この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第三十章 副官ル・ヴィス

 モープーの邸に向かいながら、老伯爵夫人は手足をぶるぶると震わせていた。

 それでも、道々考えているうちに落ち着きを取り戻していた。いろいろと考え合わせれば、こんな遅い時間にモープーが会ってくれるとは思えないし、また来ることを門衛に伝えておけば済むことではないか。

 果たして七時くらいであろうか、まだ明るかったものの、貴族たちの間には四時に夕食を摂る習慣が広まっていたので、夕食から翌朝までは何も受けつけてもらえないのが普通だった。

 ベアルン夫人は是非とも副大法官に面会したかったのだが、どうせ会えないだろうと思うと気が楽になった。しばしば理屈抜きで納得してしまうのが、矛盾多き人間というものである。

 というわけで、訪れた伯爵夫人も、門衛に追っ払われるものだと考えていた。頑固な門衛を懐柔しようと三リーヴル=エキュを準備して、審問予定の目録に自分の名前が載っているのを確かめさせようとしていた。

 邸の前まで来ると、どうやら取次から指示を受けているらしい門衛の姿が目に入った。二人の会話を邪魔せぬよう、目立たぬようにして待っていたのだが、人が乗っている貸馬車を目にした取次が席を外した。

 そこで門衛が四輪馬車に近づき、請願者に名前をたずねた。

「あら何故です? どうせ閣下にお会い出来ないのはわかってますよ!」

「事情はどうあれ、お名前をお聞かせ願えますか」

「ベアルン伯爵夫人といいます」

「閣下はご在宅です」

「何ですって?」ベアルン夫人は耳を疑った。

「閣下はご在宅だと申し上げたのです」

「でも、会っては下さらないんでしょう?」

「お会いになるそうです」

 ベアルン夫人は半信半疑のまま馬車から降りた。門衛が紐を引き、ベルを二度鳴らした。取次が段上に現れると、門衛は中に入るよう伯爵夫人をうながした。

「閣下とのお話しをご希望ですね、マダム?」取次がたずねた。

「ご厚意を願いますが、期待はしておりませんよ」

「どうかこちらにおいで下さい、伯爵夫人」

 この法官はあまり評判が良くないけれど――取次の後ろを歩きながら伯爵夫人は考えた。でも、いいところがあるじゃないの。時間を気にせず会ってくれるんだから。大法官!……おかしなこと。

 こうして歩きながらも、モープーが務めに励んで特権を手に入れたのだとすると、それだけに気難しく不機嫌な人間に会うことになるのだと考えて、身体が震えていた。モープー氏は、大きな鬘に埋もれ、黒天鵞絨の法服に身を包み、扉の開いた部屋で仕事をしていた。

 伯爵夫人は部屋に入り、素早く辺りに一瞥をくれた。だが自分しかいないことに気づいて吃驚した。伯爵夫人と、痩せて黄ばんだ多忙な大法官を除けば、鏡に映っている者は一人もいなかったのである。

 取次がベアルン伯爵夫人の名を告げた。

 モープー氏はぎくしゃくと立ち上がってそのまま暖炉にもたれかかった。

 ベアルン夫人は作法通りに三段の礼を行った。

 堅苦しい礼を済ませると簡単な挨拶をした。地位や名誉を求めに来たのではないこと……多忙な大臣がわざわざ時間を空けてくれるとは思っていないこと……。

 それに答えてモープー氏が言うには、国王の臣下及び大臣としては、時間を無駄にする訳にはいかない。だが緊急の用件であれば話はまた別である。だから、例外に値するとあらば、いつでも喜んで時間を割いている、と。

 ベアルン夫人は改めて礼をしたものの、はたと押し黙ってしまった。それというのもいい加減で挨拶をやめて、用件を切り出さなくてはならなかったからだ。

 モープー氏は顎を撫でて待っていた。

「閣下、畏れながら重大な訴訟についてお話しすることをお許しいただけますか。私の全財産がかかっておりますのです」

 モープー氏は軽く頭を動かした――話しなさい。

「実は閣下、私の全財産、と言いますか息子の全財産のことで、目下サリュース家に訴訟を起こしていることはご存じかと思います」

 副大法官はなおも顎を撫でていた。

「ですけど閣下が公正なことは良く存じ上げておりますから、私の訴訟相手にご好意を――いえ、ご親交を持っていらっしゃるのはわかっていながら、話を聞いていただきに伺うことを一瞬でも躊躇ったりはしませんでした」

