慌ただしい呼び鈴の響きを聞いて、取次が駆け込んで来た。
「あの女は?」ド・サルチーヌ氏がたずねた。
「どの女でしょうか?」
「ここで気を失った女だ。お前に頼んでおいたはずだ」
「あの女でしたらすっかり元気になりました」
「よかった。連れて来なさい」
「どちらに伺えばよいのでしょうか?」
「あの部屋に決まっている」
「あそこにはもうおりません、閣下」
「いない? では何処にいるんだ?」
「存じ上げません」
「出て行ったのか?」
「はい」
「一人で?」
「はい」
「だが一人では立てなかったはずだ」
「気絶してからしばらくはそうでした。ですがド・フェニックス様が執務室に案内されてから五分後に、精油も気付け薬も嗅がせていないのに目を覚ましたのです。目を開けて立ち上がると、嬉しそうに息を吸い込みました」
「それから?」
「それから戸口に向かいました。引き留めるようには命じられておりませんでしたので、そのまま立ち去らせました」
「立ち去らせた? 間抜けどもが! まとめてビセートルに放り込んでやりたいくらいだ! 急げ、大急ぎでを刑事長を呼べ」
取次は命令に従って大急ぎで出て行った。
「あいつは魔術師だ……私が国王陛下の警察長なら、あいつは悪魔の警察長だ」
サルチーヌ氏にはわけがわからなくとも、読者の方々には見当がついておいでだろう。拳銃の場面の直後、警視総監が我に返るまでの一瞬の隙を利用して、バルサモは四方位を確認し、その一つにロレンツァがいることを見抜いたのだ。そして目を覚まして部屋を出て、来たのと同じ道をたどってサン=クロード街に戻るように命じたのである。
バルサモがそれを心に念じると、二人の間に磁力の流れが生じ、それを感じたロレンツァが命令に従って目を覚まし、誰にも引き留められずに退出したのだ。
その晩サルチーヌ氏は床に入ってからも血を吐きそうなほど苦しんだ。混乱が大きすぎてただでは耐えられそうになかった。後十五分そんなことが続けば卒中で死んでいたと医者なら言うことだろう。
一方、バルサモは伯爵夫人を馬車まで見送り、いとまを告げようとした。だが伯爵夫人は目の前で繰り広げられた奇妙な出来事の意味を知らぬままに、或いは知ろうとせぬままにしておくような女ではなかった。
同乗を促されたバルサモは、ジェリドを馬丁に預けて隣に坐った。
「あたくしが誠実な人間かどうか、それに人を友人扱いしたのが口先だけからなのか心の底からなのかくらいは、おわかりになりますでしょう。リュシエンヌに戻るところだったんですのよ、国王が明日の朝いらっしゃると伺ったものですから。それでもあなたのお手紙を受け取って、あなたのために取るものも取りあえず駆けつけて来たんです。サルチーヌさんに目の前で陰謀だとか陰謀家だとか言われてぞっといたしましたわ。でもまずはあなたの目配せを確認して、ご希望に添うように行動したんです」
「あなたのためにたいしたことも出来なかったのに、お釣りが来るほどのことをして下さって恐縮の至りです。だが私にとっては天の助けでした。このたびのご恩は忘れません。お礼はいつか必ず。サルチーヌ氏の言葉を真に受けてはいけませんぞ。私は犯罪人でも陰謀家でもありません。私を裏切った人物がいましてね、警視総監はその人の手からあの小箱を受け取ったのですが、中身は化学上の秘伝なんですよ。あなたには是非とも伝授したいものですな。そのまばゆい美しさ、若さを永遠に保っていただきたいと考えておりますから。それはそうと、サルチーヌ氏はあの数字の羅列を見て、大法官府の助けを借りたのですが、その役人は間違いを指摘されたくないばかりに、自己流で数字を解読したのでしょう。以前に申し上げました通り、この種の技術というのは、中世に脅かされた脅威からまだ脱していないのですよ。あなたのように若く智的な考え方の持ち主を除けば、好意的に捉えては下さいません。今回の苦境から救っていただいたお礼は、いつか必ずさせていただきます」
「ですけど、あたくしが助けに来なかったらどうなっていましたの?」
「見せしめの意味で、フリードリヒ大王陛下のお嫌いなヴァンセンヌかバスチーユに入れられるところでした。一吹きで岩をも溶かす業を使えば、無論すぐに出ることは出来ますが、それだと小箱が取り戻せません。先ほど申し上げたように、中に仕舞ってある不可解な数字には、科学上の偶然によって永遠の闇から掬い上げられた秘密が詰まっているのです」
「嬉しいと同時にほっとしましたわ。つまり若返りの媚薬をいただけますのね?」
「はい」
「いついただけますの?」
「お気が早い。二十年後にお申しつけ下さい。子供に戻りたいわけではないでしょう?」
「ほんとに素敵な方ね。最後に一つだけいいかしら。そうしたら許してあげます、どうやらお急ぎみたいだから」
「お聞きしましょう」
「あなたを裏切った人がいるって仰ったじゃない。男かしら、女かしら?」
「女です」
「まあ伯爵殿ったら。恋愛がらみなのね!」
「まあそういうわけです。嫉妬に火がついてとうとう憎しみまで抱き、ご覧になったような結果と相成ってしまいました。私を殺せないことはわかっていたから、刺し殺そうとはせずに、監獄に入れるなり破滅させるなりしようとしたんですよ」
