こたびの大法螺はいくらなんでもひどすぎると思ったものか、或いは聞こえなかったものか、いや或いは聞こえていながらこの異邦人を喜んで追い出すつもりだったのか、いずれにしても男爵はアンドレの姿が食堂から消えるまで目で追っていた。斯くしてチェンバロの音を耳にして、娘が無事隣室に収まったのを確認すると、バルサモを次の宿場まで送ろうと申し出た。
「一頭ですが駄馬がおります。どうせくたばってしまうでしょうが町までは持つでしょうから、そうなれば快適な寝床を保証しますぞ。タヴェルネにも客間と寝台がないわけではありませんがの、わしの流儀でもてなすつもりですわ。『一心ならずば一切なさず』が持論でして」
「つまり出て行けと?」バルサモは湧き上がる不満を笑顔の下に引っ込めた。
「とんでもない! 友人のつもりでしたが。むしろここにお泊めする方が、ご面倒を掛けることになりましょう。本音では断じてこんなことはお勧めしたくないのですぞ。これはわしの好意です。いや何しろあなたのことが気に入ってしまいましたからな」
「気に入っていただけたのなら、疲れている者を寝床から追い出したり、手を伸ばして足を休めたがっている者を馬で走らせようとするのはご勘辨願いたい。斯様にことさらご窮乏を訴えられては、個人的な恨みでもあるのかと勘ぐっていまいますよ」
「いやいや! そういうことならお泊まり下さい」
目で探すとラ・ブリは隅にいた。
「ここに来い、阿呆め!」
ラ・ブリがおずおずと進み出た。
「来いというのに! どうじゃ? 赤の間ならそうひどくもあるまい?」
「さようで。フィリップ様がご逗留の際お寝みになる部屋でございますから」
「父のあばら屋に三月ほど泊まりに来るしがない中尉ならともかく、四頭立ての馬車で旅をするお方には相応しくないかもしれませんがの」
「お部屋に不満などあるわけがございません」
胸の中でそう言った後、声に出して、
「赤の間をお見せしなさい。タヴェルネにまた来たいなどと思わなくなるじゃろう。では、ここに泊まるおつもりですな?」
「お願いしたい」
「だが一ついいですかな。手だてはあるでしょうに」
「何のことです?」
「何も馬で道を駆けなくても」
「道とは?」
「ここからバル=ル=デュックまでの道です」
バルサモは続きを待った。
「馬がここまで馬車を牽いてきたのでしょう?」
「あるいは悪魔ですかね」
「初めはそう思いましたぞ。悪魔と仲が悪そうには見えませんからな」
「買いかぶってらっしゃる」
「まあよいでしょう! ここまで牽いて来た馬にまた馬車を牽かせればよいのではありませんかな」
「出来ぬ相談です。四頭のうち二頭しか残っていない。馬車は重い。馬を休ませなくては」
「或いはそうかもしれませんな。やはりここに泊まるおつもりですか」
「本日滞在したいのも、明日お目にかかって改めてお礼申し上げたいゆえ」
「礼なら迷うことはありませんぞ」
「というと?」
「悪魔と昵懇なのでしたら、賢者の石が見つかるよう頼んでもらえませんかな」
「男爵殿、もしや関心がおありなら……」
「はてさて! 賢者の石に関心があればどうなると――!」
「悪魔ではなく或る者に伝えなくてはなりませんな」
「して、何者に?」
「私ですよ。私に聞かせてくれればいい。思えばかつてコルネイユも、何だったか自作の芝居を聞かせてくれました。あれはちょうど百年前、パリ、ポン=ヌフのことでした」
「ラ・ブリ! ぽんこつ!」こんな時間にこんな人物と話をするのは物騒だと男爵も気づき始めた。「蝋燭を探して足許を照らして差し上げろ」
ラ・ブリはすぐに取りかかったが、蝋燭を見つけるのは賢者の石を探すのと同じくらい骨だと踏み、ニコルを呼んで、先に上に行って赤の間の空気を入れ換えておくように伝えた。
ニコルはアンドレを一人置き去りにする恰好になったが、翻ってアンドレは小間使いを厄介払い出来ることを大いに喜んでいた。じっくり考える時間が欲しかったのだ。
男爵はバルサモに就寝の挨拶をし、寝室に退がった。
バルサモは懐中時計を見た。アルトタスとの約束を思い出したのだ。約束したのは二時間半前だった。二時間で起こす約束だったのに、三十分が過ぎてしまっていた。そこで馬車が同じ場所にあるかどうかラ・ブリにたずねた。
