リシュリュー元帥は国王が小広間にいるのを見つけた。取り巻きの廷臣たちにお供されている。国王の移り気な眼差しが自分以外に向けられるくらいなら夜食を摂り損ねる方を選ぶような者たちだ。
だが今夜のルイ十五世はそんな廷臣たちを眺めることよりほかにやることがあるようだった。夜食は摂らぬ、いや、摂るにしても一人で摂ると言って取り巻きたちを追い払った。こうして国王からの追い立てに応じたことに加えて、リハーサル後に催されている祝宴に欠席して王太子殿下の不興を買うことを恐れて、たちまち胡麻をするため鳩の群れのように飛び立ち、殿下のために陛下の部屋を離れたのだと主張しようと、お目通りを許してくれた殿下のところへ駆け出して行った。
ルイ十五世は、大急ぎで立ち去ってゆく者たちのことなど考えてはいられなかった。状況が異なれば取り巻きたちの器の小ささを楽しんだことであろう。だが今回ばかりは何の感情も呼び起こされなかった。国王は大変なからかい好きで、仮に国王にこれまで友人というものがあったとして、たとい相手が一番の親友であってもその心や身体に突くべき弱みがあれば一つたりとも見逃さないほどだったというのに。
そうなのだ。目下、ルイ十五世は、トリアノン離れの門前に停められた四輪馬車に気を取られていた。馭者は金張りの車体に主人の重さが乗ればすぐにでも馬に鞭をくれる用意をしているようだ。
馬車はデュバリー夫人のものだった。明かりが灯されている。ザモールが馭者の隣に坐り、ブランコでも漕ぐように足を前後に動かしていた。
どうやらデュバリー夫人は、国王からの伝言を期待して回廊でぐずぐずしていたようだが、ようやくのことでデギヨン氏に腕を取られて姿を現した。せかせかとした足取りは怒りによるものだろうか、少なくとも期待外れに終わったことは伝わって来る。冷静さを失わぬように、無理にでも毅然とした態度を装っていた。
ジャンが肩を落とし、脇に挟んだ帽子がぺしゃんこになっているのも気づかぬ様子で、妹の後から姿を見せた。王太子が招待するのを忘れていたためジャンは芝居には参列していなかったが、従僕の真似をして控えの間にちょろっと入り込んでいた。ヒッポリュトスに劣らず物思わしく、薔薇色の花のあしらわれ銀糸で刺繍された上着の上から胸飾りを震わせ、悲しみに同調したようなぼろぼろの袖口を気にすることさえせずにいた。[*1]
妹の顔色が曇り狼狽えるのを見ていたジャンは、今回の脅威は並々ならぬと結論づけていた。実体のある相手となら渡り合える自信はあるが、幻相手ではどうにもならない。
国王が窓からカーテンの陰に隠れて見ると、打ちひしがれた一行はドミノ倒しのように伯爵夫人の馬車に飲み込まれていた。そうして扉が閉められ、従僕が車の後ろに戻り、馭者が手綱を振ると、馬が全速力で駆け出した。
「何てことだ」国王は呟いた。「余に会おうともしないし、話をしようともしないのか? 伯爵夫人は相当に怒っておるぞ」
それからはっきりと口に出して繰り返した。
「間違いない。伯爵夫人は相当に怒っておる」
折りしもリシュリューが約束していたような顔をして部屋に入り込んで来たところで、この最後の言葉を聞きつけた。
「怒っているとは、どうしてですかな? 陛下のちょっとしたお楽しみが気に食わないと? なるほど、確かに伯爵夫人にとっては面白くないことでしょうな」
「公爵か。お楽しみなどせぬ。むしろ疲れているから寝もうと思っていた。音楽は気が張るな。伯爵夫人の言うことを聞いていたら、リュシエンヌに夜食を摂りに行って飲み食いしなければならないところだった。殊に飲む方だが、伯爵夫人の酒はよろしくないのだ。どんな葡萄で造っているものやら、身体にこたえる。此処で寛ぐ方がどんなに良いか」
「陛下のなさることに間違いはありますまい」と公爵は答えた。
「どのみち伯爵夫人なら楽しくやるだろう。余のような人間が、楽しい連れとも思えぬしな。伯爵夫人がどう言おうと、そうは思えぬ」
「それについては間違っておいでです」
「いいや、公爵、事実だよ。これでも日々を数えて顧みておるからな」[*2]
「いずれにしても陛下以上のお相手はいないと承知だからこそ、伯爵夫人はお怒りなのですぞ」
