、立ったままのアンドレの手を取って長椅子に坐らせてから、自分も隣に腰を下ろした。

「すみませんけれど、窓を開けていただけますか。苦しくて」

「実は大事な話があるのだが、こんな鳥籠みたいな住まいでは呼吸の音すら何処にでも筒抜けじゃな。まあよい。小声で話すとしよう」

 そう言うと男爵は立ち上がって窓に向かった。

 窓を開け終わると、かぶりを振りつつまた娘のそばに腰を下ろした。

「話というのはほかでもない、最初こそあれほどわしらに関心を抱いて下さった国王が、こんなあばら屋にお前をほったらかしにしておいて、ご好意を見せてくれん」

「だってお父様、トリアノンにはお部屋がありませんもの。それがあのお屋敷の困ったところじゃありませんか」

「ほかの連中の部屋がないというのなら」男爵は当てこするような笑みを浮かべた。「まだわからんでもない。だがお前の部屋もないというのは理解できん」

「お父様はわたくしのことを随分と評価して下さっていますけれど、ほかの方々から見ればそうではありませんもの」アンドレは微笑みを浮かべて答えた。

「何の、お前のことをちゃんとわかっている者たちなら、みんなわしと同意見じゃよ」

 アンドレは赤の他人に謝意を伝えるように頭を下げた。父から褒められて何処となく不安を感じ始めたのだ。

「しかもな……」タヴェルネ男爵はなおも優しい口調で続けた。「……国王はお前のことをちゃんとご存じなのじゃろう?」

 そう言いながらも、糾弾するような恐ろしい目つきをアンドレに向けていた。

「国王はわたくしのことなどほとんどご存じありませんわ」アンドレはごくさり気なく答えた。「国王にとってわたくしなど物の数ではありませんもの」

 それを聞いて男爵が飛び上がった。

「物の数ではないじゃと! お前の言っていることはさっぱりわからん。随分とまた自分を安く見積もっているようじゃの!」

 アンドレは驚いて父を見つめた。

「何度でも言ってやるぞ。謙虚にもほどがある。お前は人間の尊厳というものまでなおざりにしておるではないか」

「大げさなことばかり仰って。国王はわたくしたち一家の窮状を気にして下さっているに過ぎませんわ。わたくしたちの為に幾つかのことをして下さいましたけれど、不幸な方々はほかにもまだたくさん玉座を取り巻いていて、陛下がいくら慈しみ深い手を差し伸べてもこぼれてしまうほどなんですもの。ご厚意を寄せて下さっただけでもありがたいことで、その後なおざりにされてもおかしなことではありません」

 タヴェルネ男爵は娘をじっと見つめて、度の過ぎた慎みにむしろ感嘆していた。

「よいか、アンドレ」そう言って男爵は娘に近づいた。「父親であるこのわしが、いの一番にお前に頼み事をするつもりだ。その権利をどうか撥ねつけたりせんでくれよ」

 今度は見つめるのはアンドレの方だった。女らしい眼差しで説明を求めた。

「お前頼みなんじゃ。わしらのために取りなしてくれ、家族のためになることをしてくれ」

「いったい何がお望みですか? わたくしは何をすればよいのでしょうか?」アンドレの言葉からは混乱が窺えた。

「わしや兄のために何かをお願いしてくれる気はあるのか、ないのか? はっきりせい」

「やれと言われたことなら何でもいたします。ですけれど、あまり物欲しげに見えるのはお嫌ではないのですか? 既に陛下は十万リーヴルもする首飾りを下さいました。そのうえお兄様に聯隊を任せる約束をして下さいました。随分とたくさんのお恵みをかけていただいているではありませんか」

 タヴェルネ男爵は嘲るような哄笑を抑えることが出来なかった。

「つまり充分に報われていると思っておるのか?」

「お父様のご尽力のおかげだということは承知しております」

「わしの話などしておらんぞ!」男爵は苛立ちを爆発させた。

「ではぜんたい何の話をしてらっしゃるのですか?」

「隠しごとをして遊んでいる場合か!」

「何を隠しているというのです?」

「すべてお見通しじゃぞ!」

「何が見えると……?」

「すべてじゃ」

「すべてとは、つまり?」

 アンドレは誰よりも慎み深い良心を持っていた。そこに遠慮のない攻撃を受けて、我知らず顔じゅうが真っ赤になっていた。

 タヴェルネ男爵にも父として子を大事に思う気持ちはあったらしい。アンドレの反応を見ると、問いただす勢いもそれ以上は続かなかった。

「まあよい! それで気が済むなら好きにせい。慎み深い、どうやら謎めいた女を演じたいというのなら、それでよい。父と兄を無名のまま埋もれさせておくというのなら、それも結構。だがわしの言葉を覚えておくがいい。初めから帝国を摑めぬ者は、最後まで帝国を持てぬと思え」

