こうしたごたごたの一番の怒りの的であり、宮廷中が望んでもおり恐れてもいた今回の騒動の躓きの石でもあるベアルン伯爵夫人が、ションから兄への話にあったように、大急ぎでパリに向かっていた。
このパリ行きこそ、苦境に陥っていたジャン子爵が考え出した解決策の一つであった。
代母なしではデュ・バリー夫人の認証式を行うことが出来ない以上、是が非でも代母が必要なのだが、宮廷では見つけることが出来なかったため、地方に目を向け、各地を調べ、町や村を探し回り、ムーズ(Meuse)の外れにある古めかしいが小ぎれいな家で、遂に必要な人物を探し当てたのである。
探し当てたのが、黴の生えたご婦人と黴の生えた訴訟であった。
黴の生えたご婦人の名は、ベアルン伯爵夫人という。
黴の生えたその訴訟には全財産がかかっており、モープー氏の管轄するところであった。つい最近デュ・バリー夫人側に納まったこのモープー氏、そうなった途端に実は遠い親戚だったとかで、それ以来デュ・バリー夫人を従姉妹と呼んでいる。大法官府(la chancellerie)を見据えているモープー氏は、この寵姫のために昨日は友情を注ぎ、明日には実益を施すことに余念がなかった。その甲斐あって国王からは
ベアルン夫人は、エスカルバニャス伯爵夫人やパンベシュ夫人が現実に抜け出したような、年老いた訴訟人(vieille plaideuse)であった。つまりは往年の代名詞的存在であり、ご覧の通りの見事な名を持っている二人そのままであったのだ。[*1]
矍鑠として、痩せ形、骨張った身体つき、警戒心が強く、白い眉の下でびっくりした猫のような目をぎょろつかせている。若い頃の服を今も大事にしていたが、如何にファッションの移り変わりが激しいとは言え、時には理に適ったことをしてみたくもなるものらしく、一七四〇年に若い娘が着ていたような服が、気づけば一七七〇年に老婦人が身につけているような服になっていた。
ゆったりとしたギピュール、ぎざぎざのケープ、馬鹿でかい
老伯爵夫人が身につけて――つまりそうした服を身につけていたのは、趣味の問題はもちろん経済的な問題も大きい。夫人は貧乏を恥じるような人間ではなかった。貧しいのは自分のせいではないのだから。ただ一つ心残りなのが、息子のために肩書きに相応しい財産を遺してやれないことだった。娘のように素朴で控えめなこの青年は、名声という沐浴よりも、実生活に実りをもたらす甘露の方を愛していたのである。
もっとも、辯護士がサリュース家と係争中の地所を、「私有地」(mes terres)と呼ぶという手だては残されていた。だがもののわかったご婦人であるが故にしっかり気づいていた。その地所を元に金を借りる必要があったとしても、貸してくれる高利貸しなどいない。当時のフランスにいたのは図太い連中ばかりだった。検事もいない。いつの時代でもあくどいものと相場が決まっている。その地所を担保に金を貸してはくれぬだろうし、その債権に基づいて些かなりとも貸し付けてはくれぬだろう。
それ故にベアルン伯爵夫人の年間の収入は、訴訟にはなっていない(non engagées)地所からの年収とその使用料だけに留まり、年にまるまる千エキュほどであった。ために夫人は法廷から遠ざかっていた。判事諸氏や辯護士諸氏の許へと夫人を運んでゆく四輪馬車の借り賃だけでも、一日当たり十二リーヴル必要だったのだ。[*2]
順番待ちの関係書類を箱から取り出すのも四、五年前から諦めてしまったのだから、遠ざかるのもなおさらだった。昨今の訴訟がいくら長いとはいえ、聖書に出て来る族長ほど長生きしなくとも、終わりを見届ける目処は立つ。一方、かつての訴訟は二、三世代を跨いでいた。千一夜物語に描かれたあの植物のように、花をつけるまでに二、三百年かかっていたのである。
それにしてもベアルン夫人は訴訟になっている八割ほど(les dix douzièmes)の地所を取り返すために残りの資産を使い果たすつもりはなかった。これまで書いて来た通り、いつの時代にも古い時代の女と呼ばれるような、言いかえるなら賢明、慎重、毅然、倹約を旨としているのである。
