この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第百十二章 宝石箱

 タヴェルネ氏は長くは待たされなかった。リシュリュー元帥は国王付きの侍従(valet de chambre de Sa Majesté)に、国王が化粧台に置いたものについて尋ねてから、すぐにそれを持って外に出て来た。絹で包まれているものが何であるのか、ぱっと見ても男爵にはわからない。

 だが元帥は友人を不安から救い出そうと、回廊の隅へ引っ張って行った。

「なあ男爵よ」二人きりであることを確認するとすぐにそう切り出した。「時にはわしの友情を疑うこともあったようだのう?」

「和解してからは一切ないわい」

「では貴殿と子供二人の運命に疑いを持ったことは?」

「確かに、それならある」

「そこが間違っておる。貴殿と子供たちの運命は、目を回すほどの速さでもたらされておるのだぞ」

「どうだかのう」タヴェルネは真実の一端を薄々察していたものの、神に身を委ねたことがないからには、悪魔に警戒を怠るわけにもいかなかった。「どうやったら子供らの運命がそんなに早くもたらされるというのじゃ?」

「既にフィリップ殿は中隊長(capitaine)になり、中隊の費用は国王が出して下さっているではないか」

「むう! 確かに……あなたのおかげだのう」

「何のそれしき。次はどうやらタヴェルネ嬢が侯爵夫人になる番だと踏んでおる」

「まさか! わしの娘がどうやって……?」

「よいか、タヴェルネ。国王は風流なお方だ。美しいだけでも淑やかなだけでも貞淑なだけでも駄目で、これに才能が伴って初めて、陛下の歓心を手に入れることが出来る……一方、タヴェルネ嬢にはそれらがすべて高い水準で備わっている……故に国王はタヴェルネ嬢に歓心をお持ちなのだ」

「公爵よ」タヴェルネは威厳を繕ったが、元帥には滑稽にしか見えなかった。「その歓心という言葉をどういう意味で使っておるのだ?」

 リシュリューは気取ったことが嫌いなので、すげなく答えた。

「男爵よ、わしは言語学には詳しくないし、単語の綴りすら怪しい。わしが歓心を持ったという言葉を使う時は、心底気に入ったという意味だ……国王が貴殿の子らの美しさや才能や優れた点を気に入っているのを、心底残念だと思うのであれば、ひとこと言ってくれればよい……わしは陛下のところに戻るとしよう」

 そう言うとリシュリューは若々しい身のこなしできびすを返した。

「早まっては困る」男爵が呼び止めた。「怒りっぽい御仁じゃ」

「ではどうして不満を口にする?」

「不満なぞ言うとらん」

「国王のご意向に説明を求めたではないか……阿呆めが!」

「繰り返すが、そんな口は利いとらん。わしは間違いなく満足しておる」

「貴殿は、か……すると不満があるのは誰じゃ?……娘御か?」

「むう!」

「のう、貴殿は娘御を父親同様の不調法者に育てあげたのか」

「ありがたいことに、ひとりでに育ったんじゃよ。わしがそんなことに汗水垂らしたように見えるか? タヴェルネのド田舎で暮らすので精一杯……あれが貞淑なのはひとりでに身についたものじゃ」

「それに田舎の人間なら雑草駆除は心得ていると云うしな……率直に言って、娘御は貞淑の度が過ぎる」

「貞淑ぶっているどころか、貞淑そのものの白鳩じゃよ」

 リシュリューは顔をしかめた。

「まあよい、娘御にはいい婿殿でも探してやれ。実際、そんな気難しくては、運命の女神も足が遠のくであろう」

 タヴェルネは不安そうに公爵を見つめた。

「幸いにも、国王はデュバリー夫人に夢中じゃ。ほかの女子おなごに本気になったりはせん」

 タヴェルネの不安は恐れに変わった。

「だから二人とも安心するがよい。陛下にはわしから然るべく陳情しておこう。陛下もこだわったりはなさるまい」

「何にこだわらぬというのじゃ?」タヴェルネは真っ青になり、公爵の腕を摑んで揺さぶった。

「アンドレ嬢に贈り物をすることに、じゃな」

「贈り物……とは何じゃ?」タヴェルネは欲望と期待に胸をふくらませた。

「たいしたものではない」リシュリューは素っ気なく言うと、「此処にある……ほれ」

 絹の包みを開いて宝石箱を見せた。

「宝石箱か?」

「騒ぐほどのものではない……数千リーヴルの首飾りに過ぎぬ。好きな歌を聞いて気分を良くされた陛下が、歌っている娘御に受け取って欲しいと用意されたものだ。よくあることよ。しかしまあ娘御が嫌がるのなら、もうこの話はせんでおこう」

