デュバリー夫人の目の前で扉が閉まり切るのも待たず、バルサモは隠し階段を上って毛皮の部屋に取って返した。
夫人との会談が長びいてしまった。バルサモが急いでいるのには二つの理由があった。
一つにはロレンツァに会いたい気持ち。二つ目にはロレンツァの体力が持たないのではないかという恐れだ。というのも、新しい人生をもたらされたばかりゆえ、厄介ごとに耐えられるだけの余裕がない。ままあることだが催眠状態からトランス状態に陥ってしまうせいで体力を削られてしまうのだ。
トランス状態の後にはたいてい神経の発作が起こるので、霊力で回復させて身体機能を上手く調整しなければロレンツァが疲弊してしまう。
バルサモは扉を閉め、ロレンツァが横たわっているはずの長椅子に急いで目を向けた。
ロレンツァはいなかった。
あるのは花模様の金糸刺繍が施されたカシミアのケープだけだった。さっきまで肩掛けに用いていた、長椅子に取り残されたそのケープだけが、持ち主が確かにこの部屋にいたし、この長椅子の上で休んでいたことの証拠だった。
バルサモは強張ったまま、空っぽの長椅子から目を離すことが出来なかった。部屋に漂っている嫌な匂いに耐えかねて出て行っただけに違いない。本能が現実の生活を凌駕して、無意識に部屋を変えたのに違いない。
最初に思いついたのは、先ほどまで一緒にいた研究室に戻ったのだろうということだ。
そこで研究室に行ったが、見たところ誰もいないようだ。だが中東のタペストリーの裏にある巨大な竈の陰になら、女一人くらい容易く隠れられる。
バルサモはタペストリーをめくって竈を一回りした。一時的にでもロレンツァがいたという形跡すら何処にも見つけられなかった。
残るはロレンツァの寝室だ。自室に戻っているのだろう。
あの部屋は昨日のような状態のロレンツァを閉じ込めておくための牢獄だ。
バルサモは部屋まで急いだが、羽目板は閉まっていた。
とは言えロレンツァが部屋に戻っていないという証拠にはならない。何故なら、催眠状態で千里眼に目覚めているロレンツァならこの仕掛けを覚えていることは否定できないし、覚えているのなら頭の中に残っている夢の欠片に従うことも否定できないからだ。
バルサモはバネを押した。
研究室同様、部屋は空っぽだった。ロレンツァはここに足を踏み入れてさえいないようだ。
ここに至って、前々から心に巣食っていた悪い予感が、ロレンツァは幸せなのだという想像や期待を一掃してしまった。
ロレンツァは演技していたのだろう。眠っているふりをして、バルサモの心に居着いていた疑念や不安や警戒を逸らしていたのだろう。そうして自由になる機会を得るや否や、またもや逃げ出したのだ。前回前々回の教訓を踏まえ、これまで以上に確実を期して。
バルサモはそう確信するや呼び鈴を鳴らしてフリッツを呼んだ。
だがフリッツがなかなか来ないことに苛立って、バルサモの方から部屋を飛び出すと、隠し階段のところでフリッツと出くわした。
「シニョーラは?」
「どういたしました?」バルサモの慌て方を見て、何かただならぬことが起こったのだとフリッツは理解した。
「見かけたか?」
「そのようなことは」
「出ては行かなかったんだな?」
「出て行くとは何処からでしょうか?」
「この家からに決まってるじゃないか」
「ここから出たのは伯爵夫人だけです。その後で私が扉を閉めに参りましたから」
バルサモは気が狂ったように部屋まで駆け戻った。眠っている時のロレンツァは目の覚めている時とは違い、子供っぽいことをすることもあった。片隅に身を潜めて怯えたバルサモの心を読んだこともあったし、そうやってバルサモを怯えさせた後で安堵する姿を見るのを面白がったりしていた。
そこでバルサモはつぶさに捜索を開始した。
部屋の隅を見るのも怠らず、箪笥の中を確認するのも忘れず、衝立も移動させた。その姿は情熱のあまり理性を失った人間、もはや何も見えていない狂人、酩酊してふらついている人間の姿そのものだった。もはや両腕を広げて叫ぶ力しか残されていなかった。「ロレンツァ! ロレンツァ!」と叫べば、喜びの声をあげて腕の中に飛び込んで来るのではないかという望みを抱いて。
だがそのほとばしる思いや狂わんばかりの呼びかけに応じたのは、ただ沈黙のみ。陰鬱な静寂が続いているだけであった。
走り回り、家具を揺すり、壁に呼びかけ、ロレンツァの名を叫び、見えない目を向け、利かなくなった耳をそばだて、生気のない鼓動を鳴らし、考えることも出来ずに震え、そんな状態のまま三分が過ぎた。バルサモにとっては三世紀にも匹敵する苦悶の一時であった。
狂ったような錯乱からようやく抜け出すと、甕に入った冷たい水に手を浸し、こめかみを濡らして、動かすまいとするかのように左手で右手を押さえ込み、脳内で脈打つ煩わしい鼓動の音を意思の力で締め出した。逃れようもなく絶えず規則的に脈打つその音こそ、ただ静かに拍動しているだけなら生きている徴だが、それとわかるほど激しく動き始めたときは死と狂気の予兆にほかならない。
「よし、冷静になろう。ロレンツァはもう此処にはいない。言い逃れはすまい。ロレンツァはいないんだ。つまり出て行ったということだ。間違いない、出て行ったんだ!」
それでももう一度周りに目を走らせてから、再び名前を呼んだ。
「出て行ったんだ! いくらフリッツが見ていないと言い張ろうと、出て行ったんだ。まんまと出て行っちまった。
「可能性は二つある。
「一つは実際に見なかった可能性だ。あり得ない話ではない。人間は完璧ではないからな。もう一つはロレンツァに買収された可能性だ。
「買収? フリッツが?
