国王ルイ十五世はそれほど落ち着いた人物ではなかったので、毎日欠かさず政治を話をするわけにはいかなかった。
国王にとって政治の話はひどく退屈だったので、機嫌の悪い日には、その話題と共にだんまりを決め込んだ。
「ふん! 機械も余も飽きもせず毎日よう働いているな!」
機会さえあれば周りもそれに乗じていたが、機嫌のいいときには主導権を奪われていた国王も、その主導権を取り戻さないことは滅多になかった。
デュ・バリー夫人は国王のことならよくわかっていたので、海を知り尽くした漁師のように、荒れ模様の日には決して船を出そうとはしなかった。
というわけでこのたび国王がリュシエンヌに会いに来たのは、これ以上ないほど機嫌のいい時であった。前日に間違いをしでかしてしまったので、文句を言われることは承知していた。この日の国王は絶好の獲物であった。
しかしながら、無邪気に待ち伏せされている獲物でも、本能的に危険を察知するものだ。だが狩人の方にそれをねじ伏せるだけの腕があれば、この本能も裏をかかれる。
国王を罠に掛けたがっている伯爵夫人が、如何にして獲物を捕らえたかをお見せしよう。
既にお伝えしたと記憶しているが、伯爵夫人はブーシェが羊飼いに着せたような色っぽい部屋着を纏っていた。
ただしこちらには頬紅がない。ルイ十五世は頬紅が大嫌いだった。
国王陛下の来臨が知らされると、伯爵夫人は頬紅壺に飛びつき、懸命に頬にこすりつけ出した。
国王が控えの間からこれを見つけた。
「何とまあ、化粧をしているな!」と言いながら部屋に入って来た。
「まあ、ようこそ、陛下」国王から首筋に口づけをされても、伯爵夫人は鏡の前から動かずに手を動かし続けた。
「別の人を待っていたのかな?」
「どうしてそう思いますの、陛下?」
「そうでなければ、どうして顔を塗りたくっているのかね?」
「ところが陛下、それどころか、陛下にお目に掛からずに今日一日が終わることはないと信じておりました」
「そなたも言いますね!」
「そうお思いですか?」
「うむ、真剣な顔をして。音楽を聴いている時のリシュリューと同じだ」
「そうなんです、真剣にお話しすることがありますの」
「ああ結構。わかっておる」
「そうですか?」
「文句があるのでしょう!」
「あたくしに? まさか……どうしてですの?」
「昨日、会いに来なかったからです」
「まあ陛下! あたくしに陛下を独り占めする権利があるとは思いませんでしょう」
「ジャネット、怒らんでくれ」
「怒ってなどいませんわ」
「はっきり言おう、そなたのことを思わぬ時などないのだ」
「そうですか!」
「昨夜は永遠のように感じられたよ」
「陛下、繰り返しますが、あたくしはそんなこと申しておりません。陛下が何処で楽しく夜をお過ごしになりましたって、誰も気にはしませんわ」
「家族で過ごしておったのだ」
「そんなことをたずねているわけでもありませんわ」
「どういうことです?」
「あたくしから申し上げるのは失礼ですもの」
「はてさて! そのことに怒っているのでないとしたら、いったい何に怒っておいでです? 腹を割って話しませんか」
「怒ってなどおりません」
「だが気に食わないことがあるのでしょう……」
「気に食わないことがあるのは確かです」
「何が気に入らないのだ?」
「代役であることがです」
「あなたが?」
「あたくしが、です! デュ・バリー伯爵夫人、
「しかし、何の代役なのです?」
「マダム・ド・ショワズールとマダム・ド・グラモンが陛下を必要としなくなった時の、恋人役です」
「伯爵夫人……」
「残念ですけれど、洗いざらい申し上げますわ。ド・グラモン夫人が陛下の寝室の入口でよく陛下を待ち受けていることは誰でも知っております。あたくしは高貴な公爵夫人とは正反対。きっと出口で待ち詫びていても、捕まるのはショワズール殿かグラモン夫人……残念ですけれど!」
「伯爵夫人!」
「何ですの! あたくしなんてどうせ身分の低い女。ブレーズのお妾、ラ・ベル・ブルボネーズですもの」
「伯爵夫人、ショワズール兄妹は仕返しするつもりなんです」
「構いません、あたくしのやったことに仕返しされるんですから」
「そなたにひどい言葉をぶつけるだろう」
「その通りでしょうね」
「ああ!」
「一ついい案があって、実行しようと思ってますの」
「それは……?」国王は不安そうにたずねた。
「呆れるくらい簡単なことですわ」
国王は肩をすくめた。
「信じてらっしゃいませんのね?」
「当然だ」
「難しく考えることはありません。あたくしのことをほかの方々と一緒くたになさってるんですわ」
「そうかな?」
