この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百十章 トリアノンの舞台裏

 旅の次第は重要ではない。当然ながらルソーはスイス人衛兵、税の取り立て人、商人、僧侶と道中を共にしなくてはならなかった。

 到着したのは夕方の五時半頃。既にトリアノンに集められていた参加者たちは、国王を待つ時間を利用して稽古をしていたため、作者のことなど誰も気にしていなかった。

 なかにはルソーが稽古をつけに来ることを承知の者もいた。だがルソーに目を向けようとはしなかったし、それは相手がラモーであろうとマルモンテルであろうと、はたまたサロンや別邸で貴賓たちの耳目を楽しませていたようなほかのどんな著名人であろうと同じであった。[*1]

 ルソーを出迎えた当直係は、ルソーが到着したらすぐに知らせるようコワニー氏から命じられていた。

 コワニー氏は恭しい態度を崩さず駆けつけ、心を尽くしてルソーを出迎えようとした。しかしひとたびルソーに目を向けると、驚きのあまり何度も見返してしまった。

 ルソーは埃まみれで、服は皺くちゃで、顔からは血の気が失せていた。その顔の白さに、世捨て人のような髯だけが悪目立ちしている。歴代式部官の誰一人として、宮殿の鏡に映ったのを見たことがないような代物だった。

 ルソーはコワニー氏にじろじろ見られてさすがに気まずくなったのだが、劇場に近づくにつれて気まずいどころではなくなっていた。何しろきらびやかな衣装に、ふんわりしたレース飾り、ダイヤモンドや勲章の数々が、黄金に彩られた劇場に溢れている様子は、さながら巨大な籠に盛られた花束のようであった。

 その龍涎香に満ちた空気を吸い込んだ時にも居心地が悪くなった。庶民の感覚にはあまりにも刺戟が強くとろけてしまいそうだった。[*2]

 それでも前に進んで立ち向かわなくてはならない。幾つもの視線が場違いな存在であるルソーに注がれているのを感じた。

 そのままコワニー氏について行くと、オーケストラ席で演奏者たちが待っていた。

 そこに至って多少なりとも落ち着きを取り戻し、自分の曲が演奏されるのを聴きながら、これでもう退路は断たれて万事休す、世間の理屈も理性も役に立たないのだと本気で考えた。

 既に王太子妃がコレットの衣装を着て舞台の上でコランを待っていた。[*3]

 コワニー氏はボックス席の中で衣装に着替えているところだった。

 前触れもなく、国王が現れた。低頭した人々に囲まれている。

 ルイ十五世は笑みを湛えてすこぶる上機嫌に見えた。

 王太子がその右側に坐り、続いてプロヴァンス伯爵が左側の席に着いた。

 王に近しい五十人ほどの集団が国王の合図で着席した。

「まだ始めておらぬのか?」ルイ十五世がたずねた。

「羊飼いや村娘たちがまだ着替えを終えておりませんから、待っておりますの」王太子妃が答えた。

「衣装にならずともよかろう」

「駄目ですわ、陛下」王太子妃が舞台の上から答えた。「衣装に着替えて照明の下でしっかり合わせたいんですもの」

「なるほどその通りだ。ではちょっと見て回ろう」

 ルイ十五世は立ち上がって桟敷や舞台を見に向かった。デュバリー夫人がまだ姿を見せないのも気にかかっていた。

 国王がボックス席から立ち去ると、ルソーは胸が締めつけられるような暗澹たる気持ちで、人々が立ち去った部屋と己の孤独を見つめた。

 危惧していたような歓待とはあまりにも対照的だった。

 目の前に広がる人垣を思い描いていたし、パリっ子の比にならぬほどしつこくあからさまな好奇心を向けられるものだと考えていた。質問攻めや紹介攻めにされやしないかと案じていた。ところがルソーを気に留める人など一人もいない。

 伸ばしたままの髯もそれほど長いとは思わなかったし、よしんば襤褸布であってもルソーのくたびれた服と大差なかったであろう。上品ぶろうなどと馬鹿なことを考えずによかったと快哉を叫んだ。

