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翻訳:東照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第五十三章 サン=ドニからの帰路

 既にお話しした通り、フィリップと別れたジルベールはまたも人混みに紛れていた。

 だが今回はもはや心を期待や喜びに踊らせることもないまま雑踏の中に飛び込んでいた。悲しみに傷ついた魂は、フィリップの親切なもてなしや暖かい援助の申し出でも和らげることは出来なかった。

 アンドレは自分がジルベールに対して残酷だったとは思いもしなかった。この若く心穏やかな娘は、自分と乳母子の間に苦しみであれ喜びであれ何らかの接点があろうとは心にも思っていなかった。小さな球体の上を通り過ぎながら、自分自身の喜びや悲しみに応じて、影や光を投げかけていたのだ。今回ジルベールを萎れさせたのは、軽蔑の影だった。アンドレとしては自分の心に従ったまでであって、蔑んだ態度を取ったとは思ってもいない。

 だが白旗状態のジルベールにしてみれば、軽蔑の視線と尊大な言葉をもろに心に受け止めてしまったのだ。血を流して絶望していながら慰めを見出すほどにはまだ達観していなかった。

 そういうわけだから、人混みに紛れた時にも馬や人に気を留めることはなかった。道に迷ったり押しつぶされたりする危険も顧みずがむしゃらに、手負いの猪のように群衆の中に突っ込んで道を作った。

 ぎゅうぎゅうづめの中を通り抜けると気分もだいぶ楽になり、ほっと一息ついた。周りを確認して、緑、静けさ、水があることに気づいた。

 自分が何処に向かっているのかもわからぬままセーヌ川まで走り、サン=ドニ島のほぼ正面にたどり着いた。肉体的には疲れていなかったが、精神的な苦しみからへとへとになり、草むらに倒れ込むと、頭を抱えて気違いのように声をあげ始めた。苦しみを表現するには、こうして獅子のように咆吼する方が、人間の叫びや言葉よりも相応しかったであろう。

 それまでは、自分でも気づかなかった分外の望みに、ぼんやりとした希望が密かな光を投げかけていたというのに、そんなおぼろな希望すら一撃で掻き消えてしまったのだろうか? 才能や知識や教育によってジルベールが社会の階層を幾つか上がったとしても、アンドレにとってはジルベールはジルベールのままであり、(アンドレ自身の言葉を借りれば)父親がちょっとでも気にするのが間違っているような物や人間であり、わざわざ目を留める手間を掛けたくもない物や人間なのだ。

 パリでジルベールを見かけ、徒歩でやって来たと聞かされ、無智と戦おうという決意を知れば、アンドレは感心してくれるだろうと思っていた。だが思いやりに満ちた励ましの言葉もないうえに、並々ならぬ苦労と気高い決心をしてみせても、タヴェルネの時と同じようにたかがジルベールには蔑み以外の何の関心も払ってはもらえなかった。

 そのうえ、思い切って教習本に目を通していたことを知ると、腹を立てそうになったではないか? 指の先で触れていようものなら、燃やされていたに違いない。

 心の弱い人々にとって、落胆や失望は一時的な痛手でしかない。くじけてもより強くより逞しく立ち直るだけだ。彼らは呻きや涙で苦しみを表現する。庖丁を前にした羊のように身を任せる。それどころか、殉教者気取りに死ぬほどの苦しみに揉まれて、愛がますます強くなることもある。穏やかにしていればいつか報いが訪れるのだと自分に言い聞かせる。道の善し悪しに関わらず、向かうべき目的地にこそ報いがある。道が悪ければ到着が遅くなりはするが、いずれ到着はするはずだ。

 だからそこには強い心、堅い意思、逞しい素質などない。心の弱い人々は、自分の血が流れているのを見ては癇癪を起こし、異常なほど感情を高ぶらせるため、人からは優しいとは思われずに憎らしいと思われることになる。彼らを非難してはいけない。彼らの胸中では愛と憎しみがあまりに近づき過ぎているため、互いの行き来に気づかないのだ。

 こうして苦しみに打ちのめされて転げ回っている間、ジルベールはアンドレを愛していたのだろうか、それとも憎んでいたのだろうか? どちらでもない。ジルベールは苦しんでいた。しかし長く耐えられるような能力は持ち合わせていなかったので、絶望から逃げ出すと、強く心に決めたことをこれからも続けていこうと決意した。

