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翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第二十六章 ペトー王の宮廷

 出口に立ちふさがるようにして舞台に登場した、この思いがけない人物を見て、ルイ十五世は一歩退いた。

 ――おやおや、すっかり忘れていた。好都合かもしらんな。全部ひっかぶってくれるかもしれぬ――。「おお、そなたか! ちょうど呼びに遣っていたのだが、そのことは伝わっているな?」

「ええ、陛下」大臣は冷やかに答えた。「陛下の許に参ろうと着替えをしておりましたところ、命令が届きましたので」

「うむ、大事な話があったのでね」ルイ十五世は眉を寄せた。出来ることなら大臣を威圧しておきたい。

 生憎なことに、ショワズール氏は国内でも有数の、脅しの通じぬ人間だった。

「私の方にも、大変重要な話がございます」

 と一礼すると同時に、時計の陰に隠れていた王太子と目を交わした。

 これで国王も腹を決めた。

 ――なるほど、そちらもか! このように包囲されては、逃げようがないな。

 先制攻撃を食わせようと急いで口を開いた。「ジャン子爵が殺されそうになったのは知っておろう」

「正確に申しますと、前腕に刀傷を負ったのです。私が申し上げに来たのもそのことです」

「さもありなん、耳が早いな」

「情報の先を行っておりますゆえ」

「するとそなたはこの事件について詳しく知っているのか?」国王が意味ありげに問いかけた。

「何もかも知っております」

「なるほど宮廷で言われていた通りだな」

 ショワズール氏はなおも平然としていた。

 王太子は銅のナットを締めるのに忙しかったが、それでもうつむいたまま耳をそばだて、片言隻句なりとも聞き逃すまいとしていた。

「これから事件が起こったいきさつを話してやろう」

「陛下は詳しい事情をご存じなのですか?」

「うむ、そのことだが……」

「私どもにはいつでも謹聴する用意は出来ております」

「私どもとは?」

「つまり、王太子殿下と私でございます」

「王太子だと?」へりくだった様子のショワズールから、耳をそばだてているルイ・オーギュストへと目を移した。「王太子がこの喧嘩とどう関わるのだ?」

「関係はございます」ショワズール氏が王太子に頭を下げた。「王太子妃殿下が原因なのですから」

「妃殿下が原因だと?」国王は身震いした。

「ご存じありませんでしたか? ではあまり詳しい話をお聞きではないのでしょう」

「王太子妃とジャン・デュ・バリーか。奇妙な取り合わせだ。よかろう、説明してくれぬか、ショワズール殿。隠し立ては無用だぞ。デュ・バリーに傷を負わせたのが妃だったとしてもだ」

「妃殿下ではございませんが」ショワズールは態度を変えなかった。「護衛の者がやったことでございます」

 国王は再び顔を曇らせた。「その者を知っているのか?」

「私は存じ上げませんが、勲臣一人一人を胸に刻んでいる陛下ならご存じのはずです。父君の背負っているその名はフィリップスブルク、フォントノワ、マオンに響き渡っておりました。タヴェルネ=メゾン=ルージュです」

 王太子はその名を記憶に刻もうとでもしたのか、部屋の空気諸共この名も吸い込んだように見えた。

「メゾン=ルージュ? もちろん知っておる。それがどうしてジャンの奴と喧嘩なぞを? 余がジャンを寵しているからか……馬鹿げた妬み、不満のとば口、叛乱の趣すらあるのでは!」