 だが心の奥底では、指揮者程度の扱いを受けることに屈辱を感じていたのである。

 そこに使用人(un officier)が近づいて来て、ルソー殿でいらっしゃいますか、と声をかけた。

「ええ、そうです」

「王太子妃殿下がお話しになりたいそうです」

 ルソーは感動で胸を詰まらせ立ち上がった。

 王太子妃はコレットのアリア「幸せが去ってしまった」を手にルソーを待っていた。[*4]

 ルソーに気づいて王太子妃が近づいて来る。

 ルソーはへりくだって頭を下げながらも、大公女ではなくただの女性にお辞儀しているのだと自らに言い聞かせた。

 王太子妃の方はといえば、垢抜けない哲学者相手であっても欧州随一の貴族を相手にするのと変わらぬ淑やかな態度であった。

 王太子妃は三行目にある「コランに捨てられてしまった……」という歌詞の抑揚について助言を求めた。

 ルソーが朗唱と叙唱について論じていたところ、興味深い内容ではあったが、そこに国王と廷臣たちが戻って来たのが聞こえた。

 そうして国王は、王太子妃がルソーから助言を受けている控え室に入って来た。

 国王がこのみすぼらしい人物を見て最初に見せた反応は、コワニー氏が見せたものとまったく同じだった。ただしコワニー氏は相手がルソーであることを知っていたが、ルイ十五世は知らなかった。

 然るが故に国王は、王太子妃の讃辞と謝辞を一身に受けているこの我らが自由民をまじまじと見つめる次第と相成った。

 国王の眼差しは威厳に満ちていた。何者相手でも伏せることなどないその眼差しに見つめられて、眼力の強さも不安定で控えめなルソーはすっかり当てられてしまった。

 王太子妃は国王がたっぷり観察した頃を見計らってルソーの側に立った。

「わたしたちの作曲家を陛下に紹介させていただけますか?」

「そなたたちの作曲家だと?」国王は記憶を探るように呟いた。

 こうしたやり取りの間も、ルソーは居たたまれずにいられなかった。何しろ国王の目が上から下まで舐め回し、王国有数の著述家の伸びた髯、薄汚れた胸飾り、溜まった埃、乱れた鬘を、レンズを通した太陽光の如くにじりじりと焦がし苛んでいたのである。

 王太子妃はルソーが気の毒になった。

「ジャン゠ジャック・ルソー殿です。これから陛下のお耳に入れる予定の、素敵なオペラの作者ですわ」

 ようやく国王が顔を上げた。

「そうか」と素っ気なく呟き、「ルソー殿、よろしく」

 と声をかけると、なおもじろじろとルソーを見つめていた。身なりの非道さを一つ一つあげつらおうとでもいうように。

 ルソーはフランス王に対してどう挨拶すべきか頭を悩ませた。自分は臣下ではないが、さりとて無礼を働くわけにもいかない。何しろ王宮にいるのは間違いないのだ。

 だがルソーの苦慮をよそに、国王は何の曇りもなくあっさりとルソーに話しかけていた。口を開いたからには相手にとって快不快の区別なく、何もかも話してしまうのが王族というものなのだ

 ルソーは一言も話せず固まってしまった。暴君にぶつけようと用意して来た言葉もすっかり忘れてしまっていた。

「ルソー殿」国王はなおもルソーの服と鬘を見つめたまま言った。「そなたが素晴らしい音楽を作ってくれたおかげで、楽しく過ごしておるぞ」

 そう言うと音域も狭く節回しもずれた声で歌い始めた。

 

街の洒落者たちの
声に耳傾ければ、
ああ容易く
別の恋も出来ただろうに!
[*5]

 

「いや素晴らしい!」歌い終えた国王が繰り返した。

 ルソーが頭を下げた。

「上手く歌えるかしら」王太子妃が不安を口にした。

 ルソーは王太子妃に向かい、助言を伝えようとした。

 だが国王がふたたび声を出して、「コランの恋歌」を歌い出した。

 

暗い我が家には
不安が尽きることもなく。
風も陽射しも寒さも、
苦しみも日々の仕事も絶えることはない。
[*6]

 

 国王陛下は歌手としては非道いものだった。ルソーは国王が歌を覚えていることに半ば喜びつつ、あまりの出来に半ば傷ついて、玉葱を齧って半泣き半笑いしている猿のような顔になった。

 王太子妃はさすがに動じず平然としている。

 国王は何一つ気にせず歌を続けた。

 