「破滅させるですって?」
「本人はそのつもりだったようですね」
「もう停めましょうか」伯爵夫人が笑い出した。「殺せないから裏切るだなんて、血管に水銀でも流れているのかしら? 死なないのはそのせい? ここで降りますか、それともご自宅までお送りしましょうか?」
「そこまでご迷惑を掛けることは出来ません。私にはジェリドがおりますから」
「あの風よりも速いという馬のこと?」
「きっとお気に召すはずです」
「確かに素晴らしい馬ね」
「あなた以外の人には乗らせないという条件で、よければお譲りいたしましょうか」
「ありがたいけど、やめとくわ。馬には乗らないし、乗ってもおっかなびっくりなんですもの。気持だけはいただいておくわ。じゃあ十年後に、媚薬を忘れないで下さいまし」
「二十年後と申し上げましたが」
「だって諺にもあるでしょう。『明日の百より……』って。ですから五年後にいただけるのでしたらなおのこと……何が起こるかなんて誰にもわかりませんもの」
「ではご所望の折りに。あなたのためなら何でもいたしますよ」
「最後に一つだけ」
「どうぞ」
「この話をするのはあなたを心から信用しているということにほかなりません」
バルサモは既に馬車から降りていたが、苛立ちを抑えて伯爵夫人に近づいた。
「噂では、国王はタヴェルネ嬢に気があるそうね」
「まさかそんなことが?」
「聞くところによるとぞっこんだそうじゃない。ちゃんと仰って下さらなきゃ駄目よ。本当のことだとしたら、遠慮はいらないわ。どうか友人として、真実を仰って」
「いくらでも申し上げます。アンドレ嬢が国王の寵姫になることは断じてありません」
「どうして?」
「私がそれを望まないからです」
「ふうん!」デュ・バリー夫人は疑わしげだった。
「お疑いですか?」
「何の保証もないじゃありませんの?」
「科学をお疑いになってはなりません。ウイと言った時には信じて下さったではありませんか。ノンと言った時にもお信じ下さい」
「つまりあなたには……?」
伯爵夫人は言葉を止めて微笑んだ。
「どうぞ最後まで仰って下さい」
「つまりあなたには、国王のお心を翻させたり、気まぐれに抗ったりする手段がおありのね?」
バルサモの口にも笑みが浮かんだ。
「私には人を好きになる気持を生み出すことが出来ます」
「ええ、わかります」
「わかるだけではなく、信じて下さい」
「信じます」
「ありがとうございます。反感を生み出すことも出来るし、必要とあらば、不可能を生み出すことも出来るのです。ですから安心して下さい、私が目を光らせておりますから」
バルサモはこうした言葉を錯乱したように切れ切れに発していた。バルサモがどれだけ急いでロレンツァに会いたがっているのか、その燃えるような思いを知っていれば、デュ・バリー夫人もそれを予知能力ゆえの昂奮だと誤解せずに済んだはずだ。
「よかった。やっぱりあなたはただの予言者ではなく、あたくしの守護天使でしたわ。伯爵殿、いいこと、あたくしもあなたを守るから、あなたもあたくしを守って下さいな。同盟を結びましょう!」
「同盟成立です」バルサモが答えた。
そして再び伯爵夫人の手に口づけした。
それからシャン=ゼリゼーに停められていた馬車の扉を閉め、馬に乗ると、喜びにいなないた馬を駆って夜の闇に姿を消した。
「リュシエンヌへ!」元気を取り戻したデュ・バリー夫人が命じた。
バルサモの方は口笛を鳴らし、軽く膝を締めて、急いでジェリドを走らせた。
五分後には、サン=クロード街の前に到着し、フリッツを見つめた。
「首尾は?」と不安げにたずねる。
「問題ありません」目の色を読み取って答えた。
「戻っているんだな?」
「上にいらっしゃいます」
「どの部屋だ?」
「毛皮の部屋です」
「様子は?」
「疲れ切った様子でした。待ち受けていたところ、随分と遠くから全速力で走って来たようでしたから、迎えに出る間もありませんでした」
「だろうな!」
「ぎょっといたしました。奥様は嵐のようにこちらに駆け込むと、息を整える間もなく階段を上がりましたが、部屋に入ろうとしたところで急に黒い獅子皮に倒れ込みました。そちらにいらっしゃるはずです」
バルサモが急いで階段を上ると、そこには確かにロレンツァがいた。発作に襲われ為すすべもなく痙攣に悶えている。かなり前から霊気に捕らえられ、激しい動きに身を委ねていたのだ。山に押しつぶされたような苦しみに呻きをあげ、両手でそれを押しのけようともがいていた。
バルサモはそれを見るや怒りに駆られ、ロレンツァを抱えて部屋に運び入れ、隠し扉を閉めた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXVI「Où M. de Sartine commence à croire que Balsamo est sorcier」の全訳です。
Ver.1 11/10/29
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