国王は力を見せつけたことに満足していた。認証式の悩みから解放してくれたとは言え、自分を散々待たせもした伯爵夫人を懲らしめてやったのだ。
戸口に向かったところで、ションが再び戻って来た。
「おや! 従者を見なかったかね?」
「ええ、陛下。控えの間には誰もおりませんわ」
そこで国王の方から戸口まで進み出た。
「誰かおらぬか!」
答える者はない。反響すら聞こえぬ静寂にでも覆われているかのようだった。
国王は部屋に戻り、「余が『危うく待つところだった!』[*1]と言った人間の曾孫だとは誰も信じぬだろうな」と言って窓を開けた。
だが玄関前も同じように無人だった。馬も、馬丁も、衛兵もない。夜の闇だけが、月に照らされて目にも心にもしめやかに厳かに広がっていた。月の光はシャトゥの森の梢上で波のようにたゆたい、セーヌ川から幾片もの煌めきを吸い上げていた。物言わぬ巨大な蛇をくねくねとたどって行けば、ブージヴァルからメゾンまで、即ち差し渡し延べ四、五里をたどることが出来る。
そのただ中で、五月にしか鳴かぬ夜鶯が歌を歌っていた。こんな美しい調べは春の初めにしか相応しくないとでもいうように。訪れたとも去るともつかない初春にしか――。
こんな花鳥風月もルイ十五世には無意味だった。夢想家でも詩人でも芸術家でもなく、極めて現実的な人間であったのだ。
「ほらほら伯爵夫人」国王は口惜しそうに口にした。「頼むから指示を出してくれ。まったく! もう冗談は終わりだ!」
「陛下ったら」伯爵夫人は可愛くすねてみせた。大抵はこれで上手くいく。「ここで指示を出しているのはあたくしじゃありませんわ」
「そうは言っても余でもないぞ。ご覧の通りだ、誰も従わん」
「あたくしでも陛下でもありません」
「では誰が? そなたか、ション?」
「あたし?」ションは部屋の反対側で、伯爵夫人の向かいに腰かけていた。「人の言うことをきくのも大変だし、わざわざ大変な思いをして指示を出そうとも思いませんし」
「では誰が主人なのだね?」
「まあ! 領主殿です」
「ザモールか?」
「ええ」
「確かにそうだな。人を呼んでくれ」
伯爵夫人は気だるげに腕を伸ばし、真珠の玉のついた絹紐を鳴らした。
あらゆる場合に備えて予め指示を出されて控えていた従僕が、姿を見せた。
「領主は?」国王がたずねた。
「領主様は、陛下のために番をなさっています」従僕は恭しく答えた。
「何処だ?」
「巡回していらっしゃいます」
「巡回?」
「将校四人もご一緒です」
「マールバラさんみたい!」伯爵夫人が叫んだ。[*2]
国王は笑いを抑えることが出来なかった。
「うむ、滑稽至極だ。だがとにかく車に馬を繋いでくれ」
「それが、ごろつきがねぐらにせぬよう、領主様は厩舎を閉めておいでです」
「馬丁は?」
「召使い部屋です」
「そこで何を?」
「眠っております」
「何だと! 眠っている?」
「ご命令でございます」
「誰の命令だ?」
「領主様でございます」
「だが門は?」
「門と仰いますと?」
「ここの城館の門だ」
「閉めております」
「結構。だが鍵は手に入れられよう」
「鍵は領主様が腰に提げていらっしゃいます」
「出来のいい城館だな。まったく! 何て命令だ!」
国王がそれ以上たずねたりしないとわかると、従僕は立ち去った。
伯爵夫人は椅子に腰掛け、美しい薔薇を咬んでいた。その口唇は珊瑚のようだ。
「ねえ陛下」浮かべた微笑みには張りがなく、とてもデュ・バリー夫人のものとは思われなかった。「ちょっとお可哀相な気がして来ました。お手をどうぞ。何とかして差し上げます。ション、明かりを」
ションが先頭に立った。万が一危険が生じた場合に備えてのことだ。
廊下の角まで来た時、食欲をそそる匂いが王の鼻をくすぐり始めた。
「おや!」国王は立ち止まった。「何の匂いだろう、伯爵夫人?」
「もう! お夜食の匂いですわ。リュシエンヌで召し上がって下さるとばかり思ってたんですもの。こうして準備させていたんです」
ルイ十五世はその美味しそうな匂いを何回か嗅ぎながら、数時間も前から胃が自己主張を始めていたことを、胸の内で考えていた。騒ぎ立ててみても、馬丁を起こすのに半時間、馬を繋ぐのに十五分、マルリーまで十分は必要だ。マルリーに準備させていたわけではないのだから、軽い食事しか取れないだろう。とろけるような匂いをもう一度嗅ぐと、伯爵夫人を連れて食堂の前で立ち止まった。
