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知りすぎた男

ギルバート・キース・チェスタトン

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第八話
像の復讐


 海沿いのホテルの日当たりのいいベランダからは、花壇が模様をなし青い海が帯となっているのが見はるかせる。その場所こそ、ホーン・フィッシャーとハロルド・マーチが最後に解釈を、あるいは介錯と呼ぶべきことを行った場所だった。

 今では当時の政治作家の先駆けとして有名なハロルド・マーチが、小卓のところまでやって来て、曇りがちで夢見がちな青い目にくすぶっている興奮を抑えながら席に着いた。テーブルの上に放り出された新聞を見れば、興奮している理由の全てではないにせよある程度の説明はつく。各方面における公的事業が重大な局面を迎えていた。ずいぶんと長いあいだ存続していたために(世襲の専制政治に慣れるように)誰もが慣れ切っていた政府が、大失態に加えてあろうことか財政濫用で告発され出したのだ。若かりしころのホーン・フィッシャーの夢想に倣って、英国西部に小作農を根付かせようと試みた結果、隣人の産業者たちとのあいだに物騒な対立を招いただけに終わったという話だ。無害な外国人、特にアジア系を酷使していることに非難が爆発していた。そうした外国人はたまたま、沿岸に新たに建てられた科学工場で雇われ新たに沿岸に作られる科学工場に雇われていた。事実シベリアで生まれた新興勢力は日本を始めとする強大な同盟国の後押しを受け、追放された受刑者のために事を起こそうとしており、大使と最後通牒について激しい噂が飛び交っていた。だがマーチ自身の個人的関心においてはそれ以上に深刻なことが、困惑と義憤のないまぜになった話し合いに満ちているようだった。

 常に気怠げなフィッシャーの様子に常ならぬ活気が現れていたのも、マーチのいらだちを募らせているのだろう。普段心に描いているフィッシャーの姿は、青白くて額の広い紳士であり、年のわりに禿げているだけでなく年のわりに老けているように見えた。記憶のなかでは、風来坊の言葉で厭世家と評される人物だった。今でさえマーチには確信が持てないのだが、この変化は日光が仮面舞踏会を開いているようなものに過ぎないのだろうか、はたまた海辺の保養地の景色にはつきものの鮮やかな色彩と輪郭が青い海の帯を引きたてているのに影響されたのだろうか。だがフィッシャーはボタン穴に花を挿していたし、まるでふんぞり返った闘士のようにステッキを手にしていたことはマーチにも断言できただろう。あのような暗雲が英国を覆っているというのに、この厭世家だけはまるで自分の太陽を持っているかのようだった。

「いいですか」ハロルド・マーチが出し抜けに口を開いた。「あなたほどの友人はいなかったし、友人であることをこれほど自慢できる人もいませんでした。それでも言わずにはいられないこともあります。明らかになればなるほど、どうしてあなたが我慢できるのかわからなくなりました。ぼくはもう我慢できないんです」

 ホーン・フィッシャーは真剣に意を注いではいるが、まるで遠くにでもいるような遠い目でマーチを眺めた。

「あなたのことはいつだって好きでしたよ」フィッシャーが静かに口にした。「ですが尊敬もしています。この二つがつねに同じことであるとはかぎりません。尊敬していない人たちのことが好きなのだと思われるでしょうね。おそらくそれが私の悲劇、私の欠点なのでしょう。ですがあなただけは別です。お約束しましょう、あなたに尊敬されなくなってまで好かれ続けようとすることは、絶対にないことを」

「あなたが寛大なのはわかっていますが」少しあいだを置いてマーチは答えた。「それにしたって卑劣なことを何もかも容認し見逃しているじゃありませんか」また少し間を置いてから話を続ける。「初めて会ったときのことを覚えていますか? 的事件のときでした、あなたは小川で釣りをしていましたね。最後にこう言ったのを覚えてますか? 社会のもつれをダイナマイトで地獄まで吹き飛ばせたとしても、何の害にもならないかもしれない、と」

「ええ、それが何か?」

「別に、ダイナマイトで吹き飛ばすつもりなだけですよ。それで、あなたにはきちんと警告しておくべきだと思ったので。だいぶ長いあいだ、あなたが言うほど悪い事態だとは思ってなかったんですよ。ところが、あなたの知っていることをまるでぼくが隠し込んでいるような可能性には思いもよらなかったんです。ええ、早い話がぼくは良心を手にしたうえに、ついには今や機会まで手にしたんです。独立系の大新聞の担当になって自由に書けるようになったので、これから不正について集中砲火の端緒を開くところなんです」

「それが――アトウッドというわけですか」フィッシャーが思案げに答えた。「材木業者の。中国のことをよく知っているとか」

「イギリスのこともよく知っているんです」マーチはなおも強く主張した。「ぼくもよく知ってしまった以上は、もう黙っているつもりはありません。国民にはどう統治されているのか――いや、どう放置されているのか――知る権利がある。大臣は金貸しの懐に収められて、言われるがままです。そうでもしなければ破産どころかひどい金融破綻になり、あとに残るのはカードと女優の山だけ。総理大臣はガソリンの請負事業に関わっています、それもどっぷりと。外務大臣は酒と薬に溺れている。大勢のイギリス人をいたずらに死に追いやっている人間について、こんなふうにはっきり口にすれば、プライバシーに首を突っ込んでいると言われます。酔っぱらった機関士が三、四十人の人を死に追いやった場合には、誰もプライバシーの暴露だとは言いません。機関士とは一個の人格ではないからです」

「まったく同感です」フィッシャーは落ち着いていた。「あなたの言うことは完全に正しい」

「同感だというのなら、何だってぼくらと行動を共にしないんですか? 正しいと思うのなら、なぜ正しいことをしないんです? あなたほどの才能の人が、改革への道をふさいでいるだけだと思うとぞっとしますね」

「私たちもそのことについてよく話し合いました」フィッシャーは相変わらず落ち着いていた。「総理大臣は父の友人です。外務大臣は姉と結婚しました。大蔵大臣はいとこです。こんなときに事細かに家系図を持ち出すのはですね、新鮮な感情を味わっているからなんです。こんな幸せな感覚は思い出せませんね」

