この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第五十四章 城館

 夜遅く戻りそのままぐっすり眠り込んだジルベールは、朝日を遮るための布の切れ端を窓に掛けておくのを忘れていた。

 太陽の光が朝五時に目を襲い、やがてジルベールは目を覚ました。眠りすぎたのではないかと不安になった。

 田舎育ちのジルベールは、太陽の方位や光の濃淡によって時刻を知ることが出来た。そこで急いで体内時計で確かめた。

 青白い光が高い木々の梢からかろうじて差しているを見て一安心した。遅すぎたわけじゃない、早すぎたのだ。

 身支度をしながら前夜の出来事を思い出し、火照った顔を上機嫌で突き出すと、涼しい朝のそよ風に酔いしれた。やがて、隣の通りにあるアルムノンヴィル・ホテル近辺にアンドレが泊まっているのを思い出し、どの家に泊まっているのか確かめに行くことにした。

 木陰を見下ろしていると、昨晩聞いたアンドレの言葉を思い出した。

「草木はある?」とアンドレはフィリップにたずねていた。

 ――どうしてこの庭の空いている城館にしなかったんだろうな、とジルベールは独り言ちた。

 だからジルベールがこの城館のことを考え始めたのも当然のことだった。

 そんな折り、どうした偶然からか予期せぬ物音が聞こえ何かが動き、ジルベールの目を惹いた。長く封鎖されていたらしき城館の窓を、かぼそい手が不器用に揺らしている。窓枠の上側がしなったが、湿気ってくっついているらしく、なかなか外に開こうとはしなかった。

 すぐに先ほどよりも強く揺すられて木材が悲鳴をあげ、突然両側に開いた窓から、若い娘がちらりと見えた。力一杯窓を開けたせいで顔中真っ赤になって、埃だらけの腕を振っている。

 ジルベールは驚きの声をあげて後じさった。まだ寝起きでむくんだ顔で、思い切り伸びをしているのは、ニコルだった。

 疑いは一瞬で消えた。昨夜フィリップが、ラ・ブリとニコルが家を用意していると父と妹に伝えていた。つまりこの城館がそうだったのだ。アンドレたちを飲み込んだコック・エロン街(rue Coq-Héron)の家に、プラトリエール街の裏に隣接した庭があるのだ。

 ジルベールの動きはかなり大きかったので、遠く離れていたとはいえニコルがこれほど寝起きでぼうっとしていなければ、天窓から退いた哲学者君の姿を目にしていたことだろう。

 だがジルベールは大急ぎで引っ込んだので、ニコルが天窓に気づくようなことはなかった。もしジルベールが二階に住んでいて、二階の窓越しに豪華な壁紙や家具を背にした姿を見られるのだとしたら、見られることをそれほど恐れはしなかっただろう。だが五階の屋根裏では社会的にかなり低いと思われてしまうので、慎重に逃げ出さずにはいられなかった。もっとも、誰にも見られずにすべてを見るには最適の場所だ。

 だいたい、ここにいることをアンドレに知られていたら、それだけで余所に行かれてしまったり、庭に出て来てもらえなくなったりするのではないだろうか?

 嗚呼! 思い上がりで濁った目で見ると、随分と自分がでかく見えるものだ。アンドレにとってジルベールに何かの意味があったり、ジルベールを理由に近づいたり離れたりするとでもいうのだろうか? 従僕や農夫は人間ではないからといって、従僕たちの目の前で風呂から出て来るのがご婦人という人種ではなかっただろうか?

