目の前で起こったことが信じがたく、懐疑と信仰を併せ持っていた王女は、目の前の男がもしや本当に意思も心も意のままに操れる魔術師なのではないかといぶかった。
だがフェニックス伯はそれで終わりにしようとはしなかった。
「話は終わってはおりません。ロレンツァの口から聞かされた話でさえ、まだ物語の一部でしかないのです。ロレンツァ自身から残りも聞かない限り、お疑いは解けないのではありませんか」
そう言ってロレンツァの方を振り返った。
「覚えているか、ロレンツァ、俺たちの旅したところを。一緒にミラノ、マジョール湖、オーバーラント山、リギ山、北のテヴェレとも言うべきライン川に行ったっけな?」
「覚えています」ロレンツァは相変わらず単調な声を出した。「ロレンツァはどの景色も目にしました」
「この男に連れて行かれたのではありませんか? 抗い難い力に囚われたのだとご自分で仰ったではありませんか?」王女がたずねた。
「事実から遠いまったく逆の話を聞いたばかりだというのに、何故そのようなことを信じるのですか、殿下? ああ、そうでした! もっとはっきりした物的証拠が欲しいと仰るのでしたら、ロレンツァの書いた手紙がございます。不本意ながらマインツに一人で置いておかねばならなかった時がありました。私の不在を嘆き、恋しさから書いた手紙をお読み下さい」
伯爵は紙入れから手紙を取り出し、王女に手渡した。
王女は手紙を読んだ。
『戻ってきて、アシャラ。あなたがいなくてさびしいの。ああ! いつになったら永遠にあなたのものになれるのかしら? ロレンツァ』
王女は怒りを浮かべて立ち上がり、手紙を手にしたままロレンツァに近寄った。
ロレンツァは近づいて来る王女を見るでもなく聞くでもなく黙っていた。伯爵以外には目にも耳にも入らないかのようだ。
「わかりました」と伯爵が割って入った。最後までロレンツァの通訳を買って出ようという腹のようだ。「殿下はお疑いだ。この手紙がロレンツァのものかどうかお知りになりたいのですな。では、本人に確かめてもらいましょう。ロレンツァ、答えなさい。この手紙を書いたのは誰だ?」
伯爵が手紙を取り上げ、ロレンツァの手に押しつけると、すぐにロレンツァは手を胸に当てた。
「書いたのはロレンツァです」
「では内容も知っているな?」
「もちろんです」
「よし、手紙の内容を殿下に申し上げるんだ。そうすれば、お前が俺を愛していると言ったのも嘘ではないと信じていただけるだろう。申し上げてくれ、頼む」
ロレンツァは心を凝らしているようだった。だが手紙を広げたり目を落としたりせずに、読み始めた。
「戻ってきて、アシャラ。あなたがいなくてさびしいの。ああ! いつになったら永遠にあなたのものになれるのかしら? ロレンツァ」
「それは信用できません」王女が言った。「あなたのことも信じられません。やることなすこと説明がつかず超自然的なところばかりではありませんか」
「この手紙でした」フェニックス伯は、マダム・ルイーズの言ったことなど耳に入らなかったかのように先を続けた。「この手紙に背中を押されて結婚を決意したのです。ロレンツァが愛してくれているように、私もロレンツァを愛していました。それまでの関係は間違っていました。私のように危険な生活を送っていれば、不幸が訪れるかもしれない。死んでしまうかもしれません。私が死んだ時には、すべての財産がロレンツァのものになるようにしておきたい。そこでストラスブールに着き次第、私たちは結婚しました」
「結婚したのですか?」
「その通りです」
「そんなはずはありません!」
「何故です?」伯爵が笑いを浮かべた。「フェニックス伯爵がロレンツァ・フェリチアーニを娶ったはずがないとは、どういうことでしょうか?」
「この方ご自身が、自分はあなたの妻ではないと仰ったのです」
伯爵は王女には答えず、ロレンツァに向かってたずねた。
「俺たちがいつ結婚したか覚えているな?」
「はい、五月三日でした!」
「何処だった?」
「ストラスブールです」
「何処の教会だ?」
