マルリーに発っていた国王は、かねて伝えていた通り、午後三時頃になると命令を出し、リュシエンヌに向かわせた。
王からの書き付けを受け取ったデュ・バリー夫人も急いでヴェルサイユを発ち、出来たばかりの素敵な住居で待っているはずであった。国王は既に何度か訪問を重ねていたが、夜を過ごしたことは一度としてなかった。国王がいみじくも弁明した通り、リュシエンヌは王城ではないのである。
それ故に、いざ着いてみると、偉そうに領主ぶったザモールが鸚哥の羽を抜いてもてあそび、鸚哥は鸚哥で咬みつこうと反撃しているのを見て、驚いてしまった。
この二者は宿敵なのだ。ショワズールとデュ・バリー夫人のように。
国王は小部屋に入って供の者を帰した。
王国一好奇心が強いくせに、普段から臣下にも従僕にもものをたずねたりはしなかった。だがザモールは従僕でもない。尾巻猿や鸚哥と同列の存在だ。
それ故、王はザモールにたずねた。
「伯爵夫人は庭かね?」
「いいえ、ご主人さま(maître)」ザモールが答えた。
リュシエンヌではデュ・バリー夫人の思いつきで「陛下」という尊称が用いられず、代わりにこの「ご主人さま」が用いられていた。
「では鯉のところかね?」
莫大な費用を掛けて山に湖を掘らせ、水路から水を引き、ヴェルサイユにいる中でも立派な鯉を運ばせたのだ。
「いいえ、ご主人さま」またもザモールはそう答えた。
「では何処に?」
「パリに」
「パリだと!……伯爵夫人はリュシエンヌに来ておらぬのか?」
「はい、ご主人さま。ただしザモールに後を任されました」
「して、何のために?」
「国王を待つためです」
「ははん! 余の出迎えをそなたに任せたというのか? それは面白い、ザモールのもてなしか! これはありがたい、伯爵夫人め」
国王は口惜しそうに立ち上がった。
「いいえ!」黒ん坊が答えた。「ザモールがもてなすことはありません」
「何故だね?」
「ザモールは出かけますから」
「何処に?」
「パリに」
「では余は一人取り残されるのか。いよいよ結構。だがパリに何の用があるのかね?」
「バリー奥さまのところに行き、国王がリュシエンヌにいると伝えに」
「ははあ、すると今の科白も伯爵夫人から仰せつかったのだな?」
「はい、ご主人さま」
「では、それまで何をしていればよいか、言づかってはおらぬか?」
「お前は寝てるだろうと仰いました」
――となると、と王は考えた。伯爵夫人はじきにやって来るし、何かまた驚かせるようなことがあるのだろう。
国王は声に出して命じた。
「ではすぐに出かけて、伯爵夫人を連れて来なさい……いや、だがそなたはどうやってパリに行くつもりなのだ?」
「赤い鞍敷をつけた、大きな白馬に乗って」
「その馬でパリまでどのくらいかかる?」
「存じません。でも速く、速く、速く、駆けます。ザモールは速く駆けるのが好きです」
「そうかね。ザモールが速く駆けるのが好きとはありがたい」
国王はザモールの出立を見送りに窓に向かった。
背の高い従僕がザモールを馬に乗せた。危険に対して子供のように無頓着なこの黒ん坊は、大きな馬に跨りギャロップで走り出した。
一人残された国王は、何処か新しく見るところはないかを従僕にたずねた。
「ございます。ブーシェさまが伯爵夫人のお部屋に絵をお描きです」
「ほう! ブーシェか……あのブーシェがここに」王は満足げにうなずいた。「して、何処に?」
「四阿のお部屋でございます。ご案内いたしましょうか?」
「いや、結構。やはり鯉を見に行く方が良い。ナイフをくれ」
「ナイフ、でございますか?」
「うむ、それにパンを一つ」
やがて従僕は、日本製の陶磁器に大きな丸パンを乗せて戻って来た。パンには長く鋭いナイフが刺さっている。
国王はついてくるよう合図して、意気揚々と池に向かった。
鯉に餌をやるのは王家の習慣だった。大王は一日たりとも欠かしたことがなかった。
ルイ十五世は眺めのいい場所にある苔の上に腰を下ろした。
