ライン(Rhin)河左岸、帝都ヴォルムス(Worms)から数里、ゼルツ(Selz)川水源の辺りは、連なる尾根の玄関口に当たるところにして、生い茂った丸い背中が北方に消え入るばかりに見えるのは、怯えて靄に逃げ込み惑う水牛の群れにも似ていた。
これらの山々は、中腹からでさえ人跡稀な地域を一望できたが、さらに高い山にひれ伏す行列のようにも見え、そのいずれも、姿を写し取ったような名や縁起を偲ばせるような詩的な名を戴いている。あるものは
分けても最高峰、花崗岩の
楢の影が深まる夕刻、落日の残光がこの巨大な山並みの頂を
静寂のなかでただ一つ先ほどの小川だけ――現地での呼び名に従えばゼルツバッハ(Selzbach)だけは、岸辺の樅の下を密やかに流れ続けていた。昼また夜と休むことなく、流れる水はいずれラインの河に姿を変えることになろうが、たとい休みのなかろうとも、ひんやりとした川底の砂、しなやかな葦、苔と
水源からさらに上、アルビスハイム(Albisheim)とキルヒハイムボーランデン(Kirchheimbolanden)の間に、曲がりくねった一本の道がある。抉られたような切り立った崖に挟まれ、深い轍の刻まれた道をたどれば、そこはダネンフェルス(Dannenfels)だ。ダネンフェルスから先は道も狭まり、やがては道とも呼べぬ代物になり、遂には埋もれ、途絶えてしまう。目を彷徨わせれども何処までも続くドンナースベルクの山肌しか見つからぬ。霊妙な気配が漂う山頂には神の火がしじに訪れ、それが名の由来となったのだが、山頂は緑なす木叢の向こうに隠れて、厚い壁に隠れたように何も見えない。
事実、古代ドドナの森を彷彿とさせる木叢に潜ってしまえば、たとい白日であれ歩き続ける旅人の姿は平地からは見えなくなる。旅人の乗る馬がイスパニアの騾馬にも負けぬだけ鈴をぶら下げていようとも、鈴の音の聞こえることは決してない。皇帝の馬よろしく天鵞絨と黄金で飾り立てていようとも、金や緋の輝きが葉群から洩れることもない。深い森が音をかき消し、その昏い影が色を消し去る。[*1]
数々の高峰がただの天文台に成り果てた今なお、心震える恐ろしい伝説を耳にした旅人たちが口唇に疑いの笑みを浮かべるようになった今なお、そんな今なおこの辺境の地に怯え畏れを抱く者たちがいた。この地にも人がいることを知らしめるためだけに存在するかのように、聖地から遠く離れて点在する。侘びしい家々や隣国の歩哨たちだ。
この辺境の侘住まいに暮らしているのは、或いは川に小麦を挽かせてロッケンハウゼン(Rockenhausen)とアルツァイ(Alzey)に小麦粉を運ぶ粉屋であったし、はたまた羊飼いたちはといえば山まで羊に草を食ませに行き、年経た樅の老木が人跡未踏の森の奥地で倒れる音を聞いては、飼い犬とともに肝を潰した。
何分にもこの地方ゆかりの風景が陰鬱なることは既に見た通りであり、実直な者たちに言わせれば、ダネンフェルスの奥、ヒースのなかへと消える小径が、良きキリスト教徒を安全な土地まで導くと限った話ではないのである。
今もここに暮らす人々の中には、或いは今からお話しする物語を、かつて父や祖父に話して欲しいとねだった方もあるだろう。
一七七〇年五月六日、大河の水が乱反射して薔薇色に染まる時刻、即ち、ラインガウ(Rheingau)の者に言わせれば、太陽がストラスブール(Strasbourg)大聖堂の尖塔の後ろをよぎり、火の玉が二つの半球に断ち切られる頃合いのこと。マインツ(Mayence/Mainz)を発ち、アルツァイ(Alzey)とキルヒハイムボーランデンを経由してきた一人の男が、ダネンフェルスの向こうから現れた。小径の見える間は小径をたどり、道なき道の跡すら絶えてしまうと、馬から下りて手綱を引き、躊躇うことなく密林の入口にある樅に繋いだ。
怯えた馬がいななき、常ならぬ物音に森がざわめいた。
「どう、どう! いいかジェリド(Djérid)。もう十二里は来た。どのみちお前はここまでだ」