だが愛しのコレット、
君が暮らしてくれるなら、
この侘住まいであろうとも、
コランに後悔など一つもない。

 

 ルソーは顔が火照るのを感じた。

「ところでルソー殿」と国王が言った。「時々アルメニア風の恰好をしているというのは本当かね?」[*7]

 ルソーはますます顔を火照らせ、喉の奥で言葉を詰まらせた。今は王国のために舌を動かすこともままならないかのように。

 国王は返事を待たずにまたも歌い出した。

 

ああ、ただの愛には
右も左もわからない
何が許され、禁じられるのか。
[*8]

 

「確かプラトリエール街に住んでおったな?」

 ルソーはうなずいたが、それだけのために持てる力のすべてをかき集めた。これほどまでに精神力を必要としたのは初めてだった。

 国王が口ずさむ。

 

まるで子ども。子どものよう……

 

「ヴォルテールと仲が悪いそうだが?」

 今度こそルソーは僅かに残っていた精神力も使い果たした。そのうえ落ち着きも失ってしまった。国王はそんなルソーを憐れんだ様子もなく、相も変わらず歌いながらその場を後にした。

 

楡の木陰で踊りましょう、
若い娘は楽しみましょう
[*9]

 

 マルシュアス(Marsyas)の命を奪うことになったアポロンの演奏のような、アポロンの命を奪うほどの伴奏が添えられていた。[*10]

 ルソーは控え室に独り取り残された。王太子妃は衣装の仕上げをするため立ち去っていた。

 ルソーはよたよたと探り探り廊下に戻ったが、その真ん中でダイヤと花飾りとレースで着飾った男女とぶつかった。若い男は若い女の腕を優しく包んでいたというのに、それでも廊下を塞いでいた。

 若い女性はレースを震わせ、大きな髪飾りを付け、扇子を持ち香水を漂わせ、星のように輝いていた。ルソーがぶつかったのはこの女性であった。

 若い男性はすらりとして上品で人を惹きつけるところがあり、皺になった青綬の下にはアングルテールの胸飾りがあった。飾り気のない好ましい笑い声をあげたかと思うと、今度は仄めかしや内緒話で相手の女性を笑わせるということを、優れて要領よく同時にこなしていた。

 ルソーはこの美しく魅力的なご婦人がデュバリー伯爵夫人であることに気づいた。一つのことに夢中になってしまう質ゆえ、一目見た途端に連れの男性など目に入らなくなってしまった。

 青綬の男性はダルトワ伯にほかならず、つまりは祖父の寵姫とすこぶる楽しげにじゃれ合っていたわけである。[*11]