「サン=ジャン教会の大聖堂です」
「この結婚に異議があったか?」
「ありません。とても幸せでした」
「お前が暴力をふるわれたと殿下が信じてらっしゃるのはわかるな? お前が俺を嫌っていると言うんだ」
こう言いながら伯爵はロレンツァの手を握った。
ロレンツァの身体が歓喜に震えた。
「嫌ってるですって? そんなことはありません。愛しています。あなたは優しく、寛大で、逞しいのですから!」
「俺の妻になって以来、俺が夫の権利を濫用したことが一度でもあったか?」
伯爵は王女の方を向いて、「お聞きですね?」とでも言いたげな顔をした。
マダム・ルイーズは恐怖に囚われ、小部屋の壁にある黒天鵞絨の壁龕に設えられた象牙のキリスト像の足許まで後じさった。
「殿下がお知りになりたいのはこれですべてでしょうか?」伯爵がロレンツァの手を下ろした。
「お願いです」王女は声をあげた。「こちらに近づいてはなりません。ロレンツァも来てはなりません」
この時、四輪馬車が門前に止まるのが聞こえた。
「よかった!」王女が声をあげた。「枢機卿です。これでようやく知りたいことがはっきりするでしょう」
フェニックス伯爵が屈み込んで、ロレンツァに何事か囁いた。その落ち着きぶりを見ていると、どんな事態でも統べることが出来そうだった。
すぐに扉が開き、ド・ロアン枢機卿猊下の到着が知らされた。
人の姿を見て落ち着きを取り戻した王女は、椅子に戻ってこう伝えた。
「お入り下さい」
枢機卿が入室した。だが王女への挨拶もそこそこに、バルサモの存在に気づいて、驚きの声をあげた。
「おお、あなたでしたか!」
「この方をご存じなのですか?」王女はますます驚いてたずねた。
「もちろんです」枢機卿が答えた。
「では、この方が何者か教えていただけますか?」
「お安い御用です。この方は魔術師ですよ」
「魔術師?」王女が呟いた。
「恐れながら、殿下」と伯爵が言った。「猊下がすぐに、誰もが満足するようなご説明をして下さるものと思っております」
「殿下も何か予言されたのでしょうか? これほど動顛していらっしゃるとは」ロアン枢機卿がたずねた。
「婚姻証書です! 今すぐ証書を!」
枢機卿はわけがわからず、驚いて王女を見つめた。
「こちらです」伯爵が枢機卿に証書を見せた。
「それは何です?」
「猊下、この署名が本物かどうか、この証書が有効かどうかが知りたいのです」
枢機卿は王女が指さした書類を読んだ。
「この証書は正式な婚姻証書でありますし、この署名はサン=ジャン教会の主任司祭ルミー氏のものです。これがどうかしたのですか?」
「重大なことです。するとこの署名は……?」
「本物です。無理強いされたものでないとは断言できませんけれどね」
「無理強いされたというのですか? あり得ますね」
「ロレンツァの同意も無理強いですか?」伯爵は王女に向かってあからさまに皮肉をぶつけた。
「どんな方法があるのでしょうか、枢機卿猊下? どんな方法で署名を無理強い出来るのか、ご存じなら教えて下さい」
「この方の力、魔術を使えば出来るでしょう」
「魔術ですって! 枢機卿、あなたは本気で……?」
「この方は魔術師です。そう申し上げましたし、訂正するつもりもございません」
「ご冗談はおやめ下さい」
「冗談ではございません。その証拠に、これからあなたの目の前で伯爵と話をしたいと思っております」
「私も猊下にそうお願いしようと思っていたところです」と伯爵が言った。
「それは素晴らしいが、質問するのは私だということをお忘れなきよう」枢機卿は釘を刺した。
「猊下こそ、私が殿下の御前でさえ、聞かれたことにはどんな質問にも答えるつもりだということをお忘れなさらないことです。もっとも、そんなことを聞くとは思えませんが」
枢機卿が微笑んだ。
「今の時代に魔術師の役を演じるのは至難の業でしょう。魔術を行っているあなたを見て来ましたが、立派にやり遂げていらっしゃる。しかし申し上げておきましょう、みんながみんな我慢強くはありますまいし、それに王太子妃殿下のように寛大ではありますまい」