ひとりでに動き出していない限り、今もそこにあるはずだという返事であった。
続けてジルベールはどうしたかをたずねた。
怠け者のジルベールはとっくに布団に潜り込んでいるはずだというのが、ラ・ブリの答えであった。
バルサモはアルトタスを起こしに行く前に、案内された赤の間の場所を確認しておいた。
タヴェルネ男爵はその部屋のみすぼらしさを騙っていたわけではない。調度品はこの屋敷のどの部屋のものであってもおかしくはないほどのものだった。
楢の寝台に敷かれているのは、古くなって緑色の黄ばんだ、花綵縁のカーテンのようなダマスク織の布団だった。脚のねじれた楢造りの机。石造りの大きな暖炉はルイ十三世時代のものであり、火を入れた冬には豪華にも見えるだろうが、火のない夏には寂しさを誘う。薪台も火道具も薪もないが、代わりに古新聞ならたっぷりあった。これがバルサモが幸運にもその夜泊まることになった部屋の調度であった。
二脚の椅子と、扉に穴のある灰色に塗られた木箪笥も、忘れてはならない。
ラ・ブリが部屋を整えようと四苦八苦している間、換気を終えたニコルは自室に引っ込み、アルトタスを起こしに行っていたバルサモも屋内に戻って来た。
バルサモはアンドレのいる応接室の前で立ち止まると、耳を澄ました。食堂を離れてからはバルサモの放っている謎めいた力から解放されたことに、アンドレも気づいていた。チェンバロに向かったのも、そのことを考えたくさえないからだ。
楽器の音は扉を隔てたバルサモの許にも届いていた。
前述の通りバルサモは扉の前で立ち止まっていた。
刹那、円を描き
バルサモは北叟笑んだ。まるで扉の向こうが見えているようではないか。
やりたかったことはやったし、やりたかったことが叶ったのもバルサモにはわかっていた。その証拠に、左手を伸ばして手すりに触れると、急な裸階段を上って赤の間へと立ち去った。
バルサモが遠ざかるにつれて、アンドレはまだぎくしゃくと拙くはあったが扉から離れ演奏に戻った。階段を上り切ったバルサモの耳にも、中断されていた曲の音色が再び聞こえて来た。
バルサモは部屋に入り、ラ・ブリを退がらせた。
ラ・ブリはよく出来た使用人であった。ところが扉に向かって足を踏み出しながらも、そこで立ち止まってしまった。
「どうした?」
ラ・ブリは上着のポケットに手を入れ、奥にあるものを音も立てず触っているようだったが、返事はなかった。
「言いたいことがあるのではないか?」そう言って近づいた。
ひどい葛藤があったようだが、ラ・ブリはポケットから手を出した。
「つまりその、先ほど旦那さまはお間違えになったのではないでしょうか」
「俺が? 何を間違ったというのだ」
「二十四スー玉のおつもりだったのだと存じますが、いただいたのは二十四リーヴル玉だったのでございます」
そう言って手を広げ、ぴかぴかとまばゆいルイ金貨を示して見せた。
バルサモは感嘆の眼差しで老人を眺めた。その反応から推すに、人間なるものにひとかどの誠実さがあるとは思いも寄らなかった節がある。
「正直者だな!」ハムレットのように呟いた。[*1]
ポケットを探り、ルイ金貨を隣にもう一枚置いた。
この豪儀を見たラ・ブリの喜びは計り知れなかった。金貨など二十年このかた見ていなかったのだ。
こんなお宝を手に入れたのも夢ではないとわかってもらうために、バルサモの方で手に握らせてポケットに入れてやらねばならなかった。
ラ・ブリが深々とお辞儀をして後じさったところ、バルサモが声をかけた。
「ここの朝はいつも何時頃かな?」
「タヴェルネ様は遅くまでベッドに入っていらっしゃいますが、アンドレ様はいつも朝早くお起きになります」
「何時に?」
「六時頃でございます」
「この上は誰の部屋だ?」
「手前でございます」
「下は?」
「誰もございません。下は玄関ホールでございます」
「そうか。すまんな。退がってくれ」
「お寝みなさいませ」
「うむ。そうだ、くれぐれも馬車には気をつけてくれ」
「それはご安心くださって構いません」
「物音がしたり明かりが見えたりしても怖がることはない。一緒に連れて来た、手足の利かない召使いの老人を奥に寝泊まりさせているのだ。放っておくようジルベール君にも一言頼む。それから、明日の朝話したいことがあるから何処へも行かぬよう伝えてくれ。いいな?」
