この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第六十二章 プラトリエール街の部屋

 偽の未亡人ションがしばらくアンドレを見張っていると、ジャン子爵が書生のようにどたどたと階段を上って戸口に現れた。

「どうだ?」

「あなたは? こっちはびっくりよ」

「どういうことだ?」

「ここにいればすっかり見届けられるってこと。声が聞こえないのは残念だけど」

「ふん、注文が多いな。それより新情報だ」

「何?」

「凄い!」

「で?」

「恐ろしい!」

「大声で殺す気?」

「哲学者は……」

「今度は何? 哲学者?」

「『学者というものはどんなことが起こってもそれに応ずるだけの準備ができている』と言っているが、さすがの俺もこんな準備はできていなかった」[*1]

「お願いだからちゃんと話してよ。この子のせい? それなら隣の部屋に行ってもらえる、シルヴィー?」

「その必要はない、むしろ大歓迎だ。ここにおいで、シルヴィー」

 子爵に指で顎を撫でられた時には、シルヴィー嬢は眉をひそめていた。これから語られる話はどうせ聞けないだろうと察していたからだ。

「この子はここにいさせるから、早く話して」

「そもそも俺は話をするためにここに来たんだ」

「何も言わないのなら……口を閉じて、見張りを続けさせて。その方がよっぽどまし」

「まあ落ち着こうや。さっき言ったように、水飲み場を通りかかったんだが」

「そんなこと一言も言わなかったけどね」

「ああ、邪魔したいのか?」

「まさか」

「水飲み場の前を通り過ぎて、このひどい部屋にちっとはましな家具でも買おうとしていたんだが、その時、水がはねて腕にかかったんだ」

「面白いお話ですこと」

「慌てるな。俺が見たのは……目にしたのは……当ててみろよ……まず当たらんだろうな」

「だったら続けてよ」

「水飲み場の栓にパンを詰めている奴がいたんだ。そのせいで水が滲み出てはねていたって訳だ」

「面白すぎてびっくりするわ」ションは肩をすくめてみせた。

「まあ聞け。水がかかって俺が怒鳴り散らしたもんだから、パンを浸していた奴が振り返った。そいつは……」

「誰だったの?」

「哲学者だった。もとい我らが哲学者殿だ」

「それってジルベール?」

「ご本人様だ。帽子もかぶらず、上着の前も留めず、靴下を引きずり、靴には留め金もなく、早い話がだらしない恰好だった」

「ジルベール!……何か言ってた?」

「お互い気づいたんで、俺が前に出たところ、あいつは後ずさりやがった。俺が腕を伸ばすとあいつは足を踏み出し、馬車と水運び屋の間を猟犬のように逃げ出しちまった」

「見失っちゃったの?」

「だろうさ! 俺も一緒になって駆け出したとは思わないだろう?」

「まあそうね。そんなことするわけないし。でもそうか、見失っちゃったんだ」

「残念ですね!」シルヴィー嬢から溜息が洩れた。

「まったくだ。奴にはたっぷりお仕置きしてやらなきゃならん。首根っこを引っつかまえていれば、目にもの見せてくれたんだが。だが向こうもそれはわかっていたんだろうな、とっとと逃げ出しちまった。だがまあいいさ、パリにいることはわかったんだ。警察と仲良くさえしてれば、パリってところは、人を見つけるのは簡単な町だ」

「早く見つけなきゃ」

「見つけたら飯は抜きだな」

「閉じ込めておきましょう」とシルヴィー嬢が言った。「ただし今度は絶対間違いのないところにしなくては」

「その間違いのないところには、シルヴィーがパンと水を運んでくれるんだろうな?」

「笑い事じゃないでしょ」ションがたしなめた。「あの子は宿場馬の件を目撃しているんだから。あなたに対して含むところがあるのなら、びくびくしてても不思議じゃないわ」

「ここの階段を上っている最中も考えていたんだ。ド・サルチーヌ殿に会いに行って、見つけたことを伝えようと思っている。帽子をかぶらず、靴下を引きずり、靴紐も結ばず、パンを水で浸しているようなだらしない恰好で目撃されたのであれば、その人物は近くに住んでいる、だから必ず見つけ出すと言ってくれそうな気がするんだ」

