ベアルン夫人はリシュリューの助言をそのまま実行に移した。リシュリューと別れてから二時間半後には、ザモール氏と一緒にリュシエンヌの控えの間で待機していた。
久しく顔を見せていなかったベアルン夫人の名前が告げられると、デュバリー夫人の閨房の中で好奇心が頭をもたげた。[*1]
時間を無駄にしないのはベアルン夫人だけではない。というのもションがベアルン夫人の謁見を取次に来たのは、折りしもデギヨン氏がデュバリー夫人と話し合いを持っている最中だった。
退出しようとしたデギヨン公爵をデュバリー夫人が引き留めた。
「帰らないで下さいましな。あのお婆ちゃんがお金の無心に来たのだとしたら、あなたが居て下さった方が無茶な要求もされないでしょうから」
デギヨン公爵は部屋に残った。
ベアルン夫人がもっともらしい顔をして、デュバリー夫人から勧められた向かいの椅子に坐ると、まずは挨拶が交わされた。
「今日はどういったご用件ですの?」
「それが困ったことになったんですよ!」
「と仰ると?」
「陛下がお悲しみになるような報せで……」
「早く仰って下さいな」
「高等法院が……」
「吽」デギヨン公爵が呻いた。
「こちらデギヨン公爵です」デュバリー夫人は誤解のないよう直ちに紹介した。
だがベアルン夫人もしたたかさにかけては老獪な廷臣に全員まとめて太刀打ちできるほどだった。誤解をする時は意図的に、しかもその方が都合の良い時に限られた。
「存じておりますよ。あの恥知らずの法律屋どもと来たら、勲章にも生まれにもこれっぱかりも敬意を払いやしませんでねえ」
面と向かって言われたこの世辞にデギヨンが恭しいお辞儀で応えたので、ベアルン夫人もお辞儀を返した。
「ですけどね、公爵閣下だけじゃなく、私たち全員の問題ですよ。高等法院が職務を放棄するなんてねえ」
「本当にそうね」デュバリー夫人は長椅子の背に身体を預けた。「フランスから司法が消えてしまうのかしら?……そしたらどうなる?……どんなふうに変わってしまうんでしょう?」
デギヨン公爵が笑みをこぼした――が、ベアルン夫人は面白がるどころかますます顔を曇らせた。
「とんでもない悲劇なんですよ」
「あら、そうなの」
「奥さまは訴訟なんぞ抱えてなくて運が良うござんしたね」
「うほん!」デギヨンが注意を促したので、デュバリー夫人もようやく当てこすりに気づいた。
「そうね、その通りだわ」デュバリー夫人は慌てて答えた。「そういえばあたくしとは違って重大な訴訟を抱えてるんですものね」
「そうなんですよ!……ちょっとでも遅れたら破滅してしまいます」
「お気の毒に!」
「ですからね伯爵夫人、国王に決断していただかなくてはならないんですよ」
「陛下なら間違いなくそうして下さるわ。高等法院の法官たちを追放して、すっかり片付けて下さいますとも」
「でもそれでは無期限に休廷されるのと変わらないじゃありませんか」
「解決策をお持ちですの? だったら教えて下さいな」
ベアルン夫人はちょうどカエサルがトーガに身を隠して息絶えたように、飾り帽を引っ被って顔を隠した。[*2]
「手段がないわけではないが、恐らく陛下は二の足を踏まれるものと」ここでデギヨンが口を挟んだ。
「どんな手段ですか?」ベアルン夫人が恐々とたずねる。
「苦境に立たされたフランス王政の常套手段。親裁座を開いて望みを言えば良いのです。そうすればいくら異論を持つ者がいようと無駄なこと」
「名案じゃございませんか!」ここぞとばかりにベアルン夫人が叫んだ。
「だが他人に知られるわけにもいきません」デギヨンの抜け目ない一言はベアルン夫人にも伝わった。
「ねえデュバリーさん、あなただけなんですよ、陛下にそんなことをさせられるのも、『ベアルン夫人の訴訟を開始せよ』と言わせられるのも。だいたい、ずっと前から決まっていたことなんですからね」
デギヨン氏が口唇を咬んでデュバリー夫人に一礼し、閨房を後にした。たったいま中庭から国王の馬車の音が聞こえて来たのだ。
「国王だわ!」デュバリー夫人は立ち上がってベアルン夫人に退出を促そうとした。
「そんな! 陛下のお足許にひざまずくことも叶わないのですか?」
「親裁座のお願いをなさるつもり? いい考えだと思うわ、そういうことならこのまま此処にいらして」
ベアルン夫人が何とか飾り帽を直し終えたところに、国王が姿を見せた。
「おや、お客さんでしたか……?」
「こちらベアルン夫人です」
「陛下、どうか正義を!」老婦人が深々とお辞儀をして訴えた。
「おやおや!」ルイ十五世は親しくない者にはわからぬほどの嘲りを浮かべた。「どなたかから侮辱でもされたのであろう?」
「陛下、正義を求めます」
「誰に対する?」
「高等法院に対する」
「面白い!」国王は拍手を送った。「高等法院に対して不服があるというのだな? 是非とも彼奴らを説得してもらいたいものだ。余も高等法院には言うべきことがあるし、正義を求めたい気持はそなたと変わらぬ」そう言って国王はベアルン夫人に倣って深々としたお辞儀を返した。
「ですけど陛下は国王であり、支配者じゃございませんか」
