この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第六十章 生命の霊薬

 一人残されたバルサモは、ロレンツァの部屋まで様子を窺いに行った。

 ロレンツァは変わらず穏やかに眠っている。

 バルサモは廊下側の小窓を開けて、うっとりしながらしばらくロレンツァに見とれていた。やがて小窓を元に戻すと、既にお伝えしたようにロレンツァの部屋と実験室を隔てている部屋を通って、窯の火を消しに急いだ。熱を煙突に逃がしている巨大な導管を開放し、バルコニーにある貯水槽の水を流した。

 それから黒いモロッコ側の紙入れに、枢機卿の受け取りを大切に仕舞い込んだ。

「ロアン家の言葉とは素晴らしいが、これは俺がいただいておこう。同胞たちには金を何に使っているのか知ってもらった方がいい」

 その言葉が終わらぬうちに、天井から乾いた音が三度聞こえ、バルサモは頭上を仰いだ。

「おや、アルトタスが呼んでいる」

 実験室に空気を入れて、すべてを元通りに直していると、さらに強い合図が聞こえた。

「苛立っているな。いい兆しだ」

 今度はバルサモが長い鉄棒を叩いて合図を送った。

 それから壁の鉄輪を外してバネをゆるめると、天井から落とし戸が外れて実験室の床まで降りてきた。バルサモはからくりの真ん中に立ち、別のバネを操作してゆっくりと上っていった。オペラの装置が神や女神を運び去るように、いとも容易くバルサモの身体も運び去られ、やがて門徒は師匠の部屋にたどり着いていた。

 老学者の住むこの新居は、高さ八、九ピエ、直径十六ピエはあろうか。井戸のように上からの光で照らされ、四面はしっかりと塞がれていた。

 おわかりいただけるだろうが、車内の住居と比べればこの部屋も宮殿だ。

 老人は車椅子に坐り、蹄鉄状の大理石製机の真ん中で、あらゆるものに囲まれていた。言いかえるならばごちゃ混ぜになった植物、ガラス壜、工具、書物、器具、不可思議な文字の記された紙の山に囲まれていた。

