バルサモが素早く身を引いたため、ロレンツァの両腕は空をつかみ、胸の上で交差した。
「ロレンツァ、友だちと話がしたいか?」
「もちろんです。でもあなたがお話しして下さるなら……あなたの声が愛おしいんです!」
「ロレンツァ、全世界から隔てられても俺と一緒にいられれば幸せだと言っていたな」
「ええ、幸せです」
「よし、お前の願いはわかった。この部屋にいれば、誰も追って来られないし、誰もたどり着けない。俺たちは二人きりだ、完全にな」
「よかった!」
「この部屋は気に入ったか?」
「見るように命じて下さい」
「見るんだ!」
「素敵な部屋!」
「では気に入ったんだな?」伯爵は満足げにたずねた。
「ええ、私の好きな花ばかり! バニラ・ヘリオトロープに、
「喜んでもらえたらそれでいい」
「私にはもったいないことです」
「それを認めるんだな?」
「はい」
「では自分が聞き分けがなかったことを認めるな?」
「聞き分けがなかった……その通りです。でも許して下さいますね?」
「お前と知り合って以来取り組んで来た謎に答えたら、許してやろう」
「聞いて下さい。私の中には二人のロレンツァがいるんです。一人はあなたを愛していて、一人はあなたを憎んでいます。まるで私の中に対立する二人の人間がいるかのように、一人が天国の喜びを満喫しているというのに、一人は地獄の苦しみをこうむっているんです」
「その二つの自分のうち、一つは眠っていて、一つは起きているんだな?」
「はい」
「眠っている時は俺を愛していて、起きている時には憎んでいるのか?」
「はい」
「何故だ?」
「わかりません」
「知っているはずだ」
「知りません」
「探すんだ、お前自身を調べ、魂に潜り込め」
「はい……あっ、わかりました」
「話してみろ」
「ロレンツァは起きている時にはローマ人、迷信深いイタリア娘です。科学とは罪業で愛とは罪だと考えています。だから博識なバルサモを恐れ、ハンサムなジョゼフを恐れています。あなたを愛せば魂を滅ぼすに違いないと懺悔聴聞僧に言われたために、世界の果てまであなたから逃げ続けるつもりなんです」
「では眠っている時は?」
「その時はまったく別の話です。ロレンツァはもはや迷信深いローマ人ではなく、女です。バルサモの心と魂を見つめ、その天賦の心が気高い夢を見ていることを知っています。それと比べれば自分がどれだけちっぽけかがよくわかりました。生きる時も死ぬ時もそばにいたいのです。小さくとも構わないのでロレンツァの名も唱えてもらいたいのです、未来が……カリオストロの名を声高く唱える時には!」
「では、俺はその名で世に知られるのだな?」
「はい、その名で」
「よしロレンツァ! 新しい住まいは気に入りそうか?」
「これまでのどの家より素晴らしいけれど、気に入るのはそんな理由からではありません」
「ではどうすれば気に入るのだ?」
「あなたが一緒に住んでくれれば」
「そうか! 眠っている時には、俺がどれほどお前を情熱的に愛しているかわかるだろう?」
ロレンツァは膝を引き寄せて抱え込んだ。青白い口唇にはかすかに微笑みを浮かべていた。
「ええ、わかります。でも、でも……」と溜息をついた。「ロレンツァよりも愛しているものがあるでしょう」
「何のことだ?」バルサモはびくりとした。
「あなたの夢です」
「俺の天命だ」
「あなたの野望です」
「俺の栄誉だ」
「ああ、神様!」
ロレンツァは心、閉じた瞼の下からひっそりと涙を流した。
「何が見えたんだ?」恐るべき千里眼には自分自身でもぎょっとすることがあった。
「闇の中を忍び寄る影が見えます。王冠に手を伸ばす人たちがいて、あなたが――あなたがその真ん中に、戦いのさなかの将軍のように。あなたの力はまるで主のようで、誰もがあなたの指示に従っています」
「そうか」満足そうにうなずいた。「それでも俺を誇りに思ってはくれぬのか?」
「たとい偉大ではなくともあなたは立派な方です。それなのに、あなたを取り囲む人々の中を探しても私が見つかりません。もうそこにはいないんです……もうあなたのそばには……」ロレンツァは悲しげに呟いた。