 だがニコルはそうした人種ではない。ニコルは避けなくてはならない。

 それ故にジルベールは素早く窓から退いた。

 だが窓から離れたままではいられなかった。やがてゆっくりと窓辺に戻り、天窓の隅から目を覗かせた。

 最初に開けられた窓の真下にある一階の窓が開けられたところだった。そこから白い人影が覗いた。アンドレだった。起き抜けで化粧着をまとい、まだしっかりしていない足から脱げて椅子の下に潜り込んだミュールを探している。

 ジルベールはアンドレを見るたび、愛情に流されるのはやめて憎しみの壁を築こうと虚しく努力したが、そのたびに同じ原因から同じ結果に終わっていた。壁にもたれたままどうすることも出来ず、まるで心臓が破れたように動悸し、血が身体中で泡立つのだった。

 だが徐々に血のたぎりは治まり、じっくりと考えられるようになった。問題は、先ほど申し上げた通り、誰からも見られずに見るということだ。ジルベールはテレーズの部屋着を広げて窓に渡してある紐にピンで留め、この即席カーテンに隠れて、見られることなくアンドレを見ることが出来た。

 アンドレはニコルと同じく伸びをした。真っ白い腕を伸ばすと化粧着がはだけた。窓の手すりから身を乗り出し、目の前に広がる庭をじっくりと味わっていた。

 そしてアンドレは破顔した。人に微笑みかけることなどめったにないアンドレも、物には忌憚なく微笑みかけた。今は木陰に恵まれ、草木に囲まれていた。

 その庭を縁取る家々の例に洩れず、ジルベールのいる家にもアンドレの目は留まった。アンドレの方からは屋根裏しか見えない。屋根裏からしかアンドレのいるところを見ることが出来ないのと一緒だ。だからアンドレはまったく注意を払わなかった。屋根裏に住むような連中が、誇り高い娘にとって如何ほどの価値があろうか?

 アンドレは周囲を確かめて満足した。自分は一人きりだし、誰にも見られていない。静閑な庵の外れで、田舎女にとっては脅威であるパリっ子たちの詮索好きで陽気な顔を見ずに済んだ。

 アンドレの行動は素早かった。窓を全開し、朝の空気を部屋の隅々まで行き渡らせると、暖炉に向かい、呼び鈴の紐を引いてから薄暗い部屋の中で服を着始めた、もとい服を脱ぎ始めた。

 ニコルが現れ、アンヌ王妃時代の革製道具箱の紐を外すと、鼈甲の櫛を取り出してアンドレの髪を梳いた。

 たちまちにして長い三つ編みと濃い巻き毛が、マントのようにアンドレの肩に滑り落ちた。

 ジルベールは押し殺した溜息をついた。ファッションとマナーから髪粉をつけたばかりの、美しい髪も垣間見えたものの、ジルベールが見ていたのは半裸のアンドレであった。見事に着飾った姿よりも、無防備な方が百倍も美しかった。ジルベールの口はからからになり、指は熱で火照り、凝らした目は虚ろだった。

