コワニー氏が立ち去ると、たった今の訪問で考えを改めていたルソーは、大きな溜息をついて小さな肘掛椅子に坐り、力ない声で呟いた。
「困ったものだな、しつこくてうんざりする」
戻って来たテレーズがそれを聞きつけて、ルソーの前に立ちはだかった。
「自惚れてるねえ」
「わたしが?」ルソーは驚いて声をあげた。
「そうだよ、思い上がった偽善者だよ!」
「わたしが?」
「だってそうさ……宮廷に行くのが嬉しくてしょうがないくせに、無関心なふりをして喜びを隠しているんだから」
「参ったな」見事に言い当てられて、ルソーはばつが悪そうに肩をすくめた。
「此処でスピネットに向かってだらだらと掻き鳴らしていたオペラを、国王に聴いていただけるんですよ。それが名誉なことじゃないだなんて思わせようたって、そうはいきませんとも」[*1]
ルソーは苛立ちを浮かべて妻を見た。
「馬鹿言うんじゃない。わたしみたいな人間には、国王にお目通りするのは名誉でも何でもない。国王という人間が玉座に居るのは何のおかげだと思うんだい? 自然のきまぐれのおかげで、王妃から生まれただけじゃないか。一方わたしは国王を楽しませるためにそれと見込まれて呼ばれたんだ。努力のおかげだよ、それと努力によって身につけた才能のおかげだ」
テレーズは言われたまま黙っているような女ではなかった。
「その口の利き方をサルチーヌさんに聞かせてやりたいね。ビセートルやシャラントンに独房を空けといてくれるでしょうから」
「そのサルチーヌという暴君を動かしている別の暴君がいるわけで、人間なんて暴君には無防備なものさ。ましてや立ち向かうための武器が己の才覚ひとつとあってはね。一方のサルチーヌがわたしを弾圧するつもりなら……」
「つもりなら?」
「そうだな」ルソーは溜息をついた。「わたしの敵たちが喜ぶだろうね。うん、そうに違いない……」
「敵がいるのは誰のせいでしょうね? あなたが攻撃的なもんで、誰彼かまわず噛みついて来たからじゃありませんか。そういえば敵じゃなくって味方がいるのがヴォルテールさんでしたっけねえ」
「その通りだね」ルソーは天使の如く穏やかな笑みを見せた。
「そりゃヴォルテールさんは紳士ですからね。プロイセンの王様とも親しくしてますし、馬も何頭も持っていてお金持ちですし、フェルネーにお屋敷もありますし……どれもこれもあの人の才能のおかげですよ……だから宮廷に伺ったって蔑んだ態度は取らずにお家にいるみたいにいつも通り過ごしますとも」[*2]
「つまりわたしではいつも通りに出来ないと言うのかい? 宮廷で使われるお金の出所も知らないし、専門家に向けられる敬意に騙されているんだと? 相変わらずわかってないね。わたしが蔑んだ態度を取るのは、まさしく軽蔑しているからだし、宮廷貴族の贅沢を軽蔑するのは、それが盗まれたものだからだよ」
「盗まれたですって!」テレーズが怒りとも何とも言えない声を出した。
「盗まれたんだよ。おまえや、わたしや、みんなからね。貴族の衣装を飾っている黄金なんてものは、本来ならパンを買えない貧乏人の許にあって然るべきものなんだ。そうしたことを感じているから、宮廷に行くのが嫌でしかないんだよ」
「下々の人間が幸せだとは言いませんよ。でも何だかんだ言っても国王は国王ですからね」
「国王に逆らうつもりはないさ。このうえ何を望むというんだい?」
「逆らわないのは怖いからでしょうよ。仕方なく行ってやるんだとか恐れ知らずなんだとか主張するのはやめてもらいましょうか。飽くまで言い張るつもりなら反論して差し上げましょうかね、口ではそう主張してても本当は大喜びなんだって」
「何も怖くなどないよ」ルソーは胸を張って答えた。
「でしたらさっきの話を国王にぶつけてご覧になれば如何ですかね」
「そうするよ、気持ちが乗ればね」
「本当ですね?」
「勿論だ。わたしが怖じ気づいたことがあったかい?」
「よく言いいますよ、引っかかれるのが怖くて、猫に骨をやろうともしないくせに……衛兵や剣士に取り囲まれたらどうなるんでしょうねえ?……あなたのことなら母親並みに承知してますからね……今から剃り立ての髯を剃り直して、髪を整えて、おめかしなさるんでしょう。足を綺麗に見せびらかして、人の気を引きたくて目をしばたたくんですよ。それというのも目が点のように小ちゃいものだから、普通に開いていては見た目通りに思われちゃいますけど、瞬きすれば正門並みの大きさだと思わせられますものね。絹靴下を用意させて、金属ボタンの付いた茶色い服を着て、新しい鬘をかぶって、辻馬車に乗って、綺麗なご婦人たちにちやほやされにいらっしゃるんでしょう……そして明日。明日になれば、うっとりしたり物思いに耽ったり、また恋に落ちて帰って来て、溜息をつきながら本でもお書きになって、コーヒーに涙を落とすんでしょうよ……あなたのことならちゃんとわかってますとも!……」
