バルサモが出迎えようとすると、アンドレは石像のように強張った足取りながら、危なげなくまっすぐと部屋に入ってきた。
斯かる異様な訪問をされてはほかの者なら訝ったであろうが、バルサモには驚いた素振りもない。
「俺は眠れと命じた。眠っているな?」
アンドレは息を吐き出したが、言葉は発さぬ。
バルサモが近づき、さらに霊気を強めた。
「口を利くがいい」
アンドレが身体を震わせた。
「俺の言ったことはわかるな?」
アンドレが了解の仕種をする。
「ではなぜ口を利かぬ?」
アンドレは喉に手をやり、言葉が出て来ぬのだと言いたげな仕種をした。
「わかった、そこに坐れ」
そう言って、先だってジルベールがこっそりと口づけした手を取ったのだが、触れられただけでアンドレは身体を震わせた。かの抗い難い霊気が降臨した際に同じ振舞を見せたのは先刻ご承知の通りである。
バルサモに手を引かれるまま、アンドレは三歩退がって椅子に腰を下ろした。
「さあ、見えるな?」
アンドレの目が見開かれた。二本の蝋燭が陰影を作り出し、その光が部屋中に妖しく広がっていたのだが、それをくまなく目に入れようとでもしているようだった。
「目で見たことなど要らぬわ。心で見よ」
刺繍の施された上着の下から鋼の棒を抜き出すと、波を打っている娘の胸にその先端を押し当てた。
アンドレがびくりと痙攣した。さながら炎の針に突き刺され心の臓まで貫かれたようだった。そのまま両目が閉じられた。
「それでいい! 見えるな?」
アンドレはその通りだと頭を動かす。
「それに口も利けるな?」
「はい」とアンドレが答えた。
だがそう言いながらも、苦しくてならぬのか手を額に押しつけた。
「どうした?」
「お願いです! 苦しいのです!」
「何故だ?」
「無理に目を開かせようとしたり口を利かせようとしたりするのはおやめください」
バルサモはアンドレの頭上に両手を二、三度かざし、割れんばかりの痛みを引き起こしていた霊気を散らした。
「まだ苦しいか?」
「随分と治まりました」
「よし。ではお前は何処にいる?」
アンドレの両目は閉じたままだった。だが表情は曇り、ひどく狼狽えたようにも見える。
「赤の間におります」
「誰といる?」
「あなたと」と言ってぶるりと震えた。
「どうした?」
「怖いのです! それに嘆かわしい!」
「何故だ? 仲良くやろうじゃないか。え?」
「もちろんです」
「何も下心があって呼んだわけじゃない。わかるな?」
「ああ! わかります」
「尼さんみたいに敬意を払ってるだろう?」
「ええ、その通りです」
だが一旦は和らいだ表情が、またしても曇った。
「腹を割ってはくれぬし、気を許してもくれぬようだな」
「わたくしに危害を加えるつもりがなくても、誰かよその人に悪さするつもりなのでしょう」
「そうかもな。お前が気にすることじゃない」と命じた。
アンドレの顔つきが普段のように戻った。
「家中の者が寝入っているな?」
「わかりませぬ」
「では覗いてみろ」
「何処から始めればよいでしょうか?」
「そうだな。お前の父親からだ。何処にいる?」
「お部屋に」
「何をしている?」
「横になっていらっしゃいます」
「眠っているのか?」
「いいえ、本を読んでおります」
「どんな本だ?」
「いつもわたくしに読ませようとしている良くない本でございます」
「ということはお前は読まぬのだな?」
アンドレの顔に軽蔑の表情が浮かんだ。[*1]
「はい」
「よし。ここはもういいだろう。ニコルの部屋を覗いてくれ」
「真っ暗です」
「明かりがいるか?」
「お命じくださるだけで結構です」
「命じよう。目を凝らすのだ!」
「あっ、見えました!」
「様子は?」
「ほとんど下着だけの恰好をしています。部屋の扉をそっと開け、階段を降りています」
「そうか。何処に向かっている?」
「中庭の戸口で立ち止まりました。扉の後ろに隠れています。様子を窺い、待ち受けています」
バルサモは笑みを浮かべた。
「お前のことを窺い、待ち受けているのか?」
「そうではありませぬ」
「いいぞ! それが知りたかった。若い娘なんてものは、父と小間使いの目を盗んでしまえば、恐れるものなどあるまい。もっとも……」
「いいえ」
「ふふっ! はははっ! 俺の考えを読んだのだな?」
「見えたのです」
「では想い人はおらぬのだな?」
「わたくしに?」アンドレは蔑むように答えた。
「まあな。そうだったらと思っただけだ。修道院に引き籠もっていた人間が、身も心も縛めを解かれたんだぞ?」
アンドレは首を振った。
「わたくしの心は縛められてなどおりません」と悲しげに答えた。