まずは緑に囲まれた湖をぐるりと見渡した。向こうには丘に挟まれた村がある。西側の丘はヴィルジール(Virgile)の苔岩のように垂直に聳えており、そのせいで藁で葺かれた家々が、まるで箱に羊歯を詰め込んだ玩具のように見えた。
さらに遠くには、サン=ジェルマンの切妻、巨大な階段、どこまでも広がる緑の台地。さらに遠くまで見遣れば、サノワとコルメイユの青い丘。そして、薔薇色と灰色にうっすらと色づいた空が、銅で作られた穹窿のようにそれらすべてを閉じ込めていた。
崩れそうな空模様に木々の葉は黒く翳り、牧場の穏やかな緑と対照をなしていた。油のようにぬたりとした水面に時折ふっと穴が空き、紺碧の水底から銀色に輝く鯉が身を躍らせて、水面に長い脚を擦らせて飛ぶ羽虫を捕まえていた。
大きな波紋が広がり、白と黒の混じった輪を作っていた。
魚が物も言わず湖畔にも口を突き出しているのが見える。人も網も待ち受けていないのを承知していて、垂れた三つ葉をついばみ、草間を飛び回る灰色蜥蜴や緑蛙を(見えているのかも怪しいような)無表情なぎょろ目で見てやろうとやって来たのだ。
国王は時間の潰し方を心得ていた。景色をくまなく見渡し、村の家の数を数え遠くの村の数を数えた後で、傍らに置かれた皿からパンをつかみ、大きめに切り取った。
ナイフがパンを削る音を耳にした鯉たちが、聞き慣れた食事の合図とばかりに、国王からよく見える場所まで近づいて来て、餌をねだり始めた。鯉たちは餌をくれる従僕の誰にでも同じように振る舞うのだが、国王としては無論のこと自分のために来てくれたのだと思っていた。
一つまた一つと投げ与えたパン切れが、一旦沈んでから再び水面に浮かび上がり、しばらくは形を保っていたが、やがて見る間に水に溶けてばらばらになり、すぐに見えなくなった。
まことに面白い光景であった。見えない口につつかれたパン切れが、消えてなくなるまで水面で踊っている。
半時間後、およそ百片ほども根気よくパンを切り取った国王陛下は、もはや一切れも浮かんでいないのを見て満足を感じていた。
だがそれでも退屈だった国王は、ブーシェのことを思い出した。鯉に比べれば気晴らしとして魅力が落ちるのは否めないが、こんな田舎では、手に入るものを手に入れるしかあるまい。
斯くしてルイ十五世は四阿に向かった。ブーシェは国王がいることを知らされていた。そのため絵を描きながら、否、絵を描くふりをしながら、国王を目で追っていた。国王が四阿の方にやって来るのを目にすると、大喜びで
ルイ十五世は戸口で立ち止まった。
「やあ、ブーシェ殿、何てテレビン油臭いんだ!」
そう言って素通りしてしまった。
いくら国王が芸術にうといとはいえ、ブーシェとしてはもう少し前向きな言葉を期待していたために、危うく梯子から転がり落ちるところであった。
梯子から降りると、涙を浮かべて立ち去った。いつものようにパレットを擦ることも筆を洗うこともせずに。
ルイ十五世陛下は時計を取り出した。七時だ。
国王は城館に戻り、猿をからかい、鸚哥に口真似をさせ、次から次へと棚から陶磁器を引っぱり出した。
夜が訪れた。
部屋が暗いのは苦手なので、明かりを付けた。
だがそれ以上に一人が苦手だった。
「十五分後には馬を。そうだ、後十五分やろう。それ以上は待てぬ」
ルイ十五世は暖炉の前にある長椅子に寝そべり、十五分つまり九百秒が過ぎるのをやむなく待つことにした。
青い象に乗った薔薇色のトルコ王妃の描かれている柱時計が、四百回目の振り子を揺らした頃、国王は眠りに落ちていた。
ご推察の通り、馬車の準備が出来たと報せに来た従僕は、国王が眠っているのを見て、起こしてしまわぬよう気を遣った。その結果、国王が目覚めた時には目の前にデュ・バリー夫人がいて、ほとんど眠っていないような様子で、大きな瞳で国王を見つめていた。扉の陰ではザモールが命令を待っている。
「おや、あなたですか、伯爵夫人」国王は横になったまま身体だけを起こした。
「もちろん。それもずっと前からいましたのに」