 作業に気を取られるあまり、バルサモが現れても顔を上げようとはしない。

 ガラス窓の天辺に結わえられたアストラル・ランプが、禿げた頭頂部に光を落としてぴかぴかと光っていた。

 指の間で白いガラス壜を何度も確かめ、透明かどうかを確認していた。その様子はさながら市場に行った主婦が買った卵を光にかざして確かめているかのようだった。

 バルサモは無言でそれを見つめていたが、すぐに声をかけた。

「何かありましたか?」

「おおアシャラ! 儂が喜んどるのがわからんか。見つけたぞ、ついに見つけたぞ……!」

「何をです?」

「探し求めていたものをじゃよ!」

「金でしょうか?」

「ああ……確かに金もそうじゃな! ではほかには!」

「ダイヤモンドでしょうか?」

「おかしなことばかり言うて。金にダイヤは確かに素晴らしい発見だが、もっと嬉しいものがあるじゃろうて。儂は誓ってそれを見つけたのだぞ!」

「では、あなたが見つけたのは、霊薬エリクサーなのですか?」

「まさしく霊薬。いわば生命! 永遠の生命じゃ」

 バルサモは悲しげに呻いた。これまで散々そんな気違いじみた研究を目の当たりにしてきたのだ。「まだそんな夢みたいなことを考えているのですか?」

 だがアルトタスは聞く耳持たず、ガラス壜を愛おしそうに眺めまわしている。

「ついに処方が見つかったのだぞ。アリスタイオスの霊薬を二十グラム、水銀の香草を十五グラム、金の沈殿物を十五グラム、レバノン杉のエキスを二十五グラム」

「アリスタイオスの霊薬のほかは、以前と変わらないようですが?」

「うむ、だが大事なものが欠けておった。ほかの材料と結びつけるもの、それなくしてはほかの材料もないようなものじゃ」

「ではそれを見つけたのですね?」

「見つけた」

「手に入れることは?」

「愚問じゃ!」

「それはいったい?」

「壜の中で混ぜ合わされた材料に加えて、最後に三滴、未成年の生血が要るのだ」

 バルサモはぞっとして震えた。「何処で手にいれるつもりなのです?」

「そちが見つけてくれる」

「俺が?」

「そちじゃ」

「馬鹿を言わないで下さい、先生」

「何故じゃ?」老人は平然としたままたずねた。栓がゆるいせいで壜の表面に垂れていた水滴を愛おしそうに舌でなめ回している。「言うてみろ?」

「生血を三滴手に入れるために子供を手に入れろというのですか?」

「うむ」

「ですがそのためには子供を殺さねばなりませんが?」

「うむ、殺さねばなるまいな。美しければ美しいほどよい」

「あり得ない」バルサモは肩をすくめた。「殺すために子供を手に入れる人などいません」

「ほう?」老人はむごいほどけろりとしていた。「では何のために手に入れるのだ?」

「育てるためです」

「これは驚いた! では世界は変わったのか? 三年前は火薬四包と酒半壜と引き替えに、好きなだけ子供を連れて来てくれたではないか」

「それはコンゴの話です」

「確かにコンゴじゃったな。黒かろうと構わんよ。連れて来られたのは確か、愛くるしくて縮れ毛でやんちゃな子供らだった」

「お見事です! ですが残念ながら、ここはコンゴではありません」

「コンゴではない? すると儂らは何処にいるのだ?」

「パリです」

「パリか。ではマルセイユで乗船すれば、六週間でコンゴまで行けるな」

「それは行けるでしょうが、我々はフランスから離れるわけにはいきません」

「フランスから離れるわけにはいかぬだと! 何故じゃ?」

「やることがあるからです」

「そちがフランスで何かやると申すのか?」

「ええ、しかも大事なことです」

 アルトタス老人は長々と悲痛な笑い声を立てた。

「フランスでやることがある、か。そうじゃな、忘れておった。そちは結社を組織しておったのだったな?」

「はい、先生」

「陰謀を企んでおったな?」

「はい、先生」

「それがそちの言う『やること』か」

 老人はまたも狂ったように嘲るように笑い出した。

 バルサモは来たるべき嵐に対して力を積み上げておきながら、それが近づくのを感じても沈黙を守っていた。

「それで何処まで進んでおる? 言うてみい!」老人は苦労して椅子の上で身体をひねり、灰色の目を生徒に向けた。

 光のような視線に射抜かれたのをバルサモは感じた。

「何処までと仰るのですか?」

「そうじゃ」

「初めの一石を投じて、水を濁らせました」

「どの泥をかきまぜよった?」

「最善を。哲学の泥です」

「ほ、ほう! どうやらそちの理想郷、空虚な夢、蒙霧を危険にさらすつもりらしいの。儂のように神々そのものを作ろうとはせんで、神が存在するかしないかを議論しておるうつけどもか。いったいどの哲学者とつるんでおる? どうじゃ」

「この時代には既にもっとも偉大な詩人にしてもっとも偉大な無神論者がおいでです。近いうちに、半ば亡命していた場所からフランスに戻って来るはずです。ポ=ド=フェール街のイエズス会の古い修道院に支部ロッジを用意しておきましたから、そこで会員メーソンになってもらおうと思っています」

「そやつの名は?」

「ヴォルテール」

「知らんな。ほかには?」

「社会思想の偉大な先導者、『社会契約論』の著者と近いうちに会う手筈になっています」

「名は?」

「ルソー」

「知らぬ」

「先生はアルフォンソ十世、ライモンドゥス・ルルス、ピエール・ド・トレド、大アルベルトゥスしか知らないのでしょう」[*1]

「彼らこそ生をまっとうしたと言える唯一無二の者たちじゃぞ。大いなる謎が存在するかしないかを突き止めることにその生涯を捧げた者たちじゃ」

「生き方には二通りあるのです、先生」

「一つしか知らぬな。存在すること。じゃが哲学者の話に戻ろう。何という名であったかな?」

「ヴォルテール、ルソー」

「よし、覚えておこう。して、この二人がいればどうなると……?」

「現在を掌握し、未来を覆します」

「ほ、ほう! この国にいるのはうつけどもか? 思想に導かれるとはの」

「むしろ聡明だからこそ、思想によってさらなる感化を受けているのです。それに、哲学者より強力な力添えも揃っています」

「ほう?」

「倦怠です……フランスに君主制が栄えて千六百年。国民は君主制に飽いています」

「じゃから君主制を覆そうというのか?」

「まさしく」

「信じておるのか?」

「出来るはずです」

「そちが煽っておる訳か」

「全力で」

「馬鹿者が!」

「何故です?」

「君主制を転覆させる見返りは何じゃ?」

「俺には何もありませんが、全人類には幸福が」

「よかろう、儂は今日は機嫌がいい。喜んでそちに付き合ってやろう。まず説明してみよ。如何にして幸福を達成するのだ? それから幸福とは何じゃ?」

「如何に達成するか、ですか?」

「うむ。万人の幸福、あるいは君主制の転覆。いずれにしてもそちには同じことらしいが。言うてみよ」

「いいでしょう! 今の内閣が君主制にとっては最後の砦です。頭も回り腕も立ち、おまけに勇敢だ。ガタの来た君主制を後二十年は延命させられるでしょう。それを倒すには助けが要ります」