「仰る意味がよくわかりませんが?」

「家族を誇りに感じているんですよ」ホーン・フィッシャーが答えた。

 ハロルド・マーチは青い目を見開いてフィッシャーを見つめたまま、あまりに面食らって問いつめることも出来ないようだった。フィッシャーは気怠げに椅子にもたれ、微笑んで話を続けた。

「さていいですか。今度は私がたずねる番です。不幸な親戚たちのことを私はいつだって知っていたはずだとほのめかしましたね。確かに知っていました。アトウッドがこのことをいつも知らなかったと思いますか? あなたが機会さえあればこのことを公表するような正直者だということを、アトウッドがいつも知らなかったと思いますか? ここ何年か経ってから、なぜ今になって犬みたいにあなたの口輪を外したんでしょうね? 私にはわかりますよ。たくさんのことを知っていますから。知りすぎているんです。だからこそ、口にする栄誉があれば、やはり家族のことを誇りに思うのです」

「でもなぜです?」マーチは弱々しく繰り返した。

「なぜ誇りに思うのかというと、大蔵大臣が賭けごとをしているからです。外務大臣が酔いつぶれているからです。総理が請負の手数料を取っているからです」フィッシャーはきっぱりと言い切った。「そうしたことをやっているから、告発されるかもしれないから、告発されるかもしれないことを自覚しているから、それでも自分の立場を貫いているから、だから誇りに思うんです。脅迫に屈せず、自分を守るために国を傾けることも拒んでいるから、頭が下がるんです。だからわたしは敬礼するんですよ、戦地で散る兵士に敬礼するようにね」

 そこで一呼吸おいてから、ふたたび話を続けた。

「それにこれから戦場にもなるはずです、比喩ではなくね。長いあいだ海外の投資家のいいようにされてきたために、もはや戦争かさもなくば破滅というところに来ているんです。人々さえ、国民さえもが、自分たちが破滅させられつつあるのではないかと疑い始めています。それが新聞に書かれてあった悲しむべき事件の意味ですよ」

「東洋人迫害の意味は?」マーチがたずねた。

「東洋人迫害の真意はですね」とフィッシャーが答えた。「投資家たちが労働者や農民を飢えさせようとして意図的にこの国に中国人人夫を導入したのだということです。不幸な政治家たちは譲歩に譲歩を重ね、そして今では自分たち自身で自分たちの国の貧民層を虐殺する命令を出すところにまで譲歩を示しているんです。今戦わなければ、二度と戦うことはないでしょう。一週間でイギリスの経済状態を逼迫させられてしまいますよ。だから私たちは今戦おうとしているんです。一週間後に宣戦布告があり、二週間後に侵入があってもおかしくはないでしょうね。あらゆる過去の不正や怯懦が邪魔になっていることは間違いありませんが。西部地方は軍事的にちょっとした嵐と疑いが兆していて、そこでアイルランド連隊は新条約に基づいて支援するはずだったのに、見事に暴動を起こされました。それというのも無論この恐ろしい苦力クーリー資本主義がアイルランドでも後押しされているからです。ですがもうやめるころでしょうし、政府による再保証の連絡が通れば、敵の上陸までには元に戻るかもしれません。何せ、わたしのところのやんちゃ者たちときたら、絶対に後には引かないでしょうからね。もちろん、半世紀のあいだ先頭に立ってごまかしを続けてきた人間が、よりにもよって人生で初めて人間らしく振舞おうとしている瞬間に罪の報いを受けるのは、もっともなことです。いいですか、マーチ、わたしはあの人たちのことはすべて知っていますし、あの人たちが英雄のように振る舞っていることを知っているんです。全員の銅像があってしかるべきですし、台座の銘には革命のころの気高い悪党どもと同じく、『我が名は朽つとも、フランスには自由をク・モン・ノム・ソワ・フレトリ、ク・ラ・フランス・ソワ・リブル』」

「そうですか!」マーチは叫んだ。「あなたの坑道も爆破坑道も見極めることはできないのでしょうね?」

 ややあってからフィッシャーは友人を見つめ、低い声で答えた。

「あの人たちが根っから邪悪なだけの人間だと思っているんですか?」フィッシャーは穏やかにたずねた。「私が運命によって放り込まれた深い海のなかに、腐敗しか見つからなかったと思っているんですか? いいですか、人の悪いところを知らないかぎり良いところを知ることもできませんよ。女を求めたりもせず賄賂の意味も知らないような、ありえぬほど完璧な蝋人形として世間に公開されたことを知ったからといって、あの人たちが風変りな人間らしい魂をなくするわけじゃありません。宮廷でも健全な暮らしを送ることはできるし、議会でも健全に暮らそうと努力を重ねて健全な暮らしを送ることはできます。貧しい追剥や掏摸に当てはまることは、豊かな道化や悪漢にも当てはまるんです。どれだけ努力したのか神さまだけが知っています。良心が耐えきれることや、名誉を失った人間がどのようになおも魂を守ろうと試みるのか、神さまだけが知っているんです」

 ふたたび訪れた沈黙のあいだ、マーチは座ったままテーブルを見つめ、フィッシャーは海を見ていた。やがてフィッシャーはぴょこんと立ち上がり、帽子とステッキをつかんだ。その動きはこれまで見たこともないほど素早いうえに荒々しかった。

「ちょっといいでしょうか。取引させてくれませんか。アトウッドのために作戦を展開する前に、私たちと一週間をともに過ごして、実際にどんなことをしているのか確かめに来てください。信頼できる少数精鋭、かつては古強者として知られていた人たちと一緒に、ときに落伍者と呼ばれようということです。私たちわずか五人の固定メンバーだけ[*註]で国防を組織して、ケント[*註]にあるおんぼろ旅館のようなところで駐屯兵のように過ごしているんです。私たちが実際に何をしているのか、そこで何が行われているのかを、その目で見て判断してください。そのあとで、変わらぬ愛と熱意を込めて、公表するなり非難するなりしてください」

