デュ・バリー夫人が認証式の大広間に向かうのには、ヴェルサイユの部屋から出るのは都合が悪かった。
第一に、ヴェルサイユにはこうした晴れの日に相応しい物があまりにも足りなかった。
何よりも、結局のところいつもとはまったく違っていたのである。選ばれし者たちが、ヴェルサイユの宿やパリの自宅から、重々しい音を立てて到着していた。
デュ・バリー夫人は出発点にパリの自宅を選んだ。
朝の十一時にはヴァロワ通りに到着しており、ベアルン夫人も一緒だった。微笑みで縛ることが出来ない時には鍵を掛けて閉じ込めておいた。医学と化学の粋を集めて火傷は今も冷やされていた。
前日からジャン・デュ・バリー、ション、ドレの三人は働き通しだった。その仕事ぶりを見ないことには、金の威力や人の能力について考えるのも難しかろう。
一人は美容師を確保し、もう一人は仕立屋を急かした。ジャンは馬車担当だったが、仕立屋と美容師にも手を尽くした。伯爵夫人は花、ダイヤ、レースに没頭し、宝石箱の中に埋もれながら、次々ともたらされるヴェルサイユからの報せによって、王妃の間に明かりを入れるという命令が出されたこと、何一つ変わった点はないことを知った。
四時頃、ジャン・デュ・バリーが戻って来た。青ざめて慌ててはいたが、上機嫌である。
「どう?」伯爵夫人がたずねた。
「どうだって! 準備万端だ」
「美容師は?」
「美容師のところでドレを見つけた。話はついた。五十ルイの手形を押し込んでやったんだ。六時ちょうどにここに夕食にやってくるから、おれたちはそこでのんびりしてればいい」
「ドレスは?」
「凄いのが出来るぞ。ションがしっかり監督していたからな。二十六人のお針子が真珠とリボンと飾りを縫っているところだ。そうやって一幅ごとに丁寧に仕上げているから、ほかの奴らだったら一週間は取られただろうな」
「嘘でしょう、一幅ごとだなんて?」
「本当さ。生地は十三幅ある。一幅につき二人がかりだ。右と左に分かれてレースと宝石を縫いつけているから、最後の最後にならないと一つにならない。後二時間の辛抱だ。夕方六時にはドレスが手に入る」
「間違いないのね?」
「昨日のうちに技師と縫い目を計算しておいた。一幅当たり一万箇所だ。お針子一人につき五千だな。あれだけ厚い生地だと、一目縫うのに五秒はかかる。一分で十二、一時間で七百二十、十時間で七千二百。休憩も必要だし、縫い間違いもあるだろうから、二千二百は計算外としても、まだたっぷり四時間の余裕がある」
「それで馬車は?」
「ああ、馬車か! おれに任せとけって言っただろう。倉庫の中で五十度で塗装を乾かしているところだ。あの素晴らしさと比べちゃあ、王太子妃のお迎え馬車もかすみたいなもんさ。四つの扉の真ん中には紋章が描かれているし、おれが塗らせた方の二枚にはデュ・バリー家の標語『前進あるのみ!』があり、その脇で二羽の白鳩が矢で射られたハートを温めている。その周りを弓、矢筒、松明が取り囲んでいる。フランシャンのところには、あれを見に行列が出来ているぞ。八時ちょうどにはここに届く予定だ」
この時、ションとドレが戻って来た。二人はジャンの言葉を裏づけた。
「ありがとう、みんな勇敢な右腕たちね」伯爵夫人が言った。
「隈が出来てるぞ。少し眠ったらどうだ。そうすれば元通りになる」
「眠る? ええ、そうね! 今夜は眠れそう。それに尽きるわね」