旅人は葉群の奥に目を凝らした。だが既に闇は濃く、黒い影の向こうになお黒い影が見えるだけだった。
改めが無駄に終わると旅人は馬を振り返った。そのアラビア風の名前からわかる通り、生まれも確かな駿馬である。両手で馬の顔を挟み込み、白い息を吐く鼻面に口を近づけた。
「お別れだ。もう会えぬかもしれぬ。さらばだ」
旅人は口を利きながら辺りに目を走らせた。さては盗み聞きを恐れていたのか、或いは望んでいたのか。
馬は絹のような鬣を振り、大地を足で蹴るといななきをあげた。山奥と言えども忍び寄る
旅人は笑みを浮かべて首を大きく縦に振るだけだった。おそらく無言でこう伝えたのだ。
「その通りだ、ジェリド。ここは危険なところだ」
だがその危険と渡り合うつもりは初めからなかったのだろう。旅人は鞍から二挺の銃――彫金細工の銃身に金押しの銃床の美しい銃――を取り出し、綿抜きを使って弾薬を取り出すと、弾薬止めと弾丸を抜き取って草むらに火薬を散らした。
これが終わると、銃を革袋に戻した。
だがまだ終わりではない。
ベルトに鉄柄の剣を佩いていた旅人は、留め金を外してベルトで剣を包むように丸めると、切っ先が後肢側を、柄が前肢側を向くようにして、まとめて鞍の下に入れて鐙で縛りつけた。
謎めいた作業をようやく終えると、ブーツを揺すって泥を落とし、手袋を脱いでポケットを探った。小さな鋏と鼈甲柄の短刀を探り当てると、二つとも肩越しに放り投げた。何処に落ちようと知ったことではない。
最後にジェリドの尻を撫でると、はちきれるほど胸をふくらませるつもりなのか、大きく息を吸い込んだ。どんな道でもよい。旅人は道を探したが果たせず、闇雲に森へ分け入った。
今こそ読者諸兄にお伝えすべきであろう。たったいま登場させたばかりの旅人に如何なる意味があるのかを。この歴史物語を通じて如何に重要な役割を演じる定めなのかを。
馬を下りて無謀にも森に分け入ったこの男、見たところ三十一、二歳。でっぷりとしているが、身体の釣り合いはよい。柔と剛を備えた四肢のうちに、力と技巧が共に漲っているのが感じられる。金ボタンのついた黒天鵞絨の旅外套らしきものを纏っていた。ボタンの下からは刺繍入りの上着が覗いている。ぴたりと貼りついた革製のキュロットが、彫刻のモデルにも使えそうな足を引き立てていた。つやのある革靴越しにもその均整のとれた輪郭が見て取れた。
顔には南方系特有の豊かな表情が浮かび、力強さと巧みさが不思議に入り混じっていた。目にはあらゆる感情が浮かび、ひとたび誰かに目を留めるや内部まで潜り込み、二筋の眼光がその者の心までも照らした。何よりも目立つのはその褐色の頬であり、ここフランスのものより強い陽射しに焼かれていた。口は大きいが形よく、開いた口から覗かせた見事な歯並みが、日焼けした顔色と好対照を成している。足は長いが細く、手は小さいが逞しい。
たったいま姿形をなぞって見せたばかりのこの人物、真っ暗な樅林に何歩か足を踏み入れたところ、馬を置き去りにして来た辺りから蹄を踏みならす音が聞こえて来た。初め、気持に導かれるままとっさに引き返そうとした。だがなんとか思いを押し殺した。それでもジェリドの運命を確かめる誘惑には打ち勝てず、爪先立って木々の隙間から目を凝らした。手綱を解いた見えざる手に引かれ、ジェリドは既に消えていた。
額にうっすら皺が寄り、ふっくらとした頬が引きつり口唇の細い隆起が割れて、笑みのようなものが浮かんだ。
ほどなく森の中へと歩みを進めた。
初めのうちこそ、木々の隙間から射し込む夕陽が行く手を照らしてくれた。だがすぐに、届いていたかすかな光も消え、恐ろしく深い闇が訪れた。足許を確かめることもやめ、遭難するのも嫌なので足を止めた。
「ダネンフェルスまでは苦もなかった」と声に出して言った。「マインツからダネンフェルスまでは一本道なのだからな。ダネンフェルスからシュヴァルツハイデ(la Bruyère-Noire)までも問題はなかった。細い小径をたどればよい。シュヴァルツハイデからここまでも順調だった。道など皆無だったが、こうして森を見つけられたのだ。だがここまでか。もう何も見えぬ」[*2]