「誰の助けだ? 哲学者どもか?」

「違います。哲学者はむしろ支える側です」

「何ッ! 哲学者どもは君主制を支える内閣を支えておるのか? 君主制の敵ではなかったのか? まったく、哲学者どもときたら馬鹿にもほどがあるぞ!」

「内閣そのものが哲学者なのです」

「ああ、そういうことか。その大臣の人格に潜り込んで支配しておるのだな。儂は間違っておった。馬鹿ではなく、利己主義者どもだ」

「哲学者の正体はこの際どうでもいいでしょう」バルサモは焦れ始めていた。「俺にはわかりません。わかっているのは、この内閣を辞めさせれば、次の内閣にはひどい糾弾が待っているということです」

「ふむ!」

「内閣はまずは哲学者と、次に高等法院と対立するでしょう。哲学者が声をあげ、高等法院が声をあげれば、内閣は哲学者を迫害し、高等法院を停止するに違いありません。そうすれば精神と物質は密かに手を結び、頑固で粘り強く抵抗を組織し、すべてを攻撃し、絶えず穴を掘り、爆薬を仕掛け、揺さぶりをかけることになるはずです。やがて高等法院に代わって裁判官が任命されるでしょうが、王権によって任命されたこの裁判官は、王権のためにあらゆる便宜を図ることでしょう。そうすれば道義に基づき、汚職、横領、不正に対して非難の声があがるに違いありません。国民が立ち上がれば、ついに王権は、智的階級である哲学者、有産階級ブルジョワである高等法院、庶民階級である国民から、反抗されたことになります。それはいわばアルキメデスが探していた梃子のようなもの、世界を動かす梃子なのです」

「立ち上がらせたものはいずれまた元に戻さねばなるまい」

「ええ。ですが元に戻す頃には王権もばらばらになっているでしょう」

「王権がばらばらにされた暁には、そちの馬鹿げた空想や大げさな言葉も喜んで受け入れよう。ばらばらにされて穴だらけになった王権の残骸からは、いったい何が出て来るのだ?」

「自由が」

「ほう! ではフランス人は自由を手に入れるのか?」

「いつの日にか必ずやそうなるでしょう」

「誰もが自由に?」

「誰もが、です」

「するとフランスに三千万の自由な人間が暮らすことになるのか?」

「はい」

「その三千万人の中には、他人よりも頭のいい人間はおらんようじゃな。自分一人の自由を増やすために、ある朝ひょいと二千九百九十九万九千九百九十九人の自由を奪うような輩はおらぬのか? メディナで飼っていた犬のことを思い出すがいい。ほかの奴らの餌を独り占めしておったであろうが」

「わかっています。ですがある日、ほかの犬たちが協力して成敗したではありませんか」

「あれは犬じゃったからだ。人間もそうなるとは限らん」

「では人間の智性は犬より劣ると仰るのですか、先生?」

「ふん! 前例はある」

「どのような例が?」

「古くは皇帝アウグストゥス、新しくはオリヴァー・クロムウェルが、ローマの菓子やイギリスの菓子にがぶがぶと食らいつきおったが、奪われた者たちからはたいした反論も抵抗もなかったのではあるまいか」

「そういう人間が現れたとしても、人は死ぬべき定め。そういう人間もやがて死にます。ですが死ぬまでの間に、迫害した者たちにさえ善行を施したと言えるのではないでしょうか。何といっても貴族制の在り方を変えたのですから。何かに頼らざるを得ない以上は、もっとも強いものを、つまり国民を選んだのです。平等を成し遂げるに当たり、低いところに合わせずに、高いところに合わせたのです。平等とは柵ではなく、柵を作る者の水準に応じた高さではありませんか。ですから国民の水準が上がれば、それまで知りもしなかった智識にもぶつかることになりましょう。革命はフランス人に自由をもたらします。先の皇帝アウグストゥスやオリヴァー・クロムウェルの護民制が平等をもたらしたように」