「陛下、話をお聞き下さいますか?」

 この問題を切り抜けるには感情的な真似をするしかない。ルイ十五世はそれを承知していた。

「要するにこれは、余の平穏を乱す陰謀の萌芽、余の家族を貶める嫌がらせではないか」

「陛下がこの青年を非難なさるのは、嫁御でいらっしゃる王太子妃殿下をかばってるからですか?」

 王太子が立ち上がって腕を組んだ。

「私はその男に感謝していますよ。二週間後には妻になる大公女(une princesse)のために、命を賭けてくれたんですから」

「命を賭けた、か!」国王が呟いた。「何のために? それが知りたい。いったい何のために?」

「ジャン・デュ・バリー子爵は旅を急ぐあまり、妃殿下がご到着予定の宿駅で、馬を奪おうとしたのです。恐らくさらに先を急ぐために」

 国王が口唇を咬み、顔色を変えた。先ほど感じていたのと同じような不安が幽霊の如く迫り来るのを悟ったのである。

「そんなことはあるまい。余にはわかっている。そなたは良く知らぬのだ」ルイ十五世はぼそぼそと呟き、時間を稼ごうとした。

「いえ陛下、良く知っております。名誉に賭けて、陛下に申し上げることは掛け値ない真実でございます。ジャン・デュ・バリー子爵は確かに、王太子妃殿下のためにご用意してあった馬を入手せんとして妃殿下を侮辱され、宿駅の主に乱暴を働いて力ずくで馬を連れ出そうとしていたところ、妃殿下に遣わされたフィリップ・ド・タヴェルネ士爵から相手を立てた鄭重な警告を受けた後……」

「うむ、うむ!」国王がうめいた。

「相手を立てた鄭重な警告を受けた後、でございます、陛下……」

「そう、私も保証しますよ」王太子が言った。

「そなたも知っているのか?」たまげてしまった。

「すっかり知ってます」

 ショワズール氏が感謝するように頭を下げた。

「殿下がお話しなさいますか? 恐らく私の言葉などより、ご実息でいらっしゃる殿下のお言葉の方が陛下も信頼なさるでしょうから」

「うん、そうしよう」王太子が言葉を続けた。ショワズール大臣としては、懸命に大公女をかばっていることに当然ながら某かの感謝を期待していたところだが、王太子はそんな素振りは一切見せなかった。「私も事情は知っているし、ここに来たのも陛下にそれを伝えるためです。デュ・バリー氏は馬の用意を妨げて妃殿下を侮辱しただけでなく、無礼を糾して務めを果たしただけの聯隊将校に対して力ずくで逆らったことでも妃殿下を侮辱したのです」

 国王は首を横に振った。

「まだ何とも言えぬ」

「私には断言できます」王太子は激せず答えた。「デュ・バリー氏が剣を抜いたのです」

「先に、かね?」国王は喜んで、引き分けに持ち込めそうな可能性に飛びついた。

 王太子が真っ赤になって助けを求めて見つめるので、ショワズール氏は慌てて助けに入った。

「つまり陛下、妃殿下を侮辱した人間と、妃殿下を守ろうとした人間の、二人が剣を交したのでございます」

「それはわかるが、先に手を出したのはどちらだね? 余はジャンを知っている。子羊のようにおとなしいぞ」

「個人的には、先に手を出したのは、非があった方の人間だと思います」王太子がいつもながらに穏やかに答えた。

「難しい問題だ。先に手を出したのは非があった方の人間……非があった方か……しかしもし将校が無礼な態度を取ったのだとしたら?」

「無礼ですと!」ショワズール氏が声をあげた。「妃殿下のために用意された馬を持ち出そうとしていた人間に立ち向かうことが無礼だと仰るのですか? まさかそう仰るのですか?」

 王太子は声こそあげなかったが、顔から血の気が引いていた。

 二人が反発していることにルイ十五世も気づいた。

「昂奮していたのではないかと言いたかったのだ」国王は言い直した。

「もっとも――」国王が引いたのを見て、ショワズール氏が一押しした。「忠実な家臣が非を犯すはずのないことは陛下もよくご存じでいらっしゃいましょう」

「そうかな。それより、そなたはどうやって今回のいきさつを知ったのだ?」国王は王太子にたずねながらも、目はショワズール氏から逸らさずにいた。不意に声をかけられた王太子はひどく慌ててしまい、動揺を隠そうと努めたものの、狼狽えているのは誰の目にも明らかだった。

「手紙が届いたのです」

「誰からだね?」

「妃殿下のことをお気に掛け、侮辱などもってのほかと感じている者からでしょう」

「ああ、また秘密の手紙に悪だくみか。また余を困らせようと企んでいるのだな。ポンパドゥール夫人の時と同じだ」

「違います、違います」ショワズールが口を挟んだ。「そんなややこしいことではなく、第二級不敬罪に過ぎません。然るべき罰を犯人に下せば済む話でございます」

 この罰という言葉に、伯爵夫人が柳眉を逆立てションが色をなして食ってかかるのが、目に見えるようだった。家庭の平和が飛び去ってしまう。それはルイ十五世が生涯を通して求めながら果たせないものであった。爪を立て、目を涙で真っ赤に腫らし、内紛が始まるのが目に見えた。