言葉にはフランス訛りとシチリア訛りが相半ばしていた。ちょうど独語を終えた頃だろうか、五十歩ほど離れたところに光が湧いて出た。
「ありがたい。あの光について行こう」
すぐに光は動き出した。揺れも震えもせず、乱れることなく進んでいる。まるで作り物の火が舞台上を滑り、台本に則って道具方や演出家の手で動かされているようだ。
それから百歩ほど進んだ時、耳元で人の息遣いのような音が聞こえた。
背筋が凍る。
「振り向くな」右側から声がした。「振り向けば死だ!」
「承知した」眉一つ動かさずに旅人は答えた。
「口を利くな」左から声がした。「口を利けば死ぬぞ!」
旅人は無言のまま首を縦に振った。
「だが怖じ気づいたのであれば」三人目の声がした。ハムレットの父王にも似た、地球の内腑から抜け出たような声であった。「山を下るがいい。権利を放棄したと見なそう。引き返すのを止めはせぬ」
旅人は身振りだけで意思を伝え、歩みを進めた。
夜の闇は濃く、森は深い。光に照らされてもなお幾度となく足を取られた。一時間ほど歩みは続いた。旅人は呟き一つ洩らさず、恐れる素振りも見せずについて行った。
不意に光が消えた。
森の外に出ていた。見上げると、濃紺の空の向こうに星が輝いている。
光の消えた辺りまで足を運ぶと、やがて目の前に古城の亡霊のような廃墟が現れた。
と、足が瓦礫にぶつかる。
途端に冷たいものがこめかみに触れ、両眼を塞いだ。もはや暗闇すら見えなかった。
濡れた亜麻布が顔に縛りつけられたのだ。そうした決まりなのか、覚悟くらいはしていたのか、旅人は目隠しを外そうとはしなかった。ただ案内を乞う盲人のように静かに手を伸ばしただけであった。
意図は伝わり、冷たく乾いた骨張った手が旅人の指を捕らえた。
旅人は気づいた。それが肉のない骨ばかりの手であることに。だが骨ばかりの手に感覚があったならば、骨の方こそ気づいたはずだ。旅人の手が震えていないことに。
そのまま手を引かれてずんずんと歩いた。距離にして百トワーズあまりだろうか。[*3]
不意に手が離れて目隠しが消え、旅人は立ち止まった。ドンナースベルクの頂上に到っていた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Introduction I「Le mont Tonnerre」の全訳です。
Ver.1 07/07/20
Ver.2 08/07/19
Ver.3 12/09/01
Ver.4 14/03/18
[訳者あとがき]
アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』(Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』1846(〜48))の日本語訳です。
『ジョゼフ・バルサモ』『王妃の首飾り』『アンジュ・ピトゥ』『シャルニー伯爵夫人』の四部からなる『ある医師の回想』の第一部に当たります。2007年現在のところ、第二部『王妃の首飾り』だけが創元推理文庫から翻訳出版されています。
ジョゼフ・バルサモ、別名カリオストロ伯爵。この稀代の詐欺師にして錬金術師、すこぶる魅力的な人物のはずなのですが、訳すに当たって参考文献を探そうとしたところ、日本語で読めるのは『山師カリオストロの大冒険』くらいしかありませんでした。というわけで、この本にはかなりお世話になることと思います。
本書の内容は創元推理文庫版『王妃の首飾り』のまえがきに詳しいのですが、簡単に言えば、君主制転覆を目論む山師のほか、宮廷の陰謀、栄達を夢見る者たちそれぞれの思惑が乱立する一大絵巻です。『王妃の首飾り』もそうだったのですが、何より序章がかっこいい。カリオストロ登場のコテコテのかっこよさには痺れます。
この序章その1を訳すのに、ちまちまやって二週間ほどかかりました。全部で百章ほどあるので、訳し終えるのは二百週間後。順調に行って四年越し。挫けず完成させられるのか?
