この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百二十七章 生命の霊薬

 ロレンツァの部屋に戻ったバルサモがどのような感情を持ったのかはご存じの通りである。

 そこでロレンツァを正気づかせ、無言でくすぶっている怒りをぶつけよう、怒りに囁かれるままに罰を与えてやろうと決意した時、天井が三度にわたって揺れた。帰宅を待ちかまえていたアルトタスが、話をしたいと知らせているのだ。

 だがバルサモは動かなかった。間違いではないのか、たまたまではないのかと念じていたのだが、焦れたように合図は繰り返された。そこで、以前にもあったようにアルトタスが降りて来るのではないか、ロレンツァが相克する霊力によって目覚めさせられ、政治上の秘密にも劣らぬ重要な新事実に気づくのではないか、と気を揉み始めた。そこでバルサモは、こういう言い方が許されるならば、新たな霊力の帯でロレンツァを包んでから、部屋を出てアルトタスの許へと向かった。

 ぎりぎりのところだった。屋根裏に通じている揚げ戸がずらされ、アルトタスが車椅子から離れて、出入り用に開けられた床の一部に屈み込んでいたのだ。

 バルサモがロレンツァの部屋から出て来たのをしゃがみ込んで見ていたアルトタスは、恐怖と嫌悪の入り混じった感情を表した。

 その白い顔に――まだ生きているらしきこの顔の一部に――怒りで朱が差した。骸骨のように細く節くれ立った指が、音を立てて震えた。奥まった目玉が眼窩の奥でぷるぷる揺れているようにも見え、バルサモでさえ聞いたことのないような激しい悪態がその口から撒き散らされた。

 バネを動かすために椅子から降りた姿は、まるで二本の腕だけで生きて動き回っている、細くくねった手脚を持つ蜘蛛のようだ。バルサモを除けば何人も入ることを許されないその部屋から、アルトタスは下の階に降りようとしているところだった。

 足の利かぬものぐさな老人が楽をするために利用していた車椅子から離れたり、世間並みの行動を取ろうとしたり、苦しい思いをして苦労してまで習慣を変えようしたりしたのは、それだけ昂奮していたからだ。そのせいで思索的な生活から離れて現実の生活に戻らざるを得なかったのだ。

 それを目撃したバルサモの驚きや如何。初めこそ呆気に取られたが、徐々に不安が兆し始めた。

「ふん、そちか! 師匠をほったらかしにしおって!」

 バルサモはいつものように出来るだけ心を静めて穏やかに話しかけた。

「ですが先生モナミ、先ほど呼ばれたばかりだと思いますが」

友人アミだと! 糞ったれめ! 確かに同輩相手のような口を利きよる。そちは友人だと思っておるのじゃろう。だが儂はな、友人どころか父親じゃぞ。そちを食わせ、育て、学ばせ、立派にしてやった父なのじゃぞ。友人だと? 嘘を言え! ほったらかして腹を空かせたまま殺そうとしおった癖に」

「先生、怒りに駆られて血を煮えくり返らせるから具合を損ねるのです」

「具合を損ねるだと! 笑わせおって! 儂が具合を損ねたことなど一度でもあったか? そちが惨めで汚らしい人間界に関わらせた時くらいじゃろう。具合を損ねるなどと! むしろ他人の具合を治す方だというのを忘れたのか?」

「とにかくこうして参りました。時間を無駄にするのはやめましょう」バルサモは冷静に答えた。

「そうじゃな。そちを呼んだのはほかでもない。時間、時間じゃよ。そちが急かしているその代物、人間一人一人に定められているとはいえ、終わりも果ても無かったらのう。だが儂の時間も流れておる。儂の時間も失われておる。他人と変わらず、一分ごとに永遠に消えてしまうのじゃよ。儂の時間くらいは永遠にあってもよいではないか!」

「とにかく先生」バルサモは自制し続けた。揚げ戸を床まで下げて傍らに降ろすと、バネを動かして部屋に戻らせた。「何のご用でしょうか? 腹を空かせていると仰いましたが、四十日間の断食の最中ではありませんでしたか?」