「はて、ずっと前というのは……」
「もう! 一時間は経ってますわ。こんなに熟睡なさってるんだもの!」
「これはしたり。そなたはおらぬし、あまりに退屈だったのだ。それに夜にあまり眠っておらぬ。もう帰るところだったのだぞ?」
「存じてます。陛下の馬が繋いでありましたもの」
国王は振り子時計に目を向けた。
「まさか、十時半だと! 余は三時間近くも眠っていたのか」
「リュシエンヌじゃ眠れないって仰りたいみたい」
「その通りだ。だがあれは何だ?」国王はザモールを認めて声をあげた。
「リュシエンヌの領主です」
「まだ違うぞ」と国王は笑い出した。「任命される前から制服を着ておるのか。すっかり余の言葉を当てにしているらしい」
「陛下のお言葉は神聖ですけど、それを当てにする権利くらいは誰にでもありますもの。でもザモールは陛下のお言葉よりいいもの、ううん、お言葉ほどではないものを手に入れたんです。委任状です」
「何だと?」
「副大法官が送ってくれましたの。ほら。もう就任に必要な手続きは宣誓だけ。早く誓いを済ませて、任せてあげて下さいな」
「来給え、領主殿」
ザモールが進み出た。襟には刺繍、大尉の肩章をつけ、短いキュロット、絹靴下、細長い剣を佩いている。大きな三角帽を腕に抱え、足取りは硬くぎこちない。
「しかし誓い方はわかるのだな?」
「もちろんよ。やってご覧になって」
「前へ」国王はこの黒人形をしげしげと眺めた。
「ひざまずきなさい」伯爵夫人が命じた。
「誓いを述べよ」
ザモールは胸に手を置き、もう片方の手を国王の手に重ねた。
「我が主人及び夫人に対する忠誠と崇敬を誓います。拝命いたしましたこの城館を命尽きるまで守ることを誓います。攻撃を受けた暁には降伏する前にジャムを最後の一壜まで残らず空にすることを誓います」
ザモールがあまりに鹿爪らしい口を聞くものだから、国王は笑い出した。
「誓いと引き替えに」その場に相応しい厳めしさをすぐに取り戻し、「宮殿の空、地、火、水に棲まうものの名に於いて、そなたに領主権、上級及び下級裁判権を授ける」
「ありがとうございます、ご主人さま」そう言ってザモールは立ち上がった。
「よし。では、その立派な服を台所に、我々をそっとしておいてくれ。さあ行け!」
ザモールは立ち去った。
ザモールが扉から出たところに、別の扉からションが入って来た。
「おおそなたか、ション。よく来た」
国王はションを引き寄せ口づけした。
「さあション、真実を話してくれるね」
「あら、お気をつけ遊ばせ。間の悪い。真実ですって! そんなこと言うのは生まれて初めてになるかも。真実がお知りになりたいのなら、ジャンヌにお聞きになって。嘘をつけないひとですから」
「そうかね?」
「今のはションのお世辞。今までは今までですし、それに今晩からは伯爵夫人らしく嘘をつこうと決めているんです。口にすべきじゃない真実については」
「ははあ、どうやらションは何か隠しているようだな」
「まさか、とんでもありません」
「いったいどれだけの公爵、侯爵、子爵に会いに行くことになるだろうな?」
「そんなことにはなりません」伯爵夫人が答えた。
「ションはどう思うね?」
「二人ともそんなことにはならないと思ってますわ、陛下」
「その点については警察に報告書を作らせねばなるまい」
「警察とはサルチーヌの? あたくしたちの?」
「サルチーヌの方だ」
「どれだけ出してやるつもりですの?」
「知りたいことを教えてくれるのであれば、値切るつもりはない」
「ではあたくしの方の警察をお取りになって。報告書もこっちを。お役に立ちますから……絶対に」
「自分を売るつもりかね?」
「お金で秘密が買えるんじゃあ仕方ありませんでしょう?」
「まあよい。報告書を見よう。だが嘘はなしだ」
「まあ馬鹿にして」
「率直に話してくれと言いたかったのだ」
「わかりました! お金のご用意を。報告書はここです」
「ここにある」国王は懐中で金貨をじゃらじゃらと鳴らした。