「そうですとも。ド・シャトールー夫人は女神になりたがりました。ド・ポンパドゥール夫人は女王になりたがりました。ほかの方々は富を、権力を求め、寵愛の重さで貴婦人たちを貶めようとしました。でもあたくしにはそんな欠点はありませんわ」
「その通りだ」
「それどころか、美点ばかりです」
「それもまた確かなことだ」
「思ってもいないことを仰るのね」
「伯爵夫人! 余ほどそなたのことを評価している者はおりませんよ」
「そういうことにしておきますわ。これから申し上げることを聞いてもお気持ちを曲げないで下さいましね」
「どうぞ仰いなさい」
「第一に、あたくしには財産がありますし、誰かを必要ともしていません」
「それを残念に思わせたいのかな」
「第二に、ご婦人たちを満足させるような自惚れも持ち合わせてはいませんし、叶わぬ願いに焦がれてもおりません。何よりもまず、恋人のことをいつも愛していたいんです。恋人がマスケット銃兵であろうと、国王であろうと。愛がなくなればその日から、どんなものにも愛情を覚えることはないでしょう」
「それでも余に愛情を覚えていて欲しいものだ」
「話はまだ終わってはいませんわ」
「続きを聞こう」
「陛下に申し上げなくてはなりませんけれど、あたくしは若く可愛く、後十年は美しさを保てますし、陛下の寵姫ではなくなった日からは、世界一幸せな女であるだけでなく、世界一名誉な女になると思いますの。お笑いになるのね。陛下が考えてもいないことを申し上げなくてはならないのは残念ですわ。陛下にはほかにも寵姫がいらしたけれど、何人も寵姫を持ったせいで国民の怒りを買い、みんな捨ててしまわれたでしょ。陛下は国民から祝福されましたけれど、以前のように卑しい身分に戻った寵姫は国民から恨まれました。でもあたくしは、陛下からお払い箱にされるのを待つつもりはありませんの。自分から辞めて、辞めたことをみんなに報せるつもりです。貧しい人々に十万リーヴル与えて、修道院で一週間過ごして懺悔するつもりです。ひと月もしないうちに、あたくしの肖像画がマグダラのマリアと対になって教会中に飾られることになるでしょう」
「まさか伯爵夫人、真面目な話ではありますまいね」
「ご覧下されば真面目かどうかわかりますでしょう。これまでの人生でこれほど真面目だったことなどありません」
「そなたがこんなけちくさいことを、ジャンヌ? 腹をくくれと申しておるのか?」
「違いますわ。腹をおくくりになるよう迫るのでしたら、ただ『どちらかお選びになって下さい』と申し上げるだけですもの」
「だが?……」
「でもあたくしはこう申し上げるだけです。『お元気で、陛下!』と」
国王は青ざめたが、今度は腹を立てていた。
「失念しているのなら、お気をつけなさい……」
「何ですの?」
「バスチーユに入れることも出来るのですぞ」
「あたくしを?」
「さよう、そなたを、バスチーユに。修道院の何倍も気の滅入る場所です」
「どうか陛下!」と伯爵夫人は手を合わせた。「寛大なおはからいをして下さいましたら……」
「寛大とは何のことです?」
「あたくしをバスチーユに入れて下さることです」
「何だと!」
「あたくしはそれで満足できます」
「まことか?」
「もちろんです。ド・ラ・シャロテやド・ヴォルテールのようにみんなから親しまれることに、あたくし密かに憧れているんですもの。そうなると足りないのはバスチーユじゃありません? ちょこっとバスチーユに行くだけで、あたくしは世界一幸せな女なんです。あたくしや貴族や王女殿下や陛下ご自身について回想録を書くのにちょうどいい機会ですし、最愛王ルイの素晴らしい点を遠い子孫に伝えることにもなりますもの。封印状をご用意下さいましな、陛下。ペンとインクはこちらにございます」
伯爵夫人は丸テーブルの上に置いてあったペンとインク壺を国王の方に押しやった。
挑まれた国王の方は、しばし考え込んでから、立ち上がった。
「いいでしょう、さようなら、マダム」
「馬を!」伯爵夫人が声をあげた。「さようなら、陛下」
国王が扉に向かった。
「ション!」と伯爵夫人が呼んだ。
ションが現れた。
「鞄と使用人と駅馬車を。急いで」
「駅馬車! 何があったの?」ションは唖然としている。
「急いで出かけないと、バスチーユに入れられちゃうの。時間がないわ。急いで、ション、早く」
この非難にルイ十五世は心を打たれた。伯爵夫人のところに戻ると手を握った。
「伯爵夫人、きつい言い方を許して下さい」
「実を言いますと、陛下が絞首台をちらつかせて脅さなかったことに驚いておりますの」
「何を馬鹿なことを!」
「違いまして?……盗人は吊されるんじゃありませんでした?」