底本にはそこら辺に落ちてるインターネット上のテキストを用いました。誤入力なんかもあるでしょうが気にしない。
1846年〜『La Presse』に連載開始。底本には1907年に刊行された Le Vasseur の挿絵入り版を用いました。
翻訳に際して困ったのが固有名詞。特にドイツの地名をフランス表記してあるのにはお手上げです。
ちなみに、カリオストロの本名は日本では普通ジュゼッペ・バルサモと表記されますが、フランス語読みではジョゼフ・バルサモになります。小説の舞台が主にフランスであること、デュマの作品名として『ジョゼフ・バルサモ』が定着していることを併せて、拙訳でも『ジョゼフ・バルサモ』と表記しました。
[登場人物一覧]
ジョゼフ・バルサモ男爵(フェニックス伯爵)……のちのカリオストロ伯爵。幼名アシャラ。錬金術師にして、王制転覆を謳うフリーメーソンの大コフタ。
アルトタス……バルサモの錬金術の師。不老不死の霊薬の研究に打ち込む。
ロレンツァ・フェリチアーニ……バルサモの妻。イタリア人。
タヴェルネ男爵……落魄の貴族。リシュリューの戦友。
フィリップ・ド・タヴェルネ騎士……タヴェルネ男爵の長男。
アンドレ・ド・タヴェルネ……フィリップの妹。
セバスチャン・ジルベール……タヴェルネ家の乳母の子。アンドレに思いを寄せる。ルソーを愛読する。
ニコル・ルゲ……アンドレの使用人。ある人物に瓜二つ。
ラ・ブリ……タヴェルネ家の使用人。
ボージール……聯隊の指揮官代理。王太子妃からタヴェルネ家のお供を命じられる。
デュ・バリー夫人(ジャンヌ)……国王ルイ十五世の愛妾。
ジャン・デュ・バリー子爵……デュ・バリー夫人の義兄。
ション・デュ・バリー……ジャンの妹。姉はビシ。
ザモール……デュ・バリー夫人の黒人小姓。
ルイ十五世……フランス国王。
王太子(ベリー公、ルイ=オーギュスト)……ルイ十五世の孫。のちのルイ十六世。
王太子妃(マリ=アントワネット大公女)……王太子の妃。オーストリア人。
プロヴァンス伯……王太子の弟。のちのルイ十八世。
ダルトワ伯……王太子の弟。のちのシャルル十世。
アデライード、ヴィクトワール、ソフィー……ルイ十五世の娘。
ルイーズ……ルイ十五世の末娘。
リシュリュー公爵……元帥。デュ・バリー夫人を引き立てる。タヴェルネ男爵の戦友。
ショワズール……筆頭大臣。さきの愛妾ポンパドゥール夫人を後押ししていたため、現愛妾のデュ・バリー夫人とは折り合いが悪い。
グラモン公妃……ショワズールの妹。
モープー……大法官。高等法院に改革のメスを入れる。
デギヨン公爵……リシュリューの甥。高等法院と対立。
サルチーヌ……警察長官。かつら好き。
ロアン枢機卿……マリ=アントワネットに好意を寄せる聖職者。
ジャック氏……植物と哲学を愛する老人。
テレーズ……ジャック氏の妻。
ジュシュー……著名な植物学者。
マラー……医者の卵。フリーメーソン会員。
ルイ医師……王太子妃付きの医者。
[更新履歴]
08/07/19
▼4段目「あたかも天の高みから平野までを静寂が静かに包み込み」→「静寂が静かに」って重なってる気がするので「さながら天の高みから平野までを穏やかに静寂が包み」に変更。