「王太子妃殿下?」王女が口を挟んだ。
「そうです、殿下。王太子妃殿下に謁見する栄誉に預かりました」伯爵が答えた。
「どのようにその栄誉に報いたのです? 仰って下さい」
「残念ながら、望み通りには参りませんでした。人に対して個人的恨みなどありませんし、ご婦人に対してはなおのことなのですが」
「いったいわたくしの姪に何をなさったのです?」マダム・ルイーズがたずねた。
「妃殿下がお求めになった真実を申し上げてしまったのです」伯爵が答えた。
「そう、真実でした。妃殿下を気絶させるような真実でした」
「真実がああした結果をもたらすほど恐ろしいものだったからといって、それが私の落ち度でしょうか?」ここぞとばかりに伯爵は力強く声を轟かせた。「大公女に会いに行ったのは私でしょうか? 謁見を求めたのは私でしょうか? 否、むしろ私は避けようといたしました。嫌々ながら連れて行かれ、ご命令としてたずねられたのです」
「あなたが伝えた真実がそれほど恐ろしいものだったということですか?」王女がたずねた。
「未来のヴェールを引き裂いて、真実をお見せしたのです」
「未来ですか?」
「未来です。殿下はそうした未来に危険を感じ、修道院の回廊でその危険を避け、祭壇の足許で祈りと涙を用いてその危険と戦おうとなさったのではありませんでしたか」
「何を仰るのですか!」
「殿下が聖人のように予感なさった未来を、私が預言者のように黙示されたからといって、それにまた王太子妃殿下がたまたまその未来に怯えて気絶なさったからといって、それが私の落ち度でしょうか?」
「おわかりいただけましたか?」枢機卿がたずねた。
「冗談ではありません!」
「残念ながら妃殿下のご治世は、あらゆる君主制の中でも最も悲劇的で最悪のご治世だという託宣が出ております」と伯爵が言った。
「いい加減になさい!」
「殿下ご自身は、祈りによって恩寵を授かりましょう。ただしすべてを見ることは適いません。ことが起こった時には主の御腕に抱かれていらっしゃるでしょうから。お祈り下さい、マダム!」
心に巣食う恐怖に応じるような予言の声に打たれて、王女は十字架像の足許にひざまずき、伯爵の言葉通り一心に祈り始めた。
伯爵は窓の手前にいた枢機卿を振り返った。
「私たちの方ですが、枢機卿猊下、何かお望みでしたか?」
枢機卿が伯爵に近づいた。
四人の位置関係は以下の通りである。
王女は十字架像の足許で祈りを捧げていた。ロレンツァは動きもせず物も言わず、見えているのかいないのか目を見開いて一点を見つめたまま、部屋の真ん中に立っていた。二人の男は窓辺に陣取り、伯爵は錠前に寄りかかり、枢機卿はカーテンの陰に半ば隠れていた。
「何をお望みですか?」伯爵は繰り返した。「お話し下ださい」
「あなたが何者なのか知りたい」
「既にご存じです」
「私が?」
「そうですとも。魔術師だと仰いませんでしたか?」
「これは参りました。しかしあちらではジョゼフ・バルサモと呼ばれ、ここではフェニックス伯爵と呼ばれていますね」
「ええ、それが何か? 名前を変えたに過ぎません」
「そうでしょうとも。ですがあなたのような立場の方が名前を変えると、サルチーヌ殿にどう思われるかおわかりでしょうか?」
伯爵は微笑んだ。
「ロアンともあろう方が些細なことを! 猊下は言葉をあげつらってらっしゃいますな! Verba et voces(言葉と声のみ)とラテン語でも言うではありませんか。咎めるにしてもそれはひどい!」
「どうやら人をおからかいになっていらっしゃる」
「『なった』のではありません。元からです」
「でしたら、こちらも思いを晴らすといたしましょう」
「どうやって?」
「あなたをへこませることで」
「どうぞおやりなさい、猊下」
「こうすることで王太子妃殿下には喜んでいただけることでしょう」
「あなたが妃殿下とご一緒である以上は、まんざら無意味な言葉でもないのでしょうな」バルサモは動じなかった。
「では占星術師殿、私があなたを逮捕させたらどういたしますか?」