こうして伯爵夫人邸で準備が進められている間も、認証式の噂が町を駆け巡っていた。無聊を慰めている者であろうと、無関心を装っている者であろうと、噂の嫌いなパリっ子などいない。十八世紀の野次馬ほど、宮廷人やその陰謀に詳しい人間はあるまい。いかなる祝宴にも潜り込むことは出来なかったし、ちんぷんかんぷんな馬車の羽目板や徹夜で走る急使の変わった服装を除けば、何も見たことはなかったのだが。そんなわけだから、貴族の誰それ氏がパリ中の有名人であるのも珍しいことではなかった。単純なことだ。劇場でも、遊歩道でも、宮廷人は主役を演じていた。つまりリシュリュー氏はイタリア劇を見ている間も、そしてデュ・バリー夫人は王妃のように豪華な馬車に乗っている間も、今日の喜劇役者や人気女優と同じように、人目を意識していたのである。
見知った顔ほど興味が湧く。パリ中の人間がデュ・バリー夫人を知っていた。裕福で若く美しい婦人たちがしたがるように、デュ・バリー夫人は劇場、遊歩道、店舗に姿を見せることに熱心だったからだ。さらには肖像画、諷刺画、ザモールを通して知っていた。故に認証式のいきさつは、宮廷だけではなくパリにも広まっていた。その日のパレ=ロワイヤル広場にはいつも以上の人だかりが出来ていたが、哲学には申し訳ないことに、それはカフェ・ド・ラ・レジャンスでチェスを指すルソー氏を見るためではなく、噂に聞いた見事な馬車と見事なドレスに彩られた寵姫を見るためであった。ジャン・デュ・バリーの「おれたちはフランスに随分と金をかけている」という言葉には重みがある。パリの様子からも明らかなように、大金のかかった光景をフランスが満喫しようとするのは至極単純なことであった。
デュ・バリー夫人は国民のことをよく理解していた。フランス人はもはやマリ・レクザンスカの頃とは違う。驚かされるのが好きなのだ。気立ての良いデュ・バリー夫人は、出したお金に見合った光景にしようと労をいとわなかった。義兄に言われた通りに眠る代わりに、五時から六時まで牛乳浴をし、六時には小間使いに世話をさせながら、美容師が来るのを待っていた。
今日ではよく知られている時代について、お伝えすべき特別な事実はない。同時代と言ってもいいくらいだろうし、ほとんどの読者もご承知のことだ。だが今この場で、デュ・バリー夫人の髪を整えるのには大変な手間と時間と技術がかかるのだということを説明するのは的外れなことでもあるまい。
完全なる建築物を思い描いて欲しい。若王ルイ十六世の宮廷では頭の上が銃眼だらけになっていたが、あの城塞の原型である。この時代にはあらゆるものが前触れとなる運命だったのだろうか。貴族や貴族もどきたちの足許の地面を穿っていた社会的情熱を反映して、頭の上に誇示しないと、貴族の女たちには特権を享受する時間がほとんどないことを、浮ついた流行が告げていたのだろうか。さらに不吉ではあるがやはり正確な予言によって、首を保護する時間もあまり残されていないことを知り、大げさなまでに飾り立て、何もない頭の上に出来るだけ高く聳えさせたのだろうか。[*1]
こうした見事な髪を編むには、絹のクッションで持ち上げ、鯨鬚の鋳型に巻きつけ、宝石や真珠や花で飾りつけ、目に輝きを与え顔に瑞々しさを与える例の雪をまぶす。仕上げに薄紅、螺鈿、ルビー、オパール、ダイヤモンド、あらゆる色の花をバランスよく整えるためには、大芸術家であると同時に、忍耐も必要だった。
それ故、あらゆる職人の中でも整髪師だけは彫刻家のように剣を携えていた。
これがジャン・デュ・バリーが宮廷美容師に五十ルイ差し出したことの理由であり、さらには大リュバンが――当時の宮廷美容師の名はリュバンといったのだが――そのリュバンが時間通りに来てくれぬのではないか、こっちが望んでいるほど巧みには仕上げてくれないのではないか、という不安の理由である。
やがてその不安は的中した。六時の鐘が鳴っても、美容師は現れなかった。六時半、六時四十五分。心臓が破れるほどに脈を打つ。ただ一つ頼みの綱は、リュバンほどの才能の持ち主であれば、人を待たせるのも当然だということだ。