「では何処にいる?」
「私は死んでいます」
バルサモは震えおののいた。
「お前が死ぬ? 馬鹿な、あり得ない。俺たちは愛し合って共に生きるんだ」
「あなたは私を愛してません」
「そんなわけがあるか!」
「心からではないでしょう?」ロレンツァはジョゼフの頭をかき抱いた。「そんなのでは足りません」熱い口唇を額に押しつけ、愛撫を重ねた。
「何が良くないというんだ?」
「あなたは冷たい。どうして後じさるんです? 私が熱烈な口づけを贈っているのに、あなたは逃げているでしょう? ねえ、少女だった頃の平穏を、スビアーコの修道院を、独房の夜を返して下さい! 羽ばたくような風の中でしてくれた口づけを、眠っている間にくれた口づけを、金の翼を持つ妖精のように現れて快楽に心を溶かしてくれたあの口づけを、もう一度与えて下さい」
「ロレンツァ!」
「逃げないで、バルサモ、お願いだから逃げないで下さい。手を握らせて、その目に口づけさせて下さい。私はあなたのものなんです!」
「もちろんだロレンツァ。お前は俺の最愛の女だ」
「私がこうやってあなたのそばで役にも立たずに見捨てられて過ごしていることに我慢がならないんでしょう! 汚れのない一輪の花が香りを放って誘っているというのに、その香りをはねつけるなんて! よくわかってます、あなたにとって何の価値もない人間だということは」
「そんなことはない。俺の力の源はお前なんだ、ロレンツァ。お前なしでは何も出来ない。故郷の女たちのように夜も眠らず狂ったように愛するのはやめてくれ。俺がお前を愛するように愛してくれればいい」
「そんなのは愛ではありません。あなたのやっていることは愛なんかではありません」
「とにかく俺が求めているのはそれだけだ。俺の望みはすべて叶えてくれるし、お前の心を手に入れただけで充分に幸せだからな」
「幸せ?」ロレンツァは憐れむようにたずねた。「それを幸せと言うのですか?」
「ああ、俺にとって幸せとは偉大であることだ」
ロレンツァは深い溜息をついた。
「ロレンツァ、わかってくれ。他人の心を読み取るのは、人が心に抱いている情熱を使って人を掌握するためなんだ!」
「ええ、そのために働いているのはよくわかっています」
「それだけじゃない。お前の目はいまだ開かれざる未来の書物だ。俺が二十年も苦労と貧苦を重ねてもわからなかったことを、無垢で純粋なお前がそうしようと思えば俺に教えてくれることが出来るんだ。これから道の先に敵から幾つ罠を仕掛けられようとも、お前が照らしてくれる。俺の生命も運命も自由も俺の才覚一つ、だから山猫のように瞳を開いて一晩中目を凝らしてくれ。この世の光には目を閉じてくれて構わないが、この世ならざる光明には目を見開いてくれ! 俺のために休まず見張っていて欲しい。俺に自由を、成功を、力を与えてくれるのはお前なんだ」
「そのお返しに不幸をくれるなんて!」ロレンツァは激情に駆られて叫んだ。
これまでからは考えられないほど激しく抱きつかれ、バルサモとしてもひりひりするような輝きに打たれて弱々しく抗うことしか出来なかった。
それでもどうにか抗い、絡まっていた生身の鎖をほどいた。
「ロレンツァ! 頼むから……」
「私はあなたの妻です、娘ではありません! 父としてではなく、妻を愛する夫として愛して下さい」
「ロレンツァ」頼み込むバルサモ自身も震えていた。「お願いだ、俺に出来る以上の愛を望まないでくれ」
ロレンツァは絶望的に両手を天に掲げた。「でもそんなのは愛ではありません、愛ではないんです!」
「いや、それも愛だ……ただし乙女に捧げるような神聖で純粋な愛なんだ」
ロレンツァが編んでいた黒髪をほどいた。白く力強い腕が脅すように伯爵に向かって伸びた。
「どういう意味です?」諦めたような素っ気ない声だった。「国や名前や家族や、神まで捨てさせたのは何故ですか? あなたの神は私の神とは違う。こうして神通力を及ぼして私を奴隷にし、私の命をあなたの命にし、私の血をあなたの血にしたのはどうしてです? 聞いてますか? 私のことを乙女ロレンツァと呼ぶためだったのなら、どうしてこんなことをしたんです?」