 こうして開戦が翌週に迫ったときに事態は急展開を見せ、ハロルド・マーチは告発しようとしていた人びとの輪の中にいた。彼らは質素ではあるが趣味のわかる人にとっては充分な暮らしをしており、煉瓦造りの宿屋は蔦に覆われ侘びしげな庭に囲まれている。建物の裏手にある庭から急勾配を上ると土手沿いに道があり、ジグザグの小径が急角度で斜面を上り、常黒樹と呼んだ方が相応しいような常緑樹のなかにあちこち突っ込んでいた。斜面のそこかしこに十八世紀の置物のように冷え冷えとした不気味さをたたえた石像が立ち、まるで檀上に並んでいるかのように、裏口正面にあるふもとの土手に沿って一列に並んでいた。マーチがこんな細かいことまで一目で心に焼きつけているのは、閣僚の一人と交した初めての話のなかで触れられていたからに過ぎない。

 閣僚たちは思っていたより年を取っていた。首相はもはや少年には見えなかったが、どこか赤ん坊めいたところが残っていた。だがいわゆる老いて神聖な赤ん坊という類で、この赤ん坊はやんわりとした白髪をしていた。何もかもがやんわりとしていた。しゃべり方も、歩き方も。だが何よりも、主な仕事は眠ることであるらしいことだった。同席した者たちは目が閉じていることに慣れてしまっていたので、沈黙のなかで目が開いていたりあまつさえものを見ているとわかったときには驚かんばかりだった。この老紳士の目を開かせるものが少なくとも一つあった。武具や武器、殊に東洋の武器の収集には何をおいても目がなく、ダマスカスの刀剣やアラビアの剣術のことなら何時間でも話すことができた。大蔵大臣ジェイムズ・ヘリーズ卿は小柄で色黒で体格のいい男で、顔色の悪いところや態度の無愛想なところは、ボタン穴に差した鮮やかな花や、つねに飾られすぎのきらいがある祭り飾りとは対照的だった。彼のことを町の有名人と呼ぶのは婉曲な呼び方である。いったいどうしたら、楽しみを求めて生きている人間が、そこにほとんど楽しみを見出していないように見えるのかという問題には、おそらくさらなる謎があるのだろう。外務大臣デイヴィッド・アーチャー卿は、メンバー中ただ一人たたき上げの人物であり、貴族らしく見えるただ一人の人物だった。長身痩躯で見た目もよく、ごま塩の髭を生やしている。白髪はひどい癖っ毛で、正面に癖の強い巻き毛が二本突き出したのも、想像をたくましくすると、大きな昆虫の触角のように震えているようにも、落ち窪んだ目の上で絶えず動いている眉毛の固まりに共振しているようにも見える。というのもつまり、何が原因であろうとも外務大臣はいらいらしている様子を隠そうとしなかったのである。

「マットが曲がっているからといってわめきかねない人のふさぎこんだ気持ちがわかるかい?」と外相がマーチにたずねた。陰気な石像の列の足許にある裏庭をあちこち歩き回っていたときのことだ。「働きすぎの女性はそうなるし、私も最近ひどく働き過ぎなんだ。ヘリーズがかぶっている帽子がちょっと横を向いて――遊び人がよくやるようになっているだけで――気が狂いそうになる。いつかたたき落としてしまうだろうね。あそこにあるブリタニアの石像はまっすぐ立っていないだろう。いくらか前のめりにつんのめって、ご婦人が転びかけているようじゃないか。潔くさっさと倒れてしまわないのがいまいましいよ。ほら、鉄の支柱に留められてるんだ。私が真夜中に寝床から抜け出して、あれを引っこ抜いても驚かんでくれよ」

 しばらく何も言わずに小径を進んでから、こう付け加えた。「不思議なもんだね、憂慮すべき大事があるときには、かえってこういう些事の方が大事に思えてしまう。中に入って一仕事した方がよさそうだな」

 ホーン・フィッシャーは、アーチャーのノイローゼ気味なところやヘリーズの乱れた生活を考慮に入れて、二人の現在の意思力をどれほど信頼していようとも、また相手が首相であったとしても、各々の時間と警戒心をあまり煩わせたりはしなかった。西部軍への指令を含む重要文書を誰に託すかに当たって、フィッシャーは最終的には首相に同意していた。あまり目立たずかなり信頼できる人物――ホーン・ヒューイットという名の叔父は、顔色の悪い地方地主だがかつては優秀な兵士であったため、この小委員会の軍事顧問であった。共同軍事作戦・計画に加えて・とともに、なかば反抗的な西の指揮官に対して政府公約を促す役を担わされたうえに、さらに緊張を要する仕事として、いつ何どき東から現れるやもしれない敵の手に落ちていないことを確かめることになっていた。この軍当局者を除けば、ほかに参加しているのは一人の警察当局者だけであった。あのプリンス博士(元警察医にして今は高名な探偵)が、一堂の護衛に当たっていた。大きな眼鏡をかけた四角い顔をしかめて、一切口を利かぬことを伝えているような男である。缶詰状態をともにしているのはほかにはいない。例外は、林檎みたいな顔をした気難しいケント人経営者と、従業員が数人、それと非公式にジェイムズ・ヘリーズ卿のもとで働いている使用人が一人である。これはキャンベルという名の若いスコットランド人で、気難しげな主人よりもひときわ目立つ外見をしていた。髪は栗色で、陰気な馬顔に造りは大きいが線の細い目鼻立ちがつっくいている。おそらくはその家のなかでただ一人の有能な人間であった。

 非公式会議から四日ほど経つと、マーチはこうした疑わしげな人物たちに奇怪な気高さのようなものを感じていた。まだ見えぬ危険の薄明かりに立ち向かっている様子は、まるで町を守るために取り残されたせむしや不具者のようであった。あらゆることが懸命に行われているなか、私室でメモを取っていたマーチが顔をあげると、ホーン・フィッシャーが旅行にでも行くような格好で戸口に立っていた。マーチの目にはフィッシャーが青ざめているように見えたのだが、フィッシャーはすぐにドアを閉めてそっと口を開いた。