「かしこまりました。それはそうとかなり早くお発ちになるのでしょうか?」
「何とも言えぬな」バルサモは苦笑いを浮かべた。「だが大事を取るなら、明日の晩にはバル=ル=デュックにいなくてはならん」
ラ・ブリは諦めの溜息をついて寝台を一瞥すると、じめじめした部屋をいくらかなりとも暖めるため暖炉に近づき薪代わりの反故紙に蝋燭で火をつけようとした。
だがバルサモが声をかけた。
「済まぬが古い新聞はそのままにしておいてくれ。眠れぬ時に読みたいのだ」
ラ・ブリは一礼し立ち去った。
バルサモは戸口に近づき、階段を軋ませる老使用人の足音に耳を澄ませた。やがて足音は頭上から聞こえて来た。ラ・ブリが自室に戻ったのだ。
バルサモは窓に近づいた。
正面に見える向かいの翼棟の屋根裏からは、カーテンの隙間から明かりが洩れていた。ルゲの部屋だ。ゆっくりと服を脱ぎショールを外している。時折、窓を開けては庭に身を乗り出している。
夜食のときにはそんな素振りも見せなかったバルサモであるが、今はまじまじと見つめている。
「まさに瓜二つだ!」
屋根裏の明かりが消えたが、部屋の住人は床につく気配もない。
バルサモはそのまま壁にもたれていた。
チェンバロが響き続ける。
楽器の音に混じる如何なる物音も聞き逃さぬ態であったが……あらゆるものが静まりかえり、目を覚ましているのが音色だけだと確認するや、ラ・ブリの閉めた扉を開き、慎重に階段を降りると、応接室の扉を押した。古びた蝶番は軋みもしなかった。
アンドレは何も気づいておらぬ。
白く美しい手を黄ばんだ象牙の鍵盤に踊らせていた。真向かいには姿見があったが、彫刻の施された木枠のめっきは剥がれ落ち、くすんだ絵の具の下で無惨な姿をさらしていた。
弾いている曲は陰鬱なものであった。否、さらに言うなら曲というより単なる和音の連なりであった。――恐らくは即興、湧き出る思いや夢見る想いの数々をチェンバロに託しているのだ。蓋しタヴェルネ暮らしに憂いた心が、今しも城館を離れ、修道女たちで賑わうナンシー・アノンシアード修道会の広々とした緑豊かな庭を彷徨い出しているのであろうか。いずれ心が何処にあろうと、差し当たって閉じかけた虚ろな視線が彷徨っているのは眼前の仄暗い鏡であったが、鏡の中に映っているのは闇であった。チェンバロ上に置かれた蝋燭一本の光では、弾き手を照らすのがせいぜいで、部屋の奥までは太刀打ち出来ぬのだ。
幾度かはたりと手を止めた。その晩の異様な光景と、それに続く言いも知れぬ感覚を思い出していたのだ。頭で理解するより先に心がおののき、四肢を震えが走った。そばには誰もいないというのに、実体のあるものに触れられてぞっとしたように、一人身の毛をよだたせた。
と、その時。奇怪な印象の根を手繰ろうとして、またも同じ感覚に襲われた。電撃に打たれたように全身が震えた。視線が定まり意識が凝り、鏡の中に動く影を見つけた。
それは音もなく開く応接室の扉であった。
扉の陰から人が現われた。
アンドレはおののき、指が鍵盤の上を彷徨った。
そうは言っても誰かが現れること自体は異常なことではない。
闇に沈んでいるため確認できなかったが、父やニコルの影ではないだろうか? 寝る前にラ・ブリが部屋を廻り、応接室で仕事を片づけようとしているのではないか? そうしたことはよくあったし、控え目にして忠実なこの使用人は、部屋を巡る間も音を立てたことがなかった。
だが心の目の知らせるところでは、三人のうちの誰でもない。
人影が音もなく進み、闇の中から少しずつ姿を現し始めた。光の輪の中に現れた人物は、果たして旅人であった。さても恐ろしきは、その蒼白き顔、その黒き天鵞絨の外套。
どうした奇怪な理由からか、旅人は着ていた絹の衣服を脱ぎ捨てた。[*2]
アンドレは振り返り、叫ぼうとした。
だがバルサモの腕が伸びると、もはや動くことはならなかった。
それでもアンドレは抗った。
「おお!……いったい……何が望みなのです?」
バルサモが北叟笑み、鏡の中の顔もそれに倣うと、アンドレはそこから目が離せなくなった。
だがバルサモは何も言わぬ。
アンドレはなおも立ち上がろうとしたが、果たせなかった。強大な力と疎んじ難い麻痺に襲われて椅子に縛りつけられている間も、視線は魅入られたように鏡に釘づけのままであった。