もちろん、自分自身で訴訟に取り組んでいたなら、日取りを決める(assigné)のも辯護するのも判決を執行(exécuté)するのも、何処ぞの検事や辯護士や執達吏などより上手く行えたはずだ。だが夫人の名前はベアルンであり、それ故の障碍が多々あったのである。その結果、神の御子アキレウスが死ぬほどの悲しみにもだえて喇叭の響きも聞こえぬふりをして天幕に引き籠もった時の如く、無念と苦悶に呻吟していたベアルン夫人は、鼻眼鏡越しに古い羊皮紙を読み取って日中を過ごしていた。夜毎ペルシアの部屋着を羽織り、白髪を下ろして、サリュース家が権利を主張している土地訴訟について枕頭で辯護しては、決まって勝ちを収めていた。そんな自分の辯才に満足し、そんな時には辯護士にも同じ辯才があればと残念に思っていた。[*4]
このような事情であったので、ションがフラジョ嬢と名乗って現れた時、ベアルン夫人の胸にとろけるような気持が湧き起こったことにもご理解いただけよう。
息子の伯爵は勤務中で不在だった。
人は信じたいものを信じる。だからベアルン夫人もションの話に至極あっさりと引っかかってしまった。
だが疑いの影はちゃんとあったのだ。伯爵夫人はフラジョ先生のことを二十年も前から知っていた。プチ=リヨン=サン=ソヴール(Petit-Lion-Saint-Sauveur)街まで幾度となく訪ねに行っていたが、一度として絨毯の上で目に留まったことはなかった。部屋の広さの割りには小さすぎると感じていたその四角い絨毯の上で、依頼人の男女のところにまんまと飴玉をせしめに来るような子供など、一度として目に留まったことはなかった。
だが思い出すべきはその代訴人の絨毯のことだった。振り返るべきはその上で遊んでいたとしてもおかしくはなかった子供のことだった。つまるところ必要なのは記憶を掘り返すことだった。フラジョ嬢はフラジョ嬢、それだけなのに。
つけ加えるならそのフラジョ嬢は結婚しているというので、結局のところ悪い予感を堰き止めた最後の一押しは、フラジョ嬢はヴェルダンくんだりまでわざわざ出て来たわけではなく、ストラスブールの夫の許に戻るところだったという情報だった。[*5]
恐らくベアルン夫人はフラジョ嬢に身許を保証するような手紙を求めるべきだったのだろう。だが父が娘を、それも己が娘を使いに出すのに手紙が必要だとしたら、いったい何処の誰に安心して仕事を託せばいいというのだ? そのうえ重ねて言えば、このような恐れを抱いて何になろう? そんな疑いを持ってどうなるというのだ? どんな目的があって、こんな話をしにわざわざ六十里もの道をやって来るというのだ?
夫人が裕福であったなら、銀行家や国税徴収請負人や税収集金人の妻のようにお供や食器や宝石を擁して歩かなくてはならない立場であったなら、泥棒が何か企んでいるのだと考えたかもしれない。だが自分を狙うようなあまり利口とは言えない泥棒がいったいどれだけ落胆するのかと考えるたび、ひどく可笑しくなった。
というわけで、ションがブルジョワ風の服装をして、一頭立てのみすぼらしい二輪馬車(二つ前の宿駅で手に入れた。馬輿もそこに置いて来た)で立ち去ると、ベアルン夫人もここが正念場だと覚悟を決め、古い四輪馬車に乗り込んで馭者を急がせた。その甲斐あって王太子妃より一時間早くラ・ショセを通過し、ション・デュ・バリー嬢に遅れること五、六時間でどうにかサン=ドニの市門にたどり着いた。
手ぶら同然のベアルン夫人にとって、真っ先に欲しいのは情報だったため、プチ=リヨン街のフラジョ先生の門前で馬車を止めた。
ご想像の通り、野次馬が来ないわけがない。パリっ子はこぞって、アンリ四世の厩舎から抜け出たような、この年季の入った馬車の前で立ち止まった。がっしりしたところといい、馬鹿でかい図体といい、しなびた革のカーテンといい、青錆の浮いた銅の車軸の上で恐ろしい軋みをあげて走るところといい、なるほどアンリ四世の愛用していた馬車を思わせるではないか。
プチ=リヨン街は広いところではない。馬車がそこを堂々と占領していたため、ベアルン夫人は馭者たちに代金を支払い、いつも泊まっているサン=ジェルマン=デ=プレの旅籠『刻の声(Coq chantant)』まで移動しておくように命じた。