だが無惨、七時の鐘が鳴った。用意した夕食も冷めてしまうだろう。不快な思いをさせることにはなるまいか。そこで密使を遣ってスープが出来ていることを報せに行った。
従者が戻ってきたのは、十五分の後。
同じような状況で待ち続けた人間だけが、十五分が何秒であるのかを知っている。
従僕はリュバン夫人本人と口を聞いていた。夫人の曰く、夫は先ほど家を出た、もう着いている頃だろう。そうでなくとも向かっている途中なのは間違いあるまい。
「そうか、馬車に何かあったんだな。もう少し待とう」
「でもまだ妥協は出来ないわ。服を途中まで着ておいても髪は整えられる。認証式は十時なんだもの。まだ三時間あるし、ヴェルサイユには一時間で着けるでしょう。待っている間にドレスを見せて頂戴、ション、気晴らしになるわ。ねえ、ションは? ドレスだってば!」
「ドレスはまだ届いておりません」ドレが言った。「お妹さまは十五分前にお出かけになり、ご自身でお求めにいらっしゃいました」
「馬車の音が聞こえたぞ。きっと待ち人来たれり、だ」
子爵は間違っていた。汗まみれの二頭の馬が牽いていたのは、戻って来たションの馬車だった。
「ドレスは?」ションがまだ玄関にいるうちに、伯爵夫人はたずねた。
「来てないの?」ションが驚いてたずねた。
「来てないわよ」
「そう。遅くはならないと思う」ほっとして続けた。「あたしが行った時には、仕立屋はもう辻馬車で出た後だったから。ドレス運びと着付けのためにお針子二人も一緒だって」
「家はバック通りだったな。その辻馬車は随分とのんびり馬を走らせてるじゃないか」
「ええ、そうね」そうは言ったものの、ションはある不安を抑えることが出来なかった。
「ねえ、馬車はこっちから取りに行かせたら?」デュ・バリー夫人が言った。「そうすれば馬車だけは待たなくてもいいもの」
「もっともだな、ジャンヌ」
ジャン・デュ・バリーは扉を開けた。
「フランシャンのところに馬車を取りに行ってくれ。新しい馬も連れて行って、繋いでおくんだ」
御者と馬が出発した。
馬車の音がサン=トノレ通りの方に小さくなった頃、ザモールが手紙を持って来た。
「バリー奥さまにお手紙です」
「誰から?」
「男です」
「男? どんな男なの?」
「馬に乗った男です」
「どうしてお前に渡したのかしら?」
「ザモールが玄関にいたからです」
「質問は後だ、まずは読もうじゃないか」ジャンが堪えきれずに喚いた。
「そうね」
「凶報じゃなければいいんだが」
「まさか。陛下に届けて欲しい請願書か何かでしょう」
「請願書の折り方ではないぞ」
「死ぬほど怖がってるのね」伯爵夫人は微笑み、封印を切った。
一行目を読んだ途端に恐ろしい悲鳴をあげ、死んだようになって椅子に倒れ込んだ。
「美容師も、ドレスも、馬車もないですって!」
ションが伯爵夫人に駆け寄り、ジャンが手紙を奪い取った。
まっすぐで小さな文字は、間違いなく女の手になるものだ。
『マダム、お気をつけ下さい。今夜は美容師もドレスも馬車も手に入らないでしょう。
この助言が間に合うとよいのですが。
感謝をいただくつもりはありませんので、名前は申しません。お知りになりたい時はご想像下さい』
「糞ッ! もう駄目だ!」ジャンが絶望の叫びをあげた。「畜生! 誰か殺してやらなくちゃ気が済まない。美容師がいないだと! くたばっちまえ! リュバンの腹をかっさばいてやる。七時半の鐘が鳴ったというのに、まだ来ない。ふざけやがって! くたばるがいい!」
今夜の認証式には呼ばれていないジャンは、腹立ち紛れに髪を掻きむしった。
「それよりドレスよ!」ションが叫んだ。「美容師ならほかにも見つけられるかもしれない」
「どうかな? どんな美容師がだ? ああ最悪だ、糞ったれめ!」
伯爵夫人は何も言わず、ショワズール兄妹も心を動かされるような溜息を、気づかれぬようそっと洩らした。