「馬鹿なことを言うな、公爵。そんなもん国王への冒瀆じゃ」

「国王への冒瀆になるのは間違いない。そうは言うても貞淑なるものは誰かの感情なり名誉なりをけがすものと相場が決まっておろう?」

「公爵よ、わしの娘はそこまで恥知らずではない」

「つまり言いたいことがあるのは娘御ではなく貴殿だということか?」

「そうではない。が、あれの言いそうなことややりそうなことくらいは考えんでもわかるわい」

「中国人は幸せだのう」リシュリューが言った。

「何故じゃ?」タヴェルネは呆気に取られてたずねた。

「国内に運河や川がたくさんあるからじゃ」

「公爵、話題を変えてがっかりさせんでくれ。続きを話さんか」

「話しとる最中だ。話題を変えたりしておらぬ」

「ではどうして中国人の話をする? 中国の川とわしの娘に何の関係があるというのじゃ?」

「大いにあるのだ……中国人が幸運と言うたのはほかでもない、貞淑が過ぎる娘を誰にも咎められずに溺れさせることが出来よう」

「待て待て、だったらフェアに行くべきじゃ。自分に娘がいた場合のことを考えてみなされ」

「ふん、娘なら一人おるわい……あれを貞淑が過ぎると呼ぶ奴がいたとしたら……そいつの性格は終わっとるぞ」

「つまりそうでなければ何倍も可愛く思っていたんじゃろう?」

「八つを過ぎたら子供らになんぞ干渉せんわい」

「せめて聞くだけ聞いてくれ。仮に国王がわしに命じて、あなたの娘に首飾りを渡すことになったが、あなたは娘から嫌な顔をされたとしたらどうじゃ?」

「譬え話などやめい……わしは宮廷で過ごし、貴殿は辺境で過ごして来たのだ、重なるところなどあるわけなかろう。貴殿が貞淑だと思っていることなんぞ、わしには阿呆らしいとしか思えぬわ。参考までに覚えておくがいい、『これこれの場合にあなたならどうしますか?』と他人に尋ねるほど野暮なことはないぞ。だいたいが譬えを間違っておる。わしが貴殿の娘御に首飾りを渡すという話なぞ一切しとらん」

「あなたが言ったのではないか……」

「そんなことは一言も言っとらん。国王がタヴェルネ嬢の声をお気に召したので宝石箱を御許まで運んで来るよう仰せつかった、と申したのだ。娘に手渡すように陛下から頼まれたとは一度も言っておらぬぞ」

「そうなると率直なところ――」男爵は弱り切っていた。「さっぱりわからんわい。謎かけみたいな話をされても、一言も理解できん。首飾りを渡すためではないのなら、首飾りを渡すとはどういうことじゃ? 届けるためでないならどうして預かった?」

 リシュリューは蜘蛛でも見つけたように大きな声をあげた。

「ああ嫌じゃ嫌じゃ! これだから荒夷あらえびすの野蛮人は!」

「誰の話をしておる?」

「もちろん貴殿じゃよ、我が良き友にして誠実なる……何を驚いておるのじゃ、男爵殿」

「わしにはよく……」

「『よく』どころかまったくわかっておらんのだ。国王ほどのお方がご婦人に贈り物をするに当たり、リシュリューという人間にその任務を託すのであれば、贈り物は高級なものになるし任務は手際よくやっておる……そういう場合に宝石類を届けるのはわしではなく、ルベルの仕事だ。ルベルは知っておるな?」