夫人は油で汚れた綱につかまり、フラジョ家の暗い階段を上った。冷え冷えとした空気に満ちており、急ぎ逸った旅でくたくたの老人には随分とこたえた。
女中のマルグリットから伯爵夫人の来訪を知らされると、フラジョ先生は暑くて降ろしっぱなしにしておいた半ズボンを引っ張り上げ、常に手許に置いている鬘をかぶり、綾織の部屋着を羽織った。
こうして恰好を整えると、微笑みを浮かべて戸口に向かった。ところがこの微笑みにはっきりと驚きが含まれているのを伯爵夫人は感じ取り、思わず声をあげていた。
「まあどうしたんですか、フラジョさん! 私ですよ!」
「ええ、わかってますとも、伯爵夫人」
辯護士は部屋着の前をそっと合わせ、部屋の一番明るい場所にある革椅子まで伯爵夫人を連れて行った。夫人の好奇心を承知しているがゆえに、そうやってさり気なく事務机の書類から遠ざけたのだ。
「それでは伯爵夫人」とフラジョ先生は紳士的に切り出した。「ようこそおいで下さいました。驚きましたよ」
ベアルン夫人は椅子に深く腰かけ、足を上げているところだった。マルグリットが用意してくれた革のクッションを床と繻子織り靴の間に挟もうとしていたのだ。それがフラジョの言葉を聞いて、急いで身体を起こした。
ベアルン夫人は椅子に深く腰かけ、今は足を上げていた。マルグリットが革のクッションを用意して、床と繻子織り靴のあいだに入れる隙間を作っていたのである。それがフラジョの言葉を聞いて、急いで身体を起こした。
「何ですって! 驚いた?」夫人はフラジョ氏をもっとよく見ようと、ケースから眼鏡を取り出し鼻に挟んだ。
「ご領地にいらっしゃると思っておりましたから」わずか三アルパンの菜園をそう呼んだのは、おべっかにほかならない。
「その通りですとも。でもあなたから報せがあったから、飛んで来たんじゃありませんか」
「私から報せが?」
「言伝でも通知でも助言でも、何とでもお好きなように」
フラジョ氏の目が、伯爵夫人の眼鏡のように大きくなった。
「こうして急いでやって来たのも、嬉しい報せがあるんじゃないかと期待したからですよ」
「お会い出来たのは嬉しいのですが、どういうことでしょうか。何をすべきなのかさっぱりわからないのですが」
「何をすべきかですって?……全部ですよ。というか、あなたが全部なさったんじゃないんですか」
「私が?」
「あなたですよ……そうだ、新しい出来事があったんじゃないですか?」
「ええ、ありましたよ。国王が高等法院に対しクーデターを計画しているそうです。それより何かお出ししましょうか?」
「国王のことも大事ですし、クーデターのことも大事でしょうけどね」
「ではほかに何が?」
「私の訴訟じゃありませんか。訴訟について新しい動きがなかったかどうか知りたいんですよ」
「ああ、それでしたか」フラジョ氏が残念そうに首を振った。「何も。何もありません」
「何もないというのはつまり……」
「何もないってことです」
「ありませんか。お宅のお嬢さんがもう話してしまいましたものね。お話を聞いたのは一昨日でしたからね、あれからでは、まだ新しい情報もないと思ってましたよ」
「私の娘ですか?」
「ええ」
「私の娘と言ったんですか?」
「娘さんですよ。あなたのお使いでいらした」
「ですが伯爵夫人、娘を使いにやるのは不可能です」
「不可能ですって?」
「火を見るよりも明らかです。私には娘がありませんから」
「まさか?」
「伯爵夫人、私は花の独身ですよ」
「おやおや!」
フラジョ氏は不安になった。マルグリットを呼んで、伯爵夫人に冷たいものを持ってくるよう言いつけたが、実は伯爵夫人を見張って欲しかったのだ。
――可哀相に。頭がおかしくなってしまったんだな。
「それじゃあ、お嬢さんはいないんだね?」
「おりません」
「ストラスブールで結婚している娘さんが?」
「おりません。何度聞かれても同じですよ」
「じゃあお嬢さんに行きがけに言伝を頼んだりはしなかったんですか?」伯爵夫人は考えをまとめようとした。「審問の日取りが決まったと託けたりはしなかったんですか?」
「ええ」
伯爵夫人は椅子から飛び上がり、両手で膝を打った。