「正直に言って、そなたの真似は出来ぬよ。女性の扱い方が二十歳の頃と変わらぬ。その頃には、選ぶのは男だった。だが余が二十歳の頃には……」
「頃には……?」
「音頭を取るのは女だ」
元帥は笑い出した。
「そういうことにしておきましょう。伯爵夫人が楽しくやっているとお考えなら、我々もせいぜい気慰みといきませんかな」
「楽しくやっていると言ったわけではなく、ほかにお楽しみを見つけようとしてしまうと言いたかったのだ」
「そんなことがなかったとは申せませんな」
国王は動揺して立ち上がった。
「まだ残っている者は?」
「陛下のお供は残らず」
国王はしばし考え込んだ。
「そなたの使用人はおらぬのか?」
「ラフテがおります」
「よかろう」
「何をさせればよいですかな?」
「デュバリー夫人が本当にリュシエンヌに戻るのか確かめてくれ」
「とうにお発ちかと思っておりましたが」
「見せつけるようにな」
「リュシエンヌでなければ何処に向かっているべきだと?」
「知らぬ。伯爵夫人は嫉妬で周りが見えなくなっているだろうしな」
「それはむしろ陛下の方では?」
「それとは何だ?」
「嫉妬で見えないのは……」
「公爵!」
「嫉妬で目が曇るとは誰もが認めがたいものです」
「余が嫉妬しているだと!」ルイ十五世はわざとらしい笑い声をあげた。「本気で言っておるのか?」
実際のところリシュリューは本気ではなかった。それどころか、デュバリー夫人が本当にリュシエンヌにいるかどうかを国王が知りたがっているのは、夫人がトリアノンに戻って来ないことを確かめるためだと考えた方が真実に近いということを認めるのもやぶさかではなかった。
「では仰せの通りに。ラフテを確かめに遣らせましょう」
「そうしてくれ」
「ところで陛下は夜食前に何かご予定は?」
「ない。すぐに夜食にしよう。件の人物には伝えておいたな?」
「ええ、控えの間におります」
「何と言っておった?」
「大いに感謝しておりました」
「娘の方は?」
「まだ娘御には話しておりません」
「公爵よ、デュバリー夫人は嫉妬深い。それに戻って来る可能性も充分にあるのだぞ」
「趣味がいいとは言いかねる冗談ですな。伯爵夫人にそんな馬鹿な真似は出来ますまい」
「こんな時なら何でも出来ようさ。とりわけ嫉妬に加えて憎しみまで抱いている時なら。伯爵夫人から憎悪されていることに、そなたは前々から気づいておったか?」
リシュリューは頭を下げた。
「斯かる名誉を賜っていることは存じております」
「伯爵夫人はタヴェルネ殿のことも憎悪しておる」
「数え忘れでなければ、老生や男爵以上に憎悪されている第三の人物がおりますぞ」
「何者だね?」
「アンドレ嬢でございます」
「ああ、それも当然だな」
「ですから……」
「うむ。だがいずれにせよ今夜やるべきことに変わりはない。デュバリー夫人が騒ぎを起こさぬよう警戒するだけだ」
「変わりないどころか、そうした措置が必要だという根拠そのものですな」
「給仕長がおる、口を閉じろ。ラフテに指示を与えてから、例の人物を連れて食堂まで来るがいい」
ルイ十五世は立ち上がって食堂に向かい、リシュリューは反対側の扉から部屋を出た。
五分後、リシュリューは男爵を伴い国王と再会した。
国王は極めて優雅な挨拶をタヴェルネに送った。
男爵は頭の切れる人間であった。だから同じ流儀で挨拶を返した。そうした挨拶によって、国王や王子たちは相手のことを同じ社会の住人だと認め、すぐに打ち解けてくれるのだ。
三人は食卓に着き夜食を始めた。
ルイ十五世は善い国王とは言えないが、魅力的な人間であった。国王がその気になった時に同じ時間を過ごすことは、酒飲みや話好きや色好みにとっては宝の山であった。
要するに国王は自分の長所を通じて人生をたっぷり研究していたのである。
もりもりと食べては、客たちの酒を持ってくるよう命じ、次いで音楽の話に移った。
リシュリューはその好機を逃さなかった。
「陛下、我らのバレエ監督が言うように、そしてまた恐らくは陛下もそうお考えのように、音楽が人を仲良くさせるのであれば、女人にも同じことが言えませぬか?」