 デュバリー夫人がルソーの冴えない姿を目にして声をあげた。

「あら!」

「どうしました?」ダルトワ伯も哲学者を見つめた。

 その頃には摑んでいた手をとうに離して、さり気なく道を開けていた。

「ルソーさんだわ!」

「ジュネーヴのルソーですか?」ダルトワ伯が休暇中の学生のような調子でたずねた。

「ええ、殿下」伯爵夫人が答えた。

「こんばんは、ルソー殿」擦り抜けようと必死で足を進めていたルソーに、ダルトワ伯が声をかけた。「はじめまして……これからあなたのオペラを観に行くところですよ」

「殿下……」ルソーは青綬を見つめながらもごもごと呟いた。

「それは素敵なオペラをね」伯爵夫人も言った。「作者の意思と気持ちにぴったり寄り添ったオペラでしょうね」

 ルソーは顔を上げ、伯爵夫人の燃えるような眼差しで自分の眼差しに火を付けに行った。

「マダム……」陰気に言い淀む。

「私がコランを演じますから、コレットを演じて下さいませんか、伯爵夫人」とダルトワ伯が言った。

「そうしたいのはやまやまですけど、あたくしは俳優じゃありませんもの、巨匠の音楽を汚す勇気はありませんわ」

 そのまま見つめようとすれば、ルソーは命を失いかねなかった。だが夫人の声が、態度が、称讃が、美しさが、ルソーの心にしっかりと釣り針を下ろしていた。

 逃げ出したい。

「ルソー殿」ダルトワ伯が道を塞いだ。「コランの台詞を指導していただけませんか」

「コレットの台詞について助言していただくなんてお願いする勇気はありませんわ」伯爵夫人が謙虚な素振りを見せるものだから、ルソーは完全にとどめを刺されてしまった。

 それでも目だけで理由を問うた。

「嫌われちゃったみたいね」伯爵夫人はうっとりするような声でダルトワ伯に話しかけた。

「まさか! あなたを嫌う者などいませんよ」

「ご覧の通りよ」

「素晴らしい業績のある誠実な方ですから、これほど魅力的なご婦人を無下にはなさいませんよ」ダルトワ伯が言った。

 ルソーは今にも息を引き取らんばかりの大きな溜息をつくと、ダルトワ伯がうっかり壁際に作ってしまった隙間から擦り抜けた。

 だがその晩のルソーはついていなかった。さして進まぬうちに、また新たな一組にぶつかったのである。

 今度は男性の二人連れだった。一人は年配で、一人は若い。若い方は青綬を身につけ、五十代半ばと思われる人物の方は赤い服を纏い、血の気のない厳めしい顔つきをしていた。

 二人のところにもダルトワ伯の大きなはしゃぎ声と笑い声が届いた。

「いやはやルソーさん、伯爵夫人があなたから無下にされたとわたしが言ったところで、誰も信じようとしないでしょうねえ」

「ルソー?」と二人組が呟いた。

「捕まえてくれませんか、兄上」ダルトワ伯が笑ったまま声をかけた。「それからラ・ヴォーギヨン殿も」

 それでルソーは理解した。自分のツキの悪さのせいで、如何なる岩礁に乗り上げたのかを。

 一人はプロヴァンス伯であり、もう一人はフランス王子たちの傅育官であった。[*12]

 斯くしてプロヴァンス伯はルソーの行く手を遮り、

「今晩は」と、素っ気ない賢しらな声で挨拶した。

 ルソーは動顛して、もごもご呟きながら頭を下げた。

「もう逃げられない!」

「お目にかかれて光栄です」プロヴァンス伯は生徒の課題を探して見つけ出す教師のような口振りで話しかけた。

 ――まただ、とルソーは考えた。馬鹿げたお世辞ばかり。偉い人たちというのは何と空々しいのだろう!

「タキトゥスの翻訳を読ませてもらいましたよ」

 ――ああ、そうか。この人は学者肌だったのだ。

「タキトゥス翻訳の難しさはご承知ですね?」

「序文にもその旨を記しております、殿下」

「ええ、もちろん読みましたとも。ラテン語はあまり得意ではないとお書きでしたね」[*13]

「その通りです、殿下」

「ではどうして翻訳しようと?」

「文体練習でございます」

「うーん……『imperatoria brevitate』を『重々しく簡潔な演説』と訳すのは間違っているのではありませんか」

 ルソーは不安になって記憶を探った。

「確かにそうでしたよ」サルマシウス(Saumaise)の著作の誤りに気づいた老学者のような落ち着いた口振りだった。「確かにそう訳してありました。ピソ(Pison)が兵たちに演説したとタキトゥスが書いている場面です」[*14]

「ではどうすれば?」

「つまり『imperatoria brevitate』とは、『将軍のように簡潔に』……常日頃から命令を出し慣れているような話し方のことなんです。命令のような簡潔さ(La concision du commandement)……という言い方でよかったかな、ラ・ヴォーギヨン殿?」

「間違いありません、殿下」傅育官が答えた。

 ルソーが無言でいると、プロヴァンス伯はなおも言い募った。

「決定的な誤訳ですよ、ルソー殿……しかも、実はもう一箇所あるんです」

 ルソーは青ざめた。

「カエキナ(Cecina)について書かれた場面です。『At in superiore Germania』から始まる段落で……カエキナの人となりを説明するに当たって、タキトゥスは『cito sermone』と言っています」

「よく覚えております」

「あなたは『雄辯』と訳していましたが……」

「確かにわたしは……」

「『cito sermone』とは『勢いよく』、つまり『滔々とまくし立てる』意味ではありませんか」[*15]

「わたしは『雄辯』と訳しました」

「それなら『decoro sermone』や『ornato sermone』や『eleganti sermone』と書かれるべきではありませんか。『cito』とは彩りを添える表現です。似たようなことは、オトの行動の変化を描写した箇所にも見られます。タキトゥスが『Delata voluptas, dissimulata luxuria cunctaque, ad imperii decorem composita』と言っているところですね」