「盗人?」
「グラモン夫人の地位を盗もうとしているんですもの」
「伯爵夫人!」
「それがあたくしの罪ですわ」
「いいかね、ずるはなしだ。余を怒らせないでくれ」
「では?」
国王は両手を伸ばした。
「二人とも間違っていた。さあ、余も許すからそなたも許してくれ」
「本気で和解をお求めですの?」
「誓って本気だ」
「退っていいわ、ション」
「何の指示も出さなくていいのね?」
「逆よ、さっきの指示をすべて出しておいて」
「伯爵夫人……」
「でも次の命令を待たせておいて」
「了解!」
ションが立ち去った。
「ではあたくしをお望みですのね?」伯爵夫人が国王にたずねた。
「ほかの何よりも」
「ご自身のお言葉をようくお考えなさいませ」
国王は考えはしたものの、後には引けなかった。それに、勝利を手にした夫人が何処まで要求するのかを確かめたかった。
「お話しなさい」
「今すぐ申し上げます。お気をつけ遊ばせ、陛下!……あたくしは何もお願いせずにに出て行くところだったんですから」
「よくわかっておる」
「でも出て行かないとなったら、お願いがありますの」
「何だね? それが知りたい」
「陛下はようくご存じですわ」
「知らぬ」
「知ってるくせに。だって嫌な顔をなさってますもの」
「ショワズールの更迭か?」
「大正解」
「無理だ、伯爵夫人」
「では馬を……」
「いやはや、頑固な方だ……」
「あたくしをバスチーユ送りにする封印状に署名なさるか、大臣罷免の封印状に署名なさるか、どちらかです」
「間を取ればよい」
「お気遣いありがとうございました。どうやら心おきなく出て行けますわ」
「伯爵夫人、そなたは女だ」
「ありがたいことです」
「気の強い女がへそを曲げたように政治を語るでない。余にはショワズールを罷免する理由がない」
「ちゃんとわかってましてよ、高等法院の先頭に立って、叛乱を支えていることくらい」
「言い訳を用意しておろう」
「言い訳というのは弱者の理屈です」
「伯爵夫人、ショワズール殿は正直な人間だし、正直な人間など滅多にいないのだ」
「正直者が陛下を黒服に売り、そうして王国の金を貪られるのですか」
「極論を申すな」
「控えめに申したのです」
「何ともはや!」ルイ十五世は口惜しがった。
「でもあたくしも馬鹿ですわね。高等法院やショワズールや政府なんてあたくしには縁のない話ですし、陛下や代わりの愛人なんてあたくしには縁のない話ですのに」
「またか!」
「変わるわけがございません」
「伯爵夫人、二時間考えさせてくれ」
「十分です。あたくしは部屋におりますので、お返事を扉の下から差し込んで下さいまし。紙はそこに、ペンはそこに、インクはそこにございます。十分してお返事がない場合や、満足できるお返事のなかった場合は、お別れです、陛下! あたくしのことはご心配なさらずに、すぐに出て行きますから。さもなければ……」
「何だね?」
「差し釘を引けば、閂が落ちますわ」[*1]
内心の動揺を抑えようとしたルイ十五世から、その手に口づけをされた伯爵夫人は、退き際に矢を放つパルティア人の如く、去り際に挑発的な笑顔を残して出て行った。
国王は敢えて止めようともせず、伯爵夫人は隣室に姿を消した。
五分後、折り畳まれた紙が、絹の扉留めと絨毯の毛足の隙間に差し込まれた。
伯爵夫人はその内容をひと息に読むと、ド・リシュリュー氏宛てに何事かを急いで書きつけた。リシュリューは長いこと突っ立っているのを人に見られることを恐れて、庇下沿いに庭を歩き回っていた。
元帥は紙を広げて読むと、七十五歳とは思えぬ駆け足で中庭の四輪馬車までたどり着いた。
「ヴェルサイユだ、大急ぎで!」
窓からリシュリュー氏に落とされた紙にはこんなことが書かれたいた。
――あたくしは木を揺らし、大臣は落ちました。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LXXVIII「Le pis-aller de Sa Majesté Louis XV」の全訳です。
Ver.1 10/12/04
[註釈・メモなど]
・註釈
▼*1. [差し釘を引けば……]。ペロー「赤頭巾」より。元々はお婆さんに扮した狼が赤頭巾に言うセリフ「Tire la chevillette et la bobinette cherra.」。自分はベッドから出られないから、勝手にドアを開けて入っておいで、という場面で口にされる。ここではデュ・バリー夫人がルイ十五世に向かって、ドアを開けて出て行けばいいと駆け引きしている。なお、デュマの原文では「閂を回せば差し釘が落ちる」と逆に記されている。[↑]