この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百二十三章 ド・サルチーヌ氏の邸

 中庭に入ると、指揮官代理や兵士に囲まれていた。

 ロレンツァは近づいて来た近衛兵に話をして、警視総監に案内を乞うた。近衛兵がスイス人衛兵にロレンツァを引き渡すと、スイス人衛兵はこの美しく風変わりで華やかな服装をして立派な小箱を抱えた女性を見て、無意味な訪問ではなさそうだと判断し、大階段を上らせて控えの間に通した。ここを訪れる者なら誰でも、スイス人衛兵の鋭い審査の後、昼夜を問わずド・サルチーヌ氏に釈明や密告や請願を届けることが出来た。

 最初の二つの訪問理由が最後のものより喜ばれることは言うまでもない。

 ロレンツァは取次にたずねられても、たった一言しか答えなかった。

「サルチーヌ氏ですか?」

 取次の黒服や鉄鎖と、警視総監が身につけている刺繍入りの服や灰色の鬘を間違えられたことに、取次は驚きを隠せなかった。だが大尉に間違われて腹を立てる中尉などいないし、ロレンツァの外国風のアクセントにも気づいていた。それに力強く揺らぎのない瞳は狂人のものではない。どうやら大事そうに腕に抱えている小箱に、何か重要なものを入れて運んで来たのだろうと見当をつけた。

 だがサルチーヌ氏は慎重で疑り深い人間であったし、イタリア美女のような魅力的な餌を撒いて罠を掛けられたこともこれまでに何度もあったので、厳重な警戒態勢を敷いていた。

 そこでロレンツァは半ダースもの秘書や従僕から、確認や尋問や疑いを向けられた。

 いろいろとやり取りをした結果わかったのは、サルチーヌ氏は帰っていないので、待たなくてはならないということだった。

 そこでロレンツァはむっつりと黙り込み、広々とした控えの間の飾りのない壁に目を彷徨わせた。

 ついに呼び鈴が鳴った。馬車が中庭に乗り入れられ、やがてサルチーヌ氏が待っている旨を別の取次が伝えた。

 ロレンツァは立ち上がり、二つの広間を横切った。そこには疑わしい顔つきをしてロレンツァ以上に変わった恰好をした人々が溢れていた。やがて、幾つもの蝋燭が灯された八角形の大きな執務室に案内された。

 五十代前半、部屋着姿、髪粉と巻き毛がふんだんにくっついている大きな鬘をかぶった男が、背の高い家具の前に坐って仕事をしていた。家具の上部は洋服箪笥のようになっており、そこに嵌められた二枚の鏡板を使えば、部屋に入って来た人々のことを仕事を続けながら見ることが出来るので、訪問者が取り繕った顔を作る前に表情を観察することが出来た。

 家具の下部は書き物机になっている。奥には紫檀の抽斗が並び、そのいずれにも文字合わせ錠がついていた。サルチーヌ氏はそこに書類や暗号を仕舞い、自分の生きている間は誰にも読めないようにしていた。本人にしか抽斗を開けることは出来ないので、死後は誰にも読むことは出来なくなる。開けるための暗号は、ほかの秘密にも増して厳重に抽斗に仕舞ってあった。

 この書き物机、というよりは洋服箪笥と言うべきか、上部の鏡の下には十二の抽斗があり、外からはわからない仕組みでこちらも施錠されていた。これは化学や政治の秘密を仕舞うためにわざわざ摂政が作らせたもので、大公からデュボワに、デュボワから警視総監ドンブルヴァル氏(M. Dombreval)に譲られたものである。そして後者からサルチーヌ氏がこの家具と秘密を引き継いだのである。ただしサルチーヌ氏は寄贈者が亡くなるまでは家具を使うことに同意しなかったし、その時でさえ錠前の並びをすっかり変えさせてしまっていた。