「おあがり下さい、伯爵夫人。落ち着きますよ」
そう言って合図をすると、マルグリットが麦酒を二杯、盆に載せて運んで来た。だが老婦人にとっては喉が渇いているどころではなく、盆とコップを乱暴に押しやった。家の中を取り仕切っているのは自分だと考えていたマルグリット嬢は、これにはいたく傷ついた。
伯爵夫人は眼鏡越しにフラジョ氏を見つめた。「さあさあ、どういうことですか、詳しく話そうじゃありませんか」
「是非そうさせて下さい。そのままでいいよマルグリット。そのうちお飲みになるかもしれない。ではお話しいたしましょう」
「ええ、あなたさえよければそうしましょうか。今日のあなたは変ですからね、フラジョさん。暑さで頭がおかしくなったのかと思いましたよ」
「まあまあ落ち着いて行きませんか」辯護士は椅子の後ろ脚をずりずりと動かして伯爵夫人から離れた。「じっくり話し合いましょう」
「ええ、ようござんすよ。お嬢さんはいないと仰いましたね?」
「そうなんですよ。ご期待に添えぬのはまことに残念ですが、第一……」
「第一?」伯爵夫人は繰り返した。
「第一、どうせ授かるなら男の子が欲しいところです。その方が先が楽しみ、いや、このご時世ではその方が悪いようにはならんでしょう」
ベアルン夫人は不安のあまり両手を合わせた。
「どういうことです? 妹でも姪でも従姉妹でもいい。私をパリまで呼び出したりはしなかったと言うんですか?」
「考えもしませんでしたよ。パリの滞在費が馬鹿にならないのもわかっていますからね」
「じゃあ私の訴訟は?」
「呼び出しがあった時にはお知らせする用意はしております」
「呼び出しがあった時には、と言ったんですか?」
「ええ」
「じゃあまだ呼び出しはないんですね?」
「私の知る限りでは」
「訴訟の順番は来てないんですね?」
「まだです」
「次の番だというわけでもなく?」
「違いますよ! もちろん違います!」
「それじゃあ――」老婦人が声をあげて立ち上がった。「私は騙されたんですか。手ひどくからかわれたってことですか」
フラジョ氏は鬘を直して呟いた。
「そういうことになるかもしれませんね」
「フラジョさん……!」
辯護士は椅子から飛び上がって、待機していたマルグリットに助けを求めた。
「フラジョさん、こんな屈辱には耐えられませんよ。警視総監に訴えて、面と向かって侮辱したあの馬鹿娘を見つけ出してもらいます」
「しかしそれは! 雲をつかむような話ですよ」
伯爵夫人は怒りに駆られて先を続けた。「見つけてしまえば、訴訟するまでです」
「また訴訟ですか!」辯護士が肩を落とした。
この言葉を聞いて、我を忘れていた老婦人も、憑物が落ちたようにげっそりとした。
「はあ……そのうち何とかなるでしょうよ!」
「ところで何を言われたんです?」
<「あなたに頼まれてやって来たんだと」
「狡賢い奴だ!」
「あなたに頼まれて、訴訟の呼び出し(l'évocation)があったことを知らせに来たんだそうです。時間がないと。大急ぎで行かないと遅れてしまうと言うんですよ」
「はあ……」今度はフラジョ氏の番だった。「呼び出しなどまだまだ先の話ですよ」
「忘れられてるんじゃないんですかね?」
「奇跡でも起きない限りは、忘れられ、埋もれ、葬られたままですよ。しかも奇跡なんてめったに起こるものじゃありませんから……」
「そうでしょうね」と呟いて、伯爵夫人は溜息をついた。
フラジョ氏もそれに応えて一つ溜息をついた。
「それでフラジョさん、一つ言っても構いませんか?」
「どうぞ仰って下さい」
「私はもう先が長くありません」
「そんなことはないでしょう!」
「ああ神様! もう限界です」
「伯爵夫人、元気を出して下さい!」
「そんなことを言って、何も助言しては下さらないんでしょう?」
「とんでもない。ご領地に戻って、これからは誰が現れても私の言葉がなければ信じないようにすればいいんです」
「そりゃあ戻るしかないでしょうね!」
「そうするのが一番です」
「でもねえ、フラジョさん。もうこの世では会うことはないと思いますよ」
「何てことを!」
「でもひどく残酷な敵がいるものですねえ?」
「恐らくサリュース家の仕業でしょう」
