この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第八十六章 失脚

 その翌日、ヴェルサイユの大時計が十一時を報せると、国王ルイ十五世は部屋から出て、寝室の隣の回廊を渡り、乱暴に呼び立てた。

「ド・ラ・ヴリリエール!」[*1]

 国王は青ざめており、どうやら動揺しているようだ。不安を隠そうとすればするほど、目はせわしなくしばたたかれ、普段は無表情な顔の筋肉がぴくぴくと動いている。

 居並んだ廷臣たちの間に冷たい沈黙が落ちていた。その中に混じって、ド・リシュリュー公爵とデュ・バリー子爵が二人揃って平静を装っている。

 ラ・ヴリリエール公爵が現れ、国王の手に封印状を手渡した。

「ド・ショワズール公爵はヴェルサイユにいるのか?」

「はい。昨日、午後二時にパリからお戻りになりました」

「自宅か? 宮殿か?」

「宮殿でございます」

「わかった。この令状を渡してくれ」

 廷臣たちの間にざわめきが走った。嵐に吹かれた穂波のように、頭を垂れて長々と囁き交わしている。

 畏怖を加えてこの場面をいっそう効果的にしようとでもするように、国王は眉を寄せ、衛兵隊長と近衛軽騎兵長を引き連れて部屋に戻った。

 目という目がラ・ヴリリエール氏を追い回したが、追い回されている本人の足取りも不安そうに見え、ゆっくりと中庭を横切ってショワズール氏の部屋に向かった。

 その間も、老元帥の周りではびくびくと怯えたような囀りが起こっていた。元帥自身は誰よりも驚いているふりを装っていたが、その気取った笑みを目にしては誰も騙されたりはしなかった。

 ラ・ヴリリエール氏が戻って来ると、たちまち人の輪が出来た。

「何でした?」

「はい、追放命令でした」

「追放?」

「ええ、正式なものです」

「お読みになったのですか?」

「この目で読みました」

「確かですね?」

「断言いたします」

 そう言ってラ・ヴリリエール公爵は以下の言葉を繰り返した。廷臣たる者、尋常ではない記憶力を持っているものなのである。

「『親愛なる閣下、そなたの仕事ぶりについて意に満たぬ点があったため、シャントルーに追放せざるを得なくなった。今から二十四時間後には向かってくれ。ド・ショワズール夫人に特別な敬意を払っていなければ、さらに遠方になっていたところだが、夫人の健康を考えてのことだ。そなたの振る舞い如何によっては別の態度を取らざるを得ぬ。気をつけてくれ。』」

 ラ・ヴリリエール公爵を取り囲んでいる人の輪に、ざわめきが広がった。

「それでショワズール殿は何と答えられたのですかな、ド・サン=フロランタン殿?」リシュリューはわざわざ新しい肩書きでも新しい名前でもない呼び名でたずねた。

「こうお答えになりました。『ラ・ヴリリエール公爵、この令状を持って来るのが嬉しくてしょうがなかったでしょうね』」

「よく言うぜ、ショワズールも」ジャンが呟いた。

「いけませんか、子爵殿? このように声をあげる間もなく屋根瓦を頭に喰らうことなど誰にもないのですからね」

「どうするつもりなのかおわかりですかな?」リシュリューがたずねた。

「普通に考えれば、従うつもりだと思いますが」

「ふむ!」

「ショワズールだ!」窓のそばで見張っていたジャンが声をあげた。

「こちらにいらっしゃいますね!」ラ・ヴリリエール公爵も続いた。

「そう言ったつもりでしたがね、サン=フロランタンさん」

「中庭を渡っているところだ」ジャンがなおも続けた。

「一人かね?」

「一人きりだ、書類入れを抱えている」

「まさか! 昨日の場面がまたぞろ繰り返されるわけではなかろうな?」リシュリューが呟いた。

「そんな話は御免だな、ぞっとする」

 話は途中だったが、ショワズール公爵が高々と顔を上げ、毅然とした目つきをして、回廊の端に姿を見せた。ショワズールは冷ややかな目つきではっきりと敵たちを、というのはつまり失脚することになれば敵になる者たちを、睨みつけた。