 モープー氏は、公正というお世辞を聞いて微笑みを禁じ得なかった。五十年前にデュボワが使徒の如き美徳だと褒めそやされたことがあったが、公正とはそれに相応しい言葉ではなかろうか。

「伯爵夫人、サリュース家の友人だというのは認めます。だがひとたび公印を手にすれば友情は脇に置いている。そのことはあなたにも認めてもらわなければ。正義の長に相応しからんとして、個人的なことには断じて関心を払ってはいません」

「ああ閣下! 祝福あれ!」

「だから、一法律家として訴訟に当たりましょう」

「ありがとうございます。さすがでございますね」

「確か、訴訟はもう間もなくでしたね?」

「来週なんです」

「では、どうしろと?」

「書類を調べていただきたいのです」

「もう済ませました」

「ではどう思われました?」伯爵夫人は身震いした。

「あなたの訴訟のことかな?」

「ええ」

「疑問の余地はありませんね」

「え? 勝訴がですか?」

「いいえ、敗訴がです」

「訴訟に負けると仰るんですか?」

「まず間違いありません。だから助言いたしましょう」

「何でしょう?」伯爵夫人は望みの綱にしがみついた。

「払わなくてはならないお金があるようなら、訴訟が裁かれ、判決が下される時には……」

「ええ」

「ええ、現金を用意しておくことです」

「でもそれじゃあ破産してしまいますよ!」

「いいですか伯爵夫人、そういった事情には立ち入ることは出来ません」

「でも閣下、正義にも情けはございませんか」

「それが理由ですよ、正義が目隠しされているのは」[*1]

「でも、それでも閣下は助言を下さいますよね」

「どうぞ。何が望みです?」

「示談に持ち込んだり、もうちょっと軽い判決をもらうことは出来ないんですか?」

「高等法院に知り合いはないのですね?」

「おりません」

「それはお気の毒に! サリュース家は高等法院の四分の三とつきあいがありますよ」

 伯爵夫人がぶるぶると震えた。

「いいですか」副大法官は話を続けた。「そんなことはたいした問題ではありません。法官とは個人的な事情に左右されてはならぬのです」

 これもまた事実である。大法官が公正であり、あのデュボワが使徒の如き美徳を有していたのと同じことだ。伯爵夫人は気を失いそうになった。

「だが如何に公明正大とはいえ、他人のことよりは友人のことを考えるものです。致し方ないといえば致し方ない。あなたが訴訟に負けるのも致し方ないとも言えるでしょうし、極めて不愉快な結果になる可能性もあるでしょう」

「でも閣下のお話を聞いていると、ぞっと致しますね」

「個人的な見解は差し控えます。他人にとやかくは言えませんし、それに私自身が裁く訳ではありませんから。ですからお話しも出来るのですが」

「閣下、一つ思いましたんですけどね」

 副大法官はその小さな灰色の瞳で、老婦人を見つめた。

「サリュース家はパリで暮らしてますし、高等法院の方々とおつきあいがあるし、要するに無敵じゃありませんか」

「何せあの方たちにも権利はありますから」

「閣下のように完璧な方の口からそのような言葉を聞くと、ひどく気が滅入りますよ」

「申し上げたことに嘘偽りはありませんが」モープーは善人を装って答えた。「でもだからこそ、私の言葉をお役に立ててもらいたい」

 伯爵夫人はぞくりと震えた。副大法官の言葉の内に、いや少なくとも思いの内に、仄暗いものを見たような気がしたのだ。とは言え、曇りが晴れればその向こうには善意が見えたことだろう。

「それに、あなたのお名前はフランスでも有数のお名前ですから、かなり強力な武器になるのではありませんか」

「誰か敗訴を防いでくれる人はおりませんか、閣下?」

「私には無理です」

「ああ、閣下、閣下!」伯爵夫人は激しく首を振った。「何もかもどうなってしまうんでしょう!」

「こうお考えではありませんか」モープーは笑みを浮かべていた。「我々が生きていた古き時代には、何もかもうまくいっていた、と」

「ええ、そう感じてますよ。あの頃のことを思い出すとわくわくします。高等法院の一辯護士だったあなたは、立派な演説を行っていましたね。私も当時はまだ若くて、熱烈な拍手を送っていましたっけ。ああ、興奮? 演説? 美徳? ああ、大法官さん、あの頃には、謀り事も依怙贔屓もありませんでした。あの頃なら、きっと訴訟にも勝っていましたとも」

