この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第六章 アンドレ・ド・タヴェルネ

 ジョゼフ・バルサモの観察眼にかかれば、ロレーヌの片隅でひっそりと暮らすこの一家を知り抜く材料には事欠かなかった。

 塩入れ一つ取ってもタヴェルネ男爵の人間性の一端はすっかり明らかであった。否、端々まですっかり明らかであった。

 それゆえ、バルサモは持てる感覚のすべてを凝らして、ナイフの先で銀細工に触れた瞬間のアンドレの顔を観察した。何しろ摂政の夜食の席から抜け出て来たような、夜食の後にカニャックが蝋燭を消しに来そうな画題であった。

 同じように、洞察力の限りを尽くしている時に、銀器にナイフの先が触れたので、アンドレの顔をじっくり観察した。それにつけても摂政の晩餐から抜け出て来たような銀細工であった。晩餐の後に蝋燭を消すのはカニャックの仕事だった。

 バルサモを突き動かしていたのが好奇心なのかどうかはともかく、数分の間に二度も三度も眺めまわしていたのでは、アンドレと目が合うのも当然のことだった。初めのうちこそアンドレは戸惑いもせず視線を受け止めていたが、男爵がニコルの労作を切り刻んでいる間にも、じっと見つめる熱い眼差しは耐え難いほどになっており、頬に血が上りそぞろになり始めた。やがて自分がその超人的な視線に狼狽えていることに気づき、果敢にも今度はこちらからバルサモ男爵の大きな瞳を睨み返してやろうとした。だが勝負は初めからついていた。バルサモの眼から放たれた燃えるような磁力の波に襲われて、恐る恐る瞼を伏せてしまうと、もやは上げることは躊躇われた。

 一方、アンドレと謎の旅人が無言の戦いを交わしている中、男爵はすっかり田舎領主ぶりをさらけ出して唸ったり笑ったり愚痴をこぼしたり罵ったり、ラ・ブリをつねったりしていた。苛立ちに耐えかねた男爵が何かつねってやろうとした時、たまたまそばにいたのがラ・ブリの不幸であった。

 恐らくニコルにも同じことをしようとしたのだろう。男爵の目がようやく若い小間使いの手に注がれた。

 男爵は美しい手を愛でていた。若者じみた愚かな振舞もひとえに美しい手あってのものだ。

「ほれ、綺麗な指をしておる。反り返らんばかりに尖った見事な爪じゃ。薪を割っても壜を洗っても鍋を磨いてもそのつのがすり減らなければ、世界一の美しさじゃろうに。わかるか、おんしの指の先についているのはまさしく角なのだぞ、ニコル」

 ニコルは男爵からお愛想を言われるのに慣れていなかったため、いい気になるより驚いて、半笑いで見つめ返した。

「よいよい」男爵もニコルの心をよぎった感情に気づいた。「どんどん見せつけてくれ。――おっと! 忘れておりました。バルサモ殿、これなるニコル・ルゲはアンドレのような淑女ではありませんし、世辞に恐縮するような女でもありませんぞ」

 バルサモがアンドレ嬢に素早く一瞥をくれると、その美しい顔には軽蔑が露わになっていた。自分もこの娘に合わせた方がいい。バルサモの表情に気づいたアンドレも、どうやらそれが気に入ったようだ。先ほどまでと比べると眼差しから硬さが――いや恐れが抜けていた。

「よいですか」男爵はニコルの顎を手の甲で撫でながら話を続けた。どうやらその晩はニコルを可愛いと思うことにしたようだ。「このあばずれがアンドレ同様に修道院の出で、教育を受けたも同然などと信じられますか? さよう、ニコル嬢は主人から片時も離れなかった。かかる者どもにも魂があると主張しておる哲学者諸賢なら、歓喜にむせび泣くような忠義ぶりです」