「罰か! まだ当事者から話も聞いていないし、どちらの言い分が正しいのか判断もしようがないではないか! クーデターが起こったわけでも封印状が必要なわけでもあるまい! そなたはそんな提案をして、余をどんな厄介ごとに引きずり込むつもりなのだ?」

「ですが陛下、初めが肝心です。妃殿下を侮辱した者に制裁を加えておかなければ、これから先、いったいどうなるでしょうか……?」

「中傷が飛び交いますよ」王太子が後を引き取った。

「制裁に中傷だと? では我々を取り巻く中傷にいちいち制裁を加えるがいい。余は封印状に署名して一生を終えねばなるまい! ありがたいことに、もう飽きるほど署名はしてしまったよ!」

「必要なことです、陛下」ショワズール氏が言った。

「私からもお願いいたします、陛下……」王太子も重ねて言った。

「怪我をしたことでとうに罰せられているとは思わぬのか?」

「そうは思いません。タヴェルネ殿を傷つける可能性もあったのでございますから」

「もしそうなっていたら、そなたは何を望んでいたかね?」

「子爵の首を」

「だが、アンリ二世を殺したモンゴムリーにもそれほどひどいことはしなかったではないか」

「モンゴムリー伯は偶然から国王を殺してしまいましたが、ジャン・デュ・バリー殿は侮辱しようとして王太子妃殿下を侮辱したのでございます」

「ではそなたも――」と、ルイ十五世は王太子に問いかけた。「ジャンの首が望みなのか?」

「いいえ、私は死刑には反対ですから」そう言ってから控えめにつけ加えた。「ですから、私のお願いは追放刑に留めるつもりです」

 国王は身震いした。

「旅籠の喧嘩に追放だと? ルイ、博愛主義のわりには厳しいではないか。そなたはやはり、博愛主義者である以前に数学者なのだ。そして数学者とは……」

「続きを承っても構いませんか?」

「数学者は物事すべてを数字で考えたがるものだ」

「陛下、私はデュ・バリー殿個人を恨んでいるのではありません」

「では誰を?」

「妃殿下の襲撃者を」

「夫の鑑ではないか!」国王が皮肉った。「ありがたいことに、そう簡単には騙されぬぞ。非難されているのが誰かもわかっているし、余にどう思わせたくて大げさに騒ぎ立てているのかもわかっている」

「陛下、大げさではございません。民衆はあまりの無礼に心から憤っているのです」ショワズール氏が言った。

「民衆だと! そなたは自分を、いや、余をとんでもないことに巻き込んでおるな。民衆に耳を傾けろと? 中傷、諷刺、小唄の作者や陰謀家が口を揃えて、王様は盗まれ騙され裏切られていると言っているのに? くだらん。勝手に言わせて笑っておけばいい。余に倣え、耳を閉じよ。そのうち疲れてしまえば、民衆も叫ぶのをやめるだろう――ははあ、そなたは不満そうな素振りをしておるな。ルイはすねたような顔をしておる。まことに不思議なものだな! 半端者のためになら出来ることも余のためには出来ぬし、生きたいように生きることも許さずに、余が好きと言えば嫌いと言い、嫌いと言えば好きと言う。余はまともかうつけか? 余は君主か否か?」

 王太子がナイフをつかみ、振り子時計に戻った。

 ショワズール氏は先ほど同様に頭を垂れた。

「そうか、答えはなしか。何でもよいから何か答えぬか! そなたたちは余を苦しめて死なせたいのか? さえずったかと思えばだんまりを決め込み、憤ったかと思えばびくつきおって」

