ひとたびリハーサルが始まり、舞台に関心が向かうと、ルソーが注目されることはなくなった。
今度はルソーの方が周りに目を向けた。貴族たちが村人の衣装を身につけて調子外れの歌を歌い、貴婦人たちが宮廷衣装に身を包みながら羊飼い娘のような婀娜を見せている。
王太子妃が歌い出したところだったが、あまり上手くはないうえに、声も小さいのでほとんど聞こえない。国王は誰にも気まずい思いをさせないようにと、ボックス席の暗がりに引っ込んで貴婦人たちとおしゃべりを始めていた。
王太子はオペラの台詞を囁いたものの、オペラは非道い有り様だった。
ルソーは耳を塞ごうとしたが、耳に流れ込んで来る音を無視することは出来なかった。それでも、脇役を務める錚々たる面々の中に見目よい顔を一つ見つけたのが慰めだった。天により美しい
ルソーは譜面台越しにその美しい姿にひたすら見とれ、その声の織りなす旋律に耳を傾けた。
このように夢中になっているルソーを見て、王太子妃が誤解してしまったのも致し方あるまい。ルソーの微笑みや物憂げな眼差しを目にして、舞台の出来に満足しているものと思い込んだ。そこで王太子妃も女であったので、褒めてもらおうと譜面台越しに身を乗り出して声をかけた。
「いけないところはありました?」
ルソーはぽかんとしたまま答えない。
「とちっちゃったのね。でもわざわざ仰らないでね、ルソーさん」
ルソーはかの美女から目を離すことが出来ずにいたが、相手の方はまじまじと見られていることに気づいていなかった。
「あら!」ルソーの視線の先を追った王太子妃が声をあげた。「とちったのはタヴェルネ嬢だったんですか……」
アンドレは注目されているとわかって真っ赤になった。
「いやいや違うんです!」ルソーが声をあげた。「お嬢さんではありません。お嬢さんの歌声は天使のようでした」
デュバリー夫人がルソーに向かって槍より鋭い目つきを放った。
対照的にタヴェルネ男爵は心を喜びにとろかし、とびきりの笑顔をルソーにふるまった。
「あの娘ったらそんなにお上手でした?」デュバリー夫人が国王に迫った。国王はルソーの言葉に驚いているように見える。
「わからぬ……」ルイ十五世は答えた。「
その間ルソーはオーケストラ席でコーラスを指導していた。
コランが恋人のもとに、
戻ったことを祝いましょう。[*1]
一節終えて後ろを向くと、ジュシュー氏が雅やかにお辞儀をしていた。
宮廷人から劣等感を植えつけられたルソーにとってみれば、宮廷を取り仕切っているのをほかならぬ宮廷人に目撃されるというのは、一方ならぬ喜びであった。
ルソーは仰々しく挨拶を返すと、改めてアンドレを見つめた。褒められたことによってさらに美しさが増している。
リハーサルが続くにつれ、デュバリー夫人はどんどん不機嫌になった。ルイ十五世が睦び言を聞かずに舞台に見とれているのを、二度も目の当たりにしてしまったのだ。
嫉妬に駆られたデュバリー夫人からしてみれば、舞台とは即ちアンドレのことにほかならなかったが、そんなことは王太子妃が多くの賛辞を受けて嬉しそうな顔を見せることには何の影響もなかった。
リシュリュー公爵は年齢を感じさせぬほど軽やかに王太子妃の周りを飛び回り、劇場の奥に笑いの輪を作ることに成功した。その中心には王太子妃がいるわけだから、デュバリー一派としては気が気でない。
「タヴェルネ嬢はいい声をしているようですな」リシュリュー公がずばり口にした。
「素敵でしょう?」王太子妃が答える。「わたしが意地っ張りじゃなければ、コレットをやらせたかったくらいなんですけど、でもコレット役を引き受けたのは自分が楽しむためですから、誰にも譲るつもりはありませんの」
「いやいや、さすがに妃殿下ほど上手くはありますまい」とリシュリューが言った。「第一……」
「あのご令嬢の歌は絶品です」ルソーが断言した。
「絶品でしょう?」王太子妃も言った。「実を言うと、演技のことはあの娘に教えてもらったんです。おまけに、わたしと違って踊りも上手くて」
国王やデュバリー夫人や、詮索好きや噂好き、策士や嫉妬深い者たちにこうした会話がどのような影響を与えたかは推して知るべし。各々が互いに傷を負わせて満足するか、恥と苦痛と共にその手傷を負っていた。アンドレ本人を除けば、誰もが無関心ではいられなかった。
リシュリューからのひと声もあって、王太子妃はアンドレに恋歌を歌わせることにした。
幸せが去ってしまった、
コランに捨てられてしまった。
国王がリズムに合わせて上機嫌で頭を動かしているものだから、デュバリー夫人の頬紅も湿気った絵の具のようにぼろぼろと剝がれ落ちてしまった。
女以上に執念深いリシュリューはそれを見て、してやったりと溜飲を下げた。タヴェルネ男爵に歩み寄って老爺二人でひとかたまりになっている様は、さながら『共闘を目配せする偽善と腐敗』と題されるべき一組の彫像であった
二人の喜びが大きくなるのと対照的に、デュバリー夫人の顔色は徐々に曇っていた。遂にはそれも限界を超え、夫人は苛立ったように立ち上がった。これは異例の行動であった。何しろ国王はまだ坐ったままだったのだから。