 アンドレが口を挟んだ。「ニコルが離れなかったのは忠義からではなく、わたくしがそう命じたからです」

 無礼なまでに尊大な主人の言葉をどう受け取ったのかと、バルサモがニコルに目を向けると、わなわなと口唇を震わせ、使用人であるがゆえの屈辱に平気ではいられないように見えた。

 だがそんな表情は稲光のように瞬時に消え去った。恐らくは涙を隠そうと顔を逸らして、庭に面した窓に目を向けた。バルサモは何一つ見逃すつもりはなかった。招き入れられた舞台の中で自分に益する何かを探しているかのようだった。もう一度言おう、バルサモは何一つ見逃さなかった。つまりニコルの視線を追って、窓の外にニコルの気を引いたものを――人の顔を見たように思った。

 ――実際問題、この家は面白いことばかりだな。どいつもこいつも秘密を抱えてやがる。願わくば一時間もしないうちにアンドレ嬢の秘密を知りたいものだ。既に男爵の秘密はわかったし、ニコルのも見当はつく。

 物思いに沈んでいたのはほんの一瞬だったが、男爵は見逃さなかった。

「あなたも夢うつつですな。せめて夜まで待って下さらんか。夢には感染力がある。この家にはびこる病です。数えてみましょう。まずはアンドレ。それからニコル。このヤマウズラを獲って来た役立たずに至っては、四六時中夢ばかり見ておる。さだめしこの鳥を撃った時にも夢を見ていたのでしょう……」

「ジルベールですか?」

「さよう! ラ・ブリ同様の思想かぶれです。思想かぶれといえば、もしやお仲間ではあるますまいな? おやおや! 申し上げておきますぞ、わしは思想家連中と仲良くする気など……」

「心配ご無用。是も非もない。彼らのことなどさっぱりですから」

「それはご賢明な! 奴らは害虫ですからな。見た目以上に腐りきっておる。王制を亡きものにせんと旗印を掲げておる。フランスからは笑いが消えました。誰も彼もがものを読む。このうえいったい何を読むのかと思えば、こんな言葉の数々です。『王制の下に立つ所の人民をして有徳のものたらしむるは極めて難し』。『そもそも王制なるものは国民の品位を貶め隷属させんがために考案されたる政体に過ぎず』。まだありますぞ。『王権を生みたる親が神ならば、人類の諸病と災禍もまた然り』。気晴らしにこんなものを読んでおる! 有徳の人民ですと! そんなものが何の役に立つというのです? 教えていただきたい。陛下がヴォルテールにお言葉をかけ、ディドロをお読みになってからというもの、何もかもが狂ってしまいました」[*1]

 この時、またも窓ガラスの向こうに、先ほどと同じ青ざめた顔が見えたように思われた。だがバルサモが見つめるとそれも消えてしまった。

「お嬢さんは思想家ですか?」バルサモは笑みを浮かべてたずねた。

「思想家というのが何者なのか存じません。わたくしの知っておりますのはただ一つ、信頼できるものが好きだということです」

「わしに言わせれば、よい暮らしほど信頼できるものはないぞ。それを愛でるがよい」

「だがお嬢さんは人生に倦んでいるようにお見受けしますが?」

「状況次第ですわ」

「また馬鹿なことを。信じられますか? 伜も前に一字一句変わらぬ返事をしたのです」

「ご子息がおありでしたか」

「さよう、残念ながら。タヴェルネ子爵、王太子近衛騎兵中尉、立派なもんです!……」

 噛めるものなら噛んでやりたいとばかりに、男爵は歯ぎしりしながら最後の一言を吐き捨てた。

「それは何よりです」バルサモは一揖した。

「さよう、そのうえ思想かぶれですわ。正直これにはお手上げです。先日の話と来たら。黒ん坊に自由を、ですと。『では砂糖はどうなる? わしは甘い珈琲が好きなのだがな。ルイ十五世陛下も然り』『砂糖など何だというのですか。比べようがありませんよ、苦しんでいる人類を……』『類人猿か?』 わしはこれでも敬意を表しているのですぞ。すると伜は何と言ったと思います? どうやらおつむのネジをゆるめる毒でも空中に撒き散らされているに違いありませんな。すべての人間は兄弟であるとほざいたのですぞ! わしが土人と兄弟だと!」