▼5段目「たとえ昼も夜も休むことがなくとも。絶え間なく注がれる流れはやがてラインに生まれ変わることになる。たとえ休むことがなくとも、冷たい川底の砂、しなやかな葦、苔とユキノシタに守られた岩のおかげで、Morsheimから始まりFreiwenheimに至るどの流れもざわめきを立てることはない。」挿入句を上手く訳せなかったので、思い切って句点でぶつ切りにしてリズムで乗り切ろうとしたつもりだったんだけど、読み返してみるとやっぱり変なのでどうにか一文にした。結果的にここだけ浮いている気もするが、ほんとうはこんなふうに古くさい感じで訳したいんだけど。→「昼また夜と休むことなく、明日の我が身なるラインの流れに注ぎ込むのが定めなれど、たとい休みのなかろうとも、ひんやりとした川底の砂、しなやかな葦、苔とユキノシタに覆われた岩のおかげで、Morsheimから始まりFreiwenheimに至るどの流れもざわめきを立てることは決してない。」
▼8段目「数々の高峰が質素な天文観測所になった今なお、心震える恐ろしい伝説を耳にした旅人たちが口唇に疑いの笑みを浮かべるようになった今なお、この辺境の地が近隣の地に畏れを抱かせている今なお、あたりにはみすぼらしい家々や人気のない隣国の前哨地がわずかに見えるだけだ。それすらもこの聖地からは遥かに遠いのだが、この一帯にも人がいることを知らしめてはいた。」ここは完全に文章を取り違えていました。初めの二節が「aujourd'hui encore que」の繰り返しで、三節目が「aujourd'hui encore」なので、「今なお〜だが、今なお〜だが、今なお〜なのである」と最後は肯定にならなくてはいけない。原文は一段がそのまま一文なので、日本語でも一文で訳そうと思って(実際に試みてみたのだが)、何が何だかわからなくなるのでやめた。→「数々の高峰がただの天文台に成り果てた今なお、心震える恐ろしい伝説を耳にした旅人たちが口唇に疑いの笑みを浮かべるようになった今なお、そんな今なおこの辺境の地に怯え畏れを抱く者たちがいた。この地にも人がいることを知らしめるためだけに存在するかのように、聖地から遠く離れて点在する、侘びしい家々や所在なさげな隣国の歩哨たちだ。」
▼9段目「この辺境の侘住まいに暮らす者たちがいる。粉屋たちは川に小麦を挽かせ、Rockenhausenとアルツェイ(Alzey)に小麦粉を運ぶ。羊飼いたちは山のなかまで羊に草を食ませに行き、年経た樅の老木が人跡未踏の森の奥地で倒れる音を聞いては、飼い犬とともに肝を潰した。」この文章の構造を単純化すると「〈ここに暮らしている者〉は〈粉屋〉と〈羊飼い〉」なのだが、ごてごてと修飾されているせいで上手くすっきりとした訳文に出来なかった。そのためいったん主節で文章を区切ってみたのだけれど、これだと前段からのつながりがはっきりしないので改める。とはいえこれもちょっと不満が残る。→「この辺境の侘住まいに暮らしているのは、或いは川に小麦を挽かせてRockenhausenとアルツァイ(Alzey)に小麦粉を運ぶ粉屋であったし、はたまた羊飼いたちはといえば山まで羊に草を食ませに行き、年経た樅の老木が人跡未踏の森の奥地で倒れる音を聞いては、飼い犬とともに肝を潰した。」
▼10段目「事実この地方の言い伝えによれば、このように哀れなものであった。人の話を信ずるならば、Danenfelsの奥、ヒースのなかへと消えた小径が、良きキリスト教徒を安全な土地まで導くと限った話ではない。」「souvenir」を上手く訳せない。原意は「記憶を呼び起こすもの」であり、普通は「記念品」「土産」「形見」「あかし」「思い出」「回想録」等々と訳されるのだけれど。→「何分にもこの地方ゆかりの風景が陰鬱なることは既に見た通りであり、実直な者たちに言わせれば、既に述べたようにDanenfelsの奥、ヒースのなかへと消える小径が、良きキリスト教徒を安全な土地まで導くと限った話ではないのである。」