「それは大いなる間違いだと申し上げましょう、枢機卿猊下」
「そうですか!」枢機卿猊下はあからさまに蔑んでみせた。「いったい誰がそれを判断するのでしょうか?」
「あなたご自身です、猊下」
「ではすぐにでも指示を出すことにいたしましょう。そうすればこのジョゼフ・バルサモ男爵にしてフェニックス伯爵が本当は何者なのか、ヨーロッパの如何なる紋章地にも一切見つからない家系図の末裔であることがわかるでしょう」
「ところで、どうしてご友人のブルトゥイユ殿に問い合わせなかったのでしょうか?」バルサモがたずねた。
「ブルトゥイユ殿は友人ではありません」
「今は違うかもしれませんが、かつては友人でしたし、親友でさえあったのではありませんか。何通か手紙を書いたことがおありなのですから……」
「どんな手紙です?」枢機卿が歩み寄った。
「もっと近くに、枢機卿猊下。大きな声で話したくはありません。あなたの名誉を傷つけてしまいかねませんから」
枢機卿はさらに近寄った。
「いったいどの手紙の話をしているのです?」
「よくご存じのはずです」
「いいから仰いなさい」
「ウィーンからパリに書いた手紙のことです。王太子のご成婚を危うくさせようと目論んだものです」
枢機卿は思わず怯えを見せた。
「その手紙は……?」
「すっかり暗記しております」
「ブルトゥイユが裏切ったのか?」
「何故そう思われます?」
「ご成婚が決まった時に、手紙を返してくれるよう頼んだのだ」
「ブルトゥイユ殿は何と?」
「手紙は燃やしてしまったと」
「失くしてしまったとは仰ろうとなさらなかった」
「失くした?」
「そうです……失くしたからには、見つけられることもあるでしょう」
「つまりその手紙が、私がブルトゥイユに書いたものだったと?」
「そうです」
「燃やしてしまったと言ったのに……」
「そうですね」
「失くしていたのか……?」
「それを私が見つけました。幸運でした! ヴェルサイユの大理石の内庭を歩いていた折りでした」
「ブルトゥイユ殿に返そうとはしなかったのですか?」
「預かっておくことにしました」
「何故です?」
「何故なら魔術師の能力によって、私がこれほどお役に立ちたいと思っているのに、猊下の方では死ぬほど私を苦しませたがっているとわかっていたからです。もうおわかりでしょう。攻撃を受けるとわかっていながら丸腰のまま森を抜けたところ、装填された短銃を森の外れで見つけた場合……」
「その場合?」
「その場合、短銃に見向きもしないとしたら愚か者に違いありません」
枢機卿は眩暈を起こして窓の縁に身体を預けた。
だが表情の変化を伯爵にじろじろ見られていることに気づき、すぐに気を取り直した。
「まあいいでしょう。しかし、我が大公家がいかさま師の脅しに屈するようなことはないでしょう。この手紙が失くなって、それをあなたが見つけたというのなら、王太子妃殿下にお見せすべきではありませんか。この手紙が私の政治家生命に傷をつけることになっても、私は忠実な臣下であり大使であると主張するつもりです。それこそが真実であり、オーストリアと同盟を結んでも我が国の利益にとっては有害でしかないと伝えれば、我が国も私のことを守り情けをかけてくれるでしょう」
「もし誰かがそう主張したとして、その若く美しく礼儀正しく何一つ疑わない大使がロアンの名と大公の肩書きを持っているとすると、それはオーストリアとの同盟がフランスの利益にとって有害だと信じているからではなく、マリ=アントワネット大公女の方から優雅にもてなされたために、調子に乗った大使が自惚れも甚だしく大公女の慈しみにそれ以上の意味を見出したから……この慈しみに対して、忠実な臣下にして誠実な大使はどうお答えするおつもりなのでしょうか?」
「答えないでしょう。あなたが存在すると主張している感情には、何の根拠もありませんから」
「そうでしょうか? では王太子妃があなたに冷たいのはどうしてです?」
枢機卿は躊躇った。
「もういいでしょう、大公殿」と伯爵が言った。「仲違いはやめませんか。私があなた以上に用心深くなければとっくにそうしているべきでしたが、仲良くしませんか」