「ではまず、デュ・バリー夫人は午後二時頃パリで目撃されています」と伯爵夫人が読み上げた。
「余が知りたいのはその後だ」
「ヴァロワ街に」
「否定はせぬ」
「六時頃、ザモールが戻って来ました」
「あり得ぬことではない。だがデュ・バリー夫人はヴァロワ街に何をしに行ったのだね?」
「自宅に行ったんです」
「それはわかる。だが何のために自宅に?」
「代母に会うために」
「代母か!」思わず顔をしかめていた。「では洗礼をしてもらうのか?」
「ええ、ヴェルサイユの大洗礼盤で」
「いや、それは違う。洗礼などされなくとも素晴らしい女性だぞ!」
「どうしてです? 諺はご存じでしょう、『人は自分にないものを欲しがる』」
「代母を見つけようとしたらどうなる?」
「見つかりました」
国王は驚いて肩をすくめた。
「この展開には満足してますの。陛下がグラモン、ゲメネー、そのほか奥さま方の失敗を見たがらないってことがわかりましたから」
「どういうことだ?」
「この方々と組んでいらっしゃるんでしょう!」
「余が?……伯爵夫人、一ついいかね。王たるものは王としか手を組まぬ」
「わかってます。でも陛下の仰る王様はみんなショワズールのお友達じゃありませんの」
「代母の話に戻ろう」
「あたくしも賛成です」
「では無事に一人でっちあげたという訳か?」
「でっちあげなんかじゃありません。しかも上仕立て。ベアルン伯爵夫人と言って、君主だった一族の方ですわ。そういうこと。これならスチュアート家とお近づきの方の名誉を傷つけることもないと思うんですけど」
「ベアルン伯爵夫人?」と王が驚きの声をあげた。「一人だけ知っている。ヴェルダンか何処かに住んでいたはずだ」
「当たり! 大急ぎで飛んでいらっしゃったんですから」
「そなたに手を貸すというのか?」
「それも両の手を!」
「いつ?」
「明日の午前十一時に、内々で謁見を許しました。その時もしご無礼でなければ、日取りのことで陛下にお願いを申しますの。なるべく早めの日に決めて下さいな。構いませんでしょ?」
国王は笑いに囚われたが、わざとらしいものだった。
「まあ大丈夫だろう」伯爵夫人の手に口づけした。
が、ふと「明日の十一時だと?」
「ええ、昼食の時間に」
「いや、無理だ」
「無理ですって?」
「ここで昼食は取らぬ。今夜戻るからだ」
「いったい何が?」デュ・バリー夫人は心臓がぎゅっと凍りつくのを感じた。「行ってしまいますの?」
「やむを得ぬのだ。緊急の用件でサルチーヌと約束していたのでね」
「お好きなように。でも夜食はご一緒出来ますでしょ」
「ああ、夜食なら……うむ、腹も減っている。夜食を取ろうか」
「用意させて、ション」と言って、恐らく予め決めてあったのだろう、二人にだけわかる合図を送った。
ションが立ち去った。
国王は鏡に映った合図を見て、意味はわからぬながらも何らかの企みがあるのは悟った。
「いやはや! 駄目だ駄目だ。夜食も取れぬ……今すぐにでも出なくては。しなくちゃならん署名がある。今日は土曜日だった」
「仕方ありませんわ! では馬を用意させましょう」
「ああ、頼む」
「ション!」
ションが戻って来た。
「陛下の馬を!」
「了解」ションは微笑み、再び立ち去った。
やがて玄関で叫ぶ声が聞こえた。
「陛下の馬を!」
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XXXII「Le roi s'ennuie」の全訳です。
Ver.1 09/09/12
Ver.2 12/09/24
[訳者あとがき]
・09/09/12 ▼次回は9/26(土)更新予定。
[更新履歴]
・12/09/24 柱時計が「百分の四打った頃」→「四百回目の振り子を揺らした頃」に訂正。
・12/09/24 ションの台詞、「真実ねえ! あんなことは初めての経験だったかも。」→「真実ですって! そんなこと言うのは生まれて初めてになるかも。」に訂正。