ロレンツァの瞳に力が甦り、素早く辺りを一瞥した。
顔をほころばせるような、女の喜びを連想させるものが何一つないことがわかり、やがてバルサモに目が留まった。
バルサモがすぐそばに坐って見つめていた。
「またあなたなの?」ロレンツァは後じさった。
顔には恐怖が浮かんだ。口唇は青ざめ、髪の生え際に汗がしたたった。
バルサモは何も答えない。
「ここは何処?」
「何処から来たかはご存じのはずです、マダム。であれば、何処にいるのか見当をつけるのも容易いことではありませんか」
「そうね、記憶をつついてくれてありがとう。確かに覚えてる。あなたに虐げられ、追いかけられ、主と私の仲立ちとして選んだ王女の腕から引き離されたことを」
「ではその王女が力を尽くしてもあなたを守ることが出来なかったこともご存じでしょうな」
「あなたが何か魔法のような力を使ったからでしょう?」ロレンツァは両手を合わせた。「主よ、お願いです! 悪魔を追い払って下さい!」
「俺の何処が悪魔だと?」バルサモは肩をすくめた。「頼むから、ローマから後生大事に抱え込んで来た幼稚な信仰や、修道院を発ってからいまだに引きずっている馬鹿げた迷信など、いい加減に捨ててくれないか」
「修道院? どうすれば修道院に戻れるの?」ロレンツァは泣き崩れた。
「つまり修道院に未練があるというわけか!」
ロレンツァは窓に駆け寄りカーテンを開くと、イスパニア錠を上げ、花に隠された鉄格子につかみかかった。花は鉄格子の意味を隠蔽していたが、その役割を失わせてはいなかった。
「結局は囚人。どうせなら天国に連れて行って。地獄なんてもう嫌」
ロレンツァは憤然として華奢な拳をカーテンレールに押しつけた。
「少し理性的になってくれれば、花だけで鉄格子のない窓も用意できる」
「アルトタスとかいう吸血鬼と一緒に車輪つきの牢屋に閉じ込められていた時も、理性的ではなかった? 違う、あなたは私を見張ってた。私は囚人だった。何処かに行く時には心が囚われるように囁きかけて、抗えないようにしたくせに! 死ぬほど恐ろしかったあの老人は何処? 何処かその辺にいるんでしょう? 二人とも口を閉じて、地の底から出て来る怪物の声に耳を澄ましましょうよ」
「子供みたいな空想に取り憑かれているようだな。アルトタスは俺の師匠であり、友であり、第二の父である無害な老人だ。あなたに目を向けたことも近づいたこともない。よしんば目を向けたり近づいたりしたところで、あなたに気を留めることなどなく、仕事を続けるのに忙しかったことだろう」
「仕事! いったい何の仕事?」
「生命の霊薬を研究している。天才たちが六千年前から探し求めているものだ」
「あなたは? 何の研究をしているの?」
「俺? 完璧な人間というものを」
「何ですって、この悪魔! 悪魔!」ロレンツァは天を仰いだ。
「そうか」バルサモが立ち上がった。「また発作が起こったようだな」
「発作?」
「ああ、発作だ、ロレンツァ。お前は気づいていないがな。お前の人生は二つの周期に分かれているということだ。一方は優しく穏やかで理性的だが、一方では気違いのようになる」
「下手な言い訳ね、私を閉じ込めているのは気違いだからというわけ?」
「仕方あるまい」
「だったらむごく辛い残忍な仕打ちをすればいい。監禁して殺してくれればいい。偽善者のふりなどしないで、いじめているくせに気を遣っているようなふりなどやめて」
「まあ待ってくれ」バルサモは怒りもせずに、むしろにこやかに笑っていた。「綺麗で便利な部屋に住むのが拷問なのか?」
「何処も彼処も鉄格子で囲まれて、柵また柵で空気もないのに!」
「鉄格子はお前の命のためだ。わかるだろう、ロレンツァ?」
「はっきりとね。あの人は私をなぶり殺すつもり。言ったもの、私の命を気にしてるって。私の命に興味があるって」
バルサモはロレンツァに近づき、親しげに手をつかもうとした。だがロレンツァは身体を触れられた蛇のように逃げ出した。
「触らないで!」
「俺が憎いのか?」
「死刑執行人が憎いかどうか、死刑囚に聞いてみればいいでしょう」