「わたしはそれを、『誰もが驚いたことに、贅沢と快楽を先延ばしにし、帝国の栄光を再建することに努めた』と訳しました」

「いけません、そうじゃない。そもそもあなたは三つの短文を一つの文にしてしまっている。そのせいで『dissimulata luxuria』を誤訳してしまい……さらにはこの文の最後も誤った解釈をしてしまったんです。タキトゥスは皇帝オトが帝国の栄光を再建しようと努めたとは言っていません。オトは情慾を満足させることをやめ、贅沢の趣味を隠し、すべてを……すべてとはつまり情慾と悪徳そのものですが、そのすべてを帝国の栄光に合わせ、対応させ、変化させたと言っているんです。このように複合的な意味があるのに、あなたの訳では意味が狭まってしまう。そうですね、ラ・ヴォーギヨン殿?」[*16]

「間違いありません、殿下」

 ルソーはこの容赦ない攻撃に汗を垂らして喘いでいた。

 プロヴァンス伯はルソーが一息つくのを待って、さらに続けた。

「あなたは哲学という分野では指折りの方だ」

 ルソーは頭を下げた。

「ただし『エミール』だけは危険な書物です」

「危険、ですか、殿下?」

「誤った思想を国民に広めるという意味でね」[*17]

「殿下、父親になれば誰もが、あの本のような状態になるのです。王国で一番高貴な人間であろうと、最下層の人間であろうと……父親になるということは……つまり……」

「それはそうと、ルソー殿」プロヴァンス伯が出し抜けに棘のある質問をぶつけた。「『告白』は確かに面白い本ですが……ところで、お子さんは何人いらしたんです?」[*18]

 ルソーは真っ青になってよろめき、怒りと驚きを込めた目で残忍な若者を見上げたが、それはプロヴァンス伯の悪戯心を勢いづかせただけだった。

 確かにその通りだった。事実プロヴァンス伯は返事を待たずに立ち去った。傅育官と腕を組み、たったいま容赦なく打ちのめした人物の著作について論評を続けながら。

 一人残されて茫然としていたルソーがようやく正気に返った頃、オーケストラが序曲の最初の何小節かを演奏するのが聞こえて来た。

 ルソーはふらつきながら音の鳴る方に向かい、席に着いた。

 ――わたしは何て度の外れた愚かで臆病な人間なんだ! あの残酷な学者気取りに言うべき返答を今頃になって思いつくとは。『殿下、哀れな老人をいたぶるのは若者としての慈愛が足りません』と言えばよかったのに。

 こうしてこの言葉に満足するに至った頃、王太子妃とコワニー氏の二重唱が始まった。哲学者の不安は音楽家の苦しみへと変化を遂げ、心に続いて耳を苛まれることになったのである。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CX「Les coulisses de Trianon」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年10月23日(連載第110回)


Ver.1 11/08/06
Ver.2 24/06/11

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[註釈・メモなど]

 ・メモ

[更新履歴]

・24/06/04 「maître des cérémonies」は「式典の主役」ではない。「未だかつてヴェルサイユの鏡に式典の主役がこのような姿を映したことなど一度もあるまい。」 → 「歴代式部官の誰一人として、宮殿の鏡に映ったのを見たことがないような代物だった。」に訂正。

・24/06/04 「salle de spectacle」とは、「舞台のある部屋」ではなく、「劇場」そのもの。プチ・トリアノンの劇場はプチ・トリアノンの庭園横、礼拝堂や使用人棟の反対側に位置する。「ルソーはコワニー氏に見つめられて決まり悪そうにしていたが、舞台のある部屋に入ると、ますます気まずい思いを強くした。」 → 「ルソーはコワニー氏にじろじろ見られてさすがに気まずくなったのだが、劇場に近づくにつれて気まずいどころではなくなっていた。」に訂正。

・24/06/05 「faire tache」は「そぐわない」の意。「幾つもの視線がこの場の汚点となっているルソーに注がれていた。」 → 「幾つもの視線が場違いな存在であるルソーに注がれているのを感じた。」に訂正。