 アルトタスが椅子の上で身じろぎした。

「これほどの馬鹿も珍しい! 二十年を費やして子供を育て、知っていることを教えるがいい。その子供が三十歳になれば、そちに言いに来るじゃろうて。『人間は平等になるんだよ!……』」

「間違いなく、人間は平等になるでしょう。法の前では平等に」

「死の前ではな、脳たりんめ。法の中の法である死の前では、三十歳で死のうと百歳で死のうと平等というわけか? 平等? 確かに平等じゃろうて、人間が死を克服できぬ限りはな。馬鹿め! 馬鹿の極みじゃ!」

 アルトタスはさらに遠慮なく仰け反って笑い出した。その間バルサモはがっくりとうつむいたまま坐っていた。

 アルトタスが憐れむようにバルサモを見つめた。

「つまり粗末なパンをかじる労働者も、乳母の乳を吸う乳呑み児も、乳漿をすすり見えぬ目で涙を流す惚け老人も、儂と平等というわけか?……哀れな詭弁家め。では一つ考えてみてくれぬか。人間が不死であったなら、人は平等ではなくなるのかな。つまるところ不死であるならそれは神であり、人と神とは対等ではあるまい」

「不死?」バルサモが呟いた。「不死? 空想だ!」

「空想か! さよう、湯気のような空想、水の流れのような空想、人が追い求めながらもいまだ見つけられず永遠に見つけることの叶わぬ空想じゃ。だが儂と共に世界中の塵をかき回し、文明を形作っている厚い層を一つ一つ剥がしてみよ。人間の層の中、王国の欠片の中、何世紀もの鉱脈の中に、刃物が入れられたように薄く刻まれたその中に、何が見える? あらゆる時代の人間たちが、より優れた相応しい完璧な名目のもとで、探し求めて来たものじゃ。いつから探しておるのじゃろうな? ホメロスの時代には人は二百歳まで生き、旧約聖書の族長の時代には八世紀もの寿命があった! だがより優れた相応しい完璧なものを見つけることはなかった。見つけていたなら、この老いた世界も朝の光のように瑞々しく無垢な薔薇色に変わっていたことじゃろう。ところが現実には、苦しみ、屍、ごみの山じゃ。苦しみが気持いいか? 屍が美しいか? ごみが望ましいか?」

 老人が乾いた咳を一つし終えたところで、バルサモは答えた。「生命の霊薬を見つけた者は誰もいないとご自分で仰ったではありませんか。これからも見つける者はないでしょう。懺悔なさるがいい」

「馬鹿め! 秘密を知った者はいなかった、だからこれからもおらぬだと? その伝で行くと、いまだかつて発見されたものなどなかろうに。それとも、発見とは新しいものを発明することだと思っとるのか? 否。忘れ去られたものを再び見出すことじゃ。では一度見つけられたものが忘れられるのは何故か? 人生はあまりに短い。見つけたものからあらゆる推論を引き出すことなど出来ぬ相談。生命の霊薬も、これまでに見つけられそうになったことは二十たびにのぼる。ステュクス川がホメロスの空想だと思っとるのか? かかとを打たれぬ限りは不死であるアキレウスが、お伽噺だと? 否。アキレウスはケイローンの弟子じゃった。そちが儂の生徒であるようにな。ケイローンとは最高と最悪を意味する。ケイローンとはケンタウロスの姿を借りた賢者であり、人間の叡智に加えて馬の力と速さに恵まれておった。そう、ケイローンもまた、不死の霊薬を見つける一歩手前まで行っておった。そちが拒んだ三滴の血が足りなかったのだ。三滴の血が足りぬばかりに、アキレウスはかかとに弱点を抱えておった。死は道を見つけ、入り込んだのじゃ。繰り返そう、万能にして最高にして最悪の人間であるケイローンも、アシャラに邪魔をされたアルトタスでしかない。神の呪詛によって引き離されながらも、全人類を救えるはずの作品が完成間近だと言うのにだぞ。さあ、言うべきことはあるか?」[*2]

 バルサモは明らかに動揺していた。「俺には俺の、あなたにはあなたの作品がある。自分のことは自分でやろうじゃありませんか。罪を犯してまで手伝うつもりはありません」

「罪だと?」

「ええ、それも一つだけじゃない! どれ一つ取っても、輿論が声をあげるでしょう。その罪一つであなたは絞首台に吊されることになる。最高の人間だろうと最低の人間だろうと、絞首台の前ではあなたの科学など無力です」

