タヴェルネにおける地位の低さゆえ爪弾きにされたジルベールは、列席を許された人々のことを一晩中見つめていたのだ。[*1]
夜餐の過ぎるまで、ジルベールはバルサモの笑みや仕種から目を離さずにいた。アンドレの目に尊敬の色が浮かんでいることに気づいた。男爵が精一杯愛想よくもてなし、ラ・ブリが恭しく尽くしている。
やがて一堂が席を立つと、ジルベールはリラとカンボクの茂みに隠れた。鎧戸を閉めて部屋に戻るニコルに、偵察――もとい覗き見を見つけられ邪魔されるのを恐れたのである。
而してニコルは見回りこそしたものの、応接室の鎧戸を一つだけ開けっ放しにしておいた。蝶番が半ば外れていて上手く肘金が回らぬのだ。
ジルベールはそれを承知していた。その場を離れなかったのもそれゆえのこと、ニコル・ルゲが立ち去れば観察を続けるものと決意していた。
観察、と我々は述べた。読者諸兄はこの言葉に首をひねるやもしれぬ。果たして観察するものなどあるのだろうか? タヴェルネ邸で育てられたのであればとうに邸内を知り尽くしているのではないか? 十七、八年の間、毎日見ていたのであれば住人のこともすべて知り尽くしているのではないか?
その晩のジルベールには別の目的があった。覗いていただけではない。待っていたのだ。
アンドレを残して応接室を出たニコルは、ぐずぐずと投げ遣りに扉と鎧戸を閉めて回ってから、誰かを待つように花壇をぶらついていた。探るようにおちこちと見回した後、とはつまり先ほどまでジルベールがやっていたうえなおも続けようとしていたのと同じ行動を取った後で、ニコルは立ち去ることに決めて部屋に戻った。
知っての通りジルベールは屈み込むようにして木の幹に貼りついて息を殺し、ニコルの一挙手一投足から目を離さずにいた。やがてニコルが去り、屋根裏の明かりが灯るや、爪先立って窓に向かい、暗がりにしゃがみ込んで待った。恐らくは何を待っているのかもわからぬままに、チェンバロの前に坐るアンドレに燃えるような目を向けていた。
ジョゼフ・バルサモが応接室に足を踏み入れたのはこの時である。
ジルベールはその場面を目撃して戦慄し、二人から目を離せなくなった。
見たところでは、バルサモがアンドレに向かって腕前を褒めたものの、素っ気ない答えを返され、笑みを浮かべて言い寄ったものの、演奏の手を止めて追い払われたようである。
気品に満ちた立ち去り方にはほとほと感心した。この光景をすっかり理解したつもりのジルベールであったが、果たしてまったく理解してはいなかった。何分にも目の前で繰り広げられたのは無言劇であったからだ。
ジルベールの耳に音は聞こえず、口や腕の動きを見ることしか適わなかった。如何に観察眼が優れていようと、すべてがこれだけ変哲もなく起こっていては、謎に気づきようもない。
バルサモが部屋を出るや、ジルベールも観察などやめてアンドレを凝視し始めた。飾らぬ姿勢すら美しかった。と、驚いたことに、アンドレは眠っている!――ジルベールはしばらくの間、微動だにしなかった。アンドレがぴくりとも動かぬのはぐっすり眠っているからだと確かめたかったのである――やがて確信が持てると、両手で頭を抱えて立ち上がった。目まぐるしく奔る感情に頭が割れそうなのか……いや、今や発作のように一瞬にして心を決めていた。
「くそっ! あの手。あの手に口唇を近づけるだけじゃないか。やっちまえ! ジルベール、やっちまえ! そうしたいんだろ……」
自分に暗示をかけながら、ホール(antichambre)に飛び込み応接室の扉に手を伸ばすなり、バルサモの時と同様に音もなく扉は開いた。
しかし扉が開き、もはや遮るもののない眼前に少女がいることに気づくや、しでかしかけた事の重大さに思い至った。ああ、ジルベール、ジルベール。貴様は小作人と田舎娘の小伜じゃないか。臆病なのか、畏れ敬っていたのか、ようやくのことで卑しい境遇の奥底から顔を上げて小生意気な娘を見つめると、眠れる女神の裳裾や指先に口づけをした。目を覚まして見つめられたら終わりだ。そう思った瞬間、それまで心を惑わせ気を狂わせていた狂熱の雲もすっかり晴れた。手を止めて扉の框につかまった。手足が震えて仕方がない。このまま倒れてしまいそうだ。