二人分の食事が卓子の上で燦然と照らされ絢爛に装われていた。
「これは凄い! いい料理人がいるね」
「今日のはほんの小手調べ。陛下のお褒めに与るような素晴らしい料理を、これまで何度も作ってたんですから。ヴァテルみたいに、喉を掻き切ってしまいかねないくらい」[*3]
「それほどに?」
「特に雉の卵のオムレツ、これにはかなりの……」
「雉の卵のオムレツ? 余の大好物だ!」
「それは残念ね!」
「いやいや、伯爵夫人! 料理人をがっかりさせてはいかん」と国王は笑顔で言った。「夜食を取っている間に、ザモールも巡回から戻るだろう」
「じゃあ、それで決まりね」伯爵夫人は初戦を獲った喜びを隠すことが出来なかった。「どうぞこちらへ、陛下」
「だが給仕する人間がおらぬぞ」従僕を探したが見つからない。
「あら! あたくしが淹れた珈琲じゃ美味しくありません?」
「そんなことはない。そなたが淹れてくれれば同じくらい旨かろう」
「よかった! じゃあこちらへ」
「食事は二人分だけかね? ションは食べぬのか?」
「陛下のご指示もないのにそんなことは出来ませんもの……」
「では命令だ!」国王手ずから棚から食器を取り出した。「さあション、向かいに坐りなさい」
「まあ陛下……」
「ああそうだ。控えめで従順な家来のふりなどして、偽善者めが! さあ伯爵夫人、余のそばに、隣に。横顔も魅力的ではないか!」
「今日まで気づかなかったんですの?」
「何を言うか。いつも正面から見ていたからな。いやしかしそなたの料理人は大綬ものだ。このスープの旨いこと!」
「じゃあ前の料理人を馘首にしたのは正しかった?」
「正しい判断だ」
「でしたら、陛下もお試しになって。損はしませんもの」
「何の話だね」
「あたくしんところのショワズールを馘首したんだから、陛下のところのショワズールも馘首なさって下さらない?」
「政治の話は抜きだ。そのマディラ・ワインをもらおう」
国王がグラスを差し出し、伯爵夫人が細首のデカンタを手に取った。
力を入れているために指は白く、爪は赤く染まっていた。
「ゆっくりと静かに注いでくれ」
「濁らせたくないからですの?」
「そなたの手を見ていたいからだ」
「陛下は見つけるのがお上手ね」伯爵夫人は微笑んだ。
国王の機嫌も少しずつ直って来た。「うむ、確かにもう少しで見つけるところ……」
「世界を?」
「違う、違う。世界など手に余る。王国で充分だよ。ただ、一つの島、地上の一隅、美しい山、アルミーダのようなご婦人たちのいる宮殿、何もかも忘れてしまいたい時にはありとあらゆる怪物がその入口を固めてくれる」
伯爵夫人は冷えたシャンパンのデカンタを国王に差し出した(これは、この時代に新たに工夫されたものである)。「レテ川で汲んだ水をどうぞ」[*4]
「忘れ川? 確かかね、伯爵夫人?」
「間違いありません。だってつい先日地獄に片足を突っ込んだジャンが持ち帰ったものですもの」
国王はグラスを掲げた。「では、甦ったことを祝して。だが政治の話はよしてくれ」
「それじゃあもう話すことがなくなっちゃったわ。陛下がお話を聞かせて下さるんでしたら、面白そうですけど……」
「話はないが、詩を聞かせよう」
「詩ですって?」
「ああ、詩だが……何を驚いている?」
「陛下は詩がお嫌いでしたのに!」
「嫌いだよ。十万のうち、九万は余をネタにしておる」
「では陛下がお聞かせ下さるのは、九万の方ではなく、陛下のお眼鏡に適わなかった一万の方なのね?」
「違うな。余が聞かせるのは、そなたの詩だ」
「あたくし?」
「そなただ」
「作者は?」
「ヴォルテール」
「陛下がお預かりに……?」
「そんなことはない。伯爵夫人殿下宛てだった」
「でもどうやって?……手紙もないのに?」
「それどころか、素敵な手紙に入っていたよ」
「ああ、そういうこと。陛下は午前中、郵便局長(directeur des postes)とご一緒だったのね」
「その通り」
「読んで下さる?」
ルイ十五世は紙片を広げて読み上げた。
歓楽の女神よ、恩寵の慈母よ、
黒き疑いを以て、醜き失態を以て
パフォスの宴を汚さんとするは如何に?
英雄の死を図るは如何に?