乙女に相応しい慎み深く真っ直ぐな口振りに、美しさもひとしおであった。バルサモは狂喜して呟いた。
「白百合だ! 乙女だ! 巫女だ!」
感激して手を叩くや、すぐにアンドレに畳みかける。
「だが想う者はなくとも、誰かに想われてはいるだろう?」
「存じません」アンドレは穏やかに答えた。
「糞ッ! 知らんだと?」バルサモは乱暴に言い返した。「知ろうとしたらどうだ! ものを尋くからには、欲しいのは答えだ」
と、こう言って、またしても鋼の棒で胸を突いた。
アンドレはまたもびくりと震えたが、最前ほどには苦しそうにも見えない。
「わかりました。目を凝らしております。乱暴はおやめください。死んでしまいます」
「何が見える?」
「まさか! 信じられません!」
「いったい何が見えるんだ?」
「若者が一人、修道院から戻ってからずっと、わたくしを追い回し、覗き回り、懸想しながらも、それを秘めております」
「何者だ?」
「顔は見えませんが、身なりだけ見れば労働者の恰好をしております」
「何処にいる?」
「階段の下。苦しんで泣いています」
「なぜ顔が見えぬのだ?」
「手で覆っているのです」
「手を透かして見ればよい」
アンドレは言われた通りに試みた。
「ジルベール! だから信じられないと言ったのです!」
「そんなにも信じられぬのか?」
「よくも想いを寄せられたものです」という口振りに、軽蔑が滲み出ていた。
バルサモはニヤリとした。それ即ち世故に長けたる者の笑い、たといその道が途切れていようと心通わぬ道のりなどありはせぬと承知している者の笑いであった。
「奴は階段の下で何をしている?」
「お待ちください。手を顔から離し、手すりにすがって、立ち上がり、上っております」
「上っている先はどこだ?」
「ここに……心配ご無用です。中まで入っては来ないでしょう」
「何故だ?」
「臆病者ですから」アンドレは蔑むように笑った。
「だが盗み聞きぐらいはするだろうな」
「そうでしょうとも。扉に耳を近づけて、聞き耳を立てております」
「迷惑か?」
「もちろんです。わたくしの言葉を盗み聞きするやもしれませぬから」
「すると、愛する女を裏切ることも厭わぬ男というわけか?」
「ええ。怒りや嫉妬に駆られたなら。そうですとも! その時にはどんなことでもやってのけるでしょう」
「では追っ払うか」バルサモはそう言って、ずかずかと扉に歩み寄った。
ジルベールもまだ腹をくくりかねていたのであろう。バルサモの足音を聞くや見つかるのを恐れて、手すりに跨って下まで滑り降りた。
アンドレが小さく悲鳴をあげた。
「ここはもういい。惚れた腫れたに用などないわ。タヴェルネ男爵のことを話してくれ。いいか?」
「お望みのことは何なりと」アンドレは溜息を吐いた。
「貧しいのだな、男爵は?」
「とても貧しゅうございます」
「お前に何もしてやれぬほどにか?」
「何一つ」
「つまりお前は退屈しているわけだ?」
「死ぬほど」
「夢はあるのだろうな?」
「いいえ」
「父を愛しているか?」
「はい」躊躇いがちな答えが返ってきた。
「だが見たところ、昨晩は孝行ぶりにも影が差していたようじゃないか?」とバルサモが含み笑いした。
「母の遺産を食い潰しているのが許せないのです。そのせいでメゾン=ルージュ殿は駐屯地で身をやつし、もはや家名を誇ることもなりません」
「メゾン=ルージュとは何者だ?」
「兄上のフィリップ」
「何故メゾン=ルージュと名乗る?」
「それが名だからでございます。正確に申せば一族が持つ城館の名。父親の死ぬまでは世継ぎはその名を戴く決まりですから。父の死後はタヴェルネと呼ばれることになりましょう」
「兄を愛しているのだな?」
「もちろんです!」
「何よりも?」
「何よりも」
「ずいぶんとご執心じゃないか? 父にはつれなかったというのに」
「兄は気高く、わたくしのためなら命だって賭けるでしょうから」
「されど父御は……?」
アンドレの口は開かなかった。
「応えぬのか?」
「応えたくありませぬ」
まげて聞き出すこともあるまいと考えたのであろう。或いは男爵について知りたかったことは、とうに手に入ったのであろう。
「メゾン=ルージュ士爵は今何処だ?」
「フィリップの居場所を知りたいのですか?」
「ああ」
「ストラスブール(Strasbourg)に駐屯しております」
「今度はそこを見るんだ」
「何処を?」
「ストラスブールだ」
「見えませぬ」
「ストラスブールを知らんのか?」
「ええ」
「俺ならわかる。二人で探すとしよう。いいな?」
「かしこまりました」
「芝居には?」
「おりません」
「広場のカフェで軍人たちと一緒ではないのか?」
「おりません」