「いやいや公爵よ、女の話はよそうではないか。トロヤ戦争の昔から今日に至るまで、女というものは決まって音楽とは正反対の効果を及ぼして来たのだ。ましてやそなたは、女たちと片を付けるべきことが多すぎて、こうした話題になるのも嫌であろう。なかでも一人、一触即発の険悪な仲の婦人がおるではないか」
「勘違いでなければ、伯爵夫人のことですな?」
「ほかに誰がおる」
「よければご説明をいただけると……」
「喜んで説明しよう。二言で済む」国王はからかうように答えた。
「謹聴いたします」
「よく言うた。伯爵夫人から何らかの大臣職を提案されて、そなたは断ったそうではないか。それというのも伯爵夫人にあまり人気がないからだと言って」
「老生が?」リシュリューは事の成り行きに狼狽えた。
「そういう噂だぞ」国王はいつものように無邪気を装って話を続けた。「誰から聞いたのかはもう覚えておらぬが……恐らく新聞であろう」
「左様ですか」国王がいつになく上機嫌な顔をしているのを見て、リシュリューは大胆になった。「正直に申し上げますと、今回ばかりは噂や新聞も、いつもほど馬鹿げてはいないようですな」
「何だと! そなたは本当に大臣の椅子を蹴ったと言うのか?」
おわかりのように、リシュリューは微妙な立場に立たされていた。リシュリューが何も断っていないことを国王は誰よりもよく知っていた。だがタヴェルネにはリシュリューの言葉を信じ続けてもらう必要があった。つまりリシュリューとしては、国王の当てつけを如何にしてかわして、タヴェルネの口唇と微笑みに浮かんでいる嘘つきという非難を如何にして回避するか、そのためにどれだけ上手い返答をするかが当座の問題であった。
「陛下、結果ではなく原因に目を向けようではありませんか。老生が大臣の椅子を蹴ったかどうかは秘中の秘であって、陛下が酒を飲みながら打ち明けるものではありますまい。しかしですな、大臣の椅子を――打診されていたとして――それを蹴った理由こそ重要ではありませんかな」
「ほほう、するとその理由とやらは秘密ではないようだな」国王が笑い声をあげた。
「ええ、とりわけ陛下にとっては。何しろ老生やここにいるタヴェルネ男爵にとって陛下という存在は、目下のところ、神には失礼ながら、想像し得るもっとも魅力的なこの世の主ですから、そんな国王に対して秘密などありません。心の底の底までさらけ出すつもりです。フランス王には真実をすべて打ち明ける臣下の一人もいないと言われたくはありませんからな」
リシュリューが言い過ぎやしないかと、タヴェルネはびくびくしながら口唇を咬み、国王の顔色を窺いながら慎重に表情を作っていた。
「では真実について話そうか」国王が言った。
「この国には大臣が従わなくてはならない力が二つございます。一つ目は陛下のご意思。二つ目は陛下に選ばれて寵愛されし者たちの意思です。一つ目の力は絶対的なものであり、逃れようと考えることも許されません。二つ目はさらに侵すべからざるものであり、これにより陛下に仕える人間は心からの義務を負うことになります。言ってみれば陛下からの信託のようなもので、大臣がそれに従おうとするには寵臣寵姫に敬意を示さなくてはなりません」
ルイ十五世は笑い出した。
「至言ではないか。そなたの口から聞けて嬉しいぞ。だがどうだね、喇叭手ふたりを連れてポン゠ヌフに行き、同じことを叫んでみるといい」
「ああ、哲学者どもが其処で立ち上がろうとしているのは存じております。ですがあやつらの叫びが陛下や老生に関わりがあるとは思いませぬ。肝心なのは王国きっての二つのご意思に満足していただけること。そこで恐れながら申し上げますと、老生の失脚、つまり老生の破滅が、ある方のご意思に懸かっているとすれば、つまるところデュバリー夫人のご意思には同意できぬのです」
ルイ十五世は黙り込んでしまった。
「ふと思ったことがあるのですが――」リシュリューが先を続けた。「先日、宮廷を見回しておりますと、それはもう美しい貴族のお嬢さんや輝かしいご身分のご婦人方を何人もお見かけいたしました。老生がフランス国王の立場であったなら、一人に絞るのは難しいほどに」
ルイ十五世がタヴェルネ男爵を見ると、男爵はさり気なく話題にあげられたことを悟って、不安と期待に胸を震わせ、財産を積んだ船を港に送り出したわけでもあるまいに、眼差しと息遣いで元帥の言葉を後押ししていた。