「それにしたって浅ましいやりようじゃありませんか」
「ええけちなやり口です」
「ねえフラジョさん、正義ですよ! 正義ってのは、カクスの洞窟みたいに真実を明るみに出してくれるものじゃありませんか」[*6]
「そうでしょうか? 正義はもはや原型を留めず、高等法院も圧力を受けて、モープー氏は法院長の椅子に坐り続けるのをやめて大法官になりたがったではありませんか」[*7]
「フラジョさん、やっぱり飲み物をもらえませんか」
「マルグリット!」
マルグリットが戻って来た。話が落ち着いたのを見て、部屋から出ていたのである。
戻って来たマルグリットは、一度は運び去っていた盆とコップを手にしていた。ベアルン夫人は辯護士とグラスを合わせてから、ゆっくりと麦酒を喉に流し込んだ。そして悲しげにお辞儀をし、さらに悲しげに別れの挨拶をしてから玄関(l'antichambre)に向かった。
フラジョ氏も鬘を手にそれを追った。
ベアルン夫人は踊り場で、手すり用の綱を探っていたところだった。その時、誰かの手が夫人の手に重なり、誰かの頭が胸にぶつかった。
手と頭は法律事務所の見習いのものだった。急な階段を大急ぎで駆け上っていたのである。
老伯爵夫人はぶつぶつと文句を言いながら、スカートを直してそのまま階段を降りて行った。入れ違いに踊り場までやって来ていた見習いは、扉を押して司法見習い特有の底抜けに元気な声を張り上げた。
「フラジョ先生、ベアルン事件の件です!」
そう言って一枚の書類を差し出した。
その名前を聞いて駆け戻り、見習いを押しのけ、フラジョ氏に飛びかかり、書類をもぎ取って、フラジョ氏を部屋に釘付けにした。以上が老伯爵夫人の取った行動であった。その間に見習いはマルグリットに口づけを二つして、お返しにびんたを二発、というかびんたの仕種を二発、まだもらってすらいなかった。
「何ですかねえ! いったいどんなお沙汰があったんでしょうね、フラジョさん?」
「私にもさっぱりですが、書類を返していただけたら、読んで差し上げますよ」
「それもそうですね。ほらほら、さあ早く読んで下さい」
辯護士は署名を読んだ。
「代訴人(procureur)のギルドゥ(Guildou)氏だ」
「おやまあ!」
フラジョ氏はいよいよわけが分からなくなっていた。「火曜には辯護できるようにしておけと書いてある。遂に裁判の呼び出しがあったそうです」
「呼び出しですって!」伯爵夫人が飛び上がった。「呼び出しがあったんですか! でも待って下さい、フラジョさん、二度と悪戯はごめんです、もう立ち直れませんよ」
フラジョ先生はこの報せにすっかり泡を食っていた。「伯爵夫人、悪戯だとしたら、やったのはギルドゥ氏以外にありませんし、これが人生初の悪戯ということになりますよ」
「ですけどこの手紙は間違いなく本人のものなんですか?」
「ギルドゥと署名がありますよ、ほら」
「ほんとですね!……けさ呼び出しがあって、火曜日に辯論。おや? するとフラジョさん、あのご婦人は詐欺師ではなかったんでしょうかねえ?」
「どうやらそのようですね」
「でもあなたのお使いではなかったのだから……あなたのお使いでないのは確かなんですよね?」
「もちろん確かですよ!」
「じゃあ誰のお使いだったんでしょう?」
「ええ、誰なんでしょう?」
「どのみち誰かのお使いだったわけですしねえ」
「お手上げですよ」
「私だってそうですよ。ああ、もうちょっと読ませてもらえませんか、フラジョさん。呼び出し、辯護、そう書いてありますよねえ。モープー院長の前にて辯護」
「何ですって! そんなことが?」
「ええそうですとも」
「弱ったな!」
「どうしてです?」
「モープー院長は、サリュース家の友人なんですよ」
「そうなんですか?」
「状況は変わりませんな」
「ますますひどくなったじゃありませんか。何て運が悪いんでしょう」
「ですが、言っても詮ないことです。いずれにせよ会わなくてはならないんですから」
「散々な目に遭うんでしょうねえ」
「そうでしょうね」
「フラジョさん、どんなことを言って辯護してくれるんですか?」
「真実ですよ」
「何ですって! 先生は気力を失くすだけでは飽き足らず、私の気力まで奪うおつもりですか」
