男と老人が馬車の中で話をしている間、外ではこんなことが起こっていた。
前の二頭が雷に打たれ、後ろの二頭が棒立ちになり、二輪馬車の女が気絶したことは既に述べた。
女はしばらく意識を失っていたが、恐ろしさのあまり気が遠くなっただけだったので、やがて人心地を取り戻し始めた。
「嗚呼! 独りぼっちで助けもなく、手を差し伸べてくれる人もいやしない」
「失礼」おずおずとした声が聞こえた。「僕がいますよ。何か出来ることがあればいいのですが」
耳元近くで響いたその声を聞き、女が身体を起こして頭と腕を二輪馬車の革カーテンから覗かせると、目の前の昇降段に若い男が立っていた。
「今のはあなた?」
「ええ、そうです」
「助けてくれるの?」
「ええ」
「それよりまず何が起こったの?」
「雷がそばに落ちたんです。そのせいで前の二頭の引綱が切れ、馭者を乗せたまま何処かへ行ってしまいました」
女はありありと不安を浮かべて周りを見渡した。
「それで……後ろの馬を御していた人は?」
「馬車の中に入りました」
「その人の身に何か起こってはいない?」
「何にも」
「本当に?」
「少なくとも馬から飛び降りた様子では五体満足に見えました」
「よかった!」
女は先ほどより躊躇いなく息を吐いた。
「そうするとあなたは何処にいたの? こんなに折よくここにいて助けてくれるなんて?」
「嵐に遭って、そこの陰になっている石切場の入口に避難していたら、馬車が凄い勢いで走って来るのが見えたんです。初めは馬が暴れているのかと思いましたが、そうではなく、むしろ暴れるのを懸命に御しているのがわかりました。その時、凄まじい音を立てて雷が落ちたのを聞いて、自分が打たれたのだと思い、しばらく動くことも出来ませんでした。こうしてお話ししている出来事も、すべて夢で見たようにぼんやりしているんです」
「では後ろの馬を御していた人が馬車の中にいるのもはっきりしないの?」
「そんなことはありませんよ。その頃には我に返って、中に入るのはしっかりと見ましたから」
「お願い、今もいるか確かめてほしいの」
「どうやって?」
「耳を澄ませてみて。馬車の中にいるのなら二人の声がするはず」
若者は昇降段から飛び降り、後部馬車の外壁に近づき耳を澄ませた。
「聞こえます。中にいますよ」
女は「ありがとう!」とでもいうようにうなずいたが、そうしながらも夢想にでも耽っているように、片手に頬を預けているままだった。
その間に若者は女を観察することが出来た。
二十三、四の若い女で、浅黒い顔をしていたが、そのくすんだ顔色も鮮やかな薔薇色や桃色などより遙かに麗しく美しかった。美しい青い目が、まるで問いかけるように空を見つめ、二つの星のように輝いている。黒髪は流行に反して髪粉もつけずに伸ばしており、漆黒の巻毛がオパールの如き色合いの首筋に垂れかかっていた。
やにわに心が決まったようだ。
「ここはどの辺りになるのかしら?」
「街道のどの辺り?」
「ピエールフィットから二里ですね」
「ピエールフィット?」
「村ですよ」
「ピエールフィットの先は?」
「バル=ル=デュック」
「町ね?」
「その通りです」
「人は多い?」
「四、五千人だと思います」
「バル=ル=デュックまでもっと近道できるような岐路はない?」
「ありません。少なくとも僕は知りません」
「
まだ質問がありやしないかと思って念のため待っていたのだが、女が何も言わぬままなのを見て、若者は二、三歩ばかり立ち去りかけた。
それで女は夢想から醒めたらしく、二輪馬車の前にある窓に駆け寄った。
「待って!」
若者が振り返る。
「ここにいますよ」と答えて近寄った。
「よければ、もう一つたずねたいことがあるの」
「どうぞ」
「馬車の後ろに馬が繋がれていたでしょう?」
「ええ」
「今もそこに?」
「いいえ。車内に入った方が、ほどいて車輪に結び直していました」
「馬の身にも何も起こってないのね?」
「多分そうでしょう」
「とても大事で可愛い馬なの。無事な姿をこの目で確かめられればいいのだけれど。でもこんな泥の中、馬のところまで行けっこないし」
「それなら僕が馬をここに連れて来ますよ」
「助かるわ! そうしてくれる? 恩に着るわ」
若者が馬に近づくと、馬は頭をもたげいなないた。
「心配しないで。子羊みたいにおとなしいんだから」
そう言って声を落とした。
「ジェリド! ジェリド!」
それが主人の声だと気づいたのであろう、馬は鼻から湯気を立て賢そうな顔を二輪馬車の方に向けた。
その間に若者が綱を解いていた。
だが馬は繋索を持っているのが知らない人間だと気づき、すぐさま体躯を震わせ手から逃れ、一跳びで後部馬車から遠く離れた。
「ジェリド!」女はさらに優しい声を出した。「ジェリド! いらっしゃい!」
アラブ馬は美しい頭を揺すり、大きく息を吸い込むと、拍子でも取るように前脚で地面を掻きながら、二輪馬車に近づいて来た。
女がカーテンから身体を乗り出した。
「ほらジェリド。こっちへ来なさい!」
馬は言われた通りに頭を差し出すと、その頭を撫でるかのように女の手が差し出されていた。
と、女はその華奢な腕で鬣をつかみ、二輪馬車の泥よけを手がかりにして、ひらりと鞍に飛び乗った。ドイツの昔話に出てくる、馬の尻に飛びついて旅人のベルトにしがみつく化物のような身のこなしだった。
若者が駆け寄って来たが、女は来るなというように手を上げた。
「お願い。あなたは若いけれど……違うわね。若いからこそ、思いやりを持たなくては。だから止めないで。逃げはするけど、あの人のことは愛してる。でも私は敬虔なローマン・カトリックなの。これ以上一緒にいては魂を蝕まれてしまう。あれは無神論者の降霊術師。神が雷を鳴らして教えてくれた。あの人もその警告を活かしてくれればいいけど。今言ったことを伝えてくれる? 助けてくれて感謝するわ。ご機嫌よう!」
女はそう言い残すや、湖沼にたなびく靄の如く軽やかに、ジェリドに乗って全力で走り去り、姿を消した。
若者はそれを見て、思わず驚きの声をあげていた。
これが即ち、車内まで聞こえて来た前述の声であり、旅人の男が注意を引かれた声だったのである。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre III「Lorenza Feliciani」。初出『La Presse』紙、1846/06/04、連載第4回。
Ver.1 07/12/15
Ver.2 12/09/12
Ver.3 14/06/29
[訳者あとがき]
・メモ 実際のロレンツァは色白・栗色の髪だったらしい。
[更新履歴]
・12/09/12 「à ce mot, légère comme ces vapeurs」。「légère」は「言葉」に掛かっているのではなく「彼女」に掛かっているので、「湖沼にたなびく靄の如き軽い言葉と共に」→「女はそう言い残すや、湖沼にたなびく靄の如く軽やかに」に訂正。
・14/06/29 勘違いしていたが、最後になるまでロレンツァはまだ馬車の外に出ていないので、それに沿って本文を訂正した。
「garder les cheveux longs」=「髪を伸ばしておく」なので、「et ses cheveux noirs, qu'elle gardait sans poudre malgré la mode du temps,」を、「黒髪は流行に反して髪粉もつけずに留められており、」 → 「黒髪は流行に反して髪粉もつけずに伸ばしており、」に訂正。