 アルトタスは大理石の机に、干涸らびた手を叩きつけた。

「人道主義者のふりはよさぬか。最悪の奴らの真似などしおって。よかろう、法の話をしようではないか。そちのお仲間によって書かれた、野蛮で不条理な法の話じゃ。叡智のために流された血の一滴には憤慨するくせに、広場や市壁の下や戦場という名の原っぱで撒き散らされる体液には目を輝かせおる。利己的でくだらぬ法じゃな、今生きている人間のために未来の人間を犠牲にして、標語を叫んでおる。『今を生きよ! 明日はわからぬ!』。この法の話をしようではないか、どうじゃ?」

「先生のお話を聞かせて下さい」バルサモは目に見えて沈んでいた。

「鉛筆か羽根ペンはないか? 計算しなくてはならぬ」

「書くものはいりません、俺がやります。どうぞお聞かせ下さい」

「そちの陰謀の話じゃ。確か……内閣を倒し、高等法院を停止させ、身びいきな裁判官を立て、破産に仕向け、叛乱を促し、革命の火をつけ、君主制を倒し、護民制を立ち上がらせ、貴族制を突き落とすのだったか。

「革命は自由をもたらし、護民制が平等を。フランス人が自由と平等を手にすれば、そちの作品は完成というわけじゃな。違うか?」

「違いありません。不可能だと思うのですか?」

「不可能とは思わん。よいことを教えてやろう」

「何でしょうか?」

「よいか。フランスはイギリスとは違う。そちのやろうとしていることはイギリスの真似事に過ぎん。だがフランスは孤立した島ではない。内閣を倒し、高等法院を停止させ、身びいきな裁判官を立て、破産に仕向け、叛乱を促し、革命の火をつけ、君主制を倒し、護民制を立ち上がらせ、貴族制をひっくり返せば、周りの国が騒ぎに首を突っ込んで来るのだぞ。フランスはヨーロッパと地続きじゃ、肝臓がほかの内臓と繋がっておるようにな。ほかの国々に根を張り、ほかの国々の国民の中に繊維を張りめぐらしておる。ヨーロッパ大陸という本体から肝臓を引きはがそうとしてみい、二十年、三十年、四十年のうちに、身体はがたがたになってしまうじゃろう。だが儂は短く踏んで、二十年と見ておる。早過ぎるかの、賢明な哲学者殿よ?」

「早過ぎはしませんが、充分とも言えないでしょう」

「そうか、まあそれでよい。二十年の間、死ぬほどの戦争や抗争が絶え間なく続くのじゃ。年間二十万の死者が出る。ドイツ、イタリア、イスパニアで一斉に戦をするのだから多過ぎはせんじゃろう。一年で二十万人ということは、二十年で四百万人。平均して人間一人当たり十七リーヴルとして、計算してみよ……十七掛ける四……そちが目標を達成するには六千八百万リーヴルの血が流れることになるのだぞ。儂が欲しいのは三滴じゃ。これでは儂らが野蛮な人食いとは言えまい? どうじゃ、何も言えまいに?」

「俺の答えはこうです。成功する自信があるのなら、血の三滴くら何でもないでしょうに」

「ほう? では六千八百万リーヴルが流されることに、そちは自信が持てるのか? 立て! 胸に手を置いて答えてみよ。『先生、四百万人の屍と引き替えに、俺は人類に平和を約束します』とな」

「先生」バルサモは返答を避けた。「お願いですから、ほかの方法を見つけて下さい」

「ほう、答えぬのか、答えぬのだな?」アルトタスは勝利の雄叫びをあげた。

「その方法では上手くいきません。先生は思い違いをなさっています」

「儂に忠告する気か。儂を否定し、儂に逆らうというのか」アルトタスは椅子を移動させた。白い眉の下で灰色の目が冷たく光った。

「そんなつもりはありません。でも俺もよく考えました。これまでの毎日、世間と触れ、人と諍い、君主たちと争って過ごして来ました。あなたのようにひっそり閉じこもって世間の出来事に無関心を決め込んだりはしなかった。科学者や引用学者の実体のない研究が拒まれようと認められようと先生は無関心でしたが、俺は違いました。要するに、どれだけ難しいかがわかっているから、それをお伝えしているんです。他意はありません」