「さあ、最悪のことが起こりました。もしくは最悪に近いことが」

「敵が上陸したんですね」マーチは叫んで、椅子からしゃきりと立ち上がった。

「ああ、敵が上陸するのはわかっていました」フィッシャーは落ち着いて答えた。「そうです、敵が上陸しましたが、それは起こり得る最悪のことではありませんよ。最悪なのは情報が洩れること、この私たちの要塞から洩れるだけでも最悪です。不合理に思えるけれど、こう言ってよければ、頭を殴られたような衝撃でした。要するに、政治的に誠実な三人だと思って賞賛していたんです。二人しかいないとわかっても驚愕してはいけないんですよ」

 しばらく思いを巡らしてから話を続けたが、その話しぶりからは話題を変えたのか変えていないのかマーチには判断しかねた。

「ヘリーズのような人が、酢漬けのように悪事に漬かっていながら、これっぽっちも良心のとがめを感じないでいられるとは、まず思えません。ですがこれについてはおかしなことに気がついたんですよ。愛国心とはもっとも大事な美徳ではないんです。もっとも大事な美徳であるようなふりをすれば、愛国主義は軍国主義に身を落としてしまいます。ところが愛国心が美徳としてもっとも軽んじられる場合もある。国を売らない人が詐欺やぺてんを働いたりするものです。でも誰にわかるというんです?」

「何が起こったんですか?」マーチが我慢できずに声をあげた。

「叔父は文書を安全に保管していて」とフィッシャーが答えた。「今夜、西まで届ける予定なんです。ところが何者かが外部から文書を手に入れようとしていて、内部の誰かが手引きしている恐れがあります。今できる手はすべて打つつもりですし、外部の人間を阻止するために、すぐにでもここを出て実行に移さなくてはなりません。二十四時間後には戻ってきます。私がいないあいだ、あの人たちから目を離さずに、できるかぎりのことを探ってください。それじゃあオ・ルボワール

 フィッシャーは階段を降りて見えなくなった。窓の外を見ると、フィッシャーがバイクにまたがり隣町の方に轍を残していくのが見えた。

 明くる朝、マーチは古宿屋の窓際の席に座っていた。オークで板張りされた、たいていはどちらかといえば薄暗い場所だった。ところがその場所に、珍しく晴れやかな朝の白い光が満ちていた――。ここ二、三夜のあいだ月の光がきらきらと輝いていた場所だ。窓辺の隅のいくらか日陰になったところにいると、ジェイムズ・ヘリーズ卿があたふたと裏庭からやってきてマーチには目も向けなかった。ジェイムズ卿は椅子の背にしがみついて身体を支えようとでもしていたようだが、ひょいと腰を下ろすと、まだ散らかったままのテーブルから、ブランデーをコップに注いで飲み干した。マーチには背を向けていたが、丸鏡に映った土気色の顔からは、ひどく混乱しているような色がうかがえた。マーチが身体を動かすと、ひどくぎくりとして振り返った。

「ちくしょう! 外で起こったことはもう見たか?」

「外ですか」マーチは繰り返し、肩越しに庭を眺めた。

「ああ、自分で見てきたまえ」ヘリーズは怒ったような声をあげた。「ヒューイットが殺されて、書類が盗まれた、それがすべてだよ」

 ふたたび背を向けてドスンと腰を下ろした。広い肩が震えていた。ハロルド・マーチは戸口から飛び出し、像が立っている急斜面のある裏庭に向かった。

 初めに目に入ったのは、眼鏡越しに地上の何かを見つめている探偵プリンス博士だったが、すぐに博士が見つめているものが目に入った。衝撃的な報せをすでに宿屋で聞いてきたあとだというのに、その光景には衝撃的なところがあった。

 ブリタニアの巨大な石像が顔を下に向けて庭の小径にうつぶせに倒れており、その下からつぶされた蠅の足のようにばらばらに突き出ているのは、ワイシャツを着た腕とカーキのズボンを履いた足であったし、ごま塩の頭髪は疑いようもなくホーン・フィッシャーの叔父のものであった。血だまりができ、手足が硬直して明らかに死んでいた。

「事故だったんですよね?」マーチがようやく言葉を見つけた。

「自分で見ろと言っただろう」ヘリーズが耳障りな声で繰り返した。マーチのあとからいてもたってもいられずドアを出たのだ。「書類がなくなったと言ったはずだ。死体からコートを脱がしたやつが、内ポケットから書類を取り出したんだ。コートが丘の上で、大きく切り裂かれていた」

「だが待ってくれ」探偵プリンスが穏やかに口を挟んだ。「そう考えた場合には謎が残りはしないかな。殺人犯がどうにかして、こんなふうに石像を投げ落とすことができたとしよう。だがふたたび持ち上げるのは容易ではないぞ。試してみたが、最低でも三人は要る。ところがその仮説にしたがうと、初めに犯人は被害者が通りかかったところを石の棍棒でも扱うようにして石像で殴り倒し、次に石像をふたたび持ち上げて、死体を取り出しコートをはぎ取り、それから元通り死んでいたときの格好に戻したうえで石像をぴたりと元に戻した、と仮定しなければならない。いや、物理的に不可能だ。それとも石像の下敷きになった人間から服を脱がす方法がほかにあるだろうか? 手首を縛られた状態でコートを着替えるとなると、奇術よりたちが悪い」

「死体からコートを脱がしたあとで石像を投げ落としたんじゃないでしょうか?」マーチがたずねた。

「なぜだ?」プリンスが鋭く突っ込んだ。「人を殺して書類を奪ったのなら、風のように飛んで逃げないかね。石像の根元を掘り返して庭でぐずぐずしたりはしまい。それに――おや、上にいるのは誰だ?」

 頭上の土手高く、空を背にして黒く細い形を描いていたのは、蜘蛛のように細長い人影であった。頭の形をした黒い影からは、角のような小さな房毛が見えている。その角が動いたことは誓ってもよかった。