 髪を整えさせている最中に、ほんの偶然からアンドレが目を上げ、ジルベールのいる屋根裏部屋に目を留めた。

「よしよし、見るがいいや」ジルベールが呟いた。「どれだけ見つめたって何も見えないだろうけど、こっちからは丸見えなんだ」

 ジルベールは間違っていた。アンドレには何かが見えた。それは浮き上がった部屋着だった。ジルベールの頭に巻きついてちょうどターバンのようになっていた。

 アンドレがその不思議な物体を指さしてニコルに知らせた。

 ニコルはやろうとしていた難しい作業を中断して櫛の先を天窓に向け、あれのことかとアンドレにたずねたようだった。

 このやり取りに苦しみまた狂喜していたジルベールだったが、それを見ている人物がいるとは気づかなかった。

 不意にテレーズの部屋着を頭から乱暴に剥ぎ取られると、ルソーの姿を目にして愕然とした。

「いったい何をなさっているのです?」哲学者は眉をひそめ、困ったように顔をしかめながら、妻に借りた部屋着を確かめた。

 ジルベールは慌ててルソーの注意を天窓から逸らそうとした。

「何でもありません! 何でもないんです!」

「何でもありませんか……ではどうしてこの部屋着の下に隠れていたのですか?」

「陽射しがきつかったので」

「西向きなのに、朝のこんな時間に陽射しがきついのですか? 随分と目が弱いのですね」

 ジルベールは口ごもり、墓穴を掘ったことに気づいて両手で頭を抱え込んだ。

「あなたは嘘をついて怯えていますね」ルソーが言った。「悪いことをしたからでしょう」

 この見事な理屈にジルベールはすっかり恐慌を来してしまったが、それに続けてルソーはまっすぐ窓辺に近づいて行った。

 もっともなことながら説明が必要だと感じたジルベールは、じきに窓から見つけられてしまうものを恐れて、ルソーより先に窓に向かって飛び出した。

「おや!」ルソーの声にジルベールの血管が凍りついた。「城館に人がいるんですね」

 ジルベールは一言も洩らせなかった。

「わたしの家を知っているようだ」ルソーは疑り深げに続けた。「こちらを指さしていますからね」

 ジルベールは前に出過ぎたことに気づき、後ろに退がった。

 どんな動きも事情もルソーの目を免れることは出来なかった。どうやらジルベールは見られることを恐れているらしい。

「おやめなさい」ルソーはジルベールの手首をつかんだ。「どうやら隠れた事情がありそうですね。指さしているのはこの屋根裏らしい。どうかそこにお坐りなさい」

 ルソーはジルベールを遮るものない明るい窓の前に連れて行った。

「嫌です、お願いです!」ジルベールは逃れようと身体をひねった。

 だがジルベールのような健康で素早い若者には逃げることなど簡単だったとはいえ、それにはジルベールにとって神であるルソーに抵抗しなくてはならなかった。結局、敬意が勝った。

「あのご婦人方とはお知り合いなのですか?」

「いえ、いえ、知りません」

「知らない赤の他人だというのなら、どうしてあなたを指さしているのでしょう?」

「ムッシュー・ルソー、あなたにだって時には秘密があるのではありませんか? どうか、秘密に免じてお許し下さい」

「この卑怯者め!」ルソーが叫んだ。「そうですね、そういった秘密のことなら分かっていますよ。あなたもグリムやドルバックの手下でしたか。わたしの好意を得ようと立ち回って家に入り込み、売り渡そうという腹だったとは。ああ、わたしは何て愚かだったんだろう! とんだ自然愛好家でしたね。趣味を同じくする者に手を貸していると思っていたのに、密偵を家に招き入れていたとは」

「密偵ですって!」ジルベールも憤慨した。

「さてユダ、いつわたしを売り渡すつもりですか?」ルソーは無意識に腕に掛けていたテレーズの部屋着をまとった。崇高な苦しみを受けていると感じていたのに、生憎と笑うことしか出来なかった。

「侮辱はやめて下さい」

「侮辱? 合図を送って敵と通じ、わたしの最新作の主題を暗号で伝えている現場を押さえたんですよ!」

「聞いて下さい、あなたの著作の秘密をばらすつもりでお邪魔したんだとしたら、今ごろとっくに机の上の原稿を写しています。暗号で伝えるまでもないでしょう?」

 言われてみればその通りだ。不安に凝り固まりすぎていたせいで馬鹿なことを言ってしまったことを悟って、ルソーは腹を立てた。

「申し訳ないことをしてしまいましたが、これまでの経験があったものですから。わたしの人生は失望の山でした。誰からも裏切られ、否定され、密告され、売り渡され、虐げられて来たのです。ご存じの通り、わたしは政府によって追放された不幸な身です。こんな状態では猜疑心が強くなるのもやむを得ないでしょう。お疑いなら、ここから出て行って下さい」

 ジルベールは皆まで言わせなかった。

 追い出されるなんて!

 ジルベールは拳を握り締めた。目によぎった光にはルソーもぎょっとした。

 だがその光は長くは持たずに音もなく消え去った。

 出て行ってしまえば、毎日毎日アンドレを眺める幸せも失ってしまうし、ルソーの友情も失ってしまう。それは不幸であると同時に不名誉なことだった。

 生まれながらの高慢をたたみ込んで両手を合わせた。

「聞いて下さい。一言だけでいいので」

「わたしは甘い人間ではありません。人から不当を強いられて、虎より残忍な人間になりました。わたしの敵たちと通じているのならそこにお行きなさい、止めはしませんよ。手を組むのは結構ですが、ここからは出て行って下さい」