・24/06/06 「La dauphine l'attendait. Elle tenait à la main l'ariette de Colette :
        J'ai perdu tout mon bonheur.
 この「J'ai perdu tout mon bonheur.」は歌詞の一部ではなく、コレットのアリア『J'ai perdu tout mon bonheur』という曲名だと思われる。「王太子妃はコレットの楽譜を手にして待っていた。/幸せをすっかり失ってしまった」 → 「王太子妃はコレットのアリア「幸せが去ってしまった」を手にルソーを待っていた。」

・24/06/10 「être sur des charbons ardents」で「身を焼かれる思いだ。じりじりする・やきもきする」の意。「ルソーは焼けた薪の上にいるような居たたまれない気持だった。」 → 「ルソーは居たたまれずにいられなかった。」に訂正。

・24/06/10 「」 → 「」

 

[註釈]

*1. [ラモー/マルモンテル]
 M. Rameau ジャン゠フィリップ・ラモー(1683-1764)はフランスの作曲家。/M. Marmontel ジャン゠フランソワ・マルモンテル(1723-1799)はフランスの作家・歴史家。ラモー作曲のオペラ『花飾り または魔法の花』の台本作家。[]
 

*2. [龍涎香]
 龍涎香はヨーロッパでも古くから香水・媚薬として珍重されて来た。当時の貴族は匂い玉(pomander, pomme de senteur 等)と呼ばれる金属製のケースに、龍涎香その他の香水を入れ、厄除けや香水として使用していた。[]
 

*3. [コレット/コラン]
 コレット、コラン。いずれもルソー「村の占い師(Le Devin du village)」の登場人物。恋人の羊飼いコランのことを占い師に相談した羊飼い娘コレットは、わざと冷たくするよう助言される。コレットに冷たくされたコランも占い師に相談する。占い師は二人に素直になるよう助言してハッピーエンドを迎える。ただし、マリー゠アントワネットが実際にプチ・トリアノンの劇場でコレットを演じたのは1780年9月19日のことである。[]
 

*4. [幸せが去ってしまった]
 第一場冒頭のコレットの歌。♪幸せが去ってしまった、わたしにぞっこんだったはずの、コランに捨てられてしまった。/心変わりしたあの人のことは、もう考えたくないのに、頭から離れない。/わたしにぞっこんだったはずなのに、幸せは去ってしまった、コランに見捨てられた。♪[]
 

*5. [街の洒落者たちの――]
 『村の占い師』第二場 占い師がコレットに、コリンに冷たくしてみるといいとアドバイスしたときのコレットの台詞。[]
 

*6. [暗い我が家には――]
 『村の占い師』第八場 誤解が解けてよりを戻したコランがコレットへの愛を語る場面。[]
 

*7. [アルメニア風の恰好]
 『告白』第12巻には、「モチエ=トラヴェールに居をさだめてすぐ、(中略)わたしはアルメニアふうの衣服をつけることにした。これは最近の思いつきではない。(中略)部屋にとじこもらねばならないことがたびたびあり、長い衣服がたいへん便利なことを、それまでよりもずっとよく悟らされたものである。(中略)ひとからなんといわれようと、そんなことは少しも気にせずに、この新しい服を身にまとうことにした。」とある。(※『告白』(下)桑原武夫訳、岩波文庫)。ルソーがモチエに逃れたのは1762年。一方で、『ルソー、ジャン゠ジャックを裁く』(1777)によれば、1766年に友人のヒュームの勧めで描かれたアラン・ラムゼーによるアルメニア風の衣装を着た肖像画はお気に召さなかったらしい。
  Wikicommons より   []
 

*8. [ああ、ただの愛には――]
 同じく第八場で、占い師やコラン、コレット、合唱団によって繰り返されるリフレイン。♪愛と手管は相性がいい、手管なくして魅力はない、街ではもっと愛らしく、村ではさらに愛を知る。ああ、ただの愛には 右も左もわからない、何が許され、何が禁じられるのか。まるで子どものよう♪。[]
 

*9. [楡の木陰で踊りましょう、――]
 『村の占い師』最後のダンスシーンのコレットの歌。♪楡の木陰で踊りましょう、若い娘は楽しみましょう。楡の木陰で踊りましょう、若い男は笛吹きましょう♪。[]
 