「私はデュ・バリー殿に憤っているのではありません」王太子が笑顔で答えた。

「私も子爵にびくついているわけではございません」ショワズール氏はつっけんどんだった。

「揃いも揃ってひねくれおって!」国王は立腹を装い声をあげたが、胸に湧いていたのは悔しさであった。「そなたたちは余をヨーロッパ中の笑いものにしたいのか? プロイセン王から馬鹿にされればよいと思っておるのか? あの忌々しいヴォルテールでもあるまいに、ペトー王の宮廷よろしく、好き勝手に口を利くつもりか? とんでもない! そうはさせぬぞ。そうは問屋が卸さぬ。余は自分なりに名誉をわきまえておるし、自分なりにそれを守るつもりだ」[*1]

「陛下――」王太子の声は飽くまで穏やかだったが、妥協の構えは見えなかった。「恐れながら申し上げますが、問題になっているのは陛下の名誉ではなく、辱めを受けたのは王太子妃の尊厳なのです」

「殿下の仰る通りでございます。陛下から一言仰っていただければ、繰り返す者は二度とおらぬでしょう」

「誰が繰り返すというのだ? 始まってもいないというのに。ジャンは愚かだが悪意はない」

「愚かという点に相違なければ、その愚かさゆえにタヴェルネ殿にお詫びすることにはなりませんか」ショワズール氏が言った。

「その話はもうよい。どうでもよいことばかりだ。ジャンには謝罪する自由もあるし、謝罪しない自由もある」

「事件を成り行きに任せますと、騒ぎになりましょう」ショワズールが口を添えた。「それを前もって陛下にお知らせ出来るのはありがたいことでございます」

「結構だな! ではそうしてみるがよい。余は耳を塞いでおこうか。そなたたちのたわごとはもうたくさんだ」

「では陛下は――」ショワズール氏の声は怖いほどに冷たかった。「デュ・バリー殿が正しいとお認めになったと考えていいのでしょうか?」

「余が認めたと? インクほども真っ黒な事件の渦中にいる人間のことを、正しいと認めたというのか? どうも余を怒らせたいらしいな。気をつけるがいい、公爵……ルイ、そなた自身のためにも、よく覚えておけ……余の言ったことは、後はそなたたちで考えてくれ。余はもう疲れた。限界だ。もう構わぬ。ご機嫌よう諸君、余は娘たちのところに寄ってからマルリーに避難するとしよう。あそこなら少しは落ち着けるだろう。そなたたちがついて来なければの話だがね」

 国王がそう言って戸口に向かったところ、扉が開いて取次が姿を見せた。

「陛下、ルイーズ王女殿下がおいとまのご挨拶をするため、回廊(la galerie)でお待ちしていらっしゃいます」

「いとまの挨拶だと?」ルイ十五世は仰天した。「何処に行くつもりなのだ?」

「宮殿を離れる許可を陛下からいただいたとおっしゃっていましたが」

「また事件か! お祈り娘が今度も何かやらかしおったか。余は世界一不幸な人間に違いあるまい!」

 そうして国王は走り去った。

「置き去りにされてしまいましたな」ショワズール公爵が王太子にたずねた「殿下はどうなさいますか?」

「おっ、鳴っている!」振り子時計が元通り動き出した音を耳にして、本気なのかふりなのか、王太子は喜びの声をあげた。

 大臣は眉を寄せ、後ずさるようにして部屋を出た。振り子時計の間に残ったのは王太子一人だった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XXVI「La cour du roi Pétaud」の全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/29、連載第27回。


Ver.1 09/06/20
Ver.2 16/03/16


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[訳者あとがき]

 ・09/06/20 ▼次回は7/4(土)更新予定。第27章「マダム・ルイーズ・ド・フランス」。▼タイトルにもなっている「ペトー王の宮廷(la cour du roi Pétaud)」とは「居合わせた人みんなが主人顔」「王様が多すぎる」といったくらいの意味です。

[更新履歴]

・16/03/16 「bon lieu」で「上流階級」の意なので、「そうか、そのことは先だって聞いておった」→「なるほど宮廷で言われていた通りだな」に訂正。

[註釈]

*1. [ペトー王の宮廷]。la cour du roi Pétaud 章のタイトルにもなっている「ペトー王の宮廷」とは、「誰もがイニシアチブを取ろうとして収拾がつかなくなり意思疎通ができない状態」のこと。[]
 

*2. []。[]
 

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