 ――アンドレは僕を愛していない。それは確かだ。でもアンドレが愛しているなんて期待するのがおかしかったんだし、期待しちゃいけなかったんだ。アンドレに期待できたのは、貧しさと闘う気力を持った貧乏人に暖かい関心を持って欲しいということだった。お兄さんはわかってくれたのに、アンドレにはそれがわからなかった。「君がいつかコルベールやヴォーバンのようにならないとも限らないだろう?」と言っていたっけ。そうなることが出来たら、僕のことを見直してもらえるし、栄誉を手に入れた報いにアンドレをくれるかもしれない。同じ地位に生まれていたなら、生まれながらの貴族としてアンドレをもらっていたかもしれないんだから。だけどアンドレにとっては! そうだよ! よくわかってる……コルベール、ヴォーバンか! いつまで経ってもジルベールはジルベールなんだ。アンドレは僕という人間を軽蔑しているんだし、それが無くなったりメッキされたり覆い隠されたりすることはないんだから……目的を達したとしても、同じ立場で生まれた場合ほど立派にはなれないんだろうな! ほんと頭がおかしいよ! 女、女か! 半端者ってやつだな。

 ――その美しい瞳、発達した額、智的な微笑み、王妃のようなたたずまいを自慢するがいいや! マドモワゼル・ド・タヴェルネ、その美しさで世界を統べることもできる女……とんでもない。田舎者がもったいぶって取り澄まして、貴族という肩書きで包まれているだけじゃないか。頭は空っぽで智性にも隙間風だらけ、学ぶための手だてはいくらでもあるのに、何一つ知らない若者たちとおんなじだ。そういうのには気をつけなければならないのに……ジルベールは犬だ、犬以下だ。マオンがどうしているかは知りたがったのに、ジルベールがどうしていようと知ったことじゃないんだ。

 ――アンドレは知らないけど、僕はあいつらより強いんだ。あいつらみたいな服を着れば、僕だって立派に見えるのに。意志の強さなら僕の方が上だし、その気になれば……。

 恐ろしい笑みを口元に浮かべ、内心の言葉を呑み込んだ。

 それからゆっくりと眉を寄せ、頭を垂れた。

 薄暗い魂にその時どんな考えが宿ったのだろうか? 青白かった顔は不眠のせいで黄ばみ、瞑想のせいで落ち窪んでいたが、どんな恐ろしいことを考えついてその顔を伏せたのだろうか? それが誰にわかろうか?

 アンリ四世の歌を口ずさみならが船で川を下っているのは船頭だろうか? 見物を終えてサン=ドニから帰って来るのは洗濯女だろうか? 遠くで道を曲がったのは、干してある下着の真ん中で草むらに寝転がって暇そうにしていたジルベールを追い剥ぎとでも勘違いしたのだろう。

 半時間ほど考え込んでから、ジルベールは冷静に心を決めて起き上がった。セーヌ川に降りて水をたっぷり一口飲み、辺りを確かめると、左手遠方にサン=ドニからやって来た人の群れが見えた。

 群衆の中を四輪の第一馬車が数台、並足で進んでいる。群衆に押されながら、サン=トワン大通りを進んでいた。

 王太子妃は輿入れを身内のお祝いにしたがっていた。それ故に身内は特権を行使した。これほど近くで王家の様子を目にして、パリっ子たちは従僕の座席によじ登り、危険も顧みず馬車の支え紐にしがみついた。

 ジルベールはアンドレの馬車を目敏く見つけた。扉口でフィリップが馬を駆る、というよりは足踏みさせている。

 ――よし。何処に行くのか突き止めなくちゃ。そのためには追いかけなくちゃいけない。

 ジルベールは追いかけた。

 王太子妃はラ・ミュエットで国王、王太子、ド・プロヴァンス伯、ダルトワ伯と内々の食事を取ることになっていた。ルイ十五世が礼儀作法をなおざりにさせていたことは言っておかねばなるまい。サン=ドニで王太子妃を迎え入れた国王は、招待客の名簿と鉛筆を手渡し、来て欲しくない招待客の名前を塗りつぶさせた。

 最後に書かれていたデュ・バリー夫人の名前まで進んだ時、王太子妃は自分の口唇が青ざめて震えるのを感じた。だが母である女帝の助言に従い何とか持ちこたえると、麗しく微笑んで名簿と鉛筆を国王に返し、家族の親密な集まりに初めから受け入れてもらえるとはとても幸せだと伝えた。