「アーチャー!」ヘリーズはかっとなって、降りてくるように怒鳴り散らした。人影は怒鳴られた途端に後ずさった。おどけているといってもいいようなくらいにぎこちない動きだった。だがすぐに考え直して気を取り直したらしく、ジグザグの小径を降り始めたが、見るからに不承不承としたゆっくりした足取りで降りていた。マーチの胸中に、この男自身が用いた言い回しが轟いていた――真夜中に気が狂って石像を破壊してしまいそうだ。そういうわけだから、こんなことをしでかした狂人が熱に浮かされて踊るように丘のてっぺんに上り、自分が破壊したものを見下ろしている可能性も思い浮かんだのである。だがここで破壊したのは石像だけではなかったのだ。

 ようやく庭の小径に姿を現して明るいところで顔形を見ると、ゆっくりどころかのんびり歩いていて、恐れている様子などなかった。

「恐ろしいことだな。上から見えた。尾根伝いにぶらついていたんだが」

「殺されるのが見えたというのでしょうか?」マーチがたずねた。「あるいは事故の瞬間を? 言いかえるなら、石像が倒れるのを見たのでしょうか?」

「そうじゃない」とアーチャーが答えた。「石像が倒れているのが見えたんだ」

 プリンスはあまり気に留めていないように見えた。死体から一、二ヤード離れた小径上の物体に目を奪われている。見たところ先端の曲がった錆びた鉄の棒らしい。

「一つわからないことがある」プリンスが口を開いた。「この血だよ。頭蓋骨を砕かれたわけじゃない。おそらく首が折れたんだろうね。ところが動脈でも切断されたように血が噴き出したありさまだ。何かほかの凶器を使ったんだろうか……例えばあの鉄の棒のような。だがあれだってそれほど鋭くは見えないな。あれが何なのか誰もわからないだろうね」

「私にはわかる」低いが震えを帯びた声でアーチャーが答えた。「何度も悪夢に見ていたからな。台座の留め金か支え具だ。あの石像がぐらつき出した際にまっすぐ立てておくために取り付けたんだろう。いずれにしてもあの石ころに取り付けてあったのが、倒れたときに飛び出したんだろうね」

 プリンス博士は頷いたものの、なおも血だまりと鉄の棒を見つめ続けていた。

「まだまだ隠れた事実があるはずだが」ようやく口を開くとそう言った。「それも像の下に隠れていそうだ。直感のようなものだがね。ここには四人いるし、協力すればこの大きな墓石を持ち上げられる」

 四人が力を合わせて取りかかった。深く息を吐く音のほかは何も聞こえない。やがて、八本の足がぷるぷるよたよたしたかと思うと、大きな石像の柱が転がり、シャツとズボン姿の死体がすっかり現れた。プリンス博士の眼鏡が大きな目のように控え目に輝き、大きく見開かれたようにも見えたのは、死体のほかにも現われたものがあったからだ。一つは、不幸なヒューイットの喉に深い切り傷が走っていることであり、わが意を得たとばかりに博士がすぐに確認したところ、その傷は剃刀のような鋭い刃物でつけられたものであった。もう一つは、土手のすぐ下に一フィート近くあるぴかぴかの鉄片が三つ落ちていたことであり、先端は尖っており、反対側は豪華な宝飾の施された柄か持ち手に収まっていた。見たところ東洋のナイフの一種であって、それも剣と言っていいほどの長さであったが、不思議なことに刃は波打っており、血が一、二滴ばかり付着していた。

「もっと血がついていると思ったんだが、先端にはほとんどない」プリンス博士は考え込んでいた。「だがこれが凶器で間違いないだろう。傷口がこういう形の刃物でつけられたのは間違いないからね。ポケットを切り裂くのにも使われたものだと思う。石像を倒したのは、公葬でもしてやったつもりなんだろう」

 マーチには答えられなかった。奇妙な剣の柄の上で輝いている奇妙な石群に魂を奪われていたのだ。このことがいったい何を意味しうるのかが、不快な夜明けのようにじわじわとマーチの心に広がっていた。珍しい東洋の武器。記憶のなかで、ある名前が珍しい東洋の武器と結びついていた。ジェイムズ卿がマーチの代わりに胸の裡を口に出したが、不適切なことを聞きでもしたようにマーチはどきっとした。

「総理はどこだ?」唐突にヘリーズが声をあげた。どういうわけか、犬が何かを見つけて吠えているようだった。

 眼鏡と険しい顔をヘリーズに向けたプリンス博士の顔は、かつてなく険しかった。

「どこにもいなかった。書類がなくなっているのに気づくと、すぐに総理を探したんだ。君の使用人のキャンベルがてきぱきと探したんだが、手がかりなしだ」

 長い沈黙を終わらせたのは、ヘリーズがふたたびあげた吠え声だったが、声の調子はまったく違っていた。

「いや、もう探す必要はないな。フィッシャー君と一緒にやって来る。徒歩旅行してきたみたいななりだな」

 二つの人影が小径を近づいて来る。確かに一つはフィッシャーの姿であり、旅してきたように泥の跳ねをつけ、禿頭のわきには茨でひっかいたような傷が伸びていた。そしてもう一つの人影は、赤ん坊じみた外見をして東洋の剣と騎士道に目がないあの偉大な胡麻塩頭の政治家のものであった。だがこうして肉体的に目の当たりにしているということを除けば、その物腰や態度がマーチにはまったく理解できなかった。悪夢の仕上げにちょいとナンセンスを振りかけられたようだった。探偵が発見したことに耳を傾けている二人をさらに近くで確認したところ、二人の態度を見てさらに混乱することになった。フィッシャーは叔父の死を悲しんではいるようだが、ほとんどショックを受けていないように見える。首相の方はあからさまに何かほかのことを考えているようだ。盗まれた文書が恐ろしく重要であるわりには、逃走した人殺しのスパイを追跡させるようなことは二人ともそれ以上何もしなかった。電話をかけたり報告書を書いたりするために博士がせわしなく立ち去り、ヘリーズがおそらくブランデーの壜を取りに戻ったころ、首相は庭の片隅にある心地よさげな肘掛椅子の方にゆったりと歩いていたし、ホーン・フィッシャーはハロルド・マーチに話しかけていた。