「それはさすがにひどい」

「まったく、どう思いますか? 果報者とは言えませんかな? 二人の子供がいて、わしの面影を映すことも絶えてありますまい。娘は天使で、伜は使徒! さあもう一杯どうぞ……ひどい酒ですが」

「けっこうなお味ですとも」バルサモはアンドレを見つめながら答えた。

「ではあなたも思想家でしたか!……いやはや! 気をつけませぬと、娘に教えを説いてもらいますぞ。いやいや、思想にかぶれたお方たちは神を信じませんでしたか。だが宗教というのは便利なものですぞ。神や王を信じていれば、すべては御心のまま。昨今では、どちらも信じないせいで、数多のことを学び、数多の本を読むはめになっておりましょう。懐疑など抱かぬ方がよい。わしの若いころ学んだのは、せいぜい娯楽ぐらいでした。トランプのファロ、数合わせビリビ賽子投げパスディスを覚えたものです。王令に背き喜んで剣を抜いた。公爵夫人に散財させ、オペラ座の踊り子たちに散財させられた。それがこのわしの歴史です。タヴェルネのすべてはオペラ座に消えました。それだけが口惜しくて仕方ありません。何しろ文無しは人にあらず。ご覧の通り老いぼれて見えましょう? なにぶん文無しで侘住まい、鬘は擦り切れ時代遅れの服が一着ですからな。それに引き替え元帥をご覧なさい。最新の服がいくつもありますし、鬘はどれも繕われ、パリ暮らし、二十万リーヴルの年金があります。そのうえまだ若い。今なお若々しく血気盛んで元気に溢れていらっしゃる! わしより十歳は上だというのに。さよう、十歳ですぞ!」

「リシュリュー氏のことですね?」

「さよう」

「公爵の?」

「然り! 枢機卿ではないでしょうな。そこまで遡るつもりはありませんぞ。もっとも、枢機卿には出来なかったが甥には成し遂げられたこともあります。長生きです」[*2]

「驚いたな。あれほどのご友人がありながら、宮廷を離れたとは」

「何の! 形ばかりの隠居に過ぎませぬ。そのうち返り咲くつもりですぞ」男爵は謎めいた目つきを娘に送っていた。

 その眼差しが途中でバルサモに拾い上げられた。

「それはそれとして、元帥閣下のおかげでご子息も取り立てていただいたのでは?」

「伜ですか! 毛嫌いされておりますからな」

「ご友人の息子なのに?」

「当然のことです」

「だが、そうでしょうか?」

「さよう、思想家だからですよ!――思想家嫌いの方ですからな」

「でも嫌いなのはお互いさまですわ」何の感情も交えずにアンドレが言った。「ルゲ! 皿を下げて」

 窓から目を離さずにいたニコルが駆けつけた。

「はあぁ!」男爵が溜息をついた。「昔は夜中の二時までテーブルに着いていたものですがな。晩まで食べられるだけの金があった! 腹がくちくなってもまだ飲んでおった! しかし腹が満ちてもこんな安物どうやって飲めというのか……ルゲ、マラスキーノの壜を……まだ残っておればの話だが」

「そうなさい」アンドレがニコル・ルゲに命じた。ニコルはどうやら、アンドレの指示を待ってから男爵に従っているようだ。

 男爵は椅子に沈み込んで目を閉じると、重苦しい溜息を吐いた。

「リシュリュー元帥のお話でしたが……」バルサモは話題を変えたくなかったらしい。

「さよう、確かにその話でしたな」

 溜息と同じくらい重苦しい調べを口ずさんだ。

「仮にご子息が疎んぜられ、それが思想かぶれゆえのことであったとしても、あなたとはご友人のままのはずだ。あなたは違うでしょうからね」

「思想かぶれかどうかですかな? まさか、勘辨してくだされ!」

「いろいろと要求する権利ならお持ちのようだ。王軍に在籍していらっしゃったのでしょう?」

「十五年間。元帥の副官でした。マオンで共に戦ったのです。そもそもの始まりは……あれはそう……例のフィリップスブルクの攻囲戦のときですな。つまり一七四二年から四三年にかけて」