オデュッセウスは祖国の要、
そはアガメムノンの基なり。
その走れる才気、溢れる才知に
驕れるイリオンも膝を折れり。
帝国に神々を侍らすがよい、
美もて心を捕えしヴィーナスよ。
麗しき狂乱に溺れて摘み取るがよい、
快楽の薔薇を。
だが我らの瞳には微笑みを、
怒れる海神には平穏を授け給え。
トロヤも恐れるオデュッセウスに、
そなたは怒りをぶつけるのか
何となれば、美に接する術はなし
跪いて溜息をつくよりほか。
伯爵夫人はこの詩を聞いて喜ぶというより気分を害したようだ。「やっぱりヴォルテールは陛下と仲直りしたいのね」
「だとしたら、大問題だな。あれがパリに戻って来たら騒ぎを起こす。親しくしているフリードリヒ二世のところに行くのだろう。我々はルソーだけでもう充分だ。それはともかく、この詩はそなたにやろう。よく考えるがいい」
伯爵夫人は紙片を受け取ると、付け木のように丸めて小皿の脇に無造作に置き捨てた。
国王はただただそれを見つめていた。
「トカイ・ワインを如何?」ションが国王に推めた。
「オーストリア皇帝陛下の酒蔵のものです。安心してお飲み下さいな」伯爵夫人も続けた。
「何だと! 皇帝の酒蔵から……持ち出せるとしたら余しかおるまいが」
「陛下のソムリエも、ですわ」
「まさか! 誘惑したのか……?」
「いいえ。命令したんです」
「お見事。とんだ間抜けな国王だな」
「あら、そうね。でもフランスちゃんも……」
「フランスちゃんにも、心からそなたを愛するだけの器量はあるぞ」
「本当に、あなたがただのフランスちゃんならよかったのに」
「伯爵夫人、政治は抜きだ」
「珈琲は如何?」ションがたずねた。
「喜んで」
「いつも通り火に掛けます?」伯爵夫人がたずねた。
「嫌でなければ」
伯爵夫人が立ち上がった。
「どうしたのだ?」
「あたくしがご用意いたします、閣下」
「そうか」夜食を満喫した国王は、椅子の上でゆったりと寛いだ。腹がふくれれば機嫌も良くなる。「どうやら一番いいのは、そなたに任せることだな」
伯爵夫人は熱いモカの入った珈琲ポットを、金の調理台に運んだ。それから、金張りのカップとボヘミアの水差しを乗せた小皿を、国王の前に置いた。最後に、小皿のそばに紙で出来た小さな付け木を置いた。
国王はいつものように極めて注意深く、砂糖を量り、珈琲を見積もり、そっと蒸留酒を注いでアルコールを浮かせ、紙の付け木で火を付けた。これで中まで火が伝わる。
後は調理台に放り入れれば、付け木は燃え尽きてしまう。
五分後、至極満ち足りた気分で国王は珈琲を味わった。
伯爵夫人は黙って見ていたが、最後の一口を飲み終えると声をあげた。
「ふふふ。陛下が火を付けるのに使ったのはヴォルテールの詩よ、ショワズールにはお気の毒さま」
「これはしたり」国王は苦笑した。「そなたは妖精ではない、悪魔だ」
伯爵夫人が立ち上がった。
「陛下、領主殿が戻って来たらお会いになりますか?」
「うん? ザモールか? それはまたどうして」
「陛下をマルリーにお連れするためですわ」
「そうだった」せっかくの満足感から気持を引き離さねばならなかった。「会いに行こう」
デュ・バリー夫人が合図し、ションが立ち去った。
国王はザモール探しに戻ったが、当初とはまったく違った気持だった。哲学者の言う如く、人のやる気の明暗は胃の状態によるのである。
ところで、王たちの胃は概して、臣下の胃ほど具合が良くないのは事実であるが、肉体のほかの部分にも人並みに満足感や不満足感が伝わるからには、斯かる状態の王に相応しいほどには上機嫌に見えた。
十歩ほど進んだところで、廊下からまた別の香りが漂って来た。
青い繻子と生花の錦で飾られた寝室の扉が折りしも開き、妖しい光に照らされたアルコーヴが姿を見せた。妖婦の足取りは二時間も前からここを目指していたのだ。
「陛下。ザモールはまた姿を消してしまいました。あたくしたちは今も閉じ込められたままです。窓から逃げ出すほかありませんの……」
「ベッドのシーツでかね?」
伯爵夫人は莞爾と微笑んだ。「陛下、正しい使い方をいたしません?」
国王が笑って腕を広げると、伯爵夫人は薔薇を投げ捨て、花びらが絨毯に散った。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XXXIII「Le roi s'amuse」の全訳です。
Ver.1 09/09/26
Ver.2 12/09/24
[訳者あとがき]
・09/09/26 ▼次回は10/10(土)更新予定。
[更新履歴]
・12/09/24 「M. de Marlborough」。「マルボルー」とフランス語読みしていたのを、「マールバラ」と訂正。詳しくは註釈[*2]を。
[註釈]
▼*1. [危うく待つところだった!]。※ルイ14世の言葉。馬車が時間通りに来たときに口にした負け惜しみ・皮肉の言葉。[↑]
▼*2. [マールバラさんみたい!]
。マールバラ公爵ジョン・チャーチル(1650-1722)。イギリスの軍人。フランスの俗謡「Malbrough s'en va-t-en guerre」で、「J'l'ai vu porter en terre,/Par quatre officiers.(四人の将校によって/埋葬されたのを見た。)」と歌われた。スペイン継承戦争の際、敵軍の将であったマールバラ公爵をからかう内容。公爵は戦争に行き、死んじゃった、と歌われる。[↑]
▼*3. [ヴァテル]。François Vatel。ヴァテールとも。ルイ十四世時代の料理人。祝宴に魚が間に合わなかったことに責任を感じ自殺した。[↑]
▼*4. [レテ川]。レテ川とは、ギリシア神話で、あの世にある川。忘れ川。[↑]