 こうしたことはジルベールには知るよしもなかったので、デュ・バリー夫人の一行と白馬に乗ったザモールに気がついたのはラ・ミュエットにやって来てからだった。

 幸いなことに辺りは暗くなっていた。ジルベールは茂みに飛び込み腹ばいになり、待った。

 王太子妃がデュ・バリー夫人をコンピエーニュの時よりいっそう感じよくもてなしているのを見て、国王は夜食の席で上機嫌だった。

 だが王太子は何やら憂えた様子で、頭痛を口実にして席に着かずに退出してしまった。

 夜食は十一時まで続いた。

 その間お付きの者たちは――自尊心の強いアンドレでも自分がお付きであることは認めざるを得なかったが――国王が用意させた音楽を聴きながら、別棟で夜食を取っていた。さらには別棟は非常に小さかったために、五十人の貴族たちは芝生に用意された食卓に着いて、王家のお仕着せを着た五十人の従僕に給仕されていた。

 ジルベールは相変わらず藪の中で、何一つ見落とすまいとしていた。クリシー=ラ=ガレンヌで買ったパンをポケットから取り出して夜食を取りながらも、出て来た人々をしっかり見張っていた。

 夜食を終えた王太子妃がバルコニーに姿を現した。招待客たちに別れを告げて来たところだ。国王が隣にやって来た。デュ・バリー夫人の如才なさは敵でさえ認めざるを得まい。夫人は部屋の奥に行って視界に入らないようにしていた。

 客たちは国王に挨拶するためバルコニーに足を運んだ。お供していた者たちのことは王太子妃殿下も既に知っていたが、知らない者たちの名前は国王が教えた。時折、優雅な言葉、うまい台詞が口唇から洩れ、声をかけられた人々を喜ばせた。

 遠くからこの茶番を見ていたジルベールが呟いた。

「僕もあいつらよりはましだな。世界中の金を積まれたってあんなことはするもんか」

 ド・タヴェルネ一家の番になった。ジルベールは片膝を立てた。

「ムッシュー・フィリップ」と王太子妃が言った。「休職を命じますので、お父上と妹君をパリに連れて行って下さい」

 夜のしじまの中で一心に耳と目を傾けていたジルベールは、その言葉を聞いて耳を震わせた。

 王太子妃が続けた。

「ド・タヴェルネ殿、まだ部屋の用意が出来ておりませんので、わたしがヴェルサイユに落ち着くまでは、お嬢様と一緒にパリにお向かい下さい。アンドレ、わたしのことを忘れないで下さいね」

 この敬意と思いやりの入り混じった言葉に、アンドレが白い面を伏せるのが見えた。

「そうか」とジルベールは呟いた。「僕も暮らしていたパリに戻るんだな」

 男爵が息子と娘と共に通り過ぎた。まだたくさんの人々がその後からやって来て、王太子妃から同じように言葉をかけられていたが、もうジルベールにはどうでもいいことだった。

 ジルベールは藪から抜け出し男爵の後を追った。ざわめきと喧噪の中、二百人の従僕が主人の後を追い、五十人の御者が従僕に答え、六十台の馬車が雷鳴のような音を立てて舗道を走っていた。

 タヴェルネ男爵には宮廷馬車が用意されており、離れたところで待っていた。男爵とアンドレとフィリップが馬車に乗り込み、扉が閉められた。

「ありがとう」扉を閉めた従僕にフィリップが声をかけた。「御者と一緒に坐り給え」

「いったいどういうわけだな?」男爵がたずねた。

「可哀相に、朝から立ちっぱなしで疲れているに違いないからですよ」とフィリップは答えた。

 男爵は何かぶつぶつと呻いたが、ジルベールには聞き取れなかった。従僕は御者の隣に坐った。

 ジルベールが近づいて行った。

 馬車が動き出そうとした時、引き綱が外れているのに気づいた。

 御者が馬車を降り、しばらく馬車は動かなかった。

「遅くなったな」男爵が言った。

「もうへとへと」アンドレが呟いた。「せめて寝床を確保したいけど?」

「大丈夫だよ」フィリップが答えた。「ラ・ブリとニコルをソワッソンからパリにまっすぐ向かわせておいたんだ。友人宛てに手紙を持たせていたから、去年まで母と妹の住んでいた別棟を使わせてくれるはずだ。豪華ではないが小ぎれいなところだよ。姿を見せてはならず、ひたすら待つしかないけれど」