廷臣たちは蟻のように天候の急変を感じ取り、もっとも安全な場所へと慌てて避難した。斯くして王太子妃はますます友人たちに取り囲まれ、デュバリー夫人はますます友人たちからちやほやされることとなった。
リハーサルの関心は本来の道筋から徐々に逸れてゆき、別の話題へと向けられていた。もはや興味はコレットのことでもコランのことでもない。多くの観客が考えていたのは、じきにデュバリー夫人が「幸せが去ってしまった、コランに捨てられてしまった」と歌う羽目になりそうだということであった。
「ご息女はまんまとやりおったな?」リシュリューがタヴェルネ男爵に囁いた。
ガラス戸を押し開けて男爵を廊下に連れ出したところ、窓にしがみついて室内を覗いていた野次馬が振り落とされた。
「とんま奴が!」リシュリューが不平を洩らしたのには理由がある。跳ね返った扉がかすったために袖口を拭わなくてはならなかったうえに、あろうことかその野次馬が屋敷の下働きの恰好をしていることに気づいたからだ。
それはまさしく下働きの男であった。花籠を抱え、ガラス窓の陰から伸び上がって室内を覗き込み、首尾よく一部始終を目に収めていた。
押されて廊下にひっくり返りそうになり、自分ではなく籠の方をひっくり返した。
「むう! このとんまは知り合いじゃ」タヴェルネ男爵が目を怒らせた。
「何者かね?」
「ここで何をしておる?」
読者諸氏は先刻ご承知の通り、それはジルベールであった。
「ご覧の通り、見学していました」ジルベールは毅然として答えた。
「仕事を放っぽり出してか」リシュリューがなじった。
「仕事は済ませました」ジルベールは公爵には恭しく答えたが、男爵には目を向けようともしなかった。
「何処にでも湧きおって」タヴェルネ男爵が嘆じた。
「まあまあ、皆さん」穏やかな声が執り成した。「ジルベールは仕事も植物学も熱心な若者ですよ」
タヴェルネが振り向くと、ジュシュー氏がジルベールの両頬を挟むようにしてさすっていた。
タヴェルネはかんかんになってその場を離れた。
「従者を呼べ!」
「声をあげるでない」リシュリューが制した。「ニコルがおるぞ、間違いない……見なされ……あの奥の扉の辺り……たいしたタマだ。あっちもあっちで、機会を逃さず目を凝らしておるわ」
確かにニコルだ。トリアノンの使用人たちの後ろから可愛らしい顔をぐっと持ち上げ、驚きと感嘆で見開いた目であらゆるものを幾度となく凝視しているように見えた。
ジルベールもニコルに気づいてそっぽを向いた。
「ほれほれ」公爵がタヴェルネを呼び戻す。「どうやら陛下は貴殿にご用のようだ……きょろきょろなさっているぞ」
二人の友は国王のボックス席に向かった。
デュバリー夫人は立ったまま、同じく立ったままのデギヨン氏と言葉を交わしていたし、デギヨンは伯父の行動の一つたりとも見逃すまいとしていた。
一人残されたルソーはアンドレに見惚れていた。こういう言い方を許していただけるなら、ルソーは恋に落ちている真っ最中だった。
リハーサルを終えた貴族たちが衣装を脱ぎにボックス席へ戻った。ボックス席の花はジルベールによって新しく替えられていた。
リシュリューが国王と会っている間、タヴェルネは独り廊下で待ち、心臓が凍えたり火照ったり繰り返すのを感じていた。ようやく戻って来た公爵が、指を口唇に当てた。
タヴェルネは色を失うほど喜んで友人を出迎え、国王のボックス席に招じ入れてもらった。
そこで二人は、一部の者しか聞けないような会話を耳にした。
デュバリー夫人が国王に話しかけていた。
「お夜食には陛下が来ていただけると思っていいのかしら?」
国王が答えた。
「すまぬが疲れておる」
折りしも王太子が姿を見せ、伯爵夫人が目に入らなかったかのように、危うく足を踏みそうになった。
「陛下、トリアノンで夜食をご一緒していただけますか?」
「いや、伯爵夫人にも言っていたところだが、余は疲れておる。若い者たちに囲まれていると頭がくらくらしてしまうからな……夜食は一人で摂るつもりだ」
王太子は一礼して立ち去った。デュバリー夫人も深々とお辞儀をして、怒りに震えながら退去した。
国王がリシュリューに合図を送った。
「公爵、そなたに関することで話しておきたいことがある」
「陛下……」
「余は納得しておらぬ……ぜひ説明してもらいたい……よいな……余は一人で夜食を摂るから、控えておれ」
それからタヴェルネを見つめ、
「こちらの貴族とはお知り合いかね、公爵?」
「タヴェルネ殿ですか? もちろん知っております」
「ああ! あの歌の上手いお嬢さんの父上か」
「はい、陛下」
「耳を貸せ、公爵」
国王は口を寄せてリシュリューに耳打ちした。
タヴェルネは動揺を気取られないよう、肌に爪を食い込ませた。
直後、リシュリューがタヴェルネに向かって言った。
「ついて来い」飾り気のない物言いだった。
「何処まで?」タヴェルネも同じように聞き返した。
「いいから来ることじゃ」