▼11段目「今もここに暮らす人々のなかには、今から語り始める物語を、かつて父や祖父の口から聞いたこともあるであろう。」「a-t-il entendu raconter autrefois à son père」なので、「父が物語るのを聞いた」のではなく「父に物語るのを聞いた」でした。→「今もここに暮らす人々の中には、或いは今から語り始める物語を、かつて父や祖父に聞かせているのを耳にしたこともあるであろう。」 →12/09/01さらに訂正。この文章の「entendre」は「聞く」ではなく「欲する」。「物語ることを父に欲する→話をねだった」ということらしい。
14/03/18
▼一段目。「Selz」は「ザール川」ではなく「ゼルツ川」なので訂正。
▼二段目。ドイツ語訳を参考に、山の名前を現地名に直す。「Ces montagnes qui, dès leur talus, dominent déjà un pays à peu près désert, et qui semblent former un cortège à la plus haute d'entre elles, 」。「talus(斜面)」とは、「山頂」や「平地」ではなくて「山腹」「中腹」なのだという意味であろう。「山上から見下ろせる限りはとうに人跡絶えており、一頭抜きでた高峰がほかの山々を付き従えているようにも見えた」 → 「これらの山々は、中腹からでさえ人跡稀な地域を一望できたが、さらに高い山にひれ伏す行列のようにも見え、」に訂正。
▼「水源からさらに上、アルビスハイム〜」の段落。「l'oeil cherche en vain autre chose sur le sol que la pente immense du mont Tonnerre」。「autre 〜 que …」なので、探していたのは道に限らず「山腹以外の地上の何か」である。言いかえれば山腹しか見えなかったということなので、「ほかの道を求めてドンナーベルクの広大な山腹に視線を走らせても無駄に終わる」 → 「目を彷徨わせれども何処までも続くドンナースベルクの山肌しか見つからぬ」に変更。
▼「一七七〇年五月六日」の段落。大聖堂の尖塔が太陽の中心を割って真っ二つにするのに、「太陽が(中略)尖塔に身を潜める」ではおかしいので、「太陽が(中略)尖塔の後ろをよぎり」に変更。ただし「よぎる」は「前を通りすぎる」という意味なので、日本語的にはまだおかしいまま。
▼「これが終わると、銃をホルスターに戻した」 → 「これが終わると、銃を革袋に戻した」に訂正。「fontes」とは銃などを入れるため鞍の脇にある革袋のこと。
▼「顔には南方系特有の〜」の段落の最後。訳し抜けがあったので追加。→ 「足は長いが細く、手は小さいが逞しい。」
▼「初めのうちこそ、木々の隙間から〜」の段落。道がないのだから、「道を照らして」「道に迷う」といった言葉は使いたくない。→ 「行く手を照らして」「遭難する」に変更。
[註釈]
▼*1. [ドドナの森]。ギリシアにあった、ゼウスの神託所があったとされる場所。[↑]
▼*2. [シュヴァルツハイデ]。原文「la Bruyère Noire」。ドイツの地図を見ると、ダネンフェルスからドンナーベルク山までは大きな道も町もなく、ほとんど山と森でした。この森のどこかに「la Bruyère Noire」に該当する場所があると思しいのですが、正確な場所および地名を見つけることが出来ませんでした。フランス語「la Bruyère Noire」は「黒いヒース(の原)」の意味なので、試みにドイツ語に直訳して「Schwarzhaide」としておく。[↑]
▼*3. [百トワーズ]。トワーズ(toise)は昔の長さの単位。1トワーズ=約1.929メートル。すなわち100トワーズ=192.9メートル。[↑]