「モープー殿が相手では、幸運は期待できません」
「随分と弱気じゃありませんか。あなただってキケロの子孫でしょう?」
「キケロだって、カエサルではなくウェッレスの前で辯護していたら、リガリウスの裁判に負けていましたよ」フラジョ先生は夫人から受けた讃辞に応えて謙虚な口を利くことしか出来なかった。[*8]
「じゃあ会いに行かない方がいいんですか?」
「そんな型破りなことは認められませんよ。残念ですがこういうのは会わなくてはいけない決まりなんです」
「そんな話し方はやめて下さい、フラジョさん。持ち場から逃げ出そうとしている兵士みたいじゃありませんか。訴訟を引き受けるのが怖いんだと思われますよ」
「伯爵夫人、本件などよりよほど勝つ見込みの高かった訴訟にも、何件か負けたことがあるんですよ」
伯爵夫人は溜息をついたが、それでも気力を奮い立たせた。
「出来るところまでやってみようじゃありませんか」この会談の滑稽な様相とは裏腹に、威厳すら漂わせていた。「理はこちらにあるのだから、悪巧みを前にして尻尾を巻いて逃げ出したとは言われませんよ。訴訟には負けるでしょうけど、悪党どもに向かって、今では宮廷でも珍しいほどに淑女然として臨んであげますとも。フラジョさん、副大法官のところまで連れていってもらえませんか?」
フラジョ先生の方も威信を奮い立たせた。「伯爵夫人、我々は誓ったんです。我々パリ高等法院の反対派は、デギヨン公爵の件で高等法院を見捨てた者たちとは、裁判以外ではもうつきあわないことにしたんです。団結は力なり。モープー殿はこの訴訟の間中ぐずぐずしてばかりいましたし、そんなモープー殿に不満がある以上は、向こうが姿を見せるまでこちらから出向くことはよしましょう」[*9]
「どうやら私の訴訟はどん詰まりですね」伯爵夫人は溜息をついた。「辯護士は判事と対立して、判事は原告と対立しているんですから……よござんすよ、辛抱強く待ってますとも」
「
「何てまあ頼りない」ベアルン夫人は独り言ちた。「辯護士がついているというのに、枕を前にした時の方が、高等法院を前にする時よりも見込みがありそうだよ」
それから今度ははっきりと口に出し、笑顔の下に何とか不安を隠し込んだ。
「それじゃ、フラジョさん。訴訟のことはよろしく頼みますよ。何が起こるかなんて誰にもわからないんですから」
「ああ、伯爵夫人。辯護のことなら心配はしておりません。上手く行きますよ、一つ匂わせてやるつもりですしね」
「何をです?」
「エルサレムの腐敗のことをです。呪われた町を引き合いに出し、そこに天の火が落ちるべきことを唱えるつもりです。誤解の余地はありません。エルサレムとは即ちヴェルサイユだとわかるはずです」
「フラジョさん、あなたの身に差し障りのあるようなことはしないで下さいね。と言いますか、訴訟に差し障りのあることはやめて下さい!」
「ああ、モープー氏がいるから負けてしまいますよ、あなたの訴訟は。ですから当面の目的は、同時代の人間を意識して勝つことなんです。正義が認められないのなら、騒ぎ立てるまでです!」
「フラジョさん……」
「ここは賢くなりましょう……攻撃あるのみです!」
「悪魔にでも攻撃されちまえばいいんですよ!」伯爵夫人がぶうぶうと文句を垂れた。「三百代言と来たら、どうやって賢さの皮をかぶるかってことしか考えてないんだから。さあモープーさんのところに行きましょうか。あの人は賢しらじゃありませんからね、ことによると、あなたよりも上手くやってくれそうですよ」
そう言って老伯爵夫人はフラジョ先生の許を離れ、プチ=リヨン=サン=ソヴール街を後にした。実に丸二日かけて、希望と絶望の梯子を上から下まで行き来したのであった。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XXVIX「Madame de Béarn」の全訳です。初出『La Presse』紙、1846/07/02、連載第30回。
Ver.1 09/08/01
Ver.2 16/03/31
[訳者あとがき]
・09/08/01 ▼次回は8/15(土)更新予定。第30章「ル・ヴィス」。