「そちがその気であればどれだけ難しかろうと問題はなかろうが」

「信じられればよいのですが」

「では信じておらぬのか?」

「はい」

「儂を試しておるのか!」アルトタスが叫んだ。

「まさか。心に迷いが生じているのです」

「よかろう、では死を信じるか?」

「その存在、つまり死の存在は信じております」

 アルトタスは肩をすくめた。

「では死の存在、それは疑う余地がないのだな?」

「議論の余地はないでしょう」

「そして果てもなく、抗えるものもなかろう?」老学者が恐ろしい笑みを浮かべてバルサモを震え上がらせた。

「そうです、抗えるものもなく、果てもない永遠のものです」

「そちは死体を見て、額に汗が浮かんだり胸に無念が兆したりするか?」

「むごいことには慣れているので汗は浮かびません。人生などちっぽけなものだと考えているので無念は兆しません。でも死体を前にしてこう呟くでしょう。『死よ! 死よ! お前は神のように力強く! 絶対的に遍く統治し! お前に勝るものなどない!』」

 アルトタスはバルサモの言葉を黙って聞いていた。ただ一つ苛立っている素振りに、指の間でメスをもてあそんでいる。痛ましく厳かな弟子の言葉が止むと、老人は辺りに目をやった。その鋭い目からは、どんなものであろうと秘密を隠しおおせるとは思えない。やがて部屋の隅に目を留めた。麦わらが敷かれた上に、黒い犬が震えている。バルサモに頼んで実験用に持って来させた三匹のうちの最後の一匹だ。

「あの犬を捕まえてこの机に乗せよ」

 アルトタスの言葉にバルサモは従い、黒犬を捕まえて大理石に乗せた。

 運命を予感したのだろうか、恐らく一度実験者の手に捕らえられたことがあるのだろうが、大理石に触れた途端に犬はぶるぶると震え、逃れようともがいて吠え始めた。

「さてはて! そちは生を信じておろうな? 死を信じておるのだから」

「確かに」

「この犬は随分と活きがいいと思うが、どうじゃ?」

「そうでしょうね。吠え、もがき、怯えていますから」

「醜いのう、黒犬は! 大事なことじゃぞ、今度からは白いのを手に入れて来い」

「そうします」

「さて、こやつの活きがいいという話じゃったな! 吠えろ、ちび」老人は陰気な薄笑いを浮かべた。「さあ吠えろ、活きのいいところをアシャラ殿に見せてやれ」

 指でどこかの筋を押さえ込むと、犬は吠えるどころか呻き始めた。

「よし、真空槽を出せ。それじゃ。その下に犬を……そこだ! そうそう、忘れとった。そちが信じているのはどんな死なのか聞いておらなんだな」

「仰る意味がわかりません。死は死です」

「その通り、まったくその通り。儂も同意見じゃ。さて、死は死であるのだからな、空気を抜け、アシャラ」

 バルサモがつまみをひねると、犬のいる真空槽から管を通って空気が抜け始めた。甲高い音と共に空気が抜けてゆく。初めのうちこそ戸惑っていた犬も、やがて出口を探し、空気を求め、頭を上げて懸命に喘ぎ始めたが、とうとう息が詰まって顔をむくませぴくりとも動かなくなった。

「これは卒中じゃな?」アルトタスがたずねた。「あまり苦しまず、理想的な死ではないか!」

「はい」

「確かに死んでおるな?」

「そのはずです」

「確信がないようだの、アシャラよ?」

「そんなことはありません」

「ふん、儂のやり方は知っておろう? 蘇生法を見つけたと思っておるのではないか、なあ? 問題は無傷の身体に空気と生命を行き渡らせることにあると思っとらんか? 穴の空いていない革袋のようなものじゃと?」

「そのようなことは思っておりません。この犬は死にました」

「まあよい、念には念を入れて二重に殺しておこう。真空槽を取れ、アシャラ」

 アシャラがガラス装置を持ち上げても、犬は動かなかった。瞼は閉じられ、心臓の鼓動は既に止まっていた。

「メスを持て。喉を傷つけぬようにして、脊柱を断つのだ」

「仰る通りにいたします」

「こやつがまだ死んでいなければ、それですっかり息の根は止まる」アルトタスは老人特有のねちっこい笑みを浮かべた。

 バルサモが刃を滑らせた。小脳付近の脊柱を二プスばかり切り裂くと、真っ赤な傷口がぱくりと開いた。

 犬、もはや犬の死骸は、やはり動かなかった。

「ほう、確かに死んでおる」アルトタスが言った。「筋繊維も筋肉も肉片も、刺激を与えてもぴくりとも震えぬ。死んでおる、確かに死んでおるな?」

「お望みであれば何度でも認めましょう」

「こやつは動かぬ。凍えきったまま永遠に動くことはない。死に打ち勝てるものはないと言うたな。この動物に生命を、いや生命の片鱗だけでも吹き込めるものなど存在せぬと」

「それが出来るのは神だけです!」

「うむ、だが神もそうするほど愚かではない。至高の叡智である神が殺したのであれば、つまり殺すことに意義や益があったということじゃ。名前は定かではないが、ある人殺しが言っておった。上手いことを言うたもんじゃ。運命は死を好む。