だがアンドレの物思いなり眠りなりは深かった。いずれにしてもジルベールにはいまだわからぬ。アンドレは果たして眠っているのか物思いに沈んでいるのか。抑えようとしても抑えられぬジルベールの心臓の鼓動が聞こえているのだとしても、何の反応も示さない。ジルベールは息を殺して立ちつくしていた。アンドレは微動だにしない。
何て美しいんだ。嫋やかに頭を手に預け、真っさらな長い髪の首筋や肩に掛かるのを見て、恐怖で掻き消えたのではなく眠っていたに過ぎぬ狂熱の炎に再び火がついた。またも眩暈に囚われる。とろけるような狂気。アンドレの触れたものに触れたくてたまらない、ほとばしるような欲望。ルベールはまた一歩アンドレに近づいた。
震える足の下で床が乾いた音を立てた。額に冷たい汗が流れたが、どうやらアンドレには聞こえていないようだ。
「眠っているんだ」ジルベールは呟いた。「よかった、眠っている!」
しかしジルベールは、三歩進んだところでまたも足を止めた。何かにぎょっとしたらしい。
もっとも、家には何の物音も気配もない。ラ・ブリは床に入り眠っているし、ニコルの部屋の明かりも消えている。
「大丈夫だ」
ジルベールは再び進み始めた。
不思議なことに、いくら床が鳴ってもアンドレは身じろぎ一つしない。
ジルベールもこれには訝り、恐怖さえ覚えた。
「眠っているんだ」ジルベールは繰り返した。思いは乱れ、三秒毎に気持は揺らぎ、間男と腰抜の間を彷徨っていた――心を制御できない者はみんな腰抜だ。「眠っている。ああ神様! 神様!」
だがジルベールは恐れと期待に引き裂かれながらも一歩また一歩と前進し、気づけばアンドレのすぐそばまでやって来ていた。そこから先はさながら魔法である。逃げたくても逃げられない。アンドレの発するオーラの輪の中にひとたび足を踏み入れてしまえば、もはや囚われ、絡み取られ、打ち負かされていた。ジルベールは両膝を落とした。
アンドレはなおも動かずしゃべらず、まるで彫像のようだった。ジルベールは部屋着の裾を手に取り、口づけした。
そして慌てることなくゆっくり静かに頭を上げ、アンドレの目を見つめようとした。
その目はぱっちりと開かれてはいたが、だがしかし何も見てはいなかった。
驚きに打ちひしがれてもはやどうすることもならなかった。もしや死んでいるのではという不吉な思いに囚われた。念のため手を取ってみれば、温かく脈打っている。だがその手は今もってぴくりとも動かぬ。もしや。ジルベールは官能の熱に浮かされたように考えた。もしやアンドレは、目が見えてもいるし、触れられたのを知覚してもいるうえに、気違いじみた愛をぶつけられるのを予期していたのではないか。浅はかにも恋に目が眩んだジルベールは思った。もしや自分が来るのを待っていたのでは。何も言わぬのは同意の印なのでは。微動だにせぬのは好意からなのでは。
そこでアンドレの手を口許まで引き寄せ、熱い口唇を長々と押しつけた。
突然アンドレがびくりと動き、拒絶するような反応をした。
「くそ、最低だ!」ジルベールは呟き、手を放して目の前の床に倒れ伏した。
アンドレがバネにはじかれたように身体を起こした。視線を降ろしもしなかったが、床には恥ずかしさと恐ろしさに押しつぶされかけたジルベールが横たわっていた。許してもらえるとは思っていなかったが、その許しを請う力すらない。
ところがアンドレは顔を上げて首を強張らせたまま、得体の知れぬ力によって何処か目に見えぬ場所まで引っ張られてでもいるように、ジルベールの肩をかすめて目もくれずに通り過ぎると、ぎこちなくもたつきながら扉の方へ歩いて行った。
アンドレが離れてゆくのに気づいたジルベールは、手をついて身体を起こし、ゆっくりと振り返って、きょとんとした目つきでアンドレの行方をたどった。
アンドレは扉に向かって歩き続け、扉を開けてホールを抜けると階段の下までたどり着いた。
ジルベールも、真っ青になって震えながら、後を追っていざり進んだ。
――ああ! 叱ってもくれないほど激怒してるのか。男爵のところに行ってこの惨めな蛮行をしゃべるつもりなんだ。下僕みたいに追い出されてしまうんだな!