「ないとは言い切れん。これまでが忠実だったからといって、こうした推測を否定する理由にはならん。ロレンツァや愛や科学だってここまで人を欺いたり嘘をついたり出来るのだ、脆くて意志の弱い人間という生き物が誤りを犯してもおかしくはあるまい?
「待て待て! 俺には何だって知ることが出来るじゃないか! まだタヴェルネ嬢がいるではないか。
「アンドレを使えばフリッツが裏切ったかどうかわかる。ロレンツァが裏切ったかどうかわかる。今度ばかりは……愛情も偽りで、科学も誤りで、忠誠も罠だったとすれば……今回ばかりは加減も遠慮もせんぞ。慈悲を捨て去り誇りを抱いて、復讐に燃える人間として思う存分に罰を与えてやる。
「そうと決まれば急いで出かけるとしよう。フリッツに気づく暇を与えてトリアノンに逃げる機会を与える必要もない」
バルサモは床に転がっていた帽子をつかんで戸口に走った。
が、慌てて立ち止まった。
「そうだ、その前に……あの老人のことをすっかり忘れていた! まずはアルトタスの様子を確認しておかなくては。狂気に囚われたようになって愛という感情に掻き乱されている間中、ずっとほったらかしだったじゃないか。俺も恩知らずで薄情な男だよ」
バルサモは昂奮に突き動かされるがまま、バネに近づき天井の仕掛けを動かした。
すぐに昇降台が降りて来た。
バルサモはその上に飛び乗り、錘を作動させて上昇させたが、その間も心は千々に乱れ、ロレンツァのことよりほか考えられずにいた。
アルトタスの部屋まで来ると、老人の声が耳を打ち、バルサモは悲痛な夢から引きずり出された。
ところが驚いたことに、アルトタスの第一声は覚悟していたのとは違い罵倒ではなかった。飾り気のない無邪気な歓声で迎えられたのだ。
バルサモは訝しげに師匠を見つめた。
アルトタスは車椅子に反っくり返っていた。満ち足りた様子で大きく息を吸い込んでいる。息をするたびに生の喜びを吸い込んでいるかのようだった。目には暗い炎が満ちていたが、口許に花開いた微笑みによって表情は華やいでいた。暗い炎を宿したその目が、バルサモに絡みついていた。
バルサモは動揺を見せるまいと、力を込めて意識を集中させた。弱さを見せればたちまち咬みつかれる。
集中しているごく短い間にも、バルサモの胸には奇妙な重みがのしかかっていた。不純物が多すぎて空気が汚染されているのだろう。強く饐えた生ぬるい匂いに吐き気がする。階下にいる時から感じてはいたがこれほど強くはなかった匂いが、今は空気中に漂っている。秋になると日の出や日の入りに湖沼から立ちのぼる瘴気のように、粒となって窓ガラスを曇らせていた。
澱んだ空気のえぐさに、バルサモは胸が悪くなった。頭が働かなくなり、眩暈に襲われた。酸素と力がいっぺんに足りなくなるのがわかった。
「先生」バルサモは倒れないように摑まれる場所を探し、大きく息を吸い込もうと努めた。「先生はこんなところで暮らしていられるのですか。息も出来ないじゃありませんか」
「そうか?」
「先生!」
「じゃが儂はたっぷり息を吸っておるぞ!」アルトタスは嬉々として答えた。「それでも生きておる」
「先生、先生」頭がどうかなってしまいそうだった。「気をつけていただかないと。窓を開けさせてもらいますよ。これじゃあまるで、床から血の瘴気でも湧いているみたいじゃありませんか」
「血か! 気づいたか!……血か!」アルトタスがからからと笑い出した。
「そうですとも! 殺されたばかりの死体から漂って来るような匂いがします! それがねっとりとまとわりついて、まるで脳と心に錘でも付けられたようです」
「そうじゃろう、そうじゃろう」老人が薄笑いを浮かべた。「儂はとうに気づいておったぞ。そちの心が繊細で、脳があまりにも脆弱だということにな、アシャラ」