「さよう、そうじゃよ。若返りの準備には三十二日前から取りかかっておる」

「でしたら何が問題なのでしょうか? 雨水の入った水差しはまだそこに幾つかありますし、お一人で飲むには充分ではありませんか」

「さよう。だがな、儂のことを蚕だとでも思っておるのか? 同じ大仕事といっても、繭を作ったり成虫になったりするのとはわけが違うのだぞ。もう力もないというのに、儂一人だけで生命の霊薬を作れると思っておるのか? 横になったまま渇きを癒す水だけ飲んで衰弱しているような状態で、きちんと頭が回るとでも思っておるのか? 若返りという大仕事にはひどく神経を使うことぐらいは承知しておるじゃろうに。儂一人だけ残されても、友人の助けがなければどうにもならん」

「こうしてやって来ましたから安心して下さい」バルサモは醜い子供をあやすように、うんざりしながらアルトタスを椅子に坐らせた。「いったい何だと言うんです。さっきも言ったように、蒸留水はまだ三つ分も水差しに残っていますよ。五月にしっかりと集めておいたんですから。大麦と胡麻の乾パンもまだあるでしょう。三度するうちの二度目の刺絡も済ませましたし、あなたが処方した白い水薬も十日ごとに投与しているじゃありませんか」

「さよう。だが霊薬じゃ! 霊薬が完成しておらぬ。そちはいなかったのだから知らぬじゃろうな。そちの父御の頃の話じゃわい。そちよりよほど師匠思いであったぞ。五十年前には、一月前に霊薬が完成しておった。儂がアシャラ山に籠もっていると、ユダヤ人が金の袋と引き替えにキリスト教徒の乳呑み児を用意してくれたものじゃ。儂は儀典に則って血を抜き、最後の三滴を採取した。足りなかった成分が加えられ、こうして霊薬は完成した。このようにして、五十年前には見事に若返ることが出来たのだ。至福の霊薬を飲み下すと、身体が痙攣して髪も歯も抜け落ちた。だがすぐに新しいのが生えて来たわい。歯は完全とはいかなかったがの。それというのも喉の奥に霊薬を流し込むのに、ついつい金の管をあてがうのを怠ってしまっての。だが髪と爪は若さを取り戻すと同時に生え替わり、十五歳の頃のように力が漲って来た……だが儂は再び老い、最期の時が迫って来た。霊薬が用意できなければ、この壜に満たされなければ、心して調合に努めなければ、一世紀に及ぶ科学知識は儂と共に滅び、儂が手に入れた崇高なる科学は失われてしまうのじゃぞ! この科学さえあれば人類は儂と共に儂を通して神に近づくことも出来るというのに! よいか、儂がしくじったら、間違ったら、やり損じたら、アシャラよ、そちじゃ、原因はそちにある。覚えておくがいい、儂の怒りは凄まじいぞ。ただではおかぬ!」

 脅し文句を口にすると、生気の失せた瞳に鉛色の火花を浮かべ、小さくびくりと震えてから激しく咳き込み始めた。

 それを見たバルサモが必死になって介抱した。

 アルトタスの咳もようやく治まった。青白かった顔色はますます蒼白になり、今回の発作で体力を奪われ死に近づいているのが目に見えるようだった。

「先生、どうぞ何でも仰って下さい」

「儂は……」アルトタスはバルサモをじっと見つめた。

「はい……」

「儂の望みは……」

「何でも言って下さい、出来ることであれば何でも言う通りにします」

「出来ること……出来ることだと!」嘲りの声をあげた。「出来ぬことなどないのだぞ」

「そうなのでしょう。時間と科学さえあれば」

「科学は手にしておる。時間だ。儂を打ち負かそうとするのは時間なのだ。薬は上手く出来た。儂の力はほとんど無くなった。白い水薬のおかげで古い組織は半ば排出された。若さとはの、春先に木々が古い樹皮の下で樹液を溜め、古い木々を押しやるようなものじゃ。徴候ははっきりしておるから、アシャラよ、そちも気づくであろう。声は弱まり、視力は半分以下に落ち、理性が飛ぶことさえある。温度の変化にも何も感じなくなってしまった。だから大急ぎで霊薬を完成させなくてはならんのだ。再び五十年目が訪れるその日には、一刻の猶予もなく百歳から二十歳に若返らなくてはならん。霊薬に必要な材料はもう揃っているし、管も作り終えておる。申したであろう、ほかに足りないのは血が三滴だけなのだ」