「お金もないのにこんなところで何してるっていうの?」

「お使いだろう」

「まさか! あの自尊心の強い哲学かぶれが? ないない!」

「古いパンの皮を犬に分けてくれるような、信心深いお婆さんか親戚の人でも見つけたのではないでしょうか?」シルヴィーが言った。

「取りあえずその話は終わり! シルヴィーはこの箪笥に下着を仕舞って。お兄さん、あなたは見張り場所に!」

 二人は用心深く窓に近づいた。

 アンドレは刺繍を止めて、肘掛椅子の上で足を伸ばしてくつろいだ姿勢を取ると、傍らの椅子に置かれた本に手を伸ばした。本を開いて読み始めたが、読み始めるとぴくりともしなくなったところを見ると、刺繍よりも熱中しているようだ。

「勉強好きだこと!」ションが口を開いた。「何を読んでいるのかしら?」

「必需品」子爵はポケットから出した遠眼鏡を伸ばしてアンドレに向け、窓の角に押し当てて固定させた。

 ションはじりじりしながらその様子を見ていた。

「ねえ、どうなの? 本当に綺麗なの?」

「見事だ、完璧だ。あの腕、あの手! あの瞳! 聖アントニウスも惑わされて地獄に落とされそうな口唇。あの足! 天使の足だ! それにあのくるぶし……絹靴下を履いたあのくるぶし!」

「だったらいっそ好きになっちゃえば。ひどいことになりそうね」ションがちくりと言った。

「ふん、そうか?……それほど悪い状況でもないだろうさ、向こうも俺を好きになるかもしれん。そうすりゃ、伯爵夫人も安心だろうよ」

「その遠眼鏡を寄こしてよ、よければおしゃべりはお終い……あら、ほんと綺麗ね、恋人がいないわけないわ……あら読書してるわけじゃないみたいよ……本が手から……離れて……落ちた、ほら……読書中ってわけじゃないって言ったでしょ、考え事してるのね」

「眠ってるんじゃないのか」

「目は開いてるもの。本当に綺麗な目ね!」

「どのみち恋人がいるのなら、ここからそいつを見物できるだろうぜ」

「そうね、昼間だったら。でも夜中にやって来たら……?」

「そうか! うっかりしていた。真っ先に思いついていなけりゃならんのに……俺もお人好しだってことだ」

「ええ、検事みたいなお人好し」

「ふん! こうして気づいたからには、そのうち何か思いつくだろう」

「でもこの遠眼鏡は凄いわね! 本が読めちゃいそう」

「読んで題名を教えてくれよ。そこから何かわかるかもしれん」

 ションは興味を惹かれて前に乗り出したが、途中で慌てて身体を引っ込めた。

「どうしたんだ?」子爵がたずねた。

 ションが子爵の腕をつかむ。

「ようく見て頂戴。あの天窓から身体を突き出している人。左よ。気づかれないようにしてね!」

「ひゅう!」デュ・バリー子爵は沈んだ声をあげた。「パンを浸していたお坊っちゃまか、何てこった!」

「飛び降りる気じゃない」

「そうじゃない。軒にしがみついている」

「でも何をあんなに夢中になって見ているのかしら?」

「見張りかな」

 子爵が額をぺんと叩いた。

「わかった」

「何?」

「あの娘を見張ってるんだ!」

「マドモワゼル・ド・タヴェルネ?」

「ああ、あれが屋根裏の恋人ってわけだ! 娘がパリに来たんで後を追って来た。コック=エロン街に泊まったんで、俺たちから逃げてプラトリエール街にしけ込んだ。男は女を見つめ、女は物思いに耽っている」

「十中八九正解ね。よそ見をしないあの目つき、あの目の中の鉛色の光を見てよ。あれぞ恋に狂った恋人だわ」

「よし、もうわざわざ彼女を見張る必要はないな、彼氏が代わりにやってくれる」

「自分のために、ね」

「いいや、俺たちのためさ。じゃあちょっといいか、サルチーヌのところに行って来る。運が巡って来たぞ。だが気をつけろ、ション。哲学者殿に気づかれるなよ。逃げ足は知っているだろう」


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LXII「L'appartement de la rue Plâtrière」の全訳です。


Ver.1 10/08/14
 


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[訳者あとがき]

 ・08/14 ▼次回は08/28(土)更新予定。

[註釈]

*1. [学者というものは……]。モリエール『女学者(学者きどりの女たち)』(Molière,Les Femmes savantes)第五幕第一場より。「À tous événements le sage est préparé(À tout événement le sage est préparé)」。[]

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