・「当時のフランスでは、現在の弁護士の仕事を、職域によって弁護士と代訴人が分けて担っていました。法廷での弁論は弁護士が、訴訟手続は代訴人が行っていたのです。さて、どちらが儲かっていたのでしょうか?/それは、両者の挿絵にもあらわれています。弁護士は黒づくめの法服で弁論をしている姿ですが、かたや代訴人は美しく高級そうなガウンをまとっています。」(『フランス人の自画像』解説より)
・16/03/31 ▼プチ=リヨン=サン=ソヴール街(rue du Petit-Lion-Saint-Sauveur)は、現在のティクトンヌ街(Rue Tiquetonne)。
・16/03/31 ▼サン=ジェルマン=デ=プレ(Saint-Germain-des-Prés)は セーヌ川を挟んでプチ=リヨン街の対岸に当たる。
[更新履歴]
・16/03/31 ベアルン伯爵夫人についての説明。「二人ともこの当時の典型的人物であり、さらにはご存じのように世に知られた人物であった」→「つまりは往年の代名詞的存在であり、ご覧の通りの見事な名を持っている二人そのままであったのだ」に訂正。
・16/03/31 「divin Achille」を何も考えずに「聖アキレウス」としていたので、「神の御子アキレウス」に訂正。
・16/03/31 「partisan」には「パルチザン」のほかに「(党や団体の)徴税請負人」の意味があるので、「徴税請負人やパルチザンの妻のように」→「国税徴収請負人や税収集金人の妻のように」に訂正。※ fermier général = 国王の徴税請負人。
・16/03/31 「マルグリットが革のクッションを用意して、床と繻子織り靴のあいだに入れる隙間を作っていた」→「マルグリットが用意してくれた革のクッションを床と繻子織り靴の間に挟もうとしていた」に変更。
[註釈]
▼*1. [エスカルバニャス伯爵夫人やパンベシュ夫人]。la comtesse d'Escarbagnas ou à madame Pimbèche(Pimbêche) それぞれモリエール『エスカルバニャス伯爵夫人』、ラシーヌ『裁判きちがい(Plaideurs)』の登場人物。[↑]
▼*2. [千エキュ、十二リーヴル]。この当時、1 livre=1 franc=20 sous、1 écu=3 livres[*3]、1 pistole=10 livres、louis d'or 1枚=24 livres、double louis d'or 1枚=48 livres。つまり1,000エキュ=3,000リーヴルです。貴族としては、超貧乏というわけではありませんが、贅沢をするには充分とは言えないでしょう。単純計算すると伯爵夫人の一日当たりの収入は8リーヴルほどということになるので、馬車代一日12リーヴルというのは大きな出費です。
ちなみに、これまで本書に出てきた金額を挙げると、リシュリュー元帥の年収が20万リーヴル、ニコルの給料二年分が25ルイ(=600リーヴル)、サルチーヌの愛人のお手当が月300リーヴル、王太子の年金の残金が1,000エキュ、ジャン子爵が馬(ジェリド)につけた値段が500ピストール(=5,000リーヴル)、ジェリドの実際の値段が1,000 ルイ(=24,000リーヴル)。
※1980年に発行された『ロココの女王 ポンパドゥール夫人』によれば、ポンパドゥール時代の一フラン=少なくとも5000円、2009年発行の『ブラン・マントー通りの謎』によれば、舞台となっている1761年当時の一リーヴル=約2000円。[↑]