 男爵はその場でくるりと回った。

「お父様が何を仰っているのかわかりません」というのがアンドレの言い分だった。

「構わん。わしにはわかっておるからの」

「それではあんまりです。話をしているのはわたくしたち二人なのに」

「でははっきりさせよう。あらゆる駆け引きを使えと言っておるのだ。生まれながらに備えている、一族の能力の一つを、せっかく機会が巡って来たのだから、家族とお前自身の立身のために使わんか。国王にお会いしたら真っ先に伝えてくれ。お前の兄が任命状を待ち望んでいること、それにお前が空気も景色も悪い住まいで弱り切っていることを。要するにだな、あまりに愛や無私を貫くような馬鹿なことはせんでくれ」

「でもお父様……」

「今夜にでも国王にそうお伝えしろ」

「何処で国王にお会いしろというのですか?」

「それから忘れずに、わざわざお越しいただく必要はないと陛下に伝えてくれ……」

 恐らくタヴェルネ男爵は直截的な言葉を使うことで、アンドレの胸に群がりつつある嵐を掻き立て、疑問を晴らしてくれるような説明を求めるつもりだったのだろう。ところがちょうどその時、階段に足音が聞こえた。

 男爵はすぐに口を閉じて手すり越しに訪問者を確認しに行った。

 アンドレが驚いたことに、父親は壁際にぴったりと身体を寄せた。

 それと同時に王太子妃が、一人の男性を連れて部屋に入って来た。男性は黒い服を着用し、長い杖を突いている。

「妃殿下!」アンドレが力を振り絞って王太子妃の前まで進み出た。

「そうよ、患者さん。お見舞いがてらお医者さんを連れて来ましたからね。こちらです、先生。まあ、タヴェルネさん」王太子妃が男爵を見て言った。「お嬢さんはお加減が優れないようですが、お一人ではあまりお世話が出来ませんでしょう」

「妃殿下……」タヴェルネ男爵は口ごもった。

「さあ先生」王太子妃にしか出来ない、引き込まれるような心遣いだった。「脈を取って、目の隈を調べて、病名を教えて下さい」

「そのようなご親切を……!」アンドレが口ごもった。「わたくしのような者がお受けすることなど……」

「こんなあばら屋で、と仰りたいの? こんなひどいところだったなんて申し訳ないわ。その点については考えておきます。ですからルイ先生に手を見せて。大変よ、この人は何でも見抜く哲学者であるうえに、観察眼を持った学者なんですから」

 アンドレは微笑んで医師に手を預けた。

 医師はまだ若かったが、その智的な顔立ちは王太子妃の言葉を裏づけていた。部屋に入るとまずは病人、次いで部屋の環境、さらには父親の顔を順番に眺め、父親の顔にはなぜか不安ではなく苛立ちが浮かんでいるのを目にした。

 恐らくは学者として観察を始める前から、哲学者として見抜いたのではないだろうか。

 ルイ医師はしばらく脈を診てから、アンドレに症状をたずねた。

「何を食べても受けつけないんです。それから突然の引きつけ、急に顔が火照ったり、身体が強張ったり、動悸がしたり、意識が遠のいたりします」

 アンドレの話を聴いて、医師の顔が徐々に曇り出した。

 とうとう手を離し、目を逸らした。

「どうでしょうか、先生?」王太子妃がたずねた。これまで多くの患者たちがして来たことだ。「危険な状態ですの? もう助からないのでしょうか?」

 医師はアンドレに目を戻し、無言でもう一度診察をした。

「殿下、こちらのお嬢様の患いは特別なものではございません」

「深刻なものではないの?」

「普通はそうでございます」医師は微笑んだ。

「そう、よかった」王太子妃はほっと息をついた。「あまり苦しい治療はやめてあげてね」

「苦しい治療などいたしませんとも」

「薬を飲ませたりしないの?」

「こちらのお嬢様には一切必要ございません」

「そうなの?」

「ええ」

「何も?」

「何もいりません」

 そう言うと医師は、それ以上の説明を避けるようにして、患者が待っていると言って大公女にいとまを告げた。

「先生、わたしを安心させるためだけにそんなことを仰っているのでしたら、わたしの方が具合が悪くなってしまいます。どうか今晩いらっしゃる時にはわたしがよく眠れるように、約束なさった糖衣ドラジェを忘れずにお持ちになって下さい」