「つまり託されたのはルベル殿だと?」

「わしらは友人ではないか」リシュリューはタヴェルネ男爵の肩を叩き、そんな親しげな動作と同時に悪魔のような笑みを浮かべた。「アンドレ嬢ほど貞淑な娘が相手とあらば、わしとて不徳な真似はせん。それに貴殿の言葉を借りれば白鳩じゃな、白鳩に近づく時には鴉の匂いなどさせんわい。それから、ご令嬢への使いを頼まれた時には父親に声をかけるようにしておる……つまりタヴェルネ、こうして貴殿に声をかけ、貴殿に宝石箱を手渡そうというのだ。それを娘御に渡すのは貴殿の役目だ……それでよいな?……」

 リシュリューは宝石箱を差し出した。

「それとも嫌なのか?」

 リシュリューは手を引っ込めた。

「しかしじゃな――」男爵が声をあげた。「だったらさっさと言ってくれ。贈り物を手渡すよう陛下から仰せつかったのはわしだと、そう言ってくれ。この贈り物は完全に正当な、慈愛に満ちた、穢れのないものだと……」

「そうなると、陛下に悪意があるのだと疑っていたことになりはしまいか?」リシュリューは気難しい顔を見せた。「そんな勇気もないだろうに」

「恐ろしいことを言うな。じゃが世の人は……つまり娘は……」

 リシュリューは肩をすくめた。

「受け取るのか、取らぬのか」

 タヴェルネは慌てて手を伸ばした。

「これで、晴れてあなたは人徳者というわけか」男爵はそう言って先ほどのリシュリューとそっくりな笑みを見せた。

「陛下の歓心と娘御の魅力の間を取り持つ役目を父親に――貴殿に言わせれば穢れをすっかり浄める父親に――任せることが、混じり気なしの人徳でなくて何だというのだ?……先ほどその辺をうろうろしていたジャン゠ジャック・ルソー殿に判断してもらうとしようか。わしと比べれば亡きヨセフすら不道徳だと言ってくれるだろうよ」[*1]

 リシュリューはこれだけの言葉を、粘り強く、時に気高く、如才なく口にして、タヴェルネの不満を封じ、納得すべきだと思い込ませようとした。

 すると男爵は友人の手を取って握り締めた。

「娘が贈り物を受け取ることが出来るのも、あなたのおかげじゃ」

「貞淑に関するくだらぬ議論を始めた時に話していたのが、まさにこうした運命の由来と原因であったのだがな」

「済まぬな、公爵、心から感謝する」

「一言だけ言っておく。デュバリー陣営には、ご高庇を賜ったという事実を知られるでないぞ。デュバリー夫人が国王の許を離れて逃げ出さぬとも限らん」

「そうなるとわしらは国王から睨まれるかの?」

「何とも言えぬが、伯爵夫人から感謝はされまい。わしは失脚するであろうな……くれぐれも口を謹んでくれよ」

「心配いらぬわ。それよりもわしが感謝していることを国王にしっかりお伝えしてくれ」

「それに娘御の謝意も、忘れずに伝えよう……だがご高庇にはまだ続きがある……国王には貴殿自身が感謝を伝えよ。陛下が夜食の席に招待して下さったのだ」

「わしを?」

「そうさ、タヴェルネ。陛下、貴殿、わしの三人水入らずで、娘御の貞淑について言葉を交わそうではないか。では失礼するぞ、タヴェルネ。デュバリーとデギヨンが見える。わしらが一緒にいるところは見られぬ方がよい」

 そう言うと、小姓のような身のこなしで回廊の奥に姿を消した。宝石箱を手にしたタヴェルネだけが残された。その姿はまるで、目を覚ますと、寝ている間にサンタクロースが置いていった玩具を握っていることに気づいたサクソン人の子供のようだった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXII「L'écrin」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年10月27日(連載第112回)


Ver.1 11/08/20
Ver.2 24/07/18

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[註釈・メモなど]

 ・メモ

[更新履歴]

・24/07/15 「– Duc, répliqua Taverney en prenant un air de dignité plus que grotesque pour le maréchal, duc, comment expliques-tu ce mot : enchanté ?」。要するにリシュリューは「一目惚れした」等の露骨な言葉は使わず、「満足した・喜んだ」というどうにでも取れる言葉を敢えて使っているわけです。だからタヴェルネ男爵としては、国王がただ単に満足しただけなのか、それともアンドレを寵愛するつもりなのかが気になって聞き返しています。「その言葉をもっと詳しく説明してくれぬか。心を惹かれていらっしゃるとは?」 → 「その歓心という言葉をどういう意味で使っておるのだ?」に変更。前後の文章もそれに伴い変更した。