「そなたはどう思うかね、男爵?」と国王がたずねた。
タヴェルネは胸いっぱいになって答えた。「公爵が先ほどから陛下に申し上げていることは素晴らしい話に思われます」
「では美しい娘たちのことについても同意見なのだな?」
「まさしく。確かにフランス宮廷には極めて美しい方ばかりおいでだとお見受けします」
「つまり公爵に同意するのだな?」
「はい、陛下」
「公爵と同じように、宮廷の美女たちの中から一人を選べと申すのか?」
「陛下も同意見だと信じますればこそ、元帥と同意見だと申し上げましょう」
国王はしばし無言のまま満足げにタヴェルネを見つめた。
「諸君、三十歳の頃なら間違いなくそなたたちと同意見だったはずだ。何でも容易く受け入れたかもしれぬ。だが今ではもう無邪気でいるには少し歳を取り過ぎた」
「無邪気とは?」
「信じるという意味で言ったのだよ、公爵。ところが今ではどうあろうと信じられなくなってしまったことがある」
「どんなことですかな?」
「この年で恋心を掻き立てられるということだ」
「たった今この時まで、陛下は王国一洗練された方だとばかり思っておりました。しかしまことに遺憾ながら老生が間違っていたようです」
「間違いとは?」国王は笑いながらたずねた。
「老生は自分のことをメトセラのような老いぼれだと思っておりました。九十四年の生まれですからな。ということはつまり、陛下より十六も年上なのですぞ」[*3]
これは公爵からの気の利いたお追従だ。ルイ十五世は自分に仕えて来た若者たちを葬り去って来たこの男の老い方をかねがね感心していた。眼前のこうした見本を目にすれば、同じ年齢になるのも悪くはなさそうだ。
「そうか。しかしだな、自分のために愛されたいという願望はもうないのではないか?」
「もしそうだとすれば、今朝もまた正反対のことを囁いてくれたご婦人二人とすぐにでも縁を切ることになるでしょうな」
「もうよい公爵、いずれわかる。そうだろう、タヴェルネ殿。若々しさが甦るのは確からしい……」
「まことにその通り。しかも高貴な血なるは特効薬。それに考えるまでもなく、陛下のように優れたお心の持ち主は、若返ることで得るものこそあれ失うものなどありますまい」
「しかしだな」ルイ十五世が指摘した。「たしか曾祖父が年を重ねた頃には、さすがに昔のように羽目を外してご婦人たちに言い寄ったりはしていなかったぞ」
「陛下、先王に対する老生の敬意を知らぬわけでもありますまいに。何しろバスチーユに二度も放り込まれましたからな。しかしだからといって、熟年のルイ十四世と熟年のルイ十五世とでは比較にならないと申し上げるのにやぶさかではありません。キリスト教の信仰篤き国王陛下が、いくら教会の長子の称号を賜っているからといって、人間らしさを忘れるまで禁欲にこだわらずともよいではありませんか?」
「そうだな、認めよう。幸い此処には医者も聴聞僧もいない」
「先王陛下の度を過ごした信仰心や幾度とない禁欲行為には、マントノン夫人もしばしば呆れるほどでございました。実際には夫人の方がお年を召していたというのに。繰り返しますが陛下、二人の国王を比べることなど出来ましょうか?」[*4]
その晩の国王は上機嫌であり、リシュリューの言葉は若返りの泉から滴る水滴も同然であった。
ここだ、とリシュリューは判断して、タヴェルネの膝を自分の膝で小突いた。
「陛下、愚生の娘に下さった素晴らしい贈り物について感謝の言葉をお伝えすることをお許し下され」
「感謝などいらぬよ、男爵。タヴェルネ嬢のことを気に入ったまでだ。淑やかで品が良い。王女たちにまだ側仕えの空きがあればよかったのだが。その時にはアンドレ嬢こそ……そういう名前であったな?」
「はい、陛下」タヴェルネ男爵は有頂天になった。国王が娘の洗礼名を知っていてくれたとは。
「よい名前だ。その時にはアンドレ嬢こそ大本命だ。だが我が家の使用人の枠はすべて埋まっておってな。差し当ってはそういうものとして、娘御のことは余がしっかり面倒を見てやるつもりだ。持参金もあまりないのであろうな?」
「仰せの通りでございます」
「わかった、結婚の面倒も見てつかわす」
タヴェルネ男爵は深々とお辞儀をした。