「ねえ、少し落ち着きましょう」ションが言った。「まず美容師を探すこと。それに仕立屋のところに戻れば、何かドレスになるようなものがあるかもしれないし」
「美容師がいない!」伯爵夫人が苦悶の呟きを洩らした。「ドレスがない! 馬車がない!」
「そうだ、馬車がない! 馬車も来ていないぞ。もうとっくに着いてなけりゃならないのに。これは陰謀だ。サルチーヌは犯人どもを逮捕できないのか? モープーなら縛り首にできないのか? 共犯の奴らはグレーヴ広場で火あぶりにできないのか? 美容師を車責めにして、仕立屋をやっとこ責めにして、馬車屋の皮を剥いでやる」
こうしている間にも伯爵夫人は落ち着きを取り戻していたが、それは自分の置かれている立場に不安を感じるあまりのことであった。
「今度こそもう駄目よ。リュバンを手に入れたような人なら、パリ中の優れた美容師を囲い込んでおくだけのお金もあるもの。きっと髪を切り刻むような能なししか見つからないわ……。それにドレス! ドレスが!……それにあの新品の馬車。誰もが嫉妬に駆られるはずだったのに……!」
ジャンは何も答えず、恐ろしい目つきで部屋中に当たり散らし、家具にぶつかればそのたびにぶち壊して、それでも破片が大きいと思えばさらに小さく砕いていた。
閨房から控えの間、控えの間から中庭へと広がってゆくこの愁嘆場の真っ直中、従僕たちは相矛盾する命令の渦に困り果て、行ったり来たり、走ってはぶつかり合っていたところ、一人の若者が二輪馬車から降り立った。鮮やかな緑の仕着せ、繻子の上着、藤色のキュロット、白い絹靴下を身につけたその若者は、放っておかれていた門の敷居を跨ぎ、中庭を横切り、敷石を渡り、階段を上り、化粧室の扉を叩いた。
ジャンは日本の壺を叩き落とした際にセーヴル焼きの酒器に服を引っかけてしまい、粉々に踏み砕いている最中だった。
静かに、控えめに、おずおずと、扉が三度鳴るのが聞こえた。
沈黙が訪れた。もしやとは思ったものの、そこに誰がいるのかたずねようとする者はいなかった。
「失礼ですが、デュ・バリー伯爵夫人にお目にかかれないでしょうか」
「お客様、こんな風に入って来られては困ります」どんどん中に入って行くのを止めようとして、門番が追いかけて来た。
「まあまあ。これ以上悪いことなど起こるもんか。伯爵夫人に何の用です?」
ジャンはガザの門も引き抜けそうな勢いで扉を開けた。
訪問者は飛び退いてそれをかわし、第三ポジションで着地した。
「失礼。デュ・バリー伯爵夫人のお役に立てないかと思いまして。認証式があるんですよね?」
「何の役にです?」
「私の仕事のことで」
「どんなお仕事を?」
「美容師です」
そう言って二度目のお辞儀した。
「何だって!」ジャンが若者の首に飛びついた。「美容師だって。さあ入ってくれ、さあ入って!」
「どうぞこちらに」ションはどぎまぎしている若者に両手を回した。
「美容師ですって!」デュ・バリー夫人が天を仰いだ。「美容師! 天の使いだわ。リュバンから頼まれたのかしら?」
「誰かに頼まれた訳ではありません。新聞を読んで、今夜は伯爵夫人の認証式があると知り、『まだ美容師を見つけてないかもしれない。ありそうなことではないけれど、ないとは言い切れない』と思い、お邪魔いたしました」
「お名前は?」いくらか落ち着いて来た伯爵夫人がたずねた。
「レオナールと申します」
「レオナール? 聞いたことがないわ」
「今のところは。ですが奥さまがお任せいただければ、明日には名も知られましょう」
「ふん! 美容師といってもいろいろだからな」
「試している時間はないわ」ションが言った。
「試すとは?」若者は昂奮し、デュ・バリー夫人の周りをぐるぐる回った。「奥さまは髪型でみんなの目を釘付けにしなくてはならないのでしょう。私は奥さまを見初めて以来、一番美しく見えるはずの型をずっと考えて参りました」