「摂政公が目を閉じている間に政治を操ろうとしたファラリス夫人がいたし、何かと齧り取ろうとして何処にでも潜り込んでいたラ・スーリ(二十日鼠)もいましたがね」

「閣下、ファラリス夫人は立派な貴婦人でしたし、ラ・スーリも素敵なお嬢さんでしたよ!」

「誰もあの人たちを拒むことは出来なかった」

「あの方たちに拒む術がなかったのかもしれませんよ」

「いや参った! 伯爵夫人」大法官が笑い出したので、老婦人はいよいよ吃驚した。それほどまでに気兼ねない自然な様子だったのだ。「昔を懐かしむのにかこつけて、政府の悪口を言わせようとは人が悪い」

「ですけど閣下、嘆かずにはいられませんよ。財産をなくして、永久に家を失ってしまうんですから」

「もうあの頃ではないんです。今は今の崇拝対象を追いかけなさい」

「でも閣下、あの人たちは手ぶらで崇拝しに来る人なんか相手にしませんよ」

「どうしてわかります?」

「え?」

「ええ。多分、試してみたわけではないのでしょう?」

「ああ閣下、ご親切に。お友達みたいに話して下すって」

「同い年ではありませんか」

「どうして私は二十歳じゃないんでしょうねえ、閣下。それにあなたが今も一介の辯護士だったら! そうしたら私を辯護してくれたでしょうし、サリュース家があなたと対峙することもなかったでしょうに」

「残念だが私たちはもう二十歳ではありません」副大法官は無礼にならぬように溜息をついた。「ですから二十歳の人間に任せましょう。あなたご自身、人の上に立つお年なんですから……そうか! 宮廷にお知り合いはいないんですね?」

「隠居した老貴族が何人かいますけど、古い友人のことは恥じていることでしょうよ。こんなに貧しくなってしまったんですもの。ねえ閣下、私もヴェルサイユに参上することは許されてるんですから、その気になれば行くことは出来るんですよ。でもそんなことをしても無駄じゃありませんか? 二十万リーヴル取り戻しでもすれば、また人も寄って来るでしょうけど。どうか奇跡を起こして下さい、閣下」