「ロレンツァ、お前から自由を奪っているのは、何も執行人になりたいからじゃない。自由に出入りさせたら、狂気に襲われた時に何をしでかすかわからないじゃないか」
「何をしでかすか? 一日自由にさせてくれたら、すぐにわかるわ」
「ロレンツァ、神の前で選んだ夫を邪険にしないでくれ」
「私があなたを選んだというの? ふざけないで!」
「だがお前は俺の妻だ」
「それこそ悪魔の仕業でしょう?」
「気を確かに持つんだ」バルサモは優しい視線を返した。
「だけど私はローマ人。いつか、いつか復讐してみせる」
バルサモがゆっくりと首を振った。
「そんなことを言って脅さないでくれ」笑みを浮かべて言った。
「脅しじゃない。言った通りに実行します」
「お前はキリスト教徒だろう?」バルサモが不意に威圧的な声を出した。「善をもって悪に報いよという教えは、偽善でしかなかったのか? 信仰に従っているふりをしながら、悪をもって善に報いているではないか?」
ロレンツァはその言葉にしばし衝撃を受けたように見えた。
「敵を世間に訴えるのは復讐ではなく、務めです」
「俺を魔術師や呪術師として訴えるというのであれば教えておこう。俺が侮辱しているのは世間ではない。俺が刃向かっているのは神だ。だがそれなら、神は合図一つで俺を殺せばいい。どうして罰したりせずに、俺のように弱くて過ちに陥るような人間を放っておくのだろうな?」
「主はすべてを許し、目をつぶって、あなたが悔い改めるのを待っているのです」
バルサモは微笑した。
「つまりそれまでは友も恩人も夫も裏切れと神から忠告されたのか」
「夫? ありがたいことに、手を触れられるたびに身体中の血が逆流して身震いが止まらなかった」
「わかっているだろう、出来るだけ触れないようにして来たではないか」
「そうね、あなたは潔癖で。それだけが不幸中の幸いだった。あなたと愛を交わすことに耐えなくてはならなかったらと思うと、ぞっとしていたわ!」
「謎だな、まったくわからない」ロレンツァの言葉に答えたというよりは、自らの問いかけに答えて呟いていた。
「最後にいいかしら。どうして私から自由を奪うの?」
「俺に自由を預けておきながら、どうして後になって自由を取り戻したがるんだ? どうして守ってやっている人間の許から逃げるんだ? お前を愛している人間を袖にして他人に保護を求めようとするのはどうしてだ? 秘密を明かせと脅すわけでもない人間を絶えず脅すのはどうしてなんだ? それもお前のものでもなければお前にとっては何の意味もない秘密ではないか」
ロレンツァはそれには答えなかった。「自由を取り戻すことを強く願っていれば、囚人だって必ず自由になれる。鉄格子なんか役に立たない、車のついた籠が役に立たなかったのと同じこと」
「鉄格子はびくともせんぞ……お前にとっちゃありがたいことにな!」バルサモは怖いほどに落ち着いていた。
「ロレーヌの時のように、主が嵐を起こしてくれる。雷を落として鉄格子を壊してくれる」
「ロレンツァ、そんなことを神に祈るのはやめるんだ、馬鹿な夢を信じるんじゃない。俺は友人として話しているんだ、いいな?」
バルサモの声には怒りがこもり、目には暗い炎がくすぶり、一言一言しっかりと口を開くたびに白く逞しい手が不思議なほど引きつった。刃向かったせいでかっとなっていたロレンツァは我知らず耳を傾けていた。
「いいか、ロレンツァ」バルサモの声はいまだ怖いほど穏やかだった。「俺はこの監獄を女王の住まいにするつもりだった。お前が女王であるのなら、ここにいるのも当然のことだ。心を静めるんだ。修道院で過ごしたようにここで過ごせばいい。俺がいることに慣れてくれ。俺を友人として、兄弟として愛してくれ。俺は深い悲しみを背負っている。恐ろしいほどの落胆も、お前が微笑んでくれれば慰められるんだ。お前が優しく柔らかく我慢強くなったと思えば、部屋の鉄格子も細くしてやる。一年後か、六か月後かはわからぬが、俺と同じく自由になれるんだ。そう考えていれば、俺から自由を盗み取ろうとは思わぬだろう」