そう言って自信に満ちた手つきをしたために、伯爵夫人の心は揺れ始め、ションとジャンの胸にも期待が舞い戻って来た。
「本当なのね!」伯爵夫人は若者の落ち着きぶりに目を見張った。腰に手を当てた様など、大リュバンそのものではないだろうか。
「ですがその前に、ドレスを拝見しなくてはなりません。髪飾りと釣り合いを取らなくてはなりませんので」
「そうよ、ドレスだわ!」デュ・バリー夫人は恐ろしい現実に引き戻された。「ドレスが……!」
ジャンが額を叩いた。
「まったくだ! 想像してみてくれ、とんでもない陰謀さ。みんな盗まれたんだ! ドレスも、仕立屋も、何もかも!……ション! ああション!」
ジャンは髪を引き抜くのに疲れて、嘆き始めた。
「戻ってみたらどう、ション?」伯爵夫人がたずねた。
「無駄よ。だってここに来るために家を出たんでしょう?」
「駄目ね!」伯爵夫人は椅子にひっくり返った。「ドレスがないんじゃ、美容師も役に立たないじゃない?」
この時、またも扉のベルが鳴った。先ほどのように侵入されるのを恐れて、門番は扉を閉めたうえに、閂を掛けていた。
「誰か来たみたい」デュ・バリー夫人が言った。
ションが窓に駆け寄った。
「箱だわ!」
「箱? うちに?」
「ええ……ううん……でも……門番に手渡した」
「行って、ジャン、急いで」
ジャンは従僕たちを追い越して階段に急行すると、門番の手から箱を奪い取った。
ションは窓越しにそれを見ていた。
ジャンは箱の蓋を開け、手を突っ込むと、歓喜の雄叫びをあげた。
箱の中には中国繻子のドレスが入っていた。花の縁取りに、高価なレースも一揃いついている。
「ドレスだわ! ドレスよ!」ションが手を叩いて声をあげた。
「ドレスですって!」先刻までは苦しみのあまり気を失いそうだったデュ・バリー夫人は、今度は喜びのあまり気を失いそうになった。
「誰からだ、おい?」ジャンが門番を質した。
「ご婦人でございます」
「どんなご婦人だ?」
「私の知らない方でした」
「何処の人だ?」
「その方は門から箱を手渡して『伯爵夫人に!』と叫ぶと、乗ってきた二輪馬車にお戻りになり、全速力で走り去ってしまいました」
「まあいい! 大事なのはドレスがあるってことだ!」
「早く来なさいよ、ジャン!」ションが叫んだ。「死ぬほど待ち焦がれてるじゃない」
「さあ手にとって確かめるんだ。じっくり見とれるがいいさ。これが天の贈り物だ」
「でもサイズが合わないわ、合うわけないじゃない、あたしに合わせて作ったわけじゃないんだもの。ああ口惜しい! こんなに素敵なのに」
ションが急いでサイズを測った。
「縦も横もぴったりよ」
「素晴らしくいい生地だぞ!」
「信じられない!」
「怖いくらいね!」伯爵夫人が言った。
「だがこれでわかったな。手強い敵がいるにしても、同じくらい力強い味方がいる」
「人じゃないわ」ションが言った。「だって陰謀のことをどうやって知ったの? きっと妖精か何かよ」
「たとい悪魔だとしてもいいわ。グラモン夫人たちと渡り合う手助けをしてくれてるんだから! あの人たちの方がよっぽど悪魔じゃないの!」
「ところで……」ジャンが言った。
「なあに?」
「こちらの紳士に頭を任せちまった方がいいと思うな」
「何でそう言い切れるのよ?」
「おいおい! ドレスを届けてくれた人が知らせたに決まってるだろう」
「私にですか?」レオナールは心底驚いていた。
「新聞の話は出任せだ、そうだろう?」
「間違いなく本当の話です」
「説明して頂戴」伯爵夫人が言った。
「奥さま、ポケットに新聞がございます。包み紙にしようと保っておいたのです」
若者は言葉通りに上着の隠しから、認証式の記事の載った新聞を取り出した。