「つまりこの犬がすっかり死んでおるのも、運命がこやつを好いたからじゃ」

 アルトタスはバルサモを突き刺すようににらんだ。バルサモはうんざりするような老人のたわごとに長々と耐えていたが、すべて引っくるめて答えの代わりに頭を垂れた。

「この犬が目を開いてそちを見たとしたらどう思う?」アルトタスはなおも続けた。

「ひどく驚くでしょうね」バルサモは笑いながら答えた。

「驚くだと? そいつはいい!」

 アルトタスは陰気な笑い声を狂ったようにあげると、布の緩衝剤で隔てられた金属器具を犬に近寄せた。布には酢水の化合液が染み込ませてある。二つの棒、言うなれば二つの電極が桶から飛び出ていた。

「開くならどっちの目がよい、アシャラ?」

「右目を」

 二本の棒が近づけられたが、絹の緩衝剤があるため触れ合うことはない。それが首の筋肉に押しつけられた。

 途端に犬の右目が開き、バルサモをじっと見つめた。バルサモはぎょっとして後じさった。

「次は口に移ろうかの?」

 バルサモは何も言えずに呆然としていた。

 アルトタスが別の場所に触れると、今度は目が閉じて口が開き、白く尖った牙が見えた。赤い歯茎が生きているように震えている。

 バルサモは恐怖と昂奮を抑えることが出来なかった。

「何だこれは?」

「わかったじゃろう? 死などは取るに足らん」アルトタスは勝ち誇っていた。「儂のようなもうすぐお迎えの来る老人も、避けられぬ道から逃れることが出来るのだからな」

 そして突然きいきいと神経質な笑い声をあげ始めた。

「気をつけるがいい、アシャラよ。この犬もそのうちそちを咬もうとし、そちを追いかけ回すようになるぞ!」

 まさしく犬は、首を切られているというのに、口を開けて目を震わせ、首をだらしなく垂らしたまま、四肢をがくがくと震わせて立ち上がった。

 バルサモの髪が逆立った。汗が額に流れた。後ずさって扉に貼りついたまま、逃げるべきか留まるべきか決めかねていた。

「これこれ、ちょいと教えを施してやっただけ、何も殺そうというわけではないぞ」アルトタスは死骸と機械を押しやった。「これでわかったじゃろう」

 電極を外された死骸は、すぐに動くのを止め、元のように静かになった。

「これでも死を信じるのか、アシャラよ? もうすっかり納得したのではないか?」

「驚いた、本当に驚きました!」バルサモが戻って来た。

「儂の話も現実味を帯びて来たであろう。第一歩は為された。死を取り消すことが出来た以上は、生を延ばすことも出来よう?」

「でも俺にはまだわからない。そうやって取り戻した生は、紛い物の生ではないのですか」

「時間が経てば本物の生となろう。ローマの詩人を読んだことはないか? Cassidéeは死体に生命を取り戻したではないか」

「詩の中でなら、あります」

「ローマ人は詩人たちを予言者と呼んでおった、覚えておくがよい」

「ええ、ですが俺は……」

「まだあるのか?」

「すいません。完成した生命の霊薬をこの犬に与えたとしたら、犬は永遠に生きられるのでしょうか?」

「そのはずじゃ」

「ではあなたのような科学者の手に落ちて喉を切られたとしたら?」

「見事!」老人は嬉しそうに手を叩いた。「それを待っとった」

「待っていたのなら、どうか答えて下さい」

「望むところじゃ」

「霊薬を飲めば、頭の上に煙突が落ちたり、弾丸に貫かれたり、馬に腹を蹴破られるすることからも避けられるのですか?」

 刺客が狙う相手を値踏みして、一撃のうちに突き返してくるだけの実力はあると踏んだ、そんな目つきでアルトタスはバルサモを見つめた。

「否、否、否。まったくそちは論理的じゃの、アシャラよ。煙突、否。弾丸、否。馬の足蹴、否。家や銃や馬がある限り、それを避けることは出来ぬ」

「死者を甦らせることが出来るのは事実ではありませんか」

「一時的には出来るが恒久的には無理だの。そのためにはまず、魂が身体の何処に宿っておるのか突き止めなくてはならん。それにはしばらくかかるだろうて。だが傷を負った身体から魂が抜け出すのを防ぐことは出来るぞ」