 この家具のことは世間でも評判になり、厳重に閉ざされているのはサルチーヌ氏が鬘を仕舞うためにほかならない、と噂された。

 当時山ほどいた批判者たちは、もし羽目板を透視できたならば、抽斗の一つにあの条約が見つかるに違いないと取り沙汰していた。忠実な警官であるサルチーヌ氏の仲立ちでルイ十五世が小麦に投機していたというあれである。

 要するに、ロレンツァが青ざめた深刻な顔で小箱を抱えて近づいて来るのを、警視総監氏は鏡に写して見ていたのだ。

 部屋の真ん中まで来ると、ロレンツァが立ち止まった。その服装、その姿形、その歩き方に、総監は強い印象を受けた。

「どなたかな?」鏡を見たまま振り返らずにたずねた。「何のご用でしょうか?」

「こちらにいらっしゃるのは警視総監のサルチーヌ氏でしょうか?」

「如何にも」サルチーヌ氏は簡潔に答えた。

「確かですか?」

 サルチーヌ氏が振り返った。

「あなたがお探しの人間が私であるという証拠に、監獄に放り込まなくてはなりませんか?」

 ロレンツァは返事をしなかった。

 母国の女に相応しい気品に溢れた態度で周囲に目を走らせ、サルチーヌ氏から勧めてもらえなかった椅子を探した。

 その視線だけで充分だった。ダルビー・ド・サルチーヌ伯爵はそれほど気高い男だったのである。

「お坐り下さい」と、出し抜けに椅子を勧めた。

 ロレンツァは椅子を引き寄せ腰を下ろした。

「では手早くお話し下さい。ご用件は?」

「あなたに保護していただきたいんです」

 サルチーヌ氏は持ち前の皮肉な目で眺めた。

「ははあ!」

「閣下、私は家族の許から攫われ、偽りの結婚によって三年前からある男に虐待されて来たんです。死んでしまいそうなほど苦しい毎日でした」

 サルチーヌ氏はロレンツァの気高い顔立ちを見つめ、歌うようにまろやかな声の響きに感銘を受けた。

「ご出身は?」

「ローマです」

「お名前は?」

「ロレンツァ」

「ロレンツァ何ですか?」

「ロレンツァ・フェリチアーニ」

「ご家族のことは存じませんな。ドモワゼルでよろしいですね?」

 この時代、ドモワゼルとは良家の子女を意味する。今日の女性たちは結婚しただけで威厳を覚え、マダムと呼ばれることしか考えない。

「ドモワゼルです」

「それで、ご用件とは?……」

「私を監禁した男に裁きをお願いします」

「何とも言えませんな。あなたはその男の妻なのでしょう」

「少なくとも当人はそう言ってます」

「言っているのは当人だと?」

「ええ。私にはそんな記憶はありません。眠っている間に婚姻が交わされたんです」

「よほど眠りが深いんでしょうな」

「何ですか?」

「やはりこちらでは何にも言えません。辯護士にご相談下さい。家庭の問題に巻き込まれるのはご免こうむりたい」

 そう言うと、サルチーヌ氏は出て行くように合図をした。

 ロレンツァは動こうとはしなかった。

「どうしたんです?」サルチーヌ氏は驚いてたずねた。

「まだ話は終わってません。ここに来たからには、つまらないことで不満を洩らしているわけではないことをわかっていただかなくてはならないんです。ここに来たのは復讐するためです。私が何処の生まれかは申し上げました。故国くにの女たちは復讐を成し遂げこそすれ、不満など洩らしません」

「それはそれとして、端的にどうぞ。私の時間は貴重なのです」

「保護していただきたいと申し上げました」

「誰から保護せよと?」

「復讐するつもりの男からです」

「では力のある男なのでしょうな?」

「国王よりも力のある男です」

「どうやら話をする必要がありそうだ……お説によれば国王よりも力があるそうだが、そんな男からあなたを保護し、何やら犯罪らしき行為のために擁護の手を差し伸べるとでも? 復讐しなくてはならないというのなら、おやりなさい。関わるつもりはない。ただし罪を犯すというのなら、止めなくてはならない。それから話をするとしましょう。そういう段取りで如何です」