傷ついているロレンツァの苦しみに、今度はバルサモが溜息をつく番だった。
「違う。お前は間違っている。それとも間違っているのは神か。神がお前という天使に神眼を与え、俺の世界征服を助けてくれたのは何故だ? ガラス越しに本を読むように、物質的な障壁を破って心を読めるのはどういう訳だ? お前が純粋な天使だからだ! 染み一つないダイヤだからだ。どんなものもお前の心を曇らせることは出来ないからだ。神の作った元素の名において俺が聖霊に祈った時、神は聖母のように汚れのない純粋で喜びに満ちたお前の姿を見て、聖霊を降下させようと思われたのだ。普段であれば、聖霊が羽を休められるような汚れない場所など見つけられないからといって、卑しいものの頭上を素通りしてしまうところだったろう。乙女のままであればお前は千里眼だ、ロレンツァ。人妻になってしまえばただの人でしかない」
「つまり私の愛など二の次なんですね」ロレンツァは美しい両手を怒りで組み締めたため、手が真っ赤に染まった。「夢を追い求めたり、空想を作りあげたりする方が私の愛より大事だと言うのでしょう? あなたから激しい魅力を振りまかれていながら、修道女のように貞節でいろと? ああ、ジョゼフ! 告発します、あなたは罪人です!」
「やめないか。俺だって苦しいんだ。俺の心を読んでくれ、それでもまだ俺がお前を愛していないと言えるか」
「それならどうして自分の気持に逆らうのですか?」
「俺と一緒にお前を玉座に就かせたいからだ」
「その野心で私の愛と同じものをもたらせるでしょうか?」ロレンツァが呟いた。
熱い思いに駆られて、バルサモはロレンツァの胸に頭を預けていた。
「ええそう、わかっています。野心よりも権力よりも希望よりも私のことを愛していることは。あなたは私を愛している、私と同じように!」
バルサモは理性を浸し始めたとろけるような雲を振り払おうとしたが、果たせなかった。
「それほどまでに愛しているのなら、俺を許してくれ」
ロレンツァはもはや耳を貸さず、両腕の鎖はかすがいよりも強く、ダイヤよりも硬かった。
「言われた通りに愛します。妹だろうと妻だろうと、生娘だろうと人妻だろうと。ただ口づけを、それだけを」
バルサモの負けだった。愛によって打ち負かされ、もはや抗う力もないまま、目を輝かせ、胸をぜいぜい言わせ、頭を仰け反らせて、鉄が磁石に引き寄せられるようにロレンツァに引き寄せられていた。
バルサモの口唇がロレンツァの口唇に近づいた!
突如、理性が舞い戻った。
バルサモはとろけるような靄を両腕でかき回した。
「ロレンツァ! 目を覚ませ!」
すると千切ることの出来なかった鎖がほどけ、抱きしめていた腕が緩み、乾いた口唇に広がっていた微笑みが末期の息のように絶ち消えた。閉じていた目は開き、開いていた瞳孔は縮んだ。ロレンツァはぎこちなく腕を震わせ、ぐったりとして、ただし目を覚ました状態で、ソファに倒れ込んだ。
バルサモはそばに坐り、深い溜息をついた。
「夢よさらば、幸福よさらば」と呟いた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LVI「La double existence – Le sommeil」の全訳です。
Ver.1 10/06/19
Ver.2 12/10/01
[訳者あとがき]
・06/19 ▼次回は07/03(土)更新予定。
[更新履歴]
・12/10/01 訳し洩れがあったので追加。「ロレンツァは心『を痛め』、閉じた瞼の下からひっそりと涙を流した。」
・12/10/01 「こうやって私がそばにいるとあなたが苦しんでいるのがわかる。私は役にも立たず見捨てられたままですから。汚れのない花が一輪あなたを誘う香りを放っているというのに、その香りを煙たがられるなんて!」 → 「私がこうやってあなたのそばで役にも立たずに見捨てられて過ごしていることに我慢がならないんでしょう! 汚れのない一輪の花が香りを放って誘っているというのに、その香りをはねつけるなんて!」
[註釈]
▼*1. []。 [↑]