感じたことのない感覚に恐怖を覚えた。こうして自分を思い通りにしているのは、見も知らぬ男なのだ。
助けを呼ぼうと死力を尽くした。口を開いたが、バルサモの腕が頭上に伸びて来るや、声を出すことも適わなかった。
アンドレは声を失った。胸に満ちた眩むような熱気がゆっくりと脳まで達し、渦巻く靄のように広がった。
もはや気力も意思も失い、がくりと首を落とした。
その時、窓の方からかすかな音の聞こえたような気がした。素早く振り向いたバルサモの目に映ったのは、どうやら窓ガラスから離れる人の顔であった。
バルサモは眉をひそめた。奇妙なことに、アンドレの顔にも同じ表情が浮かんだような気がした。
すぐにバルサモはアンドレに向き直り、頭上に掲げていた両手を下げると、ゆっくりと上に挙げ、また下げ、しばらくはそれを何度も繰り返していた。重い電気の柱を積み上げているのだ。
「眠るがいい!」
それでもアンドレは魔力と戦っていた。
「眠るのだ!」バルサモは有無を言わせず繰り返した。「さあ眠れ!」
遂に圧倒的な力に負ける時が来た。アンドレは肘をチェンバロにつき、手で頭を支えるようにして寝入ってしまった。
するとバルサモは後ずさりして扉を閉め、木の階段を軋ませて部屋に戻った。
応接室の扉が閉じられるや、バルサモが見かけたと思しき顔が再び窓に現われた。
それはジルベールの顔であった。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre VII「Eurêka」の全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/09、連載第8回。
Ver.1 08/06/08
Ver.2 16/03/01
[訳者あとがき]
・08/06/08 ▼バルサモが「And honest!」とつぶやく。シェイクスピア『ハムレット』にはこのものずばりの台詞はない。「honest」という単語のある場面も確認してみたが、本篇にふさわしい文脈で使われているような箇所は見つけられなかった。▼バルサモが絹の服を脱ぐ場面がある。英訳版の註釈によると、絹は不良導体なので絹の服を纏った人間を磁化するのは難しいとある。一方で当時、催眠術は動物電気や動物磁気が原因であると唱えられていた。バルサモが絹の服を脱ぎ、電気柱を積み上げる云々とあるのはそのためである。
[更新履歴]
・12/09/15 「さぞかし立派なお部屋とお見受けします」「そうに決まっておるわい」→「お部屋に不満などあるわけがございません」「わかっておるわい」
・12/09/15 「タヴェルネに戻りたい」→「タヴェルネにまた来たい」
・12/09/16 「チェンバロに向かったのも、そんな思いにさえ打ち勝つためだ。」→「チェンバロに向かったのも、そのことを考えたくさえないからだ。」
・12/09/16 「アンドレはおののき、指が鍵盤の上を彷徨った」の後ろに一文訳し洩れがあったので追加。→「そうは言っても誰かが現れること自体は異常なことではない。」
・12/09/16 「新たな衝撃に恐ろしくなった。自分はこの男の思い通りなのだ。この男は底知れぬ。」→「感じたことのない感覚に恐ろしくなった。自分はこの男の思い通りだというのに、相手は見知らぬ人間なのだ。」
・16/03/01 位置関係がおかしかったので、「バルサモはアンドレの部屋の前で立ち止まると、」→「バルサモはアンドレのいる応接室の前で立ち止まると、」に訂正。
[註釈]
▼*1. [ハムレットのように]。
デュマ原文では「And honest!」。『ハムレット』原典には該当する台詞はない。おそらくは第一幕第五場。ハムレットが亡霊のことは他言無用だとホレイシオたちに誓わせようとすると、地の底より亡霊が「誓え」と声を出した。それを聞いたハムレットが、「Aha boy, say'st thou so? Art thou there, truepenny?(おまえもそう言うのか? そこにいるのか、正直者?)」と言う場面。[↑]
▼*2. [絹の衣服を脱ぎ捨てた]。
原註1。絹は絶縁性であり電気を通さないことが知られている。絹を纏った人間を磁化することはほぼ不可能である。[↑]