「そんなことはありません!」恐ろしい提案が穏やかな声で口にされているのが理解できなかった。「約束を重ねれば重ねるだけ、嘘が増えていくだけ。あなたは私を力ずくで拐かしたのだし、私は私、私だけのものです。私の許に返してくれないというのなら、せめて主の許に返して下さい。これまであなたの横暴に耐えてきたのは、私を辱めようとした山賊たちから救い出してくれたことを忘れなかったからです。でももう感謝の気持も尽き果てました。こんなところに何日も閉じ込められて反抗していれば、そのうち恩義もなくなるでしょうし、あなたが山賊たちと人知れずつながりを持っていたという考えにだんだんと侵されて行くことでしょう」
「俺が山賊の頭だというわけか、出世したものだな」バルサモは皮肉った。
「私にはわからない。でも合図や合言葉をこの目で見たのは確かです」
「合図や合言葉を見ただと?」バルサモが青ざめた。
「ええ、はっきりと見ました、覚えている、忘れはしません」
「だが口に出したりはしないだろうな? 生ける魂に繰り返したりはせずに、記憶の奥底に閉じ込めて、忘れてしまうだろうな?」
「そんなことするもんですか!」ロレンツァはついに相手の泣き所を見つけ、喜びに震えた。「記憶の中にその言葉を大事に取っておくわ! 一人でいる時には心の中で唱え、機会があればはっきり声に出してみせる。それもとっくに実行しているし」
「誰に言ったんだ?」
「王女様に」
「そうか、ロレンツァ、よく聞け」バルサモは椅子に指をついて、興奮を静め、血のたぎりを抑えようとした。「既に人に言っていたとしても、二度と繰り返すことはないぞ。何故なら扉を閉じておくし、鉄柵の先端を研いでおくし、必要があればこの中庭にバベルの塔ほど高い塀を建てるつもりだからだ」
「言ったでしょう。どんな監獄からでも抜け出せるって。自由を愛する気持が暴君を憎む気持を駆り立てる時はなおさらよ」
「では抜け出してみせるがいい、ロレンツァ。だがいいか。抜け出す機会は二度しかないと思え。一度目は、身体中の涙が涸れるまで懲らしめてやる。二度目は、血管中の血が涸れるまで痛めつけてやる」
「人殺し!」ついにロレンツァの怒りが頂点に達し、髪を引きむしり絨毯を転げ回った。
バルサモは怒りと憐れみの入り混じった目つきでそれを眺めていたが、やがて憐れみの気持が勝った。
「ロレンツァ、こっちに来い、落ち着くんだ。いつか苦しみが――いや苦しみだと思っているものがたっぷり報われる日が来る」
「閉じ込められるのは嫌!」ロレンツァはバルサモの言葉に耳を貸さなかった。
「我慢しろ」
「殴られるのは嫌!」
「これは見習い期間だ」
「気違いなんて嫌!」
「いつか治る」
「今すぐ気違い病院に放り込んで! 本当の監獄に閉じ込めて頂戴!」
「それは出来ぬな! 俺に逆らってどうするつもりなのか、前々から口にしていたではないか」
「だったら死ぬわ! 今すぐに!」
獣のように素早くしなやかに立ち上がり、壁に頭を打ちつけようと駆け出した。
だがバルサモは手を伸ばして、何事か口にしただけだった。口唇からというより心の奥からのそのたった一言で、ロレンツァは立ち止まった。駆け出していたロレンツァは急に立ち止まると、ふらりと揺れてバルサモの腕の中で意識を失った。
ロレンツァの肉体を完全に制御した魔術師であったが、精神を統べることは出来ず、腕にロレンツァを抱えて寝台まで運んだ。長い口づけを終えると、寝台のカーテンと窓のカーテンを順に引き、立ち去った。
ロレンツァは穏やかな眠りに包まれていた。痛がって泣きじゃくる子供をあやす母の衣のような、温かい眠りに包まれていた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LVII「La double existence – Le veille」の全訳です。
Ver.1 10/07/03
[訳者あとがき]
・07/03 ▼次回は07/17(土)更新予定。
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