「さあ始めましょう」ションが言った。「八時の鐘が鳴ったわ」
「ああ、時間はございます」美容師が言った。「式場までは一時間ですね」
「ええ、馬車があったらの話だけど」伯爵夫人が言った。
「そうだ! 畜生! フランシャンの野郎がまだ来てないぞ!」
「誰に予想できたかしら? 美容師もドレスも馬車もないなんて!」
「ねえ」ションが怖気立った。「フランシャンも約束を守らないなんてことは?」
「そんなことはない。あそこだ」
「それで馬車は?」伯爵夫人がたずねた。
「きっと家の前に停まっているさ。そのうち門番が扉を開けに行くとも。いったいどうしたんだ?」
というのも、この言葉と相前後して、怯えきったフランシャン親方が部屋に飛び込んで来たのである。
「ああ、子爵! 奥さまの馬車をお届けする途中、トラヴェルシエール通りの角で、四人の男が馬車を止めて小僧を殴りつけ、全速力でサン=ニケーズ通りに逃げてしまったのです……!」
「言った通りだ」デュ・バリー子爵は椅子に坐ったまま、馬車屋が入ってくるのを機嫌良く眺めていた。
「襲撃じゃないの! どうにかしなくちゃ!」ションが叫んだ。
「どうにかする! どうしてだ?」
「馬車を探しに行かなきゃ。ここには疲れている馬と汚い馬車しかないのよ。こんなポンコツでジャンヌをヴェルサイユに行かせる訳にはいかないわ」
「いいこと?」デュ・バリー夫人が昂奮をなだめた。「ひよこに餌をくれた人、美容師を用意してドレスを送ってくれた人が、馬車がないままにさせておくわけがないでしょう」
「ねえ! あれは馬車の音じゃない?」ションが言った。
「停まったな」
「でも入って来ない」伯爵夫人が言った。
「入って来ない、それだ!」
ジャンが窓に飛びつき、開けた。
「急げ! 遅れちまうぞ。いいか! 俺たちには少なくとも恩人がいるのを忘れるなよ」
下男、馬丁、使者は急ぎに急いだが、既にだいぶ遅れていた。白繻子が張られ、鹿毛の馬が二頭繋がれた馬車が、門の前に停まっていた。
だが御者も従者も影も見えない。使い走りが轡を握っているだけだ。
馬車の持ち主はその使い走りに六リーヴルを与え、噴水広場の方に姿を消してしまったと云う。
扉を確かめた。だが紋章の代わりに、一輪の薔薇があっさりと書かれているだけであった。
いろいろな出来事のせいで時間がなかった。
ジャンは馬車を中庭に入れさせ、門を閉めて鍵を掛けた。化粧室に戻ると美容師が手並みを披露しようと準備をしていた。
ジャンがレオナールの腕をつかんだ。「失礼だが、恩人の名を教えなかったり、こんなに感謝しても知らせないのなら……」
「いいですか」若者は落ち着いていた。「そんなに強く腕をつかまれては、伯爵夫人の髪を整えたくても手が痺れてしまいます。それに急がなくては、もう八時半になりました」
「放して頂戴、ジャン!」伯爵夫人が声を出した。
ジャンは椅子に倒れ込んだ。
「奇跡よ! ドレスはぴったりだわ……ほんのちょっと長いだけだけど、十分で直せるもの」ションが言った。
「馬車はどう……? 立派な馬車?」伯爵夫人がたずねた。
「見事なもんだ……中に入ってみたよ。白繻子の内張に、薔薇の香り」ジャンが答えた。
「じゃあ問題ないわね!」デュ・バリー夫人は小さな手を叩いて喜んだ。「さあレオナール、上手く出来たらあなたも明日から有名人よ」
レオナールは二言とは言わせなかった。デュ・バリー夫人の髪に手を掛け、櫛を入れるや、その才能を披露し始めた。
素早さ、センス、正確さ、心と身体を見事に一致させ、この重大な仕事をこなしていた。
最後の仕上げをし、強度を確かめ、手を洗う水を求めた。ションが君主にでも仕えるように喜んで水を持ってくると、控えめに礼を言って、退出の意向を示した。