「成程! フィリップスブルクにいらっしゃったのですか……実は私も」

 老人は身体を起こし、目を見開いてバルサモの顔を覗き込んだ。

「失礼じゃが、お幾つでいらっしゃいますかな?」

「ははは! 私には年齢などないのですよ」バルサモはコップを差し出し、美しい手をしたアンドレにマラスキーノを注いでもらった。

 男爵はバルサモの返答を自分なりに酌み取り、年齢を明かしたくない理由があるのだろうと判断した。

「失礼ながら、フィリップスブルクに参加したようなお年には見えませんな。あれは二十八年前のこと。わしの目に狂いがなければ、せいぜい三十ほどとお見受けするが」

「違うとは言ってませんよ」気のない返事だった。

「いやはや! わしが三十を越えたのはちょうど三十年前のことですぞ」

 アンドレの目はバルサモに釘づけとなり、好奇心という抗いがたい魅力に引き込まれていた。何しろ、この男が目の前で次々と新しい光に照らされてゆくのは事実だったのだ。

「どうにも参りましたな。だが恐らく、お間違えになっているのでしょう。フィリップスブルクをほかの町と勘違いしておいでだ。やはり三十にしか見えません。そうじゃな、アンドレ?」

「その通りです」アンドレはバルサモの鋭い視線にまたも耐えようとしたが、やはり果たせなかった。

「とんでもない。自分の言ったことくらい承知してますよ。言った通りのことを言ったまで。確かにフィリップスブルクのことに相違ない。リシュリュー公爵閣下が従兄弟のリクサン公を決闘で斃した場所のことです。あれは塹壕から戻る時に、街道で起こった出来事でした。道の裏手、左側で、公爵の剣が真っ直ぐに身体を貫いたのです。私が通りかかったのは、デュ=ポン公の腕に抱かれて看取られている時でしたよ。塹壕の裏に坐り込んでいるデュ=ポン公を尻目に、リシュリュー殿は冷静に剣を拭っておりましたな」

「魂消ましたな! 本当に魂消ました。確かに仰る通りでした」

「話を聞いたことがおありでしたか?」バルサモは落ち着いていた。

「そこにおったのです。元帥閣下の、いやその時は元帥ではなかったが、立会人を担う栄誉に与りました。だがそんなことはどうでもよいではありませんか」

「まあお待ち下さい」バルサモが男爵を見据えた。

「というと?」

「当時あなたは大尉ではありませんでしたか?」

「いかにも」

「フォントノワで死闘を繰り広げた、王妃付き近衛軽騎兵隊に所属していらっしゃったでしょう?」

「あなたもフォントノワで息をしていた、というわけですかな?」男爵は冗談めかしてたずねた。

「否」バルサモの声はなおも落ち着いていた。「フォントノワで息を引き取ったのです」

 男爵が目を見開き、アンドレが身震いし、ニコルが十字を切った。

「話を戻しませんか。そうだ、確かにあの時あなたは近衛軽騎兵隊の制服を着ていました。決闘の間、ご自身の馬と元帥の馬を預かっていらっしゃいましたね。私が近づいて詳細をたずねると、あなたが教えてくれた」