「先生」バルサモは老人の手を指さした。「先生の手にも血がついてます。このテーブルにも血がついてます。何処も彼処も血だらけで、炎のように輝く先生の目の中にまで血がついているじゃありませんか。先生、此処に充満している匂いは――眩暈がするような匂いは――息が詰まりそうな匂いは――血の匂いですね」
「ほう、そうか?」アルトタスは動じなかった。「こんな匂いを嗅いだのは初めてか?」
「そんなことはありません」
「儂の実験を見たことはなかったか? そちも実験したことはなかったか?」
「だがこれは人間の血だ!」バルサモは汗に濡れた額を押さえた。
「そいつはたいした嗅覚だな。人間の血と動物の血を嗅ぎ分けることが出来るとは思わんかった」
「人間の血です!」バルサモが呟いた。
ふらつく身体を支えようとして、バルサモは家具の角につかまろうとした。そこで銅製のたらいに気づいてぎょっとした。鏡のように磨かれた内壁に、真新しく瑞々しい真っ赤な血の色が反射していたのだ。
たらいは半分ほど満たされていた。
バルサモはおののいて後じさった。
「血だ! どうやって手に入れたのです?」
アルトタスは無言だった。だがその目に睨まれているせいでバルサモは動揺からも混乱からも恐怖からも囚われたままだった。突如としてバルサモが恐ろしい声で吠えた。
獲物に飛びかかる獣のような姿勢で部屋の片隅に駆け寄り、床から絹のリボンを拾い上げた。金の刺繍のあるそのリボンからは、長い黒髪が一房垂れていた。
身を切るような痛ましい悲鳴がやむと、死んだような沈黙が部屋を支配した。
バルサモは震える手でゆっくりとリボンを持ち上げ、その黒髪をよく確かめた。一端は金の髪留めでリボンの端に留められ、反対端は綺麗に切り揃えられている。赤く泡立った滴が髪の先からしたたっているところを見ると、どうやら先端が血に染まった前髪のようだ。
持ち上げるにつれ、手の震えが大きくなった。
汚れたリボンを見返すたび、顔から血の気が引いて行った。
「これがどうしてここに?」呟いたつもりの声はことのほか大きく、図らずも問いかける形になっていた。
「それか?」
「ええ、これです」
「これは、髪を束ねる絹のリボンじゃな」
「そうではなくこの髪です。この濡れているのは何です?」
「見ての通り、血じゃな」
「何の血ですか?」
「たわけたことを! 霊薬に必要な血じゃよ。そちが拒んだ血、儂に必要な血じゃ。そちに断られたから自分で手に入れたまでよ」
「ですがこの髪は――この編み込みは――このリボンが、どうしてここに? どう見ても子供のものではありません」
「子供の喉を掻き切ったとは言っておらんぞ」アルトタスは落ち着き払って答えた。
「しかし、霊薬には子供の血が必要だったのではありませんか? そう仰ったではありませんか」
「または生娘の血じゃよ、アシャラ」
アルトタスは骨張った手を肘掛けから伸ばしてフラスコをつかみ上げ、その中身を嬉しそうに味わった。
それから悪びれた様子もなく、愛情たっぷりの声で語りかけた。
「助かったぞ、アシャラ。目端を利かせて備えておったのだな。この部屋の真下、儂の目と鼻の先にあの女を住まわせておくとは見上げたもんじゃ。人類であろうと世の理であろうと何も言わせん。生娘が手に入らず死にかけていたというのに、そちは届けてはくれんかった。だから儂が手ずから摑み取っておいたぞ。はは! 済まんな、礼を言うぞ、アシャラ」
そう言うと、アルトタスは改めてフラスコに口唇を寄せた。
バルサモの手から髪の房が落ちた。目の前が真っ白になり、脳が揺らいだ。
目の前にアルトタスの作業台があった。いつもならこの大理石の作業台いっぱいに、薬草や書物やフラスコが所狭しと並んでいるはずだった。それが今はくすんだ花模様をあしらった白い緞子のシーツで覆われていて、そのシーツにランプが赤い光を投げかけ、不気味な輪郭を浮かび上がらせている。今になってようやくバルサモもそれに気づいた。
バルサモはシーツの端を摑んでひと息に剥ぎ取った。
途端に髪は逆立ち、開いた口からは喉を詰まらせたような