重々しい沈黙を破って、バルサモがフランス語でたずねた。
「何処にいる?」
「ここに」澄んだ声がカーテンの向こうから飛んで来た。伯爵夫人たちの耳にはその響きが人間の声というよりは金属的な響きに感じられた。
「ほほう! これは面白くなって来たわい。松明も魔法もベンガル花火もなしか」
「怖いわ!」伯爵夫人が囁いた。
「俺の質問をよく聞くんだ」バルサモが続けた。
「全身全霊を傾けてお聞きします」
「では初めに聞こう。今ここには俺のほかに何人いる?」
「二人」
「性別は?」
「男と女」
「俺の頭の中を読むんだ。男の名前は?」
「ド・リシュリュー公爵閣下」
「女の名前は?」
「デュ・バリー伯爵夫人」
「ほほう、これはたいしたものだ!」公爵が呟いた。
「と言うより」伯爵夫人は震えていた。「こんなの見たことがありません」
「よし。では俺が持っている手紙の一行目を読むんだ」
声がバルサモの命令に従った。
伯爵夫人と公爵は見つめ合った。驚きは感嘆に変わろうとしていた。
「おまえが読み上げ俺が書き取った手紙はどうなった?」
「移動中です」
「何処に向かって?」
「西に向かっています」
「遠いか?」
「はい、とてもとても遠くです」
「運んでいるのは?」
「緑の服を着た男です。革製の縁なし帽をかぶり、大きな長靴を履いています」
「徒歩か馬か?」
「馬に乗っています」
「どんな馬だ?」
「斑毛です」
「何処にいるかわかるか?」
沈黙が訪れた。
「見るんだ」バルサモが威圧的な声を出した。
「木々の植わった大きな道です」
「何処の道かと尋いているんだ」
「わかりません。道はどれも同じに見えます」
「何だと! 目印は何もないのか? 道標も標識も何一つ?」
「待って下さい。馬車とすれ違いました。馬車はこちらに向かって来ます」
「どんな馬車だ」
「大きな馬車に、司祭や軍人がたくさん乗っています」
「
「その馬車には表札もついていないのか?」バルサモがたずねた。
「ついてます」声が答えた。
「読むんだ」
「消えかけた黄色い文字で『ヴェルサイユ』と書かれてあるのが見えます」
「馬車から離れて伝令を追え」
「もう見えません」
「何故だ?」
「道を曲がりました」
「だったら道を曲がって追いつくんだ」
「全速力で馬を走らせています。時計を確認しました」
「馬の前には何が見える?」
「長い大通り、立派な建物、大きな町です」
「そのまま追いかけろ」
「追いかけています」
「どうだ?」
「伝令がさらに馬に拍車を掛けています。馬は汗びっしょりです。脚を運ぶたびに舗道で蹄鉄が音を立てています。あっ! 下り坂の長い通りに入りました。右に曲がります。速度を落としました。大きな家の前で停まりました」
「ここからは慎重に追いかけなくてはならないぞ、わかるな?」
声が溜息をついた。
「疲れたんだな。わかるぞ」
「くたくたです」
「疲れよ去れ、命令だ」
「ああ!」
「どうだ?」
「ありがとうございます」
「まだ疲れているか?」
「いいえ」
「まだ伝令が見えるか?」
「待って下さい……はい見えます、石段を上っています。青と金のお仕着せを着た使用人に案内されています。金ぴかの応接室を通り抜け、豪華な書斎に着きました。従僕が扉を開けて退がりました」
「何が見える?」
「伝令が挨拶しています」
「相手は誰だ?」
「待って下さい……書き物机に坐って、扉に背を向けています」
「どんな恰好をしている?」
「舞踏会に向かうような隙のない恰好をしています」
「勲章はつけているか?」
「青い大綬を胸から提げています」
「顔は?」
「見えません……あっ!」
「どうした?」
「振り返りました」
「どんな顔をしている?」
「鋭い目つき、不細工な顔立ち、綺麗な歯」
「幾つくらいだ?」
「五十から五十八です」
「公爵だわ!」伯爵夫人が元帥に囁いた。「ショワズール公です」
元帥も同意の印にうなずいた。――さようですな、だがまずは拝聴しましょう……。
「どうなった?」バルサモがたずねた。
「伝令が青綬の男に手紙を渡しました……」
「公爵と呼んでいい。それは公爵だ」
声は言う通りにした。「伝令は背負っていた革袋から手紙を取り出し、公爵に手渡しました。公爵が手紙を開封して注意深く読んでいます」
「それから?」
「ペンと紙を取って何か書いています」
「何と!」リシュリューが呟いた。「何を書いているのかわかればよいのだが」
「何を書いているのか教えるんだ」バルサモが命じた。
「出来ません」
「遠過ぎるからだ。書斎に入れ。入ったか?」
「はい」
「肩越しに覗き込め」