考えただけでも心乱れた。タヴェルネを追われるなんて。己が光、己が命、己が魂なる人を絶えて見られなくなるなんて。絶望が力を与えた。両足で立ち上がると、アンドレを追って駆け出した。
「許して下さい! どうか許して下さい!」
アンドレの耳に届いたようには思えなかったが、アンドレはそのまま進み続け、父親の部屋には入らなかった。
ジルベールは安堵した。
アンドレは階段の一段目に足を掛け、それから二段目に進んだ。
「どういうことだ?」ジルベールは呟いた。「何処に行くつもりなんだろう? この上にあるのは、旅人の泊っている赤の間とラ・ブリの部屋だけじゃないか。ラ・ブリに用があるなら呼鈴を鳴らすはずだ……ということは?……嘘だ! そんなはずない!」
一つの考えに取り憑かれて、拳をぷるぷると引き攣らせた。アンドレの向かっているのは、まさかバルサモの部屋なのか?
旅人の部屋の前でアンドレが立ち止まった。
冷たい汗がジルベールの額を流れた。階段の手すりにしがみつき、倒れそうになるのをこらえた。結局そこまでアンドレを追って来たのだ。目にしているもの、憶測していること、何もかもむごたらしかった。
扉が半開きになる。アンドレはノックもせずに扉を押した。洩れ出た光が気高く整った顔を照らし、ぱっちりと開いた目の中で金色の渦を巻いた。
部屋の真ん中にバルサモがいるのが垣間見えた。バルサモは立ち尽くし、目を見据え、眉を寄せて、何かを命じるように手を伸ばした。
扉が閉まった。
ジルベールの身体から力が抜け落ちた。片手が手すりから離れ、もう片方の手が持ち上げられて火照った額に触れた。車軸から外れた車輪のように身体を空転させ、冷たい石畳の一段目に目を回して倒れ込んだ。それでも視線だけは呪わしい扉にこびりついていた。過ぎ去った夢、現在の幸せ、来たるべき希望のすべてを飲み込んだばかりの扉に。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre VIII「Attraction」の全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/10、連載第9回。
Ver.1 08/06/21
Ver.2 16/03/01
[訳者あとがき]
[更新履歴]・16/03/01 「突然アンドレがびくりと動き、拒絶するような反応をした。」の部分を訳し洩らしていたので追加した。
[註釈]
▼*1. [タヴェルネ]。
原註2。筆者はこれまで、Taverney 男爵を誤って Faverney 男爵と書いて来た。取り急ぎ F を T に変更する。リシュリュー氏の旧友が、ロワール=エ=シェール県の県会議員ファヴェルネ伯爵家と何らかの関係があると勘繰られることさえないようにしたい。
※新聞連載時の原註。[↑]