「戻ったらこの手でご用意いたします」

 そう言って医師は立ち去った。

 王太子妃は朗読係のそばに残った。

「大丈夫ですからね、アンドレ」王太子妃は励ますような笑顔を見せた。「心配するようなものではないわ。ルイ先生が何も処方しなかったんですから」

「安心いたしました。妃殿下にお仕えするのを休まなくて済みますもの。それだけが心配でございました。でもお医者の先生には悪いのですが、実を申しますと今も苦しいのです」

「でもお医者様が笑顔を見せるような病気ですもの、耐えられないほどの苦しみではないはずよ。ぐっすり眠ることです。あなたのお世話をする人を手配しておきます。どうやら小間使いもいないようですから。お見送りいただけますか、タヴェルネ殿」

 王太子妃はアンドレの手を取り、約束したように見舞いの言葉をかけてから立ち去った。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXXVIII「Le docteur Louis」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月10日(連載第137回)


Ver.1 12/01/28
Ver.2 25/11/09

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[註釈・メモなど]

・メモ

[更新履歴]

・25/11/09 tandis que Gilbert suivait de loin, et la tête baissée, ce corps inerte, morne, comme l'assassin qui marche derrière le corps de sa victime. 殺し屋はターゲットを殺すのであって、死体を尾行したりはしないので、「それをジルベールは遠くから顔を伏せて追いかけていた。殺し屋が標的の死体につきまとうように、生気のない動かぬ身体を追いかけていた。」 → 「それをジルベールは遠くから顔を伏せて追いかけていた。標的を付け狙う殺し屋のように、生気のない動かぬ身体を追いかけていた。」に訂正。

・25/11/09 – C'est que je voulais causer un peu sérieusement avec vous, Andrée, et, dans cette cage que l'on vous a donnée pour demeure, un souffle s'entend de tous les côtés ; mais il n'importe, je parlerai bas. 大事な話があるから窓を開けたくないのだが仕方がない、という意味合いの台詞なので、「実は大事な話があるのだが、こんな住まいではあちこち隙間風だらけじゃな。まあよい。小声で話せば済むことじゃ」 → 「実は大事な話があるのだが、こんな鳥籠みたいな住まいでは呼吸の音すら何処にでも筒抜けじゃな。まあよい。小声で話すとしよう」に訂正。

・25/11/09 – Qu'il n'y ait pas de logement pour d'autres, dit Taverney avec un sourire insinuant, je le concevrais à la rigueur, ma fille ; mais, pour vous, en vérité, je ne le conçois pas. 「d'autres」は「ほかの場所」ではなく「ほかの人」である。「「ほかの場所にも住むところがなかったというわけか」タヴェルネが当てこすりを言った。「百歩譲って納得もして来たが、お前の為には譲るつもりはないぞ」」 → 「「ほかの連中の部屋がないというのなら」男爵は当てこするような笑みを浮かべた。「まだわからんでもない。だがお前の部屋もないというのは理解できん」」に訂正。

・25/11/09 – Ce ne doit cependant pas être une grande souffrance qu'un mal dont rit le médecin. Dormez donc, mon enfant ; je vais vous envoyer quelqu'un pour vous servir, car je remarque que vous êtes seule. Veuillez m'accompagner, monsieur de Taverney. dont は関係代名詞なので、後半の主語は mal ではなく le médecin である。「でも医者を嘲笑うようなひどい病気の苦しみではないはずよ。」 → 「でもお医者様が笑顔を見せるような病気ですもの、耐えられないほどの苦しみではないはずよ。」に訂正。

・25/11/09 「」 → 「」

・25/11/09 「」 → 「」

 

[註釈]

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*4. []
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*6. []
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