「宿舎に戻っているのではないか? 部屋を覗いて見てくれ」
「見えません。ストラスブールにはもういないのでしょう」
「道はわかるか?」
「いいえ」
「構わん! 俺が知っている。道をたどるぞ。サヴェルヌ(Saverne)にはいるか?」
「おりません」
「ザールブリュッケン(Sarrebruck)には?」
「おりません」
「ナンシーは?」
「あっ! お待ち下さい」
アンドレは心を凝らした。心臓が胸の中で暴れ回る。
「見えました!」嬉しそうに言うと、「フィリップだわ、よかった!」
「どうなっている?」
「フィリップ!」と言ったままアンドレは瞳を輝かせていた。
「何処にいるんだ?」
「わたくしもよく知っている町を馬に乗って通過しています」
「何処だ?」
「ナンシー! ナンシーです! 修道院のあった場所なんです」
「確かだな?」
「確かですとも。周りの明かりが顔を照らしてますもの」
「明かりだと? なぜ明かりがある?」
「馬に乗って、豪華な四輪馬車のそばにいるのです!」
「ああ! なるほどな! で、馬車の中にいるのは?」
「若い女性です……嗚呼、何て気高い方なのかしら! とても優雅で、ひどく綺麗な方です。でもどうしてでしょう、何処かで見たことがあるのです。いいえ、そんな筈はないわ。まるでニコルそっくり」
「厳かで気高く綺麗なその娘に、ニコルが似ているというのか?」
「ええ、そうです! でもそれもジャスミンと白百合、似て非なるもの」
「まあいい。今、ナンシーでは何が起こっている?」
「その女性が戸口の方に身を乗り出して、そばに来るようフィリップに合図しました。フィリップは言われるままに近づいて、恭しく帽子を取りました」
「何をしゃべっているかわかるか?」
「聴いてみます」と言うや、音など立てて気を散らしてくれるなとばかりに、バルサモを身振りで制した。「聞こえる! 聞こえます!」
「女は何と言っている?」
「とろけるような笑みを浮かべて、もっと馬を急がせるよう命じました。明日の朝六時には必ずや従者たちの用意を終わらせておくように言っています。昼には立ち寄るところがあるそうです」
「何処だ?」
「兄もそれをたずねております……そんな、まさか! タヴェルネに立ち寄りたいそうです。父に会いたいと。あんな立派なお姫さまがこんな貧しい家に立ち寄るなんて!……どうやってお迎えすればよいのでしょう? 銀の食器もなければ、クロスすらほとんどないというのに」
「心配はいらん。用意しようじゃないか」
「ありがとうございます! 感謝いたします!」
アンドレは立ち上がりかけたが、ふうと息を吐いてぐったりと椅子に倒れ込んだ。
すかさずバルサモが近寄って、両の手をかざし電磁気の流れを変えるや、萎えかけた肢体も、波打つ胸にくたりと落ちた頭も、穏やかな眠りに就いた。
アンドレはすっかり落ち着いて安らぎを取り戻したように見える。
「今のうちに力を補充しておけ」暗くうっとりとした目つきでバルサモは囁いた。「すぐにまたお前の天眼(lucidité)を借りることになるのだからな。科学よ! お主だけは決して裏切らぬ! であればこそ人がただお主のみにすべてを捧げるは必定ではないか」そう続ける言葉には、狂信の色が宿っていた。「主よご覧なさい、この美しい娘御を! この清らかな天使を! いやこれはご存じでしたな。天使も娘御もお造りになったのはあなただ! ですがね、今の俺には美しさなど用はない。清らかさがハテ何の役に立つと? ただの飾りでしかありませんな。如何に美しく清らかなタマであろうとも人は死ぬが、ナニ、口さえ利いてくれればいい。愛情、情熱、喜悦、如何なる喜びにも終わりが来よう。闇を照らす確かな一歩さえ踏み出せれば俺は満足だ。さて娘よ、俺の力にかかれば、ほんの数秒眠っただけで二十年分の力を取り戻せたはずだ。目を覚ませ、いや、千里を見通す(clairvoyant)眠りに就け。まだまだしゃべってもらいたいことはあるんだ。今度は俺のためだがな」
またもバルサモはアンドレに手を伸ばし、強い霊気でその身体を起こした。
やがておとなしく術にかかったのを見て、財布から四折りの紙を取り出すと、中から現れたのは、樹脂のような艶をした黒い巻毛であった。髪に染みついた香りが、それを包んでいた薄紙にまで移っていた。
バルサモはその巻毛をアンドレの手に握らせた。
「見るんだ」
「またですか!」アンドレが苦悶の声をあげた。「嫌です、嫌です。もう休ませてください。あまりに苦しくて――お願いです! ようやく気分が楽になっていましたのに!」
「見るんだ!」バルサモは情けも見せずに鋼の棒を胸に押しつけた。