「そうしてます」
「今度は読めるな?」
「文字が汚く、小さくて細かいです」
「読め、命令だ」
伯爵夫人とリシュリューは息を殺した。
「読め」バルサモはさらに強い口調で繰り返した。
「『妹よ』」声は躊躇いがちに震えていた。
「返信だ」リシュリュー公爵と伯爵夫人は同時に呟いた。
「『妹よ。落ち着いてくれ。災難は起こった。それは本当のことだ。際どかったのも本当だ。だがもう済んだことだ。明日が待ち遠しい。明日になれば攻撃するのは私の番だ。どう見ても成功は間違いない。ルーアン高等法院にとっても、X閣下にとっても、騒動にとっても申し分ない。
明日、国王との仕事を終えた後で、追伸を書き加え、同じ伝令を使って届けることにする。』」
バルサモは言葉をつかもうとでもするように左手を伸ばし、書斎でド・ショワズール氏がヴェルサイユ宛てに書いている手紙の内容を右手で書き留めていた。
「これで全部か?」バルサモがたずねた。
「全部です」
「公爵は今何をしている?」
「手紙を二つに折り、さらに二つに折って、服の左から取り出した赤い書類入れに仕舞いました」
「お聞きになりましたか?」バルサモは呆然としている伯爵夫人にたずねた。「それからどうした?」
「それから、伝令に何か言って帰しました」
「何と言ったんだ?」
「最後しか聞き取れませんでした」
「それは……?」
「『一時に、トリアノンの門のところで』。伝令はお辞儀をして立ち去りました」
「なるほど。手紙に書いた通り、仕事の後で伝令に会う約束をしたんですな」とリシュリューが評した。
バルサモが静かにするよう合図した。
「今は公爵は何をしている?」
「立ち上がっています。届けられた手紙を持っています。真っ直ぐ寝台に向かい、壁の隙間に入り、バネを押して鉄の小箱を開きました。そこに手紙を放ると元通り蓋を閉めました。
「凄い!」公爵と伯爵夫人は二人とも青ざめていた。「まさしく魔法だ」
「知りたいことはすべてお知りになりましたね、伯爵夫人?」バルサモがたずねた。
「伯爵殿」デュ・バリー夫人は恐々とバルサモに近づいた。「あたくしが十年かけなければ出来なかったことを、いえ、幾らかけても決して出来そうにないことをして下さいましたわ。何なりと望みを仰って下さい」
「おや、お約束は既に交わしていたはずでしたが」
「どうか望みを仰って下さいまし」
「機が熟しておりません」
「ではその時が来れば、たとい百万フランでも……」
バルサモが微笑んだ。
「いやいや伯爵夫人! 伯爵に百万フランお願いするのはむしろあなたの方ですぞ」元帥が声をかけた。「何を知っているかを知っていて、何を理解しているかを理解している人物です。人の心の内の思いを見つけ出したように、地面の中の金やダイヤモンドも見つけ出せるのではありませんかな?」
「でしたら、あたくしとしては黙って頭を垂れるしかありませんわ」
「いえ、いつかはお礼をしていただきますよ。その時はお願いいたします」
「伯爵殿、わしの負けです、降参です、シャッポを脱ぎましょう! 今は信じておりますぞ」
「聖トマスのように、でしょう? それは信じているとは申しません、理解したと申すのですよ」
「お好きなようにお呼び下され。しかしわしは謝らなくてはなりませんな。それに、これからは魔術師の話が出ても、答えに窮さずに済む」
バルサモが微笑んだ。
「ところで伯爵夫人、一つ構いませんか?」
「どうぞ」
「私の精霊は疲れております。呪文を唱えて自由にしてやりたいのですが」
「どうぞなさって下さい」
「ロレンツァ」バルサモはアラビア語で話しかけた。「ご苦労だった。愛してるぞ。来た道を通って部屋に戻り、俺を待っていろ。行け、愛してるぞ!」
「へとへとです」イタリア語の声は、招魂の最中よりもぐっと甘かった。「早く来て、アシャラ」
「すぐに行く」
すると、先ほどと同じく擦るような足音が遠ざかってゆくのが聞こえた。
数分後、ロレンツァが立ち去ったことを確認すると、バルサモは二人の訪問者に向かって深々とではあるが威厳たっぷりにお辞儀をした。様々な思いに押し寄せられて心を囚われ呆然としていた二人は辻馬車に戻ったが、その姿は理性的な人間ではなくむしろ酔っぱらいのように見えた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LXXXV「La voix」の全訳です。
Ver.1 11/01/29
[註釈・メモなど]
・註釈
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