「わかってないね。宮廷には来いと言われたから仕方なく行くだけだ。とどのつまりは悪評を避けるためさ。真っ当な国民ならそうだろう? それにわたしは、共和国に於ける市民の権利をないがしろにするような人間ではないからね。だが宮廷の貴族に媚びを売ったり、きらびやかな衣装を着て牛眼の間で順番を待つ人たちに交じったりは、断じてするものか。そんなことがあったら、好きなだけ嘲笑ってくれればいい」[*3]
「じゃあ着替えるつもりはないんですね?」テレーズが馬鹿にしたようにたずねた。
「ああ」
「新しい鬘もつけないんですか?」
「ああ」
「小っちゃな目をパチパチさせたりも?」
「宮廷には自由民として行くんだ。恰好をつけたり怖がったりしても始まらない。芝居を見に行くのと変わりないよ。役者からどう見られるかなんて気にしないだろう?」
「せめて髯くらいちゃんとして下さいな。ぼうぼうじゃないのさ」
「このままで行くつもりだよ」
テレーズがげらげらと笑い出したので、ルソーは耳を塞いで部屋を移った。
テレーズは攻撃の手を止めなかった。文字通り、色も素材も幾らでもある。
衣装箪笥から礼服、新しい下着、隅々まで卵で艶を出した靴を取り出すと、わざわざルソーの寝台やら椅子の上やらに広げ始めた。
だがルソーはまるで見向きもしない。
仕方なくテレーズは声をかけた。
「もうそろそろ着替えた方がいいんじゃありませんか……時間がかかるもんですよ、宮廷衣装ってのは……約束の時間までにヴェルサイユに行けなくなったらどうするんですか」
「言っただろう、テレーズ。これで充分だ。毎日この恰好でみんなの前に出ているんだ。王様だって同じ国民に過ぎないよ」
「はいはい、そうですね」テレーズは直截な言い方をやめて上手いことその気にさせようとした。「意地を張って馬鹿はやめて下さいな……着替えはそこです……剃刀の準備も出来てますよ。床屋に声は掛けておきましたけどね、今日は調子が悪いっていうのなら……」
「ありがとう。髪くらいは梳いていくよ。靴も履く。つっかけで出かけるわかにはいかないからね」
――ひょっとして頑固者だったりするのかねえ?とテレーズは独り言ちた。
テレーズはルソーをその気にさせるために、状況に応じて機嫌を取ったり説得したり挑発したりと手を変えていた。だがルソーとてテレーズのことなど百も承知。罠の存在には気づいていた。譲歩した途端に容赦なく咬みつかれるのは目に見えている。だから譲歩する気はなかったし、素のままの魅力をさらに膨らますような上等な衣服には目を向けようとしなかった。
テレーズは隙を窺うものの、もはや取れる手だては一つだけだった。ルソーは必ず出がけに鏡を覗く。度を越した綺麗好きというものがあるとすれば、ルソーこそそれに当たる。
だがルソーは気を緩めなかった。テレーズの祈るような目つきに気づいて、鏡に背を向けた。ルソーは出発時間まで、耳に障ろうとも国王に伝えられそうな重々しい言葉を頭に詰め込んでいた。
ルソーはその言葉を幾つか唱えながら靴の留め金を掛け、帽子を脇の下に突っ込み、杖を取ると、テレーズの目を盗んで礼服と上着の皺を両手で伸ばした。
戻って来たテレーズから手渡されたハンカチを上着のポケットにねじ込んで、ルソーは見送られるがままに踊り場まで向かった。
「ジャック、分別くらいつけて下さいよ。何だか恐ろしげで、贋金造りみたいじゃありませんか」
「行って来るよ」
「ごろつきみたいに見えるし、気をつけて下さいよ!」
「火の元に気をつけるんだよ。それからわたしの書いたものには触らないように」
「まるで密偵みたいな
ルソーは何も答えずに、鼻歌を歌いながら階段を降りた。暗いのをいいことに袖で帽子を拭い、左手で胸飾りの埃を払い、その場しのぎではあるが手際よく身だしなみを整えた。
一階に降りると、プラトリエール街のぬかるみには爪先立ちで立ち向かい、シャン゠ゼリゼまで辿り着いた。そこにはあの名高き馬車が停まっていた。厳密に言うならパターシュと呼ばれる安い乗合馬車が、今から十二年前までは路銀を切り詰めたい旅人たちをパリからヴェルサイユまで運んでいた。いやさ、ぶちのめしていたのである。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CIX「La toilette de Rousseau」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年10月22日(連載第109回)。
Ver.1 11/07/23
Ver.2 24/02/24
[註釈・メモなど]
・メモ
[更新履歴]