「では夫選びも陛下を頼みにいたしますぞ。何しろお恥ずかしい話ですが、無一文も同然の貧しさでは……」
「うむ、うむ、その点も任せておけ。だがアンドレ嬢はまだ若い。慌てることでもあるまい」
「慌てずともよいのは、本人が結婚を厭うておりますからなおのこと」
「なんともはや」ルイ十五世は手を擦り合わせてリシュリュー公爵を見つめた。「まあよい、いずれにせよタヴェルネ殿、困ったことがあったら余を頼るがいい」
そう言うと、ルイ十五世は立ち上がってリシュリューに声をかけた。
「元帥!」
公爵が国王のそばに寄った。
「あの娘は喜んでいたか?」
「何の話でございますか?」
「宝石だ」
「小声でのお返事ご容赦を。でないと父親に聞こえてしまいますし、これから申し上げることは聞かれてはならぬのです」
「くだらぬ」
「聞かれてはならないのです」
「わかった、申してみよ」
「あの娘が結婚を厭うているのは本当のことです。しかしながら一つだけ確信していることがございまして、それはあの娘が陛下を厭うてはいないということです」
リシュリューは国王好みの単刀直入な気安い物言いをした後、畏まって回廊の端まで退っていたタヴェルネのところに小走りで駆け寄った。
二人は庭園を通って帰った。
素晴らしい夜だった。従僕二人が片手に松明を掲げ、もう片方の手で花をつけた枝先を払いながら先導している。トリアノンの窓が今もなお燃え立っているのが、ガラスの水滴越しに見えた。ガラスが曇っているのは、王太子妃と会食している五十人の熱気で温められているせいだ。
楽団が熱のこもったメヌエットを奏でている。夜食後に始まったダンスが、まだ続いているのだ。
リラと肝木の茂みの中にはジルベールがいた。膝を突いて、曇ったタペストリー越しに演じられる影絵を見つめていた。
天が地に落ちてもジルベールは気にもしなかっただろう。それほどまでに、ダンスのうねりの中でも陶然となって美しい姿を目で追い続けていた。
だがリシュリューとタヴェルネがこの夜鳥の隠れている茂みの前を通りかかった時、二人の声の響きを聞き、それもある言葉を耳にして、ジルベールは顔を上げた。
わけてもジルベールにとって重要で意味のある言葉だった。
元帥が友人の腕に凭れるようにして耳許に顔を寄せ、囁いていた。
「いろいろと考え合わせると、認めたくはないが、娘御は急いで修道院に送らねばなるまいなァ」
「それはまた何故じゃ?」男爵がたずねた。
「賭けてもいい。国王がタヴェルネ嬢にぞっこんだからだ」[*5]
ジルベールはこの言葉を聞いて、肩や顔に垂れていた肝木の花より白くなった。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXIII「Le petit souper du roi Louis XV」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年10月28日(連載第113回)
Ver.1 11/08/20
Ver.2 24/08/18
[註釈・メモなど]
・メモ
※ルイ十五世はリシュリュー元帥より14歳年下。
※ルイ十四世の禁欲。実際には敬虔なクリスチャンのマントノン夫人の方が行きすぎた性生活を拒んだとも言われている。
[更新履歴]
・24/08/18 「et prirent leur course vers celui qu'on leur permettait de voir, prêts à affirmer qu'ils désertaient pour lui le salon de Sa Majesté.」。どうして以前のような訳になったのか自分でも覚えていない。「慌てて鳩の群れのようにけたたましく飛び立ち、目に入った人物の方に向かって、陛下の部屋はあなたの為に空けておいたといつでも言えるように、駆け出した。」 → 「殿下のために陛下の部屋を離れたのだと主張しようと、お目通りを許してくれた殿下のところへ駆け出して行った。」に訂正。