アンドレは腕をよじり、バルサモの霊力から何とか逃れようとした。口唇には泡が浮き、太古の神殿で三脚に坐したる
「見えました!」力負けしたアンドレが、折れたように悲鳴をあげた。
「何が見える?」
「女性が」
「ははは!」バルサモは喜びをはじけさせた。「これだから高潔と違って科学には実があるのだ! ブルータスなどメスメルの敵ではない。では聞かせてくれ。しっかりと見えたのかどうか確かめなくてはな」
<「褐色の肌、長身、青い瞳、黒髪、逞しい腕」
「何をしているところだ?」
「走っています、急いでいます、汗を流した駿馬で駆けているようです」
「何処に向かっている?」
「あちらです」と西を指さした。
「街道(route)沿いだな?」
「はい」
「シャロンのか?」
「はい」
「そいつはいい。あいつも俺の行くべき道を進み、俺の行くパリに向かっているのだな。よし、ならばパリで会えようというものだ。もう休んでいいぞ」と、アンドレに言いざま、きつく握りしめられていた巻毛を取り返した。
アンドレの両腕がまたもだらりと垂れ下がった。
「さあ演奏に戻るがいい」
アンドレは扉の方に足を踏み出したが、疲労のあまり足が言うことを聞かず、身体を支えきれずによろめいた。
「続きは力が補充されてからだ」そう言ってバルサモは新たにアンドレを霊気で包み込んだ。
アンドレは疲れを知らない軍馬のように敢然として立ち向かった。主人の指示なら如何なるものであろうとやり遂げんばかりだ。
アンドレが歩き出す。
バルサモの開けた扉を抜けて、なおも昏々としたままゆっくりと階段を降りていった。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre IX「La Voyante」の全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/11、連載第10回。
Ver.1 08/07/19
Ver.2 12/09/17
Ver.3 16/03/01
[訳者あとがき]
・08/07/05 ▼第九章の半分くらいまで終わった。次回更新は7/19(土)頃予定。▼冒頭に「石像のように」とあるのは、原文では「comme la statue de Commandeur」。英語版Wikipediaによれば、モリエールの戯曲『ドン・ジュアン』が元となったフランス語のイディオムで、「騎士の像みたいに(固い・硬い・お堅い)」とかいうような意味であるらしい。こんなの直訳したところでちんぷんかんぷんなので、当たり障りなく「石像」と訳しておいた。ちなみに、『ドン・ジュアン』を読んでみたけど、こういう表現自体が原作にあるわけではない。ドン・ジュアンが決闘で殺した相手の石像が動き出すという話である。
・08/07/19 ▼フィリップの居場所を探して「Place」を透視する場面がある。大文字ということはどこか特定の場所を指すようにも思えるのだが、よくわからない。▼勝ち誇ったバルサモが、催眠療法のメスマーとBrutusを比較する場面があります。素直に文脈を読めば、(擬似)科学のメスマーに、vertuのBrutusということになるので、おそらくはシェイクスピアで有名な高潔の士ブルータスのことでしょう。だから表記も慣用読みして「ブルータス」とし、「vertu」も「高潔」と訳しました。
・16/03/01 ロレンツァが馬で駆けている「シャロン(Châlons)」とは、地理的に見てChâlons-sur-Marne(現 Châlons-en-Champagne)のことか?
[更新履歴]
・12/09/17 「刺繍入りベストの」→「刺繍の施された上着の」
・12/09/17 「と、アンドレを見るに、心に染まぬ指示であろうといざ行かんと身構える従順な駿馬にも似ていた。」→「アンドレはまるで、心に染まぬ指示であろうと何としてもやり遂げる使い走りだった。」
・16/03/01 「Comment ferons-nous, sans argenterie, presque sans linge ?」どう考えても「肌着」の出てくる文脈ではありません。「銀の食器もなければ、肌着すらほとんどないというのに」→「銀の食器もなければ、クロスすらほとんどないというのに」に訂正。
・16/03/01 「Mesmer a vaincu Brutus. 」勝ち負けがアベコベだったので、「メスマーはブルータスの敵ではない。」→「ブルータスなどメスメルの敵ではない。」に訂正。
[註釈]
▼*1. [アンドレの顔に軽蔑の表情が……]。「アンドレの顔に軽蔑の表情が浮かんだ。」の一文は底本にはなく、初出にのみ見られる。[↑]