「ただちに一緒に来てもらえませんか。一緒に来てもらえるほど信用できるのはあなただけなんです。まる一日近く旅することになるでしょうが、重要な出来事は夕暮れになるまで行われることはないんです。ですから道すがらたっぷり議論する時間はある。でも一緒にいてもらいたいんですよ。大事なとき、だと考えていますのでね」

 マーチとフィッシャーは二人ともバイクに乗った。旅の前半は東に向かって海岸沿いに進むことで費やされた。不愉快なエンジンが会話もできないほど音を立てている。だがカンタベリーを過ぎ東ケントの湿地帯に出たところで、フィッシャーは小ぎれいなパブに立ち寄った。かたわらによどんだ小川が流れている。二人は腰を下ろして飲み食いし、話をすることにした。その日初めてと言ってもいい。きらめく昼下がり、裏の森では鳥たちが歌い、太陽が椅子とテーブルに降り注いでいた。だが強い陽光に照らされたフィッシャーの顔は、見たこともないほど重苦しかった。

「ここから先に進む前に、知っておいてほしいことがあるんです。私たち二人は、これまでに何度か不思議な出来事に遭遇し、その真相を突き止めてきましたね。だからあなたがこの事件の真相を知るのも当たり前のことに過ぎません。しかし叔父の死に関しては、これまでの探偵譚の発端とは異なるところで始めなければなりません。お聞きになりたければ、これから推理の過程をお話しするところですが、演繹的推理によって真実にたどり着いたわけではありませんでした。何よりも最初にずばり真実をお伝えしましょう。というのも、最初から真実を知っていたからです。これまでの事件では外側から取り組んでいましたが、この事件で私がいたのは内側でした。私自身がすべての中心だったんです」

 フィッシャーの垂れたまぶたと重苦しい灰色の目に宿る何かが、不意にマーチを揺るがせ、取り乱して声をあげていた。「理解できない!」理解するのを恐れている人のあげる叫びに似ていた。幸せそうな鳥のさえずり以外は何一つ聞こえないなか、やがてホーン・フィッシャーが静かに口を開いた。

「叔父を殺したのは私です。さらに詳しい話をお望みなら、叔父から公文書を盗んだのも私です」

「フィッシャー!」マーチが絞り出すような声をあげた。

「お別れする前にすっかり説明させてください。これまでの事件を説明してきたように、はっきりさせるために説明させてくれませんか。この事件には謎が二つありましたね? 一つは、石の魔物で地面に釘づけにされてしまった死体から、犯人はどうやってコートを脱がしたのか。もう一つはさほど重要でもなくそれほど謎めいてもいませんが、喉をかき切った剣には刃にべっとり血がついているはずなのに、先端にわずかだけしかなかったという事実です。そうですね、最初の疑問は簡単に片づけられます。ホーン・ヒューイットは殺される前に自分でコートを脱いだんです。殺されるためにコートを脱いだと言ってもいいでしょう」

「今のが説明だというんですか?」マーチが声をあげた。「事実よりも言葉の方が無意味に思えます」

「では、別の事実に移りましょうか」フィッシャーの態度は変わらなかった。「あの特殊な剣の刃がヒューイットの血で汚れていなかったわけは、ヒューイット殺しに用いられてはいないからです」

「でも博士が」とマーチが反論した。「あの特殊な剣でつけられた傷痕だと断言したんですよ」

「申し訳ありませんがね、あの剣そのものでつけられたとは言いませんでした。ああいった特殊な形の剣でつけられたと言ったのです」

「でもずいぶん変わった珍しい形のものなのに」マーチは譲らなかった。「馬鹿馬鹿しすぎて話になりませんよ、偶然の一致にもほどがある!」

「馬鹿馬鹿しすぎる偶然の一致なんですよ」とホーン・フィッシャーが答えた。「ときどき起こるような驚くべき偶然の一致だったんです。世に稀な偶然で、万に一つの偶然で、まったく同じ形をした剣がもう一つ、同じ庭に同じ時間に存在していたんです。二つの剣を庭に持っていったのは私自身だという事実から、どういうことなのかある程度わかるのではありませんか……さあ、何を意味するのかわかったはずです。二つの事実を組み合わせてください。生き写しの剣が二つあり、コートを脱いだのは本人でした。厳密に言えば私は暗殺者ではないという事実を思い返してもらえば、推理の一助になるのではありませんか」