▼*3. [1 écu=3 livres]。これについては注意が必要。上記の換算表では「通貨単位の換算率」と「貨幣の価値(額面)」を併記していますが、厳密にいうと分けて考えるべきだからです。écu貨には金貨と銀貨があり、1726年には政府によって、1 écu=6 livres と定められました。ジルベールが持っていた「un écu de six livres」というのはこれで、エキュ貨を一枚持っていたということです。次章でベアルン夫人が用意する「un écu de trois liveres」とは、1/2 écu 貨幣(demi écu 貨幣)のことで、ベアルン夫人は半エキュ貨を一枚用意したということになります。上記二例の場合の「un écu」とは、「エキュ貨一枚」の意味であって、「金額・額面が一エキュ」ではありません。さて、écu 貨幣一枚が 6 livres であるのに、 1,000 écus=3,000 livres になるのはなぜか――というと、「écu」には「貨幣の名称」のほかに、「通貨単位」としての用法があるからです。その場合、換算レートは 1 écu=3 livres=3 francs=60 sous です。つまり、「écu 貨幣 1,000枚」という言い方なら 6,000 livres、「1,000 écus」という言い方なら 3,000 livres、だということになるでしょうか。このことがわかりやすく書かれてあるシーンが、『王妃の首飾り』にあります。
上巻 pp.170〜171。第14章「ファングレ親方(Maître Fingret)」。ラ・モット伯爵夫人が家具を買おうとする場面です。
「……月四百リーヴルなら年に四千八百リーヴルになります……。」「……これだけのものに百エキュ(300リーヴル)以上は出す気がしません」「結構です、奥さま」「はい、大型ルイが六枚(48×6=288リーヴル)、それから普通のルイが一枚(24×1=24リーヴル)。お釣りをください」「では六リーヴルのエキュ金貨二枚(6×2=12リーヴル)でございます」
「... que quatre cents livres par mois valent quatre mille huit cents livres par an, ...」「... Je ne veux donner que cent écus de tout ce mobilier.」「Soit, dit-il, madame.」「Voici six doubles louis, dit la comtesse, plus un louis simple, rendez-moi.」「Voici deux écus de six livres, madame.」
たいていは上記のように「cent écus」「deux écus de six livres」という書き方がされているので、混乱することはないでしょう。[↑]
▼*4. [アキレウスが死ぬほどの苦しみに……]。『イリアス』より。トロヤ戦争の最中、アガメムノンに女を奪われたアキレウスは、怒りのためテントに引き籠もり戦いを拒否する。[↑]
▼*5. [ヴェルダン、ストラスブール]。この章のはじめに、ベアルン夫人はムーズに住んでいるという記述があります。ヴェルダンとはムーズ地方の一都市。ストラスブールとはムーズに隣接する地方の一都市。[↑]
▼*6. [カクスの洞窟]。カクスとはギリシア神話に登場する巨人。ヘラクレスから牛を盗み、足跡を逆向きにつけて欺こうとしたが、牛が仲間を恋うて鳴いたためにばれてしまった。[↑]
▼*7. [モープー氏]。モープー(René Nicolas de Maupeou,1714-1792)は 1763〜1768パリ高等法院院長、1768 父から大法官の職を譲り受ける〜1790まで。[↑]
▼*8. [キケロだって、カエサルではなく……]。キケロはシキリアの悪徳総督ウェッレスを弾劾し、ローマ内戦で反カエサルであるポンペイウス側についたリガーリウスを弁護した。カエサルはキケロの弁に打たれてリガーリウスを許した。[↑]
▼*9. [デギヨン公爵]。デギヨン公はレンヌにあるブルターニュ高等法院を解散し、新たなメンバーを立てたが、失敗。その件で1770年には職権濫用の疑いにより、高等法院から裁判にかけられるなど、高等法院と王権の対立は頂点に達していた。モープー、デギヨン、テレーらは、王権の強化と、特権に固執する高等法院の改革に務めたが、その強引厳格な手法から、俗に三頭政治とも呼ばれ反発も招いた。デュ・バリー党、反ショワズール。その他 Wikipedia など参照のこと。[↑]