この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百二十二章 意思

 バルサモが出て行くところまではお伝えしておいた。

 ジェリドはバルサモを乗せて閃光のようにひた走った。苛立ちと恐怖で真っ青になっているバルサモは、揺れる鬣に身を伏せて、小さく開けた口から空気を吸い込んでいた。すいすいと進む船の船首が水を割るように、駿馬の胸先で空気が二手に分かれている。

 夢でも見ているように、木々や家々が置き去りにされてゆく。車軸の上で軋みをあげている鈍重な二輪馬車と通りがけに行き会おうものなら、重さに喘ぐ五頭の馬たちは生身の流星が飛んで来るのを見て怯え、よもやそれが自分たちと同じ種族であるとは思いもしなかったに違いない。

 バルサモはそのようにして一里近くを進んだ。頭を燃え上がらせ、目を爛々と輝かせ、音を立てて燃え上がるその喘ぎを見れば、当時の詩人なら、煙を吐く巨大な機械を火と蒸気の恐ろしい怪物たちが動かして鉄路を疾走させている光景と比較したことであろう。

 ジェリドとバルサモはほんの数秒でヴェルサイユを通過した。道を彷徨っていた幾人かの人々が、光の筋が通り過ぎるのを目撃したに過ぎない。

 さらに一里を駆けた。ジェリドは十五分もかけずに二里を征服したが、この十五分は一世紀にも匹敵していた。

 不意にバルサモはある思いに駆られた。

 逞しい足首で、鋼の筋肉を持つ駿馬を急いで止めた。

 ジェリドが後脚を折り曲げ、前脚を砂にめり込ませた。

 バルサモとジェリドは束の間息を吐いた。

 そうしながらバルサモが顔を上げた。

 手巾をびしょびしょのこめかみに押し当て、そよ風に鼻をふくらませ、闇に向かってこんなことを吐き出した。

「お前は頭がおかしいに違いない! いくら馬を走らせても、いくら思いを募らせても、雷の一撃や電気の火花ほど速く飛べるわけもないのだから。だがそれもこれも、頭上にぶら下がっている災いを避けるためにはやむを得ん。その足で駆け込まれるかもしれん、口から裏切りの言葉が飛び出すかもしれん、その足取りや言葉を止めるには、迅速な結果、一刻も早い行動、絶対的な力が必要なのだ。鎖を千切って逃げ出した奴隷を連れ戻すには、これほど離れているとはいえ、催眠の力を駆使することが必要なのだ。上手く行けば俺の手の内に戻って来るかもしれない……」

 バルサモは絶望に身をよじらせて歯軋りした。

「畜生! いくら念じても無駄だよ、バルサモ。いくら走ってももう遅い。ロレンツァはとっくに到着して、これからぶちまけるところだ。いいや、もうぶちまけた後だろう。哀れな女め! どれほどの罰を受けようとも、おまえの犯した罪に比べれば軽すぎるぞ!」

 バルサモは眉をひそめ、宙を睨み、顎に掌を当てた。「いいだろう、科学とは言葉だけのものかもしれんし実行できるものかもしれん。可能か不可能かのどちらかだ。俺はやるぞ……やってやる……ロレンツァ! 俺はおまえを眠らせてやる。ロレンツァ、何処にいようとも、眠れ、眠るんだ。それが俺の願いだ!」

「いや、違う」バルサモは力を落として呟いた。「違う、今のは嘘だ。そんなことは思っちゃいない。願うつもりはない。だが俺には意思しかない、意思がすべてなんだ。確かに望んではいるが、俺という存在の持てる力のすべてをかけて望んでいるんだ。空気を切り裂いて進め、人智を越えた俺の意思よ! 悪意のある冷淡な意思の流れを蹴散らして進め。弾丸のように壁を通り抜けて進め。何処にいようとも追いかけてゆけ。打て、叩きのめせ! ロレンツァ、ロレンツァ、眠るんだ! ロレンツァ、口を開かないでくれ!」

 バルサモは標的に向かってしばし思念を飛ばし、パリに出たらさらに勢いをつけるつもりのように、その思念を脳に焼きつけた。あらゆるものの神や支配者に命を与えられている神聖な原子を一心に込めて、以上のことをおこなうと、バルサモはまたも歯を食いしばり、拳を固め、ジェリドの手綱を取ったが、今度は膝や拍車で打つようなことはしなかった。

 バルサモは自分自身を納得させようとしているようだった。

 やがてジェリドは暗黙の命令を読み取り、緩やかに脚を進めた。さすが名馬といった手並みで静かに舗道に置いた脚は、ほとんど音も立てなかった。

 その間バルサモは虚ろな目をして放心しているような顔つきで、対策を考えていた。ジェリドがセーヴルの舗石に触れた時には、答えが出ていた。

 公園の柵まで来ると、馬を止めて、待ち人でも捜しているように周囲に目を走らせた。

 すると確かに大門の下から人影が現れ、バルサモの方にやって来た。

「お前か、フリッツ?」

「そうです」

「確認は終わったか?」

「はい」

「デュ・バリー夫人はパリとリュシエンヌどちらにいる?」

「パリです」

 バルサモは勝ち誇ったように天を仰いだ。

「ここにはどうやって?」

「シュルタンに乗って来ました」

「今は何処に?」

「あの宿屋の中庭です」

「鞍はつけてあるな?」

「つけてあります」

「よし、準備してくれ」

 フリッツはシュルタンの綱を解きに行った。忠実で気性のいいドイツ馬である。無理をさせられれば多少の不満は表すものの、胸に空気がなくなったり乗り手が拍車を休めたりしない限り、前に進むことをやめようとはしない。

