様々なことが起こったこの充実した夜長を、神話に出てくる神々の乗る雲のように、サン=ドニからラ・ミュエット、ラ・ミュエットからコック=エロン街、コック=エロン街からプラトリエール街、プラトリエール街からサン=クロード街まで、我々は旅して来た。デュ・バリー夫人が国王の心を都合良く動かそうと腐心していたのも、この夜であった。
デュ・バリー夫人はなかんずく、ショワズールを王太子妃の許でのさばらせるのが如何に危険か説いていた。
国王は肩をすくめて答えた。王太子妃は子供だし、ショワズールは老人ではないか。危険などない。子供に駆け引きは出来ぬし、老人には気を引くことなど出来ぬ。
国王は自分の言葉に満足し、説明を切り上げた。
デュ・バリー夫人としてはそういうわけにはいかなかった。どうやら国王は上の空のようだ。
ルイ十五世は浮気者であった。寵姫たちが嫉妬するのを見て楽しんでいた。無論、嫉妬が高じていつまでも喧嘩をしたりすねたりされるのは御免蒙る。
デュ・バリー夫人は嫉妬していた。まずは自尊心から、そして恐れから。この地位を勝ち取るに当たってあまりにも気苦労が多く、今の地位が出自とはあまりにもかけ離れているため、ポンパドゥール夫人のようにほかの寵姫たちに目をつぶることが出来なかったし、国王陛下が退屈そうにしている時でさえそれが出来なかった。
故に悋気を起こしたデュ・バリー夫人は、国王がどうして上の空なのか、納得のいく答えを求めた。
国王は収まりのいい言葉を並べたが、何一つ本心ではない。
「嫁のことを考えていたのだ。王太子が幸せにしてやれるとは思えぬ」
「どうしてですの?」
「コンピエーニュでもサン=ドニでもラ・ミュエットでも、ルイはほかのご婦人にばかり目をやって、妃の方にはほとんど目をくれなかった」
「そうでしょうか。陛下ご自身のお言葉でなければ、とても信じられませんわ。だって王太子妃殿下は素敵な方じゃありませんか」
「痩せっぽっちだ」
「とてもお若くて!」
「ド・タヴェルネ嬢、あれは大公女と同年配ではないか」
「それが?」
「完璧な美人だった」
伯爵夫人の目に光った輝きを見て、国王は口を滑らせたことに気づいた。
「あなただって」と国王は慌てて言い添えた。「そんなことを仰っていますが、あなただって十六の頃にはブーシェの描く羊飼い娘のようにふくよかだったはずだ」
このお追従で多少は事態が改善されたものの、衝撃はそれよりも大きかった。
デュ・バリー夫人は愛想笑いを浮かべて反撃した。
「つまりその方は美しいんですのね、ド・タヴェルネ嬢でしたかしら?」
「いや、余はよく知らぬのだ」
「あら! 褒めてらしたくせに、美しいかどうか知らないんですの?」
「つまり、痩せっぽっちではなかったのは確かだが」
「つまりじっくり眺めまわしていらしたのね」
「どうやら罠に嵌めようとなさっているらしいが、余が近眼であることはご存じだろう。ぼんやりと見えるだけで、細かいところなどとてもとても。王太子妃のいるところには、痩せっぽちの骸骨しか見えなかった」
「仰るようにタヴェルネ嬢もぼんやりとしか見えなかったんですのね。王太子妃が貴族的な美人で、タヴェルネ嬢が大衆的な美人だとわかるんですもの」
「おやおや! それではジャンヌ、あなたは貴族的な美人ではないということになる。冗談だろう」
伯爵夫人は呟いた。「褒められたといっても、こんなの別の人を褒めたのをごまかしただけじゃない」
それから声を出して、「王太子妃殿下がそそるような侍女をお選びになるのなら喜ばしいことですわ。老女のお付きなんてぞっとしませんもの」
「言われるまでもない。余も昨日、王太子にそう言ったところだ。だが夫君には興味がないようだった」
「そもそも妃殿下はタヴェルネ嬢をお選びになるのかしら?」
「決めるそうだ」とルイ十五世が答えた。
「あら、ご存じですの?」
「噂ではそうなっていた」