・24/02/24 「– Et vous croyez, dit Rousseau, que je ne serai pas là comme chez moi ? vous croyez que je ne sais pas d'où vient tout l'argent qu'on y dépense, et que je suis dupe des respects qu'on y rend au maître ? Eh ! bonne femme, qui jugez tout à tort et à travers, songez donc que, si je fais le dédaigneux, c'est parce que je dédaigne ; songez donc que, si je dédaigne le luxe de ces courtisans, c'est qu'ils ont volé leur luxe.」。「maître」とは、一般に「主人」という意味なのか、或いは前章108章でコワニー氏が「Le coup d'œil, les conseils du maître sont indispensables :(専門家の眼識と助言が不可欠なのです。)」と言ったように「専門家」を指すか。「dédaigne」はそのまま「軽蔑する」でよいだろう。「するとわたしが宮廷で寛げないというんだね? あそこで使われるお金の出所も知らないし、国王が払われている敬意に欺かれているとでもいうんだね? お前と来たら、すっかり騙されてしまうんだね。侮るような態度をとるのは動じていないからだし、宮廷人の豪華なところに動じないのは、それが盗まれたものだと知っているからだとは思わないのかい」 → 「つまりわたしではいつも通りに出来ないと言うのかい? 宮廷で使われるお金の出所も知らないし、専門家に向けられる敬意に騙されているんだと? 相変わらずわかってないね。わたしが蔑んだ態度を取るのは、まさしく軽蔑しているからだし、宮廷貴族の贅沢を軽蔑するのは、それが盗まれたものだからだよ」に変更。
・24/02/24 「vous êtes un hypocrite et que cela vous plaît beaucoup.」の「hypocrite」には「偽善者」の意味もあるが、要するに「うわべだけの人」という意味である。「あなたは偽善者ですし、本当は嬉しくてしょうがないんでしょうに」 → 「口ではそう主張してても本当は大喜びなんだって」に訂正。
・24/02/24 「– Oh ! vous ferez bien au moins votre barbe, dit Thérèse ; elle est longue d'un demi-pied.」とあるが、さすがに「半ピエ(16cm)」も伸びてはいないと思うので、ここは「長々と」「たっぷり」くらいの意味であろう。白水社『仏和大辞典』にも、「avoir un pied de rouge sur la figure」で「顔にこってり紅(べに)をつけている」という例文がある。「でも髭くらいはきちんとしていって下さいよ。半ピエも伸びているじゃありませんか」 → 「せめて髯くらいちゃんとして下さいな。ぼうぼうじゃないのさ」に変更。(※とはいえ次章に「世捨て人のような髯」とあるので、実際に半ピエ伸びている可能性もある。)
・24/02/24 「」 → 「」
・24/02/24 「」 → 「」
・24/02/24 「」 → 「」
[註釈]
▼*1. [スピネット]。
スピネット(épinette)とはクラヴサンより小型の(なかには携帯型もある)鍵盤撥弦楽器。鍵盤を押すことで羽先が弦をはじき音を出す。[↑]
▼*2. [プロイセンの王様とも親しく]。
プロイセンのフリードリヒ二世はヴォルテールとも親交のあった啓蒙専制君主。[↑]
▼*3. [共和国に於ける市民][牛眼の間]。
恐らくルソーは自分のことをジュネーヴ共和国市民という前提で話をしている。
また、牛眼の間(l'œil-de-bœuf)は、王の寝室に隣接し、謁見を待つ控えの間として利用された。[↑]
▼*4. []。
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▼*5. []。
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▼*6. []。
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▼*7. []。
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