「いいえ、あなたには止めることは出来ません。出来ませんとも。私が復讐を果たすことが、あなたや国王やフランスにとっても大変な意味を持つのですから。この男の秘密を明かすことこそが復讐なんです」

「なるほど! 秘密があるのですか」サルチーヌ氏は思わず興味を示した。

「大変な秘密です」

「どういった方面の秘密でしょうか?」

「政治に関することです」

「お話し下さい」

「では、保護していただけるのですね?」

「どのような種類の庇護がお望みですか?」警視総監は冷たい笑みを見せた。「お金? それとも愛情?」

「私の望みは修道院に入ることです。そこで人知れず引き籠もって生を送ることです。修道院を墓として、俗世間の誰にも暴かれずに過ごすことです」

「うん、難しい要求ではない。修道院に入れますよ。お話し下さい」

「約束して下さいますね?」

「そう申し上げたと思いましたがね」

「では、この小箱をお取り下さい。国王や王国の安全を脅かすような秘密が入っております」

「どのような秘密かご存じですか?」

「形だけですが、秘密が存在することは知っています」

「そして重要であることも?」

「恐ろしいということをです」

「政治上の秘密と仰いましたな?」

「秘密結社があるとお聞きになったことはありませんか?」

「メーソンの結社ですか?」

「目には見えない結社です」

「聞いてはいますが、信じてはおりません」

「この小箱を開けていただければ、お信じになるはずです」

「ふむ!」

 サルチーヌ氏は鋭く叫び、ロレンツァの手から小箱をつかんだが、不意に考え込むと、机の上に小箱を置いた。

「いや――」疑わしげに呟き、「やはりあなたがご自分でお開けなさい」

「でも鍵がありません」

「鍵がない? 王国の安全を仕舞い込んだ小箱を持って来ながら、鍵を置いて来たとは!」

「では錠を開くのは難しいのでしょうか?」

「いや。開け方を知っていれば何と言うことはありません」

 それからすぐに話を続けた。

「ここに万能鍵がある。一つお貸ししますから、ご自分でお開けなさい」話している間も、ロレンツァから目を離さなかった。

「お貸し下さい」

 サルチーヌ氏はいろいろな形状の鍵のついた鍵束をロレンツァに手渡した。

 手渡す時にロレンツァの手に触れたが、それは大理石のように冷たかった。

「しかしどうして鍵を持って来なかったのです?」

「持ち主が絶えず身につけていましたから」

「その国王より力を持っているという小箱の持ち主は何者なんです?」

「あの人はあの人、それしか言えません。あの人がどれだけの時間を過ごして来たのか知っているのは永遠のみ。あの人が成し遂げたことを目に出来るのはただ神だけです」

「だが名前は? 名前です」

「名前なら何度も変えていました」

「ひとまずあなたがご存じの名前は?」

「アシャラ」

「住まいは?」

「サン=……」

 俄にロレンツァが震え出し、手に持っていた小箱と鍵を取り落とした。答えようとしたが、口元が引きつるばかりだった。口から出かかっている言葉を締めつけようとでもするように、両手を喉元に当てた。それから震える腕を掲げたかと思うと、一声もあげずに、絨毯の上に倒れ込んだ。

「いったいどうしたんだ? しかし本当に綺麗なご婦人だ。ふん、ふん、どうやらこの復讐には嫉妬が絡んでいるな!」

 すぐに呼び鈴を鳴らして抱え上げた。目は見開かれ、口唇は動かず、とうにこの世から旅立ってしまったように見える。

 従僕が二人やって来た。

「こちらのご婦人を慎重に運んでくれ。隣の部屋がいい。意識を回復させてくれ。だが乱暴はいかん。さあ行け」

 従僕たちが指示に従ってロレンツァを運び出した。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXIII「L'hôtel de M. de Sartine」の全訳です。


Ver.1 11/10/15

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