「財産もないのに」
「その通りだが家格がある。タヴェルネ=メゾン=ルージュとは代々伝わる名門だよ」
「後ろ盾はどなた?」
「とんと知らぬな。だがそなたの言うように、一家は乞食同然の暮らしぶりと聞いている」
「でしたらショワズール殿じゃありませんわね。だったら年金でぶくぶくのはずですもの」
「ほらほら伯爵夫人、お願いだから政治の話は無しだ」
「ショワズール家があなたを破産させるというのは政治のお話ですの?」
「もちろんだ」
国王は席を立った。
一時間後、国王陛下はグラン・トリアノンに戻っていた。三十代のリシュリューが言っていそうなことをぶつぶつと繰り返しながらも、悋気に触れて上機嫌だった。
「まったく、女の嫉妬とは厄介なものだ!」
国王がいなくなると、デュ・バリー夫人もすぐに立ち上がり、寝室に向かった。そこには新しい報せを聞きたくてうずうずしているションが待っていた。
「ねえ、ここ何日かびっくりするほど上手く行ってるじゃない。一昨日は王太子妃に紹介されて、昨日は一緒に食事を摂って」
「ほんと、すごいことね!」
「ちょっと! すごいこと? 今もあなたの朝の微笑みを求めて、リュシエンヌまで百台の馬車が並んでいることがわからないの?」
「残念なことだわ」
「どうして?」
「時間の無駄だもの。馬車も人もあたくしの微笑みなんて手に入れられないのに」
「どうしたの? 今日は嵐みたいね」
「ええ、そう。チョコレート、チョコレートを頂戴!」
ションがベルを鳴らすと、ザモールが現れた。
「チョコレートを」
ザモールは背中を丸めてのろのろ足を動かし、ゆっくりと向きを変えた。
「あたくしを飢え死にさせる気? 急がないと、百叩きよ」
「ザモールは急ぎません。ザモールは領主!」ザモールは厳かに答えた。
「そう、ザモールは領主さん!」伯爵夫人は金の握りのついた小型鞭をつかんだ。スパニエルとグリフォンを仲良くさせるために置かれていたものだ。「待ってなさい、わからせてあげるから!」
ザモールはこれを見て、壁を揺るがし大声をあげて駆け出した。
「今日は意地悪なのね、ジャンヌ」とションが言った。
「いけない?」
「いいわ、わかった。そっとしておく」
「どうして?」
「何されるかわかったもんじゃないもの」
寝室の扉が三度敲かれた。
「誰かしら?」伯爵夫人がはじかれたように振り向いた。
「どうやら歓迎できる報せみたいね!」ションが当てこすった。
「歓迎できない報せよりはいいだろう」肩を怒らせ扉を押したのはジャンだった。
「歓迎できない報せだとどうなってたの? だってその可能性はあるでしょう?」
「悪い報せなら俺は戻って来ないね」
「それで?」
「悪い報せだったとしたら、俺よりもお前の方が失うものが大きいってことだ」
「失礼ね!」
「ふん、失礼なのは、おべっかで繕っていないからだ……それより今朝のあいつはどうだった、ション?」
「話したくない。近寄りがたくって。そうそう、チョコレートがあるわ」
「まあ喧嘩はよそうや。やあチョコレート殿」ジャンがお盆を取った。「元気にしてるか、チョコレート殿?」
お盆を小卓の隅に置いてその前に腰かけた。
「まあいいさ、ション。お偉い人たちは何も摂らんのだろうな」
「ひどい人たちね」ションがジャンに首を振って、一人で朝食を摂っても構わないと合図しているのを見て、伯爵夫人が言った。「気を悪くしたふりばっかりして、あたくしが苦しんでいることになんて気づいてもくれない」
「どうしたの?」ションが近寄って声をかけた。
「別に。あたくしがどんな事態に陥っているかなんて誰も考えてくれやしないんでしょ」
「何か困ってるの?」
ジャンは一切かまわずパン切れにかぶりついていた。
「お金がないんじゃない?」
「それを言うならあたくしよりも国王の方よ」
「だったら千ルイ貸してくれないか。どうしても必要なんだ」とジャンが言った。