 フリッツが戻って来た。

 家畜店の店員たちが税金を計算するために一晩中灯している街灯の下で、バルサモは何か書いていた。

「パリに戻ってくれ。デュ・バリー夫人が何処にいようとも、本人にこの手紙を渡すんだ。三十分やる。それからサン=クロード街に戻って、シニョーラ・ロレンツァを待っていろ。必ず戻って来る。何も言わず何の邪魔もせずに通してやるんだ。では行け、三十分後には仕事を終わらせておかなくてはならないことを忘れるなよ」

「心得ました。心配ご無用」

 こう答えてバルサモを安心させるや否や、シュルタンに拍車と鞭をくれると、いつもとは違う荒々しい合図を受けたシュルタンは、不意打ちに驚いて痛ましいいななきをあげて走り出した。

 バルサモは徐々に落ち着きを取り戻し、パリに向かって再び走り出すと、四十五分後には冷ややかな顔でパリに入った。目は穏やかというよりは物思いに沈んでいた。

 バルサモは正しかった。砂漠の申し子であるジェリドの足がどれだけ速くとも間に合わない。牢獄から逃げ出したロレンツァに追いつけるのは意思の速さだけだ。

 サン=クロード街から出たロレンツァは、大通りに行き当たり、右に曲がるとやがてバスチーユ要塞が見えた。だがずっと閉じ込められていたロレンツァにはパリのことがわからない。それに何よりも独房でしかない忌まわしい家から逃げることだけを考えていたのだ。復讐は二の次だった。

 そういうわけで、わけもわからぬまま大急ぎでフォーブール・サン=タントワーヌに駆け込んだロレンツァだったが、その時、驚いて追いかけて来た若い男に声をかけられた。

 なるほどロレンツァはローマ近郊出身のイタリア人であったので、当時の習慣や服装、それに流行から外れた特異な生活をずっと営んで来た。だからロレンツァの恰好は欧州の女というよりは東洋の女のようだった。つまりゆったりとした大げさな恰好をしており、可愛い人形さんたちとはあまり似ていなかった。人形たちときたら長いブラウスの腰を雀蜂のようにぎゅっと絞り、揺れ動く絹やモスリンの下に目を凝らしても一見すると肉体も野心も存在するようには見えないのである。

 だからロレンツァが受け入れた、もとい採り入れたフランスの流行りものは、二プスのハイヒールだけであった。この耐え難い靴ときたら足も反るしくるぶしもすぐ痛くなるしで、この神話じみた世紀にあってアルペイオスたちに追われて逃げるアレトゥーサたちに耐え難い思いをさせていた。[*1]

 つまり我らがアレトゥーサを追いかけたアルペイオスが追いつくのは容易かったのである。繻子とレースのスカートから伸びた見事な足、髪粉のつけられていない髪、頭から首まで覆ったケープから覗く異国の炎に燃えた瞳。そんなロレンツァを見て、きっと変装して仮装舞踏会か逢い引きに向かう途中に違いない、辻馬車が見つからず歩いて郊外の家まで行くつもりなのだと考えた。

 そこで男はロレンツァのそばまで寄って帽子を取った。

「お待ちなさい! そんな歩きづらい靴を履いていては、とても遠くまでは行けませんよ。馬車のあるところまで腕を貸して差し上げますから、どうかご案内させて下さい」

 ロレンツァは慌てて振り返り、たいていの女性には無礼に感じられそうな申し出を口にした男を、黒く澄んだ目で見つめ、立ち止まった。

「お願い出来ますか」

 若い男が慇懃に腕を差し出した。

「どちらまで?」

「警察長官の邸まで」

 若者が震え上がった。

「ド・サルチーヌ氏のところに?」

「名前は知りません。ただ警察長官とお話ししたいんです」

 若者は考え込み始めた。

 若くて美しいご婦人が、異国風の服装をして、夜の八時に腕に小箱を抱えてパリの街路を走り、警視総監の邸をたずねていながら、そこに背を向けているのが疑わしい。

「警視総監の邸はここらへんではありませんよ」

「では何処に?」

「フォーブール・サン=ジェルマンです」

「フォーブール・サン=ジェルマンにはどうやって行けばいいのでしょう?」

「ここからなら――」相変わらず丁寧とはいえ平板な態度に変わっていた。「馬車を拾った方がいいでしょう……」

「馬車。仰る通りね」

 若者はロレンツァを大通りまで連れて行くと、辻馬車を見つけて声をかけた。

 御者が合図に応えてやって来た。

「どちらまで、マダム?」

「サルチーヌ氏の邸まで」若者が答えた。

 若者は最後まで礼儀を忘れずに、いや、驚きを隠せずに扉を開け、ロレンツァにお辞儀して乗り込むのに手を貸してから、馬車が遠ざかってゆくのを夢か幻でも見ているように見つめていた。

 御者はその恐ろしい名前には一目置いていたので、馬に鞭をくれて目的地に向かって走らせた。

 ロレンツァがロワイヤル広場を通り、アンドレが催眠状態の中で見聞きしたロレンツァの行動をバルサモに知らせていたのは、こうした時であった。

 二十分後、ロレンツァは邸の門前にいた。

「待っていましょうか?」御者がたずねた。

「お願い」ロレンツァは機械的に答えた。

 そして軽やかに、豪華な邸の大門をくぐった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXII「La volonté」の全訳です。


Ver.1 11/10/15

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[註釈・メモなど]

 ・メモ
※バルサモの足取り:ヴェルサイユ→セーヴル(Sèvres)→パリ。

※公園:サン=クルー公園?(Parc de Saint-Cloud)?

 ・註釈

*1. [アルペイオス]。ギリシア神話。河の神アルペイオスはニンフのアレトゥーサに恋をした。追いかけられたアレトゥーサは汗とともに水となって流れ落ち、やがて泉となった。[]
 

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