「仲良く?」
「いけませんか? 仲良くすれば互いに協力し合えます」
「今までそう要求していたではありませんか?」
「そこが間違っていたところです。二日前からパリにいたのですから……」
「私が?」
「ええそうです。どうして隠そうとなさるのです? 私は魔術師ですぞ。あなたはソワッソンで大公女とお別れになり、ヴィレル=コトレとダマルタンを通って、つまり最短距離を取って馬車でパリに到着すると、パリのご友人に助けを求めに行かれましたが、拒否されてしまいました。何人かに拒否された後で、あなたはコンピエーニュに馬車を出し、絶望していたのです」
枢機卿は完全に打ちのめされて、たずねた。
「あなたに打ち明けたとしたら、どんな助けをしてくれるというのです?」
「
「あなたが金を作れることに何の意味があるのです?」
「馬鹿なことを! 四十八時間以内に五十万フラン払わなければならないとしたら……五十万フランで間違いありませんね? どうなんです」
「そうだ、間違いない」
「錬金術師と仲良くすることに何の意味があるのかと仰いますか? 誰からも手に入れられなかった五十万フランを、手に入れられるではないですか」
「何処に行けば?」枢機卿がたずねた。
「マレー地区の、サン=クロード街」
「目印は?」
「青銅製のグリフォンの頭が、ノッカーになっております」
「いつ行けば?」
「明後日の夜六時頃お願いいたします。その後は……」
「その後は?」
「何度でもお好きな時にいらして下さい。ですがどうやら話はそろそろ終わりですな。王女の祈りが終わったようです」
枢機卿は打ちひしがれていた。それ以上は抵抗する気にもなれず、王女に歩み寄った。
「マダム、フェニックス伯爵が正しかったと言わざるを得ません。伯爵がお持ちの証書は法的に非の打ち所がありませんし、聞かせていただいた説明にも満足いたしました」
伯爵が一礼した。
「何かお命じになることはございますか、殿下?」
「最後に一言こちらのご婦人と話をさせて下さい」
伯爵は同意の印に再びお辞儀をした。
「ここに匿って欲しいと頼んでおきながらこのサン=ドニ修道院から立ち去るのは、本当にあなたの意思なのですね?」
すぐにバルサモがたずねた。「殿下がおたずねだ。ここサン=ドニ修道院に匿って欲しいと頼んでおきながら立ち去るのは、本当にお前自身の意思なのか? 答えるんだ、ロレンツァ」
「はい、わたし自身の意思です」
「夫であるフェニックス伯爵について行くのが理由ですか?」
「俺について来たいからか?」
「はい、もちろんです!」
「でしたら」と王女が言った。「あなたの気持気持に逆らってまで引き留めたりはしません。ですがもし物事の自然秩序から外れたことがありましたら、自分の利益を計って自然の調和を乱す者には、主の罰が下ることでしょう……お行きなさい、フェニックス伯爵。お行きなさい、ロレンツァ・フェリチアーニ、もう引き留めません……そうそう、宝石をお返ししましょう」
「あれは貧しい者たちのものです」とフェニックス伯が言った。「あなたの手で施しをなされば、その憐れみに神もいっそうご満足なさることでしょう。私はジェリドだけで結構です」
「お帰りになる際にお求めになれます。行って下さい!」
伯爵は王女にお辞儀をすると、ロレンツァに腕を差し出した。ロレンツァは腕に絡みつき、物も言わずに出て行った。
「ああ、枢機卿殿」王女は悲しげに頭を振った。「わたくしたちが吸っている空気には、不可解で悲劇的なものが漂っていますよ」
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LII「Son Éminence le cardinal de Rohan」の全訳です。
Ver.1 10/05/22
[訳者あとがき]
・05/22 ▼次回は06/05(土)更新予定。
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