公爵から少し遅れて退出し、後をついて行くと国王の部屋に到着した。
公爵が中に入り、タヴェルネは控えの間で待たされた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXI「La répétition」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年10月26日(連載第111回)
Ver.1 11/08/06
Ver.2 24/06/23
[註釈・メモなど]
・メモ
[更新履歴]
・24/06/23 「Une fois la répétition commencée, l'attention excitée par le spectacle même, Rousseau cessa d'être remarqué.」Une fois は commencée、excitée どちらにも係るので、「ひとたびリハーサルが始まると、誰もが舞台に注目し、誰一人としてルソーのことなど構わなかったので、」 → 「ひとたびリハーサルが始まり、舞台に関心が向かうと、ルソーが注目されることはなくなった。」に訂正。
・24/06/23 「M. le dauphin soufflait les paroles de l'opéra, qui marchait royalement mal.」 この royalement は「王侯のように」ではなく「完全に」の意だと思われるので、「王太子があまり王侯らしいとは言えぬオペラの台詞を囁いていた。」 → 「王太子はオペラの台詞を囁いたものの、オペラは非道い有り様だった。」に変更。
・24/06/23 「et, sans mon égoïsme, je l'eusse fait jouer Colette ;」 mon égoïsme なので égoïsme を持っているのはアンドレではなく王太子妃である。「押しつけがましいところもなくて。コレットをやらせたいくらいなんですけれど。」 → 「わたしが意地っ張りじゃなければ、コレットをやらせたかったくらいなんですけど、」に訂正。
・24/06/23 「Les valets ici !」 ici とあるからには「此処に従僕を!」の意であろう。「使用人どもが!」 → 「従者を呼べ!」に変更。
・24/06/23 「La petite égrillarde ! elle ne perd pas non plus une œillade.」 œillade には「目配せ。流し目」の意味もあるが、特に意図や感情のこもっていないただの「一瞥(coup d'œil)」の意味もある。non plus は「(ジルベールと同じく)ニコルも」の意であろう。「淫婦じゃのう! ここぞとばかりに流し目をくれておる」 → 「たいしたタマだ。あっちもあっちで、機会を逃さず目を凝らしておるわ」に変更。
・24/06/23 「et ses yeux, dilatés par la surprise et l'admiration, semblaient tout voir en double.」 voir en double は通常「二重に見える」の意味だが、それでは文章全体の意味が通じない。「double vue(千里眼)」はさすがに飛躍しすぎか。「見る回数を二倍にして」と解釈した。「驚きと感嘆で目を丸くしていた。その目にはあらゆるものが何倍にもなって映っていそうなほどだった。」 → 「驚きと感嘆で見開いた目であらゆるものを幾度となく凝視しているように見えた。」に変更。
・24/06/23 「– Suis-moi sans affectation.」 sans affectation は「気取りなく」「見せかけではなく」「ごく自然に」といった意味なのだが、文章全体の意味が取りにくかった。次のタヴェルネ男爵の返答「– Où cela ? dit Taverney de même.」に de même(同じように)とあり、「– Suis-moi, sans affectation.」のようにコンマを入れて解釈すべきだと気づいた。リシュリューは気取りなく口にし、タヴェルネも同じように気取りなく答えたのである。「さり気なくついて来なさい」 → 「「ついて来い」飾り気のない物言いだった。」に訂正。
・24/06/23 「」 → 「」
[註釈]
▼*1. [コランが恋人のもとに、]。
『村の占い師』第八場冒頭のコーラス部分。[↑]
▼*2. []。
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▼*3. []。
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▼*4. []。
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