「決闘だ!」マーチは我に返って叫んだ。「当然考えるべきでした。でもそうすると、書類を盗んだスパイは誰だったんです?」

「私の叔父が、書類を盗んだスパイでした」フィッシャーは答えた。「いえ、書類を盗もうとしたスパイだったのを、私が止めたんです――私にできることは一つしかありませんでした。仲間たちの安心のため西まで送られて侵略を阻止するための計画を伝えるはずだった書類が、わずか数時間後には侵略者の手に渡ってしまいそうだったんです。どうすればよかったでしょう? 仲間の一人を告発したとすれば、あなたの友人アトウッドや、あらゆるパニックや圧力に付け込まれることになっていたでしょう。それに、四十過ぎの男には潜在的に生きて来た通りに死を願う気持があって、私はある意味で墓まで秘密を抱えて行きたかったのかもしれません。好きなことは年とともに譲れなくなるものなんでしょうね、私の好きなことは沈黙でした。母の兄弟を殺しはしましたが、母の名は守ったと感じているのかもしれません。いずれにしても、あなた方が確実に眠っていて、叔父が一人で庭を歩いているころを見計らったんです。月明かりにたたずむ石像がすべて見えました。自分も石像の一つになって歩いているようでした。私は自分のものとは思えない声で叔父の裏切りを告げて書類を要求しましたが、叔父に断られると二本ある剣の片方を無理矢理に叔父の手に押しつけました。総理が確認用に送らせていた見本のなかにあったものです。ご存じのように総理は収集家ですから。同一の武器の組み合わせはそれしか見つからなかったんです。不快な話は手短に済ませるとして、ブリタニアの石像の前の小径で私たちは決闘しました。叔父は非常に力の強い人でしたが、私には多少なりとも腕がありました。叔父の剣が私の額をかすめるのと、私の剣が叔父の首の付け根に深々と突き刺さったのは、ほぼ同時でした。ポンペイウスの像に倒れかかったカエサルのように、叔父は石像に倒れかかって、鉄の支えにしがみつきました。叔父の剣はすでに折れていました。致命傷から流れる血を目にした瞬間、ほかのことは何も見えなくなりました。私は剣を落とし、叔父を助け起こすつもりだったのでしょうか、走り出していました。叔父に向かって屈み込んだとき、何かが起こりましたが、あまりに急なことで何が何なのかわかりませんでした。鉄の支柱が錆びてもろくなっていたために叔父の手でもぎ取られたのか、叔父が猿のような馬鹿力で岩から引きちぎったのかはわかりません。いずれにしても支柱は叔父の手のなかにあり、私が武器も持たずに傍らにひざまずいたとき、叔父は瀕死の力を振り絞って私の頭越しにそれを放り投げました。慌てて顔を上げてぶつかるのを防ごうとしたとき、ブリタニアの巨像が船首像のように傾いているのが見えたんです。直後に石像はいつもより一、二インチ傾き、星の輝く全天が石像ごと傾いているように見えました。ついに石像は空が落ちるように倒れました。最終的に私は静まりかえった庭に立ち尽くして、倒れた石と骨の残骸を見下ろしていたんです。それはご覧になった通りです。叔父がブリテンの女神をぎりぎりで支えていた支柱をもぎ取ってしまったために、女神は倒れて売国奴を押しつぶしたんです。私は振り返ってコートに駆け寄りました。包みが入っているのはわかっていましたから、剣で引き裂き、小径を駆け上がって路上に停めてあるバイクのところまで急ぎました。慌てるのも当然ではありましたが、私は石像も死体も振り返らずに逃げ出して、恐ろしく象徴的な光景から逃げ出していたことに気づきました。

「まだやらなければいけないことが残っていました。一晩が過ぎ、日の出になり日が昇り、南イングランドの町や市場を弾丸のようにぶんぶん飛ばして、ようやく問題の西の本部にたどり着きました。ぎりぎり間に合いました。つまり政府は裏切ってはいない、敵を東に追い込めば救援があるという報せを現場に告知することが出来たのです。すべてをお話しする時間はありませんが、私にとって記念すべき日だったことは申し上げておきます。たいまつ行列のような凱旋でした。そのたいまつがもしかすると抗議デモの火だった可能性だってあったのですからね。暴動は鎮まりました。サマセットや西部地区の人々が市場に押し寄せました――アーサーとともに死に、アルフレッドとともに耐え忍んだ人々です。アイルランド軍がそこに集まり暴動のような光景になったあと、フィニア団の歌を歌いながら東に向かって行進し始めました。あの人たちの暗い笑いのことはよくわかりません。イングランドを守るためイングランド人と行進しているときですら、大喜びで声を限りに叫んでいたんです。『絞首台の上高くに、気高き三人が立てり……イングランドの非情な縄がかけられて』。その歌は『ゴッド・セイブ・アイルランド』だというのに、どんな意味であれ、そのときの私たちにはそれを歌うことができたんです。

「けれど私の使命にはもうひとつの側面がありました。防衛に奔走しながら、大いに幸運なことに、攻撃にも奔走していたのです。こまごまとした戦略をお話ししてわずらわすつもりはありません。しかし敵がどこに大砲隊を押し進めて軍隊の動きをカバーするのはわかっていました。西の同胞が本隊の迎撃に間に合いそうもなくても、場所を正確に知っていさえすれば、砲の射程距離内に入り爆撃することはできるんです。それが向こうにわかるとは思えないので、誰かがこの辺りで合図を打ち上げないといけません。けれどどういうわけか、誰かがやるに違いないと思うんです」

 そこでフィッシャーがテーブルを立ち、二人はふたたび車にまたがり、深まりゆく夕闇に向かって東へと進んだ。どこまで移動しても景色には平べったい雲の切れ端が浮かんでいて、昼間の名残の色が地平線を囲むようにしがみついていた。はるか後ろを見下ろさないと丘の半球などなく、遠くに霞む水平線が見えたのはずいぶんと突然のことであった。日射しの強いベランダから見たような青く輝く帯ではなく、不吉にくすんだ紫の、不気味で陰気な色合いの帯だった。ここでホーン・フィッシャーはふたたび車を降りた。

「ここから先は歩かなくてはならないんです。それに最後には私一人で歩かなくては」

 フィッシャーは屈みこんでバイクから何かをほどき出した。もっと気になることがいくらでもあったというのに、道々マーチを不思議ららせていたものだった。見たところでは、さまざまな長さの棒を紐でひとくくりにして紙でくるんだもののようだ。フィッシャーはそれを脇に抱えて草むらを慎重に進んでいった。地面はどんどんぐちゃぐちゃででこぼこになってきたが、フィッシャーは茂みや木立の方を目指して歩き続けた。夜は刻一刻と闇を増していた。

「もう何も話してはなりません」フィッシャーが言った。「止まってほしいときには小声でお伝えいたします。ついてこようとしてはなりません、ショーを台無しにするだけですから。一人の人間が目的地まで匍匐して無事にたどり着ける可能性もほとんどないのですから、二人なら確実に見つかります」