「その赤っ鼻を千回はじいてあげるわ」
「じゃあやっぱり国王がショワズールの味方を?」ションがたずねた。
「今さら何を! あの人たちは終身大臣みたいなものじゃないの」
「じゃあ王太子妃に惚れちゃったとか?」
「近いわね、惜しい。ねえ何なのあの人、チョコレートを詰め込むだけで、あたくしを助けるために指一本動かさないじゃない。あなたたちったら、苦しみのあまりあたくしを殺すつもりなの?」
ジャンは文句の嵐には気にも留めずに二つ目のパンに手を伸ばし、バターを挟んで二つ目のカップを注いだ。
「ちょっと、国王が惚れてるっていうの?」ションが声をあげた。
デュ・バリー夫人は「正解」という合図に首を振った。
「王太子妃に?」ションが手を合わせた。「大丈夫よ、近親相姦の気はないだろうし、安心していいわ。ほかの人じゃなくてよかったんじゃない」
「国王が惚れているのが王太子妃でなく、ほかの人だったらどうなるの?」
「ちょっと!」ションが青ざめた。「何言ってるの?」
「ええ、覚悟してね、思っている以上にまずいんだから」
「でもそうだとしたら、あたしたち終わりじゃない! それで苦しんでいたの、ジャンヌ? いったい相手は誰なの?」
「そこのお兄様に聞いてご覧なさい。チョコレートで真っ赤になってお腹をふくらませてるけど。きっと教えてくれると思う。知らないとしても、感づいているだろうから」
ジャンが顔を上げた。
「俺のことか?」
「ええ、そうよ。ムッシュー・仕事熱心の便利屋さん。国王が心を奪われている人の名前を尋いてるの」
ジャンは頬張ったままの口を閉じて何とか飲み下すと、三つの単語を口にした。
「マドモワゼル・ド・タヴェルネ」
「マドモワゼル・ド・タヴェルネ! 大変じゃない!」
「そんなこととっくにわかっているわよ、この人は」伯爵夫人は椅子に身体を預け、天を仰いだ。「わかっていて、食べてるのよね」
「信じられない!」ションもさすがに兄のそばを離れ、伯爵夫人のそばに移った。
「寝惚けてむくんだ目なんかして。引っこ抜いてやらないでいるのが不思議なくらいよ。起きたばっかりの寝起きってどういうことなの?」
「そうじゃない。眠ってないんだ」とジャンが言った。
「じゃあ何をしてたの?」
「夜も朝も駆けまわっていたさ」
「あたくしが言おうとしてたのは……ねえ、もっと役に立ってくれる人はいないの? その子がどうなったか誰も教えてくれないじゃない、いったい何処にいるの?」
「あの娘がか?」
「ええ」
「パリだよ、まったく!」
「パリ?……パリの何処?」
「コック=エロン街」
「誰から聞いたの?」
「乗っていた馬車の御者。厩舎に潜り込んで聞き出した」
「教えてくれたのね?」
「タヴェルネ一家をコック=エロン街の屋敷まで運んで来たところだった。庭園の中にある、アルムノンヴィル・ホテルの隣の屋敷だ」
「まあジャン! これで仲直りね。でも詳しいことが知りたいの。どんな暮らしで、誰と会った? 何をしてる? 手紙は受け取った? すごく大事なことなのよ」
「すぐにわかるさ」
「何でよ?」
「何で? 俺はもう調べたんだ。今度はそっちが調べる番だろう」
「コック=エロン街?」ションが急いでたずねた。
「コック=エロン街だ」ジャンも落ち着いて繰り返した。
「わかった、コック=エロン街ね。部屋を借りなきゃ」
「いい考え!」伯爵夫人が声をあげた。「急がなきゃ、ジャン。家を借りるのよ。そこに誰か張り込ませましょう。そうすれば入ることも出ることも探り回ることも出来るわ。ほら早く、馬車を! コック=エロン街まで」
「駄目だな。コック=エロン街には借りられるような部屋はない」
「何で知ってるの?」
「確認したからに決まってるだろう! だがほかのところになら……」
「何処? 教えて」
「プラトリエール街」
「何それ、プラトリエール街?」