「国王というのは間違いない。支配者というのは時と場合によるな」
「ご意見をお聞かせ願えませんか」
「毎晩やっておるさ。ところが高等法院は高等法院で、毎朝意見を表明しておる。だから双方の意見は相容れることなく、地球と月のように永遠にすれ違い続けておるのだ」
「陛下の鶴の一声でそんなわめき声は掻き消せるのではございませんか」
「わかっておらぬな。法律家ならぬ国王と、法律家たる高等法院だぞ。余がウイと言えば彼奴らはノンと言う、相容れぬ関係なのだ……彼奴らにノンと言わせぬ手だてがあるのなら、喜んでそなたと手を組もう」
「手だてはございます」
「今すぐ教えてくれ」
「ではお話しいたします。親裁座をお開き下さい」[*3]
「事が大きくなるだけではないか。親裁座だと! 正気か? 革命同然の騒ぎになるぞ」
「歯向かう者どもに向かって、誰が支配者なのかを真っ向から伝える手だてでございますよ。国王が親裁座でご意見を表明なさるとなれば、国王ご自身を除けば誰にも口を利く権利などありゃしませんもの。陛下が望みを述べれば、相手は頭を垂れるしか……」
「思い切った案ではあるわね」デュバリー夫人が評した。
「思い切った案なのは確かだが、名案とは言えぬな」国王は言い返した。
「でも壮観じゃありません?」デュバリー夫人はここぞとばかりに力を込めた。「大行列に、大貴族、重職貴族、武官親衛隊も勢揃いで、加えて庶民も山ほど集まりますでしょ。そして何よりあの親裁座、金の百合の刺繍を施された五つの座布団が敷き詰められていて……素晴らしい儀式になるに違いないわ」
「そうかね?」国王の気持が揺れた。
「それに陛下のまばゆい衣装。白貂地のマント、王冠のダイヤ、黄金の笏、どれも厳かなご尊顔に映えて輝くものばかり。さぞや素晴らしいに違いないわ」
「親裁座など久しく開かれておらぬ」ルイ十五世は気のないふりを装った。
「ご幼少のみぎりよりこのかた、陛下の輝かしいお姿はあらゆる人の心に刻まれておりますよ」ベアルン夫人が言った。[*4]
「それにね」とデュバリー夫人も畳み掛けた。「大法官にとってもいい機会じゃないかしら。簡にして要を得た演説をして、真実と尊厳と権威の許にあの人たちを叩き潰すことが出来るんですもの」
「高等法院の方から何かしでかすのを待つべきではないか」ルイ十五世はそう応じた。「その時は考えよう」
「あれよりひどいことをしでかすのを待つおつもりですの?」
「何をしでかしたというのだ?」
「ご存じありません?」
「デギヨン公を少々痛めつけたからといって絞首刑には当たるまい……公が余の友人だとしても変わらぬよ」国王はデュバリー夫人に向かって言った。「なるほど連中はデギヨン公を痛めつけたようだが、おふれを出して返報しておいた。昨日か一昨日だったかな、これでおあいこだ」[*5]
「それがね、陛下」とデュバリー夫人はすかさず言った。「伯爵夫人のお話ですと、黒服たちは今朝、突破口に手を掛けたそうですの」
「どういうことだね?」国王が眉をひそめた。
「お許しも出またしたし、お話しして下さいな」デュバリー夫人はベアルン夫人に声をかけた。
「法官たちと来ましたら、陛下が要求をお呑みになるまでは高等法院を開廷しないことに決めたんでございますよ」
「まさか? そんなはずはない。それでは謀叛ではないか。高等法院が余に叛乱を起こすような真似はすまい」
「ですが……」
「いやいや、ただの噂だ」
「お話を聞いては下さらないのですか?」
「話すがいい」
「今朝、代訴人から訴訟書類を返されたんでございますよ……もう辯護はおこなわない、何故なら裁判がおこなわれないからだと言って」
「噂だと申したではないか。こけおどしに過ぎぬ」
そう言いながらも国王は狼狽えたように閨房を歩き回っていた。
「畏れながら、私のことはともかくリシュリュー様のことなら信用なさるのじゃございませんか? 目の前でリシュリュー公も訴訟書類入れを返されて、憤然として退出なさったんですよ」
「扉を叩く音が聞こえたようだが」国王は話題を変えようとした。
「ザモールですわ」
ザモールが入室した。
「奥さま、手紙です」
「ちょっと失礼するわね、陛下。あら、大変」
「どうした?」
「大法官モープー閣下からですわ。陛下がいらっしゃると知って、あたくしに謁見の口添えを頼みにいらしたんです」
「このうえ何があるというのだ?」
「大法官閣下をお通しして」
ベアルン伯爵夫人が立ち上がっていとまを告げようとしたが、国王が引き留めた。
「マダム、どうかそのままで。ご機嫌よう、モープー殿。何か新しい報せでも?」
大法官が頭を垂れた。「それが陛下、高等法院で問題ごとが起こりまして。高等法院はもはや存在しません」
「どういうことかね? 一人残らず死んだのか? 砒素でも服んだのか?」
「いっそそれならよかったのですが!……いいえ、生きております。ところが法廷を開こうとせずに辞表を提出しているのです。先ほど私のところに山ほど参りました」
「法官どもが?」
「いえ、辞表のことです」