 大法官は最後の一言には気づかぬふりをした。

「私なら旧友のことは忘れますよ。向こうでも忘れているのだから。私なら支持者を欲しがっている若者たちのところに行きますがね。マダムたちとはお近づきでは?」

「私なんか忘れられてますよ」

「では無理ですね。王太子とは?」

「全然」

「もっとも、ほかのことを考えたくても、大公女のことで頭がいっぱいでしょうがね。それでは寵臣たちに移りましょうか」

「もうお名前すら存じ上げませんよ」

「デギヨン氏のことは?」

「お調子者だとかひどい話を聞いてますけどね。他人に戦わせておいて小屋に隠れていたとか……まったく!」

「いけませんな! 噂など話半分にも信じてはなりません。次に行きましょうか」

「ええ、続けて下さい、閣下」

「だがどうして? いや……うん……大丈夫……」

「仰って下さいよ」

「どうして伯爵夫人ご本人にお話しなさらないのです?」

「デュ・バリー夫人に?」老婦人は扇を広げた。

「何せ親切な方ですから」

「そうですねえ!」

「それに本当に世話好きな方で」

「私くらい古い家柄でしたら、きっと喜んでもらえますね」

「さあ、どうでしょうか。格式の方を求めてらっしゃるようですが」

「そうなんですか?」既に抵抗の意思は揺らいでいた。

「お知り合いですか?」

「まさか。存じ上げません」

「それは……あの人なら信頼出来ると思ったのですが」

「ええ、そりゃそうですとも。でもお会いしたこともないんです」

「妹のションにも?」

「ええ」

「ビシにも?」

「ええ」

「兄のジャンにも?」

「ええ」

「黒んぼのザモールにも?」

「黒んぼですって?」

「そうです、黒んぼも頭数に入ってます」

「ぞっとするような肖像画がポン=ヌフで売られていましたけど、あの服を着たパグそっくりの?」

「その通り」

「黒ん坊と知り合いかと仰るんですか!」誇りを傷つけられた伯爵夫人が叫んだ。「黒んぼと知り合いだといいことでもあるんですか?」

「すると、土地を守りたくはないのですね」

「どうしてです?」

「ザモールを軽蔑しているようですから」

「でもそのザモールに何が出来るというんですか?」

「勝訴に導くことが出来るくらいですがね」

「そのアフリカ人が? 訴訟に勝たせてくれるんですか? いったいどういうことですか」

「あなたを訴訟に勝たせたいと夫人に口添えするんです。結果はお分かりでしょう……。ザモールは夫人にお願いし、夫人は国王にお願いする」

「ではフランスを動かしているのはザモールなんですか?」

「然り!」モープーがうなずいた。「私なら……そう、王太子妃のご不興を蒙る方を選びますな、ザモールの機嫌を損ねるよりは」

「信じられません!」ベアルン夫人が声をあげた。「閣下のような真面目な方のお話でなければ……」

「いやいや、誰に尋いても同じことを言いますよ。マルリーやリュシエンヌに行かれたら、ザモールの口にお菓子を放ったり耳飾りを贈ったりするのを忘れていないかどうか、公爵や貴族におたずねになってご覧なさい。あなたとこうして話しているのは誰なのか、フランスの大法官か何かではないかと仰いますか? いやはや! あなたがいらっしゃった時、私が何をしていたとお思いです? 領主(gouverneur)の書類を作成していたのです」

「領主ですか?」

「ええ、ザモール氏はリュシエンヌの領主に任命されたのです」

「それはベアルン伯爵が二十年お勤めした褒美にいただいた肩書きと同じじゃありませんか?」

「ブロワ城の領主でしたな。その通りです」

「馬鹿にするにもほどがあるじゃありませんか! それでは君主制は終わってしまったんですか?」

「弱っているのは事実です。だが瀕死の病人からは、搾れるだけ搾り取るものです」

「そうでしょうけどね。それには病人に近づかなくちゃなりませんよ」

「デュ・バリー夫人に歓迎されるためにはどうすればいいかご存じですか?」

「どうすればいいんです?」

「黒んぼ宛てにこの書状を運んでいただかなくてはなりません……きっと歓迎されることでしょう!」

「そうなんですか?」伯爵夫人はがっくりとした。

「間違いありません。だが……」

「だが……?」ベアルン夫人が繰り返した。

「だが夫人に近しいお知り合いがいないのですね?」

「でも閣下は?」

「私ですか!……」

「ええ」

「私はちょっとまずいでしょう」

「まあそうでしょうねえ」老婦人は哀れにも様々な葛藤に押しつぶされていた。「もう運にも見放されたんでしょうね。閣下にはお会いすることすら諦めていたのに、こんな風に歓迎していただいたのは初めてでした。でも、まだ足りないんですから。覚悟を決めてデュ・バリー夫人にお願いするだけじゃあなく、この私ベアルンがデュ・バリー夫人にお会いするため、黒ん坊の使いっ走りをする覚悟までしているのに。道で出会っても侮辱も差し上げないような、その怪物にさえ会うことが出来ないなんて……」