「違うんです。あの二人は敵ではありません。あれはアンドレ嬢とニコルです」

「アンドレ嬢?」ジルベールの口から何度か聞いたことのある、聞き覚えのある名前だった。「アンドレ嬢とは? 仰いなさい」

「アンドレとは、ド・タヴェルネ男爵のお嬢さんです。こんなこと言いたくはなかったけれど、言わせたのはあなたですからね。あなたがガレー嬢やド・ヴァランス夫人を愛していたよりも、ほかの誰よりも、僕が愛している人です。お金もパンも持たずに疲れと痛みでぺしゃんこになって路上に倒れ込むまで、この人のために歩いて追いかけて来たんです。昨日サン=ドニで再会して、ラ・ミュエットまで追いかけて、ラ・ミュエットからまた隣の通りまでこっそり尾けて行ったんです。城館に住んでいるのを今朝たまたま見かけたのが、この人なんです。僕がチュレンヌやリシュリューやルソーになりたいのは、この人のためなんです!」

 ルソーは人の気持も心の叫びも知っていた。どんな名優でもジルベールがしたような涙に濡れた声を出すことは出来ないし、熱の入った身振りをすることは出来ないことは分かっていた。

「では、あのお嬢さんがアンドレ嬢なのですか?」

「そうです」

「あなたとお知り合いなのですね?」

「僕はアンドレの乳母子です」

「では、先ほど知らないと言ったのは嘘だったのですね。仮に裏切り者でないにしても、嘘つきということになります」

「心を引き裂くようなことは言わないで下さい。この場で殺された方がどれだけましかわかりません」

「ディドロやマルモンテルのレトリック、文体ではありませんか。あなたは嘘つきです」

「そうですか。わかりました、僕は嘘つきですが、あなたがこうした嘘に理解がないとは残念ですね。嘘つきですって! 嘘つきですか……! わかりました、出て行きます……お世話になりました! 僕がどれだけ絶望しているか、良心に聞いてみるといいんです」

 ルソーは顎をさすって、まるでルソー自身のようなジルベールを見つめていた。

「立派な人間なのか偽善者なのか」とルソーは自問した。「だが陰謀が企てられているのなら、わたしは陰謀の糸筋を手繰ればよかったのだ、どうしてそうしなかったのだろう?」

 ジルベールが戸口に向かって四歩進み、手を錠前に置いたまま、果たして追い払われるものか呼び止められるものか、最後の一言を待っていた。

「もうこの話は充分です」とルソーが言った。「恋するあまりそんなことを仰るのでしたら、不幸なことですがね。さあ時間がありません。昨日は一日無駄にしてしまったのですから、今日は三十ページ写さなければなりません。肝に銘じて下さいよ、ジルベール!」

 ジルベールはルソーの手を握り、その手に口唇を押し当てた。王の手にもそこまでしなかっただろう。

 だが感動しているジルベールが扉につかまっていたので、部屋を出る前にルソーはもう一度窓辺に近づいて二人の娘を確かめた。

 ちょうどアンドレが化粧着を落とし、ニコルの手から部屋着を取ったところだった。

 アンドレはルソーの青白い顔とじっと動かない身体を目にし、慌てて後ろに退がってニコルに窓を閉めるよう命じた。

 ニコルがそれに従った。

「おやおや、年寄りの顔に怯えてしまったらしい。この若者の顔は怖がらなかったというのに。若さとは素晴らしい」ルソーは溜息をついてつけ加えた。

おお若さよ人生の春よ!O gioventù primavera del età! おお春よ一年の若さよ!O primavera gioventù del anno!

 そうしてテレーズの部屋着を釘に掛け直すと、ジルベールの後から侘びしげに階段を降りた。恐らくその瞬間ルソーは、ヴォルテールにも匹敵し全世界からの称讃を分かつ己が名声を、ジルベールの若さと置き換えていたのだろう。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LIV「Le pavillon」の全訳です。


Ver.1 10/06/05
 


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[訳者あとがき]

 ・06/05 ▼次回は06/19(土)更新予定。

[更新履歴]

・12/10/01 章題「別館」→「城館」

[註釈]

*1. []。[]

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