「ふん。タヴェルネと変わらんじゃないか」

「生憎ですがその通りです、父上」フィリップが憂鬱な笑みを浮かべた。

「草木はあるの?」アンドレがたずねた。

「ああ、とても綺麗だよ。だが恐らくあまり鑑賞してもいられまい。すぐに結婚式が始まって、お前も呼ばれるだろうからね」

「まったく、夢のようじゃな。出来るだけ長く覚めずにいたいものだ。フィリップ、御者に行き先は伝えておるな?」

 ジルベールはどきどきして聞き耳を立てた。

「はい、父上」とフィリップが答えた。

 それまでの会話はすっかり聞こえていたので、ジルベールとしては是非とも行き先を耳に入れたかった。

「追いかけるのくらい、たいしたことない。ここからパリまで一里しかないんだから」

 引き綱を結び直した御者が席に戻り、馬車が動き始めた。

 だが国王の馬は列に並んでのろのろ進む必要がなくなると、速度を上げた。それを見たジルベールは、ラ・ショセで無力に取り残されたことを思い出した。

 ジルベールは懸命に追いかけ、本来であれば従僕がいたはずの後ろの踏み台に手を伸ばした。ぜいぜいしながらしがみつき、腰を下ろして揺られていた。

 だがすぐに、自分がアンドレの馬車の後ろに乗っているということ、言いかえれば従僕の席に坐っているということに気づいた。

「冗談じゃない!」ジルベールはかたくなに呟いた。「最後まで努力しなかったなんて言わせるもんか。足はくたくたでも、腕はまだへっちゃらなんだ」

 そこで両手で踏み台をつかんで爪先を踏み台に置き、座席の下に潜り込むと、揺れはひどかったが、妥協するよりは腕の力で苦しい姿勢に耐えることを選んだ。

「行き先を知らなくちゃ。まずは行き先だ。ひどい夜を過ごすことになるけれど、明日になれば写譜をしながら自分の席でゆっくり出来る。それにまだお金もあるし、眠ろうと思えば二時間眠ることも出来るんだから」

 やがてパリはあまりに広いことを思い出した。男爵親子がフィリップの用意した家に入ってしまえば、パリを知らない人間では途方に暮れてしまうだろう

 幸いにも今は真夜中近く、夜が明けるのは三時半頃だった。

 こんなことを考えていると、中央に騎馬像の立っている広場を通り過ぎた。

 ――ふうん。あれがヴィクトワール広場だな。驚くと同時に嬉しくなった。

 馬車が向きを変えた。アンドレが窓に顔を押しつけた。

 フィリップが言った。

「先王の騎馬像だ。もうすぐだ」

 馬車が急な坂道を降り、ジルベールは車輪の下に転がり落ちそうになった。

「着いた」フィリップが言った。

 ジルベールは足を地面に降ろし、道の反対側に飛び込んで里程標の陰に隠れた。

 まずフィリップが馬車から飛び降り、呼び鈴を鳴らしてから、戻って来てアンドレに腕を貸した。

 男爵が最後に降りた。

「ふん! あの馬鹿者どもは、わしらにここで夜を過ごさせるつもりか?」

 その瞬間、ラ・ブリとニコルの声が響き渡り、扉が開けられた。

 三人は薄暗い中庭に姿を消し、扉が閉められた。

 馬車と従僕は国王の厩舎に戻って行った。

 三人が姿を消した家には特に目立つところはなかった。だが馬車が通りしな隣家を照らしたので、ジルベールにも読むことが出来た。

 アルムノンヴィル・ホテル。

 まだ通りの名前を知る必要がある。

 それは馬車が遠ざかって行ったのとは別の、一番近い通りの外れで見つかった。驚いたことに、そこにはいつも水を飲みに来ていた水飲み場があった。

 後にした通りに平行して戻っている通りに足を踏み入れると、パンを買ったパン屋があった。

 それでもまだ信じられなくて通りの角まで戻ると、遠くの街灯に照らされて、白石に刻まれた二つの文字を読むことが出来た。三日前、ムドンの森の植物採集からルソーと帰って来た時にも同じ文字を読んでいた。

『プラトリエール街』

 ということは、アンドレとは百歩と離れていない。タヴェルネ城の柵のそばにあった小部屋にいる時よりも近いのだ。

 そこでジルベールは戸口に戻った。掛け金を持ち上げる紐の端が内側に引っ込んでいなければよいのだが。

 ジルベールにとっては吉日だった。何本か糸が出ていたので、それをつまんで紐全体を引っぱり出すことが出来た。扉は開かれた。

 手探りで階段までたどり着き、音を立てぬよう一歩一歩上り、ようやく自室の南京錠に指を触れた。ルソーが気を利かせたので、錠は掛けられていない。

 十分後、気を揉んでくたくたになっていたジルベールは、翌日のことを待ちきれないまま眠りについていた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LIII「Le retour de Saint-Denis」の全訳です。


Ver.1 10/06/05
 


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[訳者あとがき]

 ・06/05 ▼次回は06/19(土)更新予定。

*1. []。[]

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