「わしが?」

「あなたです。そうだ! あなただった。すっかり思い出しましたよ。士爵の肩書きをお持ちだったあなたは、小士爵プチ・シュヴァリエと呼ばれていらっしゃった」

「何と!」男爵は驚愕した。

「一目見て思い出せなかったとは、無礼をお許しください。ですが三十年経てば人は変わるものです。ではリシュリュー元帥に!」

 そう言ってバルサモはコップを掲げて飲み干した。

「つまり、つまりあの時わしに会ったと? あり得ぬ!」

「お会いしましたとも」

「街道で?」

「街道で」

「馬を繋いでおったと?」

「馬を繋いでいらっしゃった」

「決闘の時に?」

「申し上げた通り、リクサン公の息が絶えた時」

「しかしではあなたは五十代なのですかな?」

「三十年前にあなたに会えるだけの年齢ですよ」

 男爵は椅子に倒れ込んだ。その様子があまりに口惜しそうだったため、ニコルも笑い出したほどだ。

 だがアンドレだけはニコルのように笑いもせず、憑かれたようにバルサモを見つめていた。

 どうやらバルサモはこの瞬間を待ち、予期していたらしい。

 不意に立ち上がってアンドレに向かい二、三度、燃えるように瞳を閃かせると、アンドレが電気に撃たれたように痙攣を始めた。

 アンドレは腕を強張らせ首を捩らせ、無理に笑わされたようにバルサモに微笑みを見せてから、目を閉じた。

 立ったままのバルサモに腕を触れられると、再度びくりと痙攣した。

「お嬢さん。あなたも私を嘘つきだと思いますか? フィリップスブルクの戦いをこの目で見たと言ったばかりに」

「いいえ。信じましょう」そう口にするだけにも恐ろしい努力が必要だった。

「では法螺吹きはわしの方ですな。いや失敬! だがまさか幽霊や人魂ではありますまいに!」

 ニコルの目が見開かれた。

「ないとは言えますまい!」もっともらしいバルサモの口調に、ニコルはすっかり囚われてしまった。

「はてさて。真面目な話――」老人としては事実をはっきりさせようと考えたようだ。「あなたは三十過ぎなのですかな? とてもそうは見えませんが」

「では。信じられないようなことをお話ししても、信じていただけますかな?」

「それには答えられませんな」騙されぬとばかりに男爵は首を振ったが、アンドレの方は聞き逃すまいと耳をそばだてていた。「わしは疑り深い人間です。予めそう申しておきましょう」

「では無意味ではありませんか? 返答に耳を貸すつもりもないのに、おたずねになるとは?」

「なるほど! よろしい、信じましょう。それでご満足ですな?」

「それでは先ほどの言葉を繰り返しましょう。フィリップスブルクでは、あなたをお見かけしただけではなく、顔見知りにもなりました」

「するとまだ子供だったのでしょうな?」

「そうかもしれませんな」

「ほんの四、五歳でしたか?」

「否。四十一歳でした」

「それはそれは!」男爵の笑いがはじけ、ニコルもそれに和した。

「だから申し上げたでしょう。信じてはいただけないと」

「いやしかし、どうやって信じろと!……証拠をお見せ下され」

「わけはありません」困る素振りも見せずにバルサモは応じた。「あのとき四十一だったことは事実。ですがその私がこの私だったとは申しませんでした」

「ほう! 異教の話になりましたな! ギリシアの哲学者ではありませんでしたか――不様な哲学者どもが、いつの時代にも居坐っとりますが――魂が宿っているとほざいて空豆を口にしなかったギリシアの哲学者がおりましたな。伜によれば黒ん坊にも魂は宿っておるそうじゃが。何処から思いついたものやら。あれは……はて何という名だったか?」

「ピタゴラス」とアンドレが答えた。

「さよう、ピタゴラス。イエズス会の先生方から教わりました。ポレ神父には、ヴォルテールプチ・アルエ相手にラテン語の詩を書かされたりもしましたな。思い出してもわしの方がいい出来でしたぞ。ピタゴラス、そうでした」