 モープーは考え込むように顎を撫でていたが、その時不意に取次が来客を告げた。

「ジャン・デュ・バリー子爵です!」

 この言葉に、大法官は手を叩いて唖然とし、伯爵夫人は椅子に倒れ込んで脈も呼吸も止まってしまった。

「天運に見捨てられたですと! 伯爵夫人、それどころか、天はあなたのために戦っていましたよ」

 そう言うと大法官は取次に向かって指示を出した。伯爵夫人が我に返る暇すらなかった。

「お通ししろ」

 取次は出ていったが、すぐに戻って来た。その後ろから、我々には既に馴染みのジャン・デュ・バリーが、足を伸ばし腕を吊って入って来た。

 型通りの挨拶が済むと、未だ決心のつかない伯爵夫人は震えながら立ち上がり、いとまごいをしようとした。それを見て大法官は会釈をし、会見が終わったことを伝えた。

「失礼、閣下」と子爵が言った。「それにマダム、お邪魔してすみません。どうかこのまま……。閣下には一言申し上げるだけですから」

「でもお邪魔でしょう?」伯爵夫人は口ごもった。

「とんでもない。一言申し上げるだけですから。十分だけ閣下に貴重な時間を割いていただきたいのです。訴えを聞いてもらえませんか」

「訴えですか?」大法官が尋き返した。

「殺人です、閣下。見過ごす訳には行きません。誹謗され、諷刺され、中傷されても、生き延びることは出来る。だが喉を掻き切られる訳にはいかない。死んでしまいます」

「詳しく話してもらえますか」大法官は恐ろしそうな素振りをした。

「すぐにそうするつもりですが、マダムのお話を邪魔してしまいましたね」

「ベアルン伯爵夫人です」大法官がデュ・バリー子爵に老婦人を紹介した。

 子爵と夫人は腰を引き、宮廷でするような仰々しいお辞儀をした。

「あなたがお先に、子爵」

「女性に対する不敬罪を犯す訳にはいきません」

「まあまあ、私が譲れないのはお金で、あなたが譲れないのは名誉って訳ですか。でも急いでらっしゃるんでしょう」

「伯爵夫人、それではご親切に甘えさせてもらいます」

 そう言ってデュ・バリー子爵は大法官に用件を話して聞かせた。

「証人が要りますね」しばらくしてからモープーが口を開いた。

「ああ! 揺るぎない真実にしか動かされたくないという訳ですね。わかりました。見つけて来ましょう、証人を……」

 ここで伯爵夫人が口を挟んだ。「閣下、一人はとっくに見つかってますよ」

「どなたです?」子爵とモープーが同時にたずねた。

「私です」

「あなたが?」大法官がたずねた。

「ねえ子爵、事件が起こったのはラ・ショセじゃありませんか?」

「その通りです」

「宿駅のことでしょう?」

「ええ」

「やっぱり! 私が証人ですよ。犯行現場を通りかかったんです。二時間後のことでした」

「本当ですか?」大法官がたずねた。

「ああ、ありがたい!」子爵が声をあげた。

 伯爵夫人が畳みかける。「その証拠に、町中が事件で持ちきりでしたよ」

「待って下さい。今回の事件に関わってくれるおつもりでしたら、十中八九、ショワズールが妨害を仕掛けて来るはずです」

 大法官も同意した。「伯爵夫人は訴訟を抱えているが、勝つのがかなり難しいこうした状況下では、妨害も容易いだろう」

「閣下、閣下」老婦人は頭を抱えた。「谷から谷へ転がり落ちているみたいじゃありませんか」

「子爵の腕をお借りなさい」大法官はぼそりと言った。「腕を貸してくれるでしょう」

「ご覧の通り一本だけですがね」デュ・バリー子爵がにやりとした。「だが強くて長い二本の腕の持ち主が一人、腕を貸してくれますよ」

「ああ! 子爵、それは確かなことでしょうか?」

「もちろんですよ! 持ちつ持たれつ。あなたのことは引き受けますから、僕のことは引き受けて下さい。構いませんか?」

「引き受けたとしたら……まあ、何て運がいいんでしょう!」

「そういうことです。すぐに妹に会わせて差し上げますよ。馬車に乗っていただけますか……」

「理由もないし、用意もないのに? とてもそんなことは」

「理由ならあるじゃありませんか」大法官がザモール宛ての書状を手に握らせた。

「大法官閣下、あなたこそ守護神です。子爵殿、あなたこそフランス貴族の華ですとも」

「お役に立てて何よりです」そう言った子爵に行き先を示されて、伯爵夫人は鳥のように飛んで行った。

「妹様々だ」ジャンがモープーに囁いた。「わが従兄弟様々です。おれの演技はどうでした?」

「申し分なかった。だが私の演技のことも話しておいてもらえるかな。それから気をつけ給え、あの老婦人はなかなか聡い」

 そうこうしているうちに、伯爵夫人がこちらを向いている。

 二人は腰を折って仰々しくお辞儀をした。

 従僕付きの豪華な四輪馬車が玄関先で待機しており、伯爵夫人は意気揚々と乗り込んで腰を下ろした。ジャンの合図と共に馬車が動き出した。

 デュ・バリー夫人の部屋から国王が立ち去った後。国王が廷臣に口にした如くに、短時間の不愉快な会見の後。伯爵夫人はションと兄と三人きりで部屋に残されていた。傷の状態を確認されて軽傷であることがばれないように、兄が真っ先に姿を消した。