・24/07/15 「bon plaisir」は「喜び」ではなく「意志・意向」。「国王のお喜びに説明を求めたではないか」 → 「国王のご意向に説明を求めたではないか」に訂正。

・24/07/15 「– Et l'on dit que les gens de campagne savent arracher les mauvaises herbes. Bref, ta fille est une bégueule.」。「mauvaise herbe」は直訳すれば「悪い草」。「雑草」「悪人」の意。「bégueule」は「慎み深さや高慢さが過剰な人、もしくは慎み深さや高慢さを装っている人」。「田舎の人間は毟るべき毒草を知っているというが……要するに娘御は澄まし屋というわけか」 → 「それに田舎の人間なら雑草取りは心得ていると云うしな……率直に言って、娘御は貞淑の度が過ぎる」に変更。

・24/07/15 「– Tu te trompes, c'est une colombe.」。白い鳩は平和や純真の象徴である。「違うな、白鳩じゃよ」 → 「そんなことはない、白鳩のように純真無垢じゃよ」のように、わかりやすく言葉を補った。

・24/07/17 「la pauvre enfant n'a qu'à chercher un bon mari, car les occasions de fortune lui deviendront rares avec ce défaut-là.」。「la pauvre enfant」は定冠詞がついているので「貧乏な娘」一般を指しているのではなく、アンドレを指す。また、「n'avoir qu'à ~」は「~しか…ない」ではなく「~するだけでよい」の意である。「いいか、貧乏な娘には良い夫を探すしか道はない。そうした不利な条件で幸運をつかむ機会は滅多にないからのう」 → 「まあよい、娘御にはいい婿殿でも探してやれ。実際、そんな気難しくては、運命の女神も足が遠のくであろう」に変更。

・24/07/17 「Oh ! mais je sais si bien ce qu'elle dira ou fera !」。無礼な言い分は娘の意見ではなくあなた自身のものなのかと問われて、娘が言ったわけではないが娘の言いたいことくらい言われなくてもわかる、と答えている。「もちろんだ。あれの言うことややることくらいわかっておる!」 → 「そうではない。が、あれの言いそうなことややりそうなことくらいは考えんでもわかるわい」に訂正。

・24/07/17 「– Pardieu ! j'en ai une… et si l'on vient me dire qu'elle est trop vertueuse, celle-là… c'est qu'on sera bien méchant !」。méchant なのは une (fille) ではなく、彼女が trop vertueuse と言う l'on である。「馬鹿もん! 一人おるわい……あれが貞淑だと言えるものか……あんなふしだら娘!」 → 「ふん、娘なら一人おるわい……あれを貞淑が過ぎると呼ぶ奴がいたとしたら……そいつの性格は終わっとるぞ」に訂正。

・24/07/17 「– Qui donc charges-tu alors ?」。Qui であって Que ではない。Qui とはここではルベルを指す。「ではあなたは何をなさるんじゃ?」 → 「つまり託されたのはルベル殿だと?」に訂正。

・24/07/18 「Que M. Jean-Jacques Rousseau de Genève, qui rôdait par ici tout à l'heure, nous juge ;」。これは「Que+接続法」で、この場合は願望の意味であろう。「ジュネーヴのジャン=ジャック・ルソー氏が先ほどここらをうろついて、わしらを見定めておったな」 → 「先ほどその辺をうろうろしていたジャン゠ジャック・ルソー殿に判断してもらうとしようか」に訂正。

・24/07/18 「」 → 「」

 

[註釈]

*1. [亡きヨセフ]
 原文「feu Josephe」。実在の物故者をファーストネームで呼ぶとは考えづらいので、例えば劇の登場人物などで道徳的といえばこの人、というような人物を指すと思われる。ここでは『旧約聖書』創世記に出てくるヤコブの子ヨセフだと解釈した。ヤコブの子ヨセフは、兄弟に妬まれエジプトに流れ着くがやがて地位を得て、再会した兄弟とも和解し、末永く暮らす。人妻からの誘惑を断ったエピソードなどがある。英訳では「Cato of happy memory」となっている。清廉で知られるローマの政治家に置き換えたのだろう。[]
 

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