・24/08/18 「si la musique met les hommes d'accord, comme dit notre maître de ballet et comme semble le penser Votre Majesté, en dira-t-elle autant des femmes ?」。「maître de ballet(メートル・ド・バレエ)」とは、バレエ団の責任者兼振付師である。「notre(我らの)」とわざわざ言っているところからすると、今回の稽古を付けたルソーのことを指しているか? いずれにしても「音楽が人を仲良くさせるのであれば」の典拠は不明。また、フランス語の「homme」には英語の「man」と同様、「人間」と「男」の両方の意味がある。「音楽が男同士を結びつけるとバレエ教師は言っておりますし、陛下もそうお考えのようですが、それは女の場合にも言えるでしょうな?」 → 「我らのバレエ監督が言うように、そしてまた恐らくは陛下もそうお考えのように、音楽が人を仲良くさせるのであれば、女人にも同じことが言えませぬか?」に変更。
・24/08/18 「Depuis la guerre de Troie jusqu'à nos jours, les femmes ont toujours opéré un effet contraire à la musique ;」。音楽は人を仲良くさせるが、女はその反対に戦争の原因になるのだから、女は「影響を受けた」のではなく「効果を及ぼした」のである。「女というものは音楽から正反対の影響を受けて来たのだ」 → 「女というものは決まって音楽とは正反対の効果を及ぼして来たのだ」に訂正。
・24/08/18 「Deux laquais marchaient devant eux, tenant des torches d'une main et tirant de l'autre le bout des branches fleuries ;」。「枝の端を引く」という表現がよくわからなかったのだが、「tirer」には「引っ張る」だけではなく「カーテンを引く」という語義もあり、カーテンを引くような動きで枝先を払ったのであろう。「片手で花のついた枝を引きずっている」 → 「もう片方の手で花をつけた枝先を払いながら」に変更。
・24/08/18 「」 → 「」
・24/08/18 「」 → 「」
・註釈
▼*1. [ヒッポリュトス]。
ヒッポリュトス(Hippolyte)はギリシア神話に登場する、テセウスの息子。アルテミスに一途なヒッポリュトスを恨んだアフロディーテは、義母パイドラをそそのかしてヒッポリュトスを誘惑させた。拒まれたパイドラは命を絶ち、誤解したテセウスの呪いによりヒッポリュトスは馬車に轢かれて命を失う。[↑]
▼*2. [日々を数えて……]。
原文は「je compte mes jours, et je réfléchis.」。例えば『旧約聖書』「詩篇」90:12には、「Enseigne-nous ainsi à compter nos jours, afin que nous conduisions notre cœur avec sagesse.(生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように(新共同訳)」とある。[↑]
▼*3. [十六も年上……]。
老いぼれだと考えていた自分の方が国王よりも若々しい感性を持っていたからには、年下の国王はもっと若々しいはずだ――というニュアンスか。[↑]
▼*4. [マントノン夫人]。
ルイ十四世は奔放な女性遍歴を持っていたが、老年(45歳)になり年上のマントノン夫人を寵愛したときには、肉体的な魅力ではなく知性や人柄に惹かれたと言われている。もっとも、実際には敬虔なクリスチャンのマントノン夫人が行きすぎた性生活を拒んだとも。[↑]
▼*5. [修道院に送らねば~国王がぞっこん]。
実際に修道院に送らなければならないと言っているわけではなく、修道院に隠さなければならないほど国王から愛されているぞ、よかったではないか――という意味合いのやり取りであろう。その辺りのニュアンスを上手く訳せなかった。[↑]
▼*6. []。
。[↑]
▼*7. []。
。[↑]