*10. [マルシュアス/アポロン]
 ギリシア神話のアポロンとマルシュアスの音楽対決より。マルシュアスの名声に嫉妬したアポロンが、因縁を付けて自分に有利な演奏勝負を持ちかけ、負けたマルシュアスを殺した。[]
 

*11. [ダルトワ伯]
 王太子の末弟、のちのシャルル十世。ダルトワ伯は当時13歳でマリー゠アントワネットの二つ下。遊び人として知られる。デュバリー夫人は当時27歳。[]
 

*12. [ラ・ヴォーギヨン/プロヴァンス伯]
 duc de la Vauguyon ラ・ヴォーギヨン公爵(1746-1828)はフランスの貴族。ルイ十六世、ルイ十八世、シャルル十世の傅育官。
 comte de Provence プロヴァンス伯はルイ十六世の長弟で当時15歳。ラテン語に優れ、聡明だっ。。[]
 

*13. [序文にも……/ラテン語はあまり得意では……]
 『Traduction du premier livre de l'Histoire de Tacite』の「序文(AVERTISSEMENT)」によれば、「Dans cette vue, entendant médiocrement le latin, et souvent n'entendant point mon Auteur, j'ai dû faire bien des contre-sens particuliers sur ses pensées ; mais si je n'en ai point fait un général sur son esprit, j'ai rempli mon but ; car je ne cherchois pas à rendre les phrases de Tacite, mais sa style, ni de dire ce qu'il a dit en latin, mais ce, qu'il eût dit en François.」「……ラテン語はあまりわからないし、……」とある。[]
 

*14. [サルマシウス/ピソ]
 ・サルマシウス(Saumaise)はフランスの古典学者。1588-1653。ローマ史の註釈書やチャールズ一世擁護論などで知られる。
 ・タキトゥス『同時代史』國原吉之助訳(ちくま学芸文庫)によれば、プロヴァンス伯に指摘された箇所は「最高司令官らしく簡潔に」(p.30)。ただし、この場面で演説したのはピソ・リキニアヌスではなく、ピソ・リキニアヌスを養子にしたガルバである。p.30「大勢の兵の集会で、ガルバは最高司令官らしく簡潔に『自分はアウグストゥスの手本に倣い、そして一人の兵が一人を指名するあの軍隊の習慣に則り、ピソを養子とした』と発表する。」。[]
 

*15. [カエキナ/cito sermone]
 ・カエキナ(Aulus Caecina Alienus)?-79。ガルバによって高地ゲルマニアの軍団長に任命されるが、公金横領により告発される。
 ・「一方、高地ゲルマニア属州では、カエキナが兵士の好意を誘い摑んでいた。彼は顔立ちの整った、大柄の体躯の若者で、背筋をのばして堂々と歩き、弁論術に長じ、自制心を欠いていた。」(『同時代史』p.63)。ただし、ちくま学芸文庫の訳注(p.431)によれば、「scito sermone」で「弁論術に長じ」、別版「cito sermone」で「滔々とまくしたて」とあるので、ここはルソーの誤訳ではなく底本の違いのようである。[]
 

*16. [オト/贅沢と快楽を……]
 ・オト(Marcus Salvius Otho)32-69。ローマ皇帝。ガルバ帝の後継者候補の一人だったが、ガルバがピソを後継者にすべく養子にしたため叛乱を起こす。
 ・「オトはこの間に皆の予想を裏切り、放蕩と怠惰の中におのれを失うことは全くなかった。快楽を先へ延ばし贅沢の趣味を隠し、一切を皇帝の威厳の下に統一した。そこでこのまやかしの美徳と、いずれ正体を暴露する悪徳が人々の恐怖をさらに募らせていた。」(『同時代史』p.79)。[]
 

*17. [『エミール』だけは危険な書物]
 当時『エミール』が危険視されたのは「サヴォワの助任司祭の信仰告白」が主たる原因だが、ルソーの返答を見るとこの場面では教育論を問題視しているようにも思える。[]
 

*18. [お子さんは何人]
 『告白』自体は死後出版だが、生前に朗読をおこなっていたことが『告白』末尾に書かれている。また、『告白』第八巻には、五人の子供を孤児院に入れたことを身近な人々に打ち明けていたが、彼らと仲違いしたあとにその秘密が洩れた、と書いてある。[]
 

*19. []
 。[]
 

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