 家族会議の結果、デュ・バリー夫人は国王に告げたようにリュシエンヌには向かわず、パリに発っていた。パリのヴァロワ通りには小さな家があり、ひっきりなしに飛び回っているデュ・バリー家の人間が、事件にせき立てられたり面白いことがあったりした時の、仮住まいとして利用されていたのである。

 デュ・バリー夫人は自室に腰掛け、本を手に取り待っていた。

 その間、子爵が策を弄していたのである。

 だがこの寵姫は、パリを走らせるに当たって、馬車の窓から時折顔を覗かせずにはいられなかった。人に姿を見せることは美しいご婦人の本能である。それも美しさを自覚しているからだ。それ故に伯爵夫人は姿を見せた。その結果、夫人がパリにいるという噂はぱっと広まり、二時から六時までの間に二十人ばかりが夫人の許を訪れたのである。これは伯爵夫人にとっては天の助けだった。一人きりで取り残されていたら、退屈のあまり死んでしまっただろう。こうした気晴らしが出来たおかげで、陰口、寸評、無駄話のうちに時間は過ぎた。

 子爵がサン=トゥスタッシュ(Saint-Eustache)教会の前を通り過ぎた時、大きな文字盤が七時半を指しているのが見えた。妹の許へとベアルン伯爵夫人を連れている途上のことだ。

 馬車の中では、こんな僥倖につけ込んでよいものかと、伯爵夫人が躊躇いを表していた。

 子爵の方では、いわば保護領の高官役を引き受けて、奇妙な偶然からベアルン夫人にデュ・バリー夫人を引き合わせるに至ったことをしきりに感嘆していた。

 ベアルン夫人の方では副大法官への礼儀と世辞を忘れなかった。

 こうして二人がうわべを繕っている間も、馬は遅々として進まず、デュ・バリー邸に着いたのはようやく八時になろうとしている頃だった。

「では伯爵夫人」子爵は老婦人を待合室に案内した。「デュ・バリー夫人に報せて来ますから」

「でもやっぱり、ご迷惑をお掛けすることは出来ませんよ」

 ジャンは、玄関の窓口で待機していたザモールに近づき、小声で指示を出した。

「あらまあ可愛い黒ん坊じゃありませんか。あれが妹さんの?」

「そうです。お気に入りの一人です」と子爵が答えた。

「いいのをお持ちだとお伝えしなきゃ」

 とその時、待合室の扉が開いて従僕が姿を見せ、デュ・バリー夫人が謁見に使っている大広間にベアルン夫人を招き入れた。

 ベアルン夫人が嘆息して豪華な隠れ家を眺めまわしている間に、ジャン・デュ・バリー子爵は妹のところに向かっていた

「あの人?」デュ・バリー伯爵夫人がたずねた。

「正真正銘」

「何も気づいていないの?」

「まったく」

「で、副ちゃんは……?」

「問題ない。すっかり協力してくれた」

「じゃああんまり長いことこうしていない方がいいわね。何にも気づいていないんだから」

「そうだな。どうも勘が良さそうなところもあるし。ションは?」

「知ってるでしょ、ヴェルサイユ」

「くれぐれも姿を隠しておいてくれよ」

「よく言っておいたわ」

「よし、出番だ、お姫様」

 デュ・バリー夫人は扉を開けて閨房から出た。

 これまでお話しして来た出来事の起こった当時は、このような場合には仰々しい挨拶をするものであった。而して二人の女優は相手に気に入られんと細心の注意を払って挨拶を交わしたのである。

 口を切ったのはデュ・バリー夫人であった。

「先ほど兄にはお礼を申しました。お客様をお連れして下さったんですもの。今度はあなたにお礼を申し上げる番です。あたくしのお願いに同意して下さったんですもの」

 これにはベアルン夫人が大喜びをした。「私の方こそ、こんな風にもてなして下さって、感謝の言葉もございませんよ」

 今度はデュ・バリー夫人が恭しくお辞儀をした。「お役に立てることがあるようでしたら、あなたのような立派なご婦人のために尽力するのは務めですもの」

 こうして一通り三段のお辞儀が終わると、デュ・バリー夫人はベアルン夫人に椅子を勧め、自分も椅子に腰を下ろした。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XXX「Le Vice」の全訳です。


Ver.1 09/08/16
 


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[訳者あとがき]

 ・09/08/16 ▼次回は8/29(土)更新予定。第31章「ザモールの書状」。

*1. [正義が目隠しされている]。正義の女神は目隠しをした姿で表される。

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