「プラトリエール街のことか?」
「ええ」
「裏手がコック=エロン街の庭に面している通りだよ」
「それじゃあ急ぎましょう! プラトリエール街の部屋を借りなきゃ」
「もう借りてある」
「何て人なの、ジャン! こっち来て、口づけして頂戴」
ジャンは口をぬぐってデュ・バリー夫人の両頬に口づけした。それからたった今賜った名誉に答えて深々とお辞儀をした。
「ついてたよ!」
「誰にも見つかってないでしょうね?」
「プラトリエール街で誰に会うっていうんだ?」
「それで借りたのは……?」
「しょぼくれた家の小部屋だ」
「誰が使うのか聞かれたでしょう?」
「まあな」
「何て答えたの?」
「若い未亡人さ。そうだよな、ション?」
「そうね」
「凄い! じゃあその部屋に張り込むのはションなのね。ションが見張ってくれるんだ。さあ一刻も無駄には出来ない」
「それじゃあすぐに出かけるわ。馬を! 馬を!」ションが声を出した。
「馬を!」デュ・バリー夫人が眠りの森の美女の宮殿の目も覚ましてしまいそうな勢いでベルを鳴らした。
ジャンと伯爵夫人にはアンドレのことをどう考えるべきかわかっていた。
アンドレは一目だけで国王の目に留まった。つまりアンドレは危険だ。
馬が繋がれる間、伯爵夫人はしゃべっていた。「あの子が本当に田舎娘なら、うぶな恋人もパリまで連れて来てるはずよ。その恋人を見つけて、さっさと結婚させちゃいましょう! 田舎者同士が結婚しちゃえば国王の熱も冷めるでしょう」
「むしろ逆だな」ジャンが言った。「怪しいもんだ。若い花嫁が愛情深い陛下の大好物だってことは、誰よりも知っているだろう。だが恋人のいる未婚娘なら陛下ももっと困るだろうな。馬車の用意が出来たらしい」
ションが立ち上がり、ジャンの手を握り、伯爵夫人に口づけをした。
「どうしてジャンは一緒に行かないの?」伯爵夫人がたずねた。
「どうしてってことはない。こっちはこっちで行く。プラトリエール街で待っていてくれ、ション。新しい住まいの来客第一号は俺だろうな」
ションが出て行くと、ジャンは卓子に戻って三杯目のチョコレートを飲み干した。
ションはまず自宅に戻り、
五階には子爵が運よく手配できた部屋がある。
三階の踊り場まで来たところでションが振り向いた。誰かが後からついて来ている。
二階に住んでいる所有者の老婦人が、物音を聞いて顔を出し、若く綺麗な女性が二人も入って来たのを見て驚いていた。
顔をしかめて笑顔の二人を見上げている。
「ちょいと奥さまがた、何をしにいらしたんです?」
「兄がこちらを借りたはずなんですが」ションが未亡人ふうを装って答えた。「ご存じありませんか? 家を間違えてしまったのかしら」
「いえいえ、五階で間違いありませんよ。お可哀相に、その年で未亡人だなんて!」
「ひどいわよね!」ションは天を仰いだ。
「でもプラトリエール街なら元気になれますよ。いい通りですからね。静かですし、お部屋は庭に面してますし」
「そういう部屋が欲しかったんです」
「でも廊下に出れば、行列が通ったり犬が芸をするのも見えますしね」
「まあ、きっと心が安まるでしょうね」ションは息を吐いて階段の続きを上った。
ションが五階にたどり着いて扉を閉めるまで、老婦人はじっと見つめていた。
「正直そうな人だね」
扉を閉めるやいなや、ションは庭に面した窓に駆け寄った。
ジャンは間違っていなかった。窓のほぼ真下に、御者の言っていた館がある。
やがて疑いは完全に吹き飛んだ。若い娘が刺繍を手に窓辺に腰かけた。それがアンドレだった。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LXI「Les renseignements」の全訳です。
Ver.1 10/07/31
[訳者あとがき]
・07/31 ▼次回は08/14(土)更新予定。
▼*1. []。[↑]