「深刻な話だと申し上げたじゃございませんか」ベアルン伯爵夫人がぼそりとこぼした。
「非常に深刻だ」ルイ十五世はむっとして答えた。「して大法官、そなたはどうするつもりだ?」
「陛下のご命令をいただきに参ったのです」
「追放してしまおう」
「追放してしまってはますます裁判が遠のきます」
「開廷を厳命しよう……だが今さら至上命令を出したとて……さりとて勅命状も……」
「只今は陛下がご意志を表明なさることが肝要なのです」
「うむ、その通りだな」
「もうひと息ですよ!」ベアルン夫人がデュバリー夫人に囁いた。
「これまでたっぷりと父親らしい優しいところをお見せになったんですから、今度は支配者らしい厳しいところを見せて下さいな」
「大法官よ」国王はのっそりと口を開いた。「手だては一つしかない。難しい問題ではあるが効果はあろう。親裁座を開こうと思う。二度とないように凄みを利かせておかねばならん」
「仰る通りです。そうなれば高等法院も折れるか潰れるか選ばざるを得ぬでしょう」大法官も同意した。
「マダム」と国王がベアルン夫人に声をかけた。「これでそなたの訴訟が審理されずとも、余の手抜かりとは言わせぬぞ」
「陛下はこの世で一番の国王でございますよ」
「その通りですとも!」デュバリー伯爵夫人、ション、大法官もそれに倣った。
「しかし肝心要な世の中の連中がそうは言ってくれぬ」国王が不満を洩らした。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre C「Où les choses s'embrouillent de plus en plus」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年10月8日(連載第99回)。
Ver.1 11/05/14
Ver.2 12/10/11
Ver.3 20/10/21
[更新履歴・註釈]
[更新履歴]
・12/10/11 文末を訳し洩らしていたので追加。「デュ・バリー夫人がすかさず『言葉を返した』。」
・20/10/21 「– Eh bien, sire, dit vivement madame Dubarry, madame la comtesse venait nous annoncer que, ce matin, ces messieurs noirs prennent la belle.」。「prendre sa belle」で「チャンスをつかむ」。「黒服たちと来たら受けて立ったそうですわ」 → 「突破口に手を掛けたそうですの」に変更。
[註釈]
▼*1. [久しく顔を見せていなかった]。
第30章でベアルン夫人がパリのヴァロワ街にあるデュバリー邸を訪れ、第35章で5時にリュシエンヌで会う約束をしている。日時が5月明言されている第19章からの時間経過を考えると第35章も5月中なので、現在が12月だとすると7か月ぶりの再会である。[↑]
▼*2. [カエサルがトーガに…]。
カエサルはブルトゥスに襲われたときトーガで身体を覆うようにして倒れたと言われる。[↑]
▼*3. [親裁座]。
リ・ド・ジュスティス、親隣会議とも。高等法院には建白権や法令の登記権があったが、国王は親裁座に臨むことによって強制的に法令を登記させることが出来た。[↑]
▼*4. [ご幼少のみぎりより…]。
ルイ十五世による最初の親裁座は1715年9月12日(5歳)、オルレアン公の摂政就任を認める。1718年8月26日には王位継承権を持つメーヌ公の地位を剥奪している。1723年2月22日の親裁座では成人を宣言、摂政政治が終わりを迎える。1770年6月27日の親裁座では、デギヨン裁判の停止を命ずる。1770年12月7日の親裁座ではパリ高等法院に対し団結権の禁止を命ずる。[↑]
▼*5. [デギヨン公を少々痛めつけ…]。
“高等法院がしでかしたこと”とは、第97章「委曲を尽くしたその判決によると、デギヨン公爵は不名誉な嫌疑さらには事実によって厳正に告訴され、王国重職貴族の職権を停止されていた」を指し、“国王のおふれ”とは、第98章「本日の顧問会議で高等法院の判決を破棄なさると、フランス重職貴族の職務を続けるようにと仰って下さいました」「まだその時ではございません。国王のお達しがパリに届けられてしまっているのならともかく」を指すと思われる。次の段落の“黒服たちの突破口”とは、第99章「国王がデギヨン氏を更迭しないうちは第一部も第二部も一切の審理をおこなわないことに決めた」を指すか。[↑]
▼*6. []。
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▼*7. []。
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▼*8. []。
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