「いや、待て待て! おれは好き嫌いにかかわらずしつこいんだ。もうそろそろ、あなたが誰なのか教えてくれてもいいでしょう」
「とっくにご存じですよ。駆け出しの若者で、レオナールと申します」
「駆け出し? ご冗談を! 名人級の腕前だ」
「あたくしの美容師にならない?」伯爵夫人は手鏡に見入っていた。「催しごとのたびに髪を整えてくれるごとに、五十ルイお支払いするわ。ション、第一回目の今回は百ルイ差し上げて。五十ルイはご祝儀よ」
「奥さま、申し上げました通り、これで私の名も知られるでしょう」
「でもあなたはあたしの専属に……」
「百ルイはお納め下さい。私は自由でいたいのです。今日あなたの髪を整えることが出来たのも、自由だったおかげです。自由とは、あらゆる人間にとって一番大事なものですから」
「哲学者みたいな美容師だな!」ジャンが天を仰いだ。「神よ、我々は何処に行くのです? さあレオナール、あんたと喧嘩はしたくない。百ルイ受け取ってくれ。心配ない、あんたの秘密と自由は守るから……よし馬車だ、伯爵夫人!」
この言葉はベアルン伯爵夫人に向けられたものだった。聖遺物のように厳かに着飾ったベアルン夫人が入って来た。使う直前になって棚から引っぱり出して来たような有り様だった。
「よし、いいか。四人で階段の下まで静かに運ぶんだ。ちょっとでも苦しそうな声を出させてみろ、お前らをぶん殴ってやるからな」
ジャンがこうして慎重かつ重要な作業を取り仕切り、ションがそれを手伝っている間、デュ・バリー夫人はレオナールの姿を探した。
レオナールは消えていた。
「何処を通って行ったのかしら?」デュ・バリー夫人は相次ぐ驚きから醒めきれぬまま呟いた。
「何処を通って行っただって? 床から? 天井から? そんなことが出来るのは魔法使いだけだぞ。いいか伯爵夫人、髪が鳥の巣に変わらないように、ドレスが蜘蛛の巣に変わらないように、鼠が牽く南瓜の馬車でヴェルサイユに着いたりしないように、気をつけようじゃないか!」
最後の一言を口にしながら、ジャン子爵が馬車に乗り込んだ。そこには既にベアルン伯爵夫人と幸せな代子が腰かけていた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XXXVII「Ni coiffeur, ni robe, ni carrosse」の全訳です。
Ver.1 09/11/21
Ver.2 12/09/26
[訳者あとがき]
・09/11/21 ▼次回は12/1(土)更新予定。
[更新履歴]
・12/09/26 訳し洩れがあったので追加。「目に輝きを与え顔に『瑞々しさを』与える例の雪をまぶす。」
・12/09/26 否定疑問文の訳し方が間違っていたので訂正。「サルチーヌが職人たちを逮捕させた訳でもあるまい? モープーが縛り首にするとでも? グレーヴ広場で共犯者が火あぶりにされたとでも?」 → 「サルチーヌは犯人どもを逮捕できないのか? モープーなら縛り首にできないのか? 共犯の奴らはグレーヴ広場で火あぶりにできないのか?」
・12/09/26 「報せを受け取らなかった? 美容師もドレスも馬車も手に入らないって!」→「誰に予想できたかしら? 美容師もドレスも馬車もないなんて!」
・12/09/26 「デュ・バリー夫人は相次ぐ災難からまだ立ち直っていなかった。」→「デュ・バリー夫人は相次ぐ驚きから醒めきれぬまま呟いた。」
[註釈]
▼*1. [完全なる建築物……]。ルイ十六世時代の髪型は、しばしば戯画《カリカチュア》に描かれた。
下図は1780年の戯画「L'encendie des coeffures(髪飾りの火事)」。(『French Caricatures, and the French Revolution』より)
[↑]