「いったいどうやって?」

「傷を閉じればよい」

「傷つけられたのが動脈だったら?」

「問題ない」

「是非ともこの目で見たいものです」

「よかろう、見るがよい」

 バルサモが止めるよりも早く、老人は左腕の血管に披針ランセットを突き刺した。

 血などほとんど干涸らびてしまった老人の身体にも、ゆっくりと血は流れていた。しばらくかかってどうにか傷口までたどり着いて口を広げ、やがてたらたらとあふれ出した。

「先生!」

「ん、何じゃ?」

「ひどい傷ではありませんか」

「そちが聖トマスのような疑い屋で、見たり触れたりしなければ信じられんというのだから、その目に見せ、その手に触れさせてやらねばなるまいに」

 アルトタスは手近に置いてあったガラス壜をつかみ、一滴二滴、傷口に振りかけた。

「見よ!」

 すると如何なる魔法の水であろうか、血は四散し、傷口は締まり、血管はふさがり、血など何処かへ行ってしまったかのように、小さな刺し傷だけが滑らかな肌に残った。

 またもバルサモは呆然として老人を見つめた。

「これも儂が見つけたのじゃ。言うことはあるか、アシャラ?」

「先生! あなたは世界一の科学者です」

「死を完全に打ち負かすことは出来なくとも、痛手の大きい一撃をくれてやったとは思わんか? よいか、人間の身体にある骨は、すぐに折れてしまうほどもろいものじゃ。儂にならその骨を鋼より固く出来る。人間の身体に通っている血は、流れ出てしまえば生命も道連れにしてしまう。儂ならその血が身体から出るのを防ぐことが出来る。人間の身体は柔らかくすぐに傷ついてしまうが、儂になら中世の騎士のような不屈の肉体に変えて、剣や斧の刃など鈍らせてしまうことが出来る。そのためにはただ一人アルトタスに三百年の命が必要なのじゃ。よいな、だから儂の求めているものを手に入れてくれ。そうすれば千年は生きられるじゃろう。アシャラよ、そちに懸かっておる。儂は若さを、体力を、機智を取り戻したいのだ。そうすれば剣や弾丸、崩れる壁、野獣に咬まれることや飛びかかられることを恐れているかどうか、そちにもわかるじゃろう。儂に四分の一の若さがあればの。そうすればつまり、四人分の人生を使い切る前に、地上を刷新してみせようて。儂と新しい人類にとって理想の世界を作ってみせように。煙突も剣もなく、マスケット銃の弾丸も足蹴にする馬もない世界じゃ。その時こそ人類も気づくじゃろう。生きるには、傷つけ合い殺し合うよりも助け合い愛し合う方が相応しいことにの」

「その通りです、先生。せめてそうありたいものです」

「ほう! だったら子供を連れて来い」

「もう少し考えさせて下さい。先生ももう一度考えて下さい」

 アルトタスは蔑み切った目を向けた。

「出てゆけ! 後でたっぷり言い聞かせてやる。もっとも、人間の血はさして大事な成分でもない。ほかのもので代用できぬこともなかろう。何とか探して見つけ出してやる。そちなど要らぬ。出て行け!」

 バルサモは落とし戸を蹴って階下に降りると、物も言わずじっとして、あの男の才能に打ちのめされていた。不可能を可能にする魔術師も、不可能なものを信じざるを得なかった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LX「L'élixir de vie」の全訳です。


Ver.1 10/07/31
Ver.2 12/10/02

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[訳者あとがき]

 ・07/31 ▼次回は08/14(土)更新予定。

[更新履歴]

・12/10/02 「内閣そのものが哲学者なのです」→「大臣自身が哲学者なのです」

・12/10/02 「この内閣の内から支配しておるのだな。」→「その大臣の人格に潜り込んで支配しておるのだな。」

・12/10/03 「静脈」→「血管」。これも初歩的なミス。

[註釈]

*1. [アルフォンソ十世……]。アルフォンソ十世、ライモンドゥス・ルルス、ピエール・ド・トレド、大アルベルトゥス(・マグヌス)。いずれも十三世紀ごろの錬金術師、翻訳家。 []

*2. [ステュクス川]。ステュクス川、ギリシア神話の冥界の川。[]

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