 バルサモがぞっとしたような仕種を見せた。

「もうよいわ。子供は諦めた。もう探さんでいいぞ。好きなだけ恋人と乳繰り合っておればよい」

「ロレンツァは恋人ではありませんよ」

「ほっほっほっ、そうかそうか。世間だけでなく儂にもそう言い張るつもりか。汚れのない存在だ、と思わせたいのかもしらんが、そちも男じゃろう!」

「言っておきますが、ロレンツァは聖母のように清らかです。私はこの世の愛も欲望も快楽も、目的のためにすべて犠牲にして来たのですから。実を言えば、古い殻を破ろうと思っているんです。個人的に変わるだけじゃない、全世界を新しく作りかえて見せます」

「キ印め! こやつと来たら、そのうち蚤の変革や蟻の革命の話も始めかねんぞ。こっちは永遠の命や若さの話をしておるというのに」

「恐ろしい犯罪と引き替えにしないと手に入れられないうえに……」

「要は信じておらんのじゃろう、愚か者め!」

「そうじゃありません。それはともかく、子供を諦めると仰いましたが、どうするおつもりなのですか?」

「無垢な人間が手に入り次第じゃ。男でも女でも構わんが、やはり生娘に越したことはない。異性間の相性が原因で、そうなるらしい。急いで見つけて来てくれ、後一週間しかない」

「わかりました。検討して探してみましょう」

 アルトタスの目に、先ほどよりも恐ろしい炎が燃え上がった。。

「検討して探してみるだと! それがそちの答えか。まあわかっておったわ。驚きもせん。いったいいつから被造物が造物主にそんな口を利けるようになったのだ? 儂が力なく横になって頼んでおるのがわからぬのか。そちは当てにならぬほど愚鈍なのか? ウイかノンじゃよ、アシャラ、躊躇いや嘘があれば目に出ることを忘れるな。儂にはそちの心が読めるのだからな。きっと見定めて懲らしめてくれよう」

「先生、あまり怒ると身体に毒です」

「答えろ!」

「本当のことしか言えないんです。二人とも傷ついたり破滅したりせずに先生の望んだものを手に入れられるかどうか検討してみます。先生が必要としている生娘を売ってくれる人間を探してみます。ですが罪を犯すつもりはありません。今ここで言えるのはそれだけです」

「なかなか厄介じゃの」アルトタスは冷笑を浮かべた。

「事情はご説明いたしました」

 アルトタスはかなり無理をして、椅子の肘掛けに腕を置いて立ち上がった。

「ウイかノンじゃ!」

「先生、見つかればウイ、見つからなければノンです」

「儂を殺すつもりか。けちな生き物から血を三滴いただくのを惜しむばかりに、儂のような完璧な人間が永劫の深淵に沈むことになるのじゃぞ。もうよい、アシャラよ、そちにはもう何も言わん」老人は見るからにぞっとする笑みを浮かべた。「何一つ頼まん。待つことは待つとしよう。じゃがの、言うことが聞けぬというのなら、一人で何とかするまでだ。見殺しにするというのなら、自力で切り抜けてみせるわい。わかったか、のう? さっさと行け」

 バルサモは脅しには答えずに必要なものを調え、水と食べ物を手の届くところに置いた。その間、忠臣が主人に、孝行息子が父親に払うような細心の注意を払っていた。それからアルトタスが考えているのとは別のことに頭を悩ませながら、揚げ戸を降ろして下に向かった。心は遠くに行っていたので、アルトタスが皮肉な目つきで同じくらい遠くまで目で追っていることには気づきもしなかった。

 バルサモが眠り続けるロレンツァの許に戻ると、アルトタスが悪鬼のような笑いを浮かべた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXVII「L'élixir de vie」の全訳です。


Ver.1 11/10/29

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