 ああしたことが起こった直後にこうして歩いて来るとは誰一人として予期していなかったので、誰も呼び止めることが出来なかった。

「間違いなく読んだんでしょうね、ラ・ヴリリエール公爵?」ジャンがたずねた。

「馬鹿なことを!」

「ならさっき読み上げたような令状を受け取った後で、また戻って来るとでも?」

「名誉にかけて申し上げますが、私にはもう何もわかりません!」

「だがこのままじゃバスチーユ送りだぞ!」

「そんなことになったら大騒ぎになりますよ!」

「同情せざるを得ないな」

「国王のお部屋にお入りになった。前代未聞だ」

 その言葉通り、ショワズール公爵は呆然とした取次が申し立てる制止を意にも介さず、国王の執務室まで入り込んだ。それを目にした国王は驚いて声をあげた。

 ショワズール公爵は封印状を手にしていた。笑顔といってもいいほどの顔つきをして、国王にそれを差し出した。

「陛下が昨日お知らせ下さいましたように、先ほどこの新しい令状を受け取りました」

「そうだな、公爵」

「そして陛下は昨日ご親切にも、国王の勅語のない令状は深刻に考えずともよいとのお言葉を下さいましたので、こうして釈明を求めにお伺いいたしました」

「話はない。今日の令状には効力があるのだ」

「効力がある? これほどまでに献身的な臣下に対してこれほどまでにぶしつけな令状は……」

「献身的な臣下なら君主に対してふざけた行いなどするまい」

 ショワズールは引かなかった。「私は自分のことを、陛下を理解できるほどには玉座に近い生まれだと自負しております」

「いいかね」国王の返事は簡潔だった。「そなたを苦しませたくないのだ。昨晩そなたはヴェルサイユの自宅に、ド・グラモン夫人からの伝令を迎えたであろう」

「仰る通りです」

「手紙を受け取ったな」

「兄と妹が手紙をやり取りするのがいけないことでございますか?」

「慌てるな……余はその手紙の内容を知っておる……」

「陛下!」

「これだ……余自ら書き写したのだぞ」

 国王はショワズール公爵に、手紙の正確な写しを手渡した。

「陛下……!」

「言い逃れはすまいな。そなたはその手紙を、寝台の脇にある鉄の小箱に詰め込んだであろう」

 ショワズールが亡霊のように青ざめた。

「それだけではなく」国王は容赦なく続けた。「そなたはグラモン夫人に返事を書いたであろう。その手紙の内容もわかっておる。その書類入れの中に入っていることも、後は追伸を待つだけだということも、余と別れた後で書き足すつもりだということもわかっておる。どうだ、余は物知りだとは思わんかね?」

 ショワズール公爵は冷たい汗に濡れた額を拭うと、一言も答えることなく一礼し、ふらつきながら部屋を出た。卒中の発作にでも襲われたかのようだった。

 強い風に顔を打たれていなければ、ばったりとひっくり返っていたかもしれない。

 だがショワズールは強い意思を持っていた。回廊に出る頃には力を取り戻し、居並ぶ廷臣たちを尻目に、顔を上げて部屋に戻り、書類を詰め込んだり、或いは燃やしたりした。

 十五分後、ショワズールは四輪馬車に乗って宮殿を離れた。

 ショワズール氏の失脚はフランスを焼き尽くす落雷であった。

 高等法院はこの大臣のお目こぼしで持続していたようなところがあったので、この国は屋台骨を失ってしまったと主張した。貴族たちは我が身のことのように同情した。聖職者たちはこの人から世話を受けていると感じていた。この人なりの自尊心はしばしば自惚れにまで発展し、政治に宗教色を持ち込むまでになっていたのだ。