「どこにだってついていくつもりですが」マーチが答えた。「でも止まれと言われるなら止まるつもりです」

「そうしてくれるのはわかってますよ」フィッシャーが小声で言った。「私がこの世で完全に信頼したのはあなただけだったと思います」

 さらに歩みを進め、曇った空を背にした怪物のような大きなうねか小山の端にたどり着くと、フィッシャーが止まるように合図した。マーチの手を取り荒々しいほどの優しさを込めて握りしめると、暗闇に向かって飛び込んでいった。うねの陰に隠れて腹這いに進む人影がかすかに見えたが、すぐにそれも見えなくなり、やがて二百ヤードほど離れた別の小山に立ち上がっているのが見えた。そばに二本の棒のようなものでできた物体が立っているのも見える。フィッシャーがそこに屈みこむと、光が燃え上がった。マーチは少年時代の記憶に揺り動かされ、その正体を知った。打ち上げ台だ。荒々しいが懐かしい音が響いた瞬間も、まだ記憶はぐちゃぐちゃにもつれたままだった。のろしは止まり木を離れた直後、星を狙って放った星製の矢のように、果てしない空間のなかを上昇した。不意にマーチはこれが最後の日のしるしであると感じ、審判の日のような黙示録の流星を見ているのだと気づいた。

 尽きることなき天に放たれたのろしが頭を下げ、赤い星々に向かって飛び込んでいった。その瞬間、周囲に海を臨み後ろに木々の生えた丘の半円を従えた景色のすべては、ルビー色の異様に濃くまばゆい赤い光をたたえた湖のようだった。まるでこの世が血よりも赤いワインに浸されでもしたような、あるいはここが地上の楽園で、真っ赤な朝焼けのまま時間が永遠に止まりでもしたかのようだった。

「神よ英国を守りたまえ!」トランペットが轟くような叫び声だった。「そして神のために守らん」

 暗闇がふたたび陸地と海に降りると、また別の音が聞こえた。背後にある山道の遠くで、猟犬が吠えるように銃器が声をあげた。のろしとは別の何かが、囁くどころか金切り声をあげ、ハロルド・マーチの頭上を越えて丘の向こうの光と轟音のなかにまで突き進み、脳を揺るがすような耐え難い音を轟かせた。それは次、また次と訪れ、世界が混乱と熱い蒸気と混沌とした光に満ちた。敵軍の居場所を知った西部地方とアイルランドの砲軍が、猛攻撃を仕掛けているのだ。

 当座の狂気の中で、打ち上げ台のそばに立っているひょろ長い人影を探そうと、マーチは爆撃に目を凝らした。新たな閃光が尾根中を照らす。そこに人影はなかった。

 狂ったように興奮しながら、マーチは爆風に目を凝らし、打ち上げ台のそばに立っているひょろ長い人影を目にしようとした。新たな閃光がうね全体を照らした。そこに人影はなかった。

 のろしの火が空から消えてしまう前、遠くの丘から砲撃が聞こえ始めるずっと前、ライフルの射撃が敵の塹壕からいたるところでちかちかと瞬くよりずっと前。うねのふもとの暗がりに、落ちたのろしの棒のように動かないものが横たわっていた。知りすぎていた男は、知るに足ることを知っていたのだ。


"The Man Who Knew Too Much" Gilbert Keith Chesterton -- VIII 'The Vengeance Of The Statue' の全訳です。


Ver.1 03/06/22
Ver.2 03/07/21
Ver.3 04/01/07
Ver.4 10/06/04

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訳者あとがき

 
 

[更新履歴]
 ・10/03/13 ▼冒頭の5段落。

 ・10/04/10 隠れ家に合流まで。▼「Did you think there was nothing but evil at the bottom of them?」の訳が「いったい私の頭の中に何があると思ってるんです?」と意味不明だったので、「あの人たちが根っから邪悪なだけの人間だと思っているんですか?」に訂正。▼「Did you think I had found nothing but filth in the deep seas into which fate has thrown me?」の部分も「私を襲った深い運命の海に、ゴミ以外の何が見つかると思ってるんです?」と正反対の意味になっていたので、「私が運命によって放り込まれた深い海のなかに、腐敗しか見つからなかったと思っているんですか?」に訂正。▼「t does not dispose of their strange human souls to know that they were exhibited to the world as impossibly impeccable wax works, who never looked after a woman or knew the meaning of a bribe.」もおかしなことになっている。この「dispose of」は「処分する」ではなく「保有する」かな。「女を囲うこともせず賄賂の意味も知らない、そんな完全無欠の蝋人形みたいに世間に思われていると知ったからといって、人間らしい愚かな魂を売り渡したりしませんよ。」ではなく、「女を求めたりもせず賄賂の意味も知らないような、ありえぬほど完璧な蝋人形として世間に公開されたことを知ったからといって、あの人たちが風変りな人間らしい魂をなくするわけじゃありません。」に変更。▼どうも「alertness」=「油断なさ」→「慎重さ」→「丁寧でゆっくり」と変な連想が働いてしまったらしい。「それから突然フィッシャーが跳ね起きると、かつてないほどゆっくりとしたなかにも荒々しさを見せながら帽子とステッキを手にした」から「やがてフィッシャーはぴょこんと立ち上がり、帽子とステッキをつかんだ。その動きはこれまで見たこともないほど素早いうえに荒々しかった。」に変更。

・10/05/08 敵が上陸?〜刀剣の持ち主まで。▼全体的に時制がめちゃくちゃだったので、正す。▼鉄片が三つあって、「one pointed and another fitted into a gorgeously jeweled hilt or handle. 」なのだから、「一つ」と「もう一つ」でないのは明らかで、「先端は尖っており、反対側は豪華な宝飾の施された柄か持ち手に収まっていた」に訂正。

・10/05/22 フィッシャー真相を語るところまで。▼「would in a few hours have been in the hands of the invader.」のところは仮定法なので、「たった数時間で侵略者の手に渡ったのです」→「わずか数時間後には侵略者の手に渡ってしまいそうだったんです」に訂正。▼「Anyhow, I chose a time when I knew you were all asleep, and he was walking alone in the garden. 」の部分がおかしな訳になっていて「とにかく、気づいたときにはあなた方は眠っていたし、叔父は一人で庭を歩いていたのです」だったので、→「いずれにしても、あなた方が確実に眠っていて、叔父が一人で庭を歩いているころを見計らったんです」に訂正。

・10/06/04 改訳終了。

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