「では、私がピタゴラスでなかったとは誰にも言えぬでしょう?」バルサモの言葉は単純明快だった。

「そのことについては否定せんでおきましょう。ですがピタゴラスはフィリップスブルクにはおりませんでした。少なくともわしは見かけとりませんぞ」

「ごもっとも。だが黒銃士隊のジャン・デ・バロー子爵にはお会いになったでしょう?」

「うむ、うむ。子爵になら会いましたぞ……哲学者ではありませんでしたが、確かに空豆を嫌うており、口にするのはやむを得ぬ時だけでしたな」

「結構。そこで思い出していただきたい。決闘の翌日、デ・バレーと塹壕でご一緒でしたな?」

「いかにも」

「そうでしょうとも。何しろ黒銃士隊と軽騎兵隊は、丸々七日、共に歩哨を務めていたのですから」

「仰る通り――して?」

「ははっ! そして――その晩、銃弾が霰のように降り注ぎました。居たたまれなくなったデ・バローに一服せがまれたあなたは、金の箱を差し出した」

「表面に女性の顔が描かれたものですな?」

「そうでした。今も見えますよ。金髪でしたね?」

「何と! 間違いない」男爵が驚きの声をあげた。「それから?」

「それから、一服していたデ・バローは喉に弾丸を喰らい、ベリック元帥のように頭をを吹き飛ばされました」

「ああ! その通りじゃった。哀れなデ・バロー!」

「ではこれでおわかりいただけたでしょう。フィリップスブルクであなたをお見かけしたし、顔見知りだったのだと。なぜというに、私がデ・バローその人だったのですから」

 男爵は怯えて、否、唖然として仰け反った。もはやバルサモの掌中であった。

「それでは妖術師ですぞ! 百年前なら火あぶりでしょうな。はてさて! 幽霊やら縛り首やら火あぶりの匂いがするようですな!」

 バルサモは微笑んだ。「本当の魔術師ならば、縛り首にも火あぶりにもならぬものです。お忘れなきよう。薪や紐と縁があるのは愚か者。とまれ、今宵はここまでにいたしませんか? お嬢さんも眠ってしまった。形而上学や神秘学の議論にはあまり気をそそられぬらしい」

 見ると確かにアンドレは、如何ともしがたい力に負けて頭を揺らしていた。露や滴をこぼす花のように。

 だがバルサモの言葉を聞いて、波の如く打ち寄せる魔力に打ち勝とうと頭を強く振り立ち上がった。初めこそふらついていたが、やがてニコルに支えられて食堂をあとにした。

 と同時に、窓に貼りついていた顔も消えた。それがジルベールであることはバルサモも先刻承知していた。

 間もなく、アンドレが掻き鳴らすチェンバロの音が聞こえてきた。

 バルサモはアンドレがよろめきながら食堂を出てゆく姿を目で追っていた。

「よし」姿が消えるのを見届けると勝利の声をあげた。「アルキメデスに倣うなら、エウレカ、だ」

「アルキメデスとは何者ですかな?」男爵がたずねた

「天才ですよ。二一五〇年前の知り合いです」バルサモは答えた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre VI「Andrée de Taverney」の邦訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/07、連載第7回。


Ver.1 08/05/11
Ver.2 16/03/01


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[訳者あとがき]

 

[更新履歴]

・12/09/15 「そこで一層の注意を払ってアンドレの顔を観察してみた。カニャック(Canillac)が蝋燭を消すことになっていた摂政の晩餐からこぼれ出たかと紛うような銀細工に、アンドレがナイフの先で触れたときのことである。」 → 「同じように、洞察力の限りを尽くしている時に、銀器にナイフの先が触れたので、アンドレの顔をじっくり観察した。それにつけても摂政の晩餐から抜け出て来たような銀細工であった。晩餐の後に蝋燭を消すのはカニャックの仕事だった。」

[註釈]

*1. [王制の下に立つ……]
 「王制の下に立つ所の人民を……」――モンテスキュー『法の精神』第三巻第五章、
「そもそも王制なるものは国民の品位を……」――エルヴェシウス『人間論』( Helvétius,De l'homme)第二巻原註、「王権を生みたる親が神ならば……」――ルソー『エミール』第五編
。[]
 

*2. [長生きです]
 リシュリュー枢機卿は1585-1642、57歳で死去。リシュリュー公爵は1696-1788、1770時点で74歳。。[]
 

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