 百科全書派や哲学者たちは、教養や智性や弁才のある人々の許に集まっていたので、既に大変な数に上り非常に強い勢力になっていたが、この大臣の手から政権が離れたのを見て悲鳴をあげた。ショワズールはヴォルテールを称揚し、百科全書にお金を出し、実践の場に活用することによって、『メルキュール』誌や哲学の後援者メセナであるド・ポンパドゥール夫人以来の伝統を守っていたのだ。

 庶民たちはそうした不満分子の誰よりも的を射ていた。彼らとて不満は洩らしたが、例によって例の如く、深く考えもせずに掛け値なしの真実である生々しい傷に触れていた。

 ショワズール氏は一般的見地からすれば、いい大臣とは言えぬし、いい市民とも言えなかった。だがこと美徳と道徳と愛国心にかけてはお手本となる人物であった。ある時は田舎で飢えて死にそうになっている人々が、国王の浪費やデュ・バリー夫人の気まぐれな散財の話を聞き、またある時は『四十エキュの男』のような助言や『社会契約論』のような忠告を大っぴらに送られたり、『掌中新報ヌーヴェル・ザ・ラ・マン』や『市民奇想イデ・サンギュリエール・ダン・ボン・シトワヤン』のような暴露をこっそりと送られたりして、またある時には「炭焼きの妻ほど尊敬できない」寵姫の不純な手、即ち寵姫の贔屓の手にまた落ちやしないかと怯え、散々苦労した挙げ句に過去よりも真っ暗な未来を見て驚いていた。[*2]

 庶民たちは嫌悪を抱いていたのであって、ことさらに好感を抱いていたわけではない。庶民たちは高等法院を憎んでいた。本来庇護者であるべき高等法院は庶民のことなど考えもせず、上席権に関する無意味な質疑や己の利益を得ることに汲々としていたからであり、王権の虚像に教化されることもなく、自らを貴族と庶民の間に位置するエリートだと思い込んでいたからである。

 庶民は本能的、経験的に貴族を憎んでいた。教会を憎むのと同じくらい剣を恐れていた。ショワズール氏の解雇に直接的な関わりなど一切ない。だが貴族や聖職者や高等法院の不平は耳に届いていたし、自分たちの囁きにそうした不平の声が加わって轟音となることに酔いしれていた。

 こうした遠回りの感情が生み出す効果から、ショワズール氏の名前にはこれまでありもしなかった未練と人気が備わることになった。

 パリ中、というのが言葉通りの意味であるのはいつでも証明できるのだが、パリ中が、シャントルーに向かう亡命者を門までお供した。

 人々は馬車の通り道に列を成した。招かれなかった高等法院構成員や廷臣たちが、人垣の手前に供回りを陣取らせ、馬車に向かって挨拶をしたり別れの言葉を貰おうとしていた。

 喧噪が最高潮に達したのは、トゥレーヌ路上にあるアンフェール市門でのことだった。人や馬や馬車がひしめいて、何時間にも渡って交通が麻痺した。

 ショワズール公爵は門を通過する時、何台もの馬車が後光のように取り巻いていることに気づいた。

 喝采と溜息がその後を追って来た。こうした騒ぎが起きているのも、本人への未練ではなく破滅を危惧する名もなき不安によるものだということに、智性も判断力も有り余っているショワズールが、気づかぬはずがなかった。

 馬輿が、混み合う路上に全速力で駆けつけた。御者が手を焼くこともなく、埃と泡で白くまみれた馬が、ショワズール氏の馬に向かって突進していた。

 輿から頭が覗くと、ショワズール氏も四輪馬車から頭を出した。

 後任の椅子を狙うデギヨン氏から深々とお辞儀をされると、ショワズール氏は馬車に舞い戻った。ほんの一瞬で、敗北の栄冠も地にまみれていた。

 だが同時に、或いは入れ替わりに、フランス王家の紋章をつけた八頭立ての馬車がセーヴルからサン=クルーに向かう分岐路に姿を見せたが、偶然か、はたまた渋滞のせいか、大通りを突っ切ることなく、こちらもショワズール氏の四輪馬車に横づけにした。

 王太子妃と侍女のド・ノアイユ夫人が後部席に。

 前座席にはアンドレ・ド・タヴェルネ嬢がいた。

 ショワズール氏は喜びと誇りで顔を赤らめ、扉から乗り出して深々とお辞儀をした。

「お別れです、妃殿下」ショワズールは声を詰まらせた。

「またお会いしましょう」王太子妃は悠然と微笑み、威風堂々として答えた。

「ショワズール万歳!」王太子妃の言葉に続いて、熱い叫び声があがった。

 その声を聞いて、アンドレ嬢がさっと振り返った。

「邪魔だ! 邪魔!」と王太子妃の口取りに押し戻されているのは、ジルベールだった。馬車を一目でも見ようと、真っ青になって路上の列に割り込もうとしている。

 間違いない。哲学者としての熱狂に駆られて「ショワズール万歳!」と叫んだのは、我らが主人公であった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LXXXVI「Disgrâce」の全訳です。


Ver.1 11/01/29
Ver.2 12/10/10

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[註釈・メモなど]

 ・メモ。
 ※これまでは基本的に原文通りに訳していたが、この章ではリシュリュー、ラ・ヴリリエール、ショワズールと公爵が三人も出てくるので、混乱を避けるため、原文に「duc」とだけある箇所でも、単に「公爵」とはせずに「ショワズール公爵」「ショワズール」等と言いかえた。
 

[更新履歴]

・12/10/10 「庶民と来たらあれこれ言うことにかけてはどんな当事者にも負けてはいない。よく考えもせずいつものように、大雑把な事実と生々しい傷に触れただけで不満を洩らした。」 → 「庶民たちはそうした不満分子の誰よりも的を射ていた。彼らとて不満は洩らしたが、例によって例の如く、深く考えもせずに掛け値なしの真実である生々しい傷に触れていた。」

・12/10/10 「庶民たちは嫌悪を抱いていたのであって、はっきりと好意を抱いていたわけではない。庶民たちは高等法院を憎んでいた。本来庇護者であるべき高等法院は庶民のことなど考えもせず、上席権に関する無意味な質疑や己の利益を得ることに汲々としていた。王権の虚像に教化されることもなく、自らを貴族と庶民の間に位置するエリートだと思い込んでいた。」 → 「庶民たちは嫌悪を抱いていたのであって、ことさらに好感を抱いていたわけではない。庶民たちは高等法院を憎んでいた。本来庇護者であるべき高等法院は庶民のことなど考えもせず、上席権に関する無意味な質疑や己の利益を得ることに汲々としていたからであり、王権の虚像に教化されることもなく、自らを貴族と庶民の間に位置するエリートだと思い込んでいたからである。」

・12/10/10 「ショワズール氏の解雇に関わりは一切ない。だが貴族や聖職者や高等法院の不平を耳にして、その噂に私見を加えて生まれた轟音に酔いしれていた。」 → 「ショワズール氏の解雇に直接的な関わりなど一切ない。だが貴族や聖職者や高等法院の不平は耳に届いていたし、自分たちの囁きにそうした不平の声が加わって轟音となることに酔いしれていた。」

[註釈]

*1. [ド・ラ・ヴリリエール]。Louis Phélypeaux de Saint-Florentin, duc de La Vrillière。1705-1777。ルイ15世の宮内大臣。[]

*2. [炭焼きの妻ほど]。ルソー『告白』第10巻より。「炭焼きの妻は君主の寵姫より尊敬に値する(la femme d'un charbonnier est plus digne de respect que la maîtresse d'un prince)」。その前の『四十エキュの男(Homme aux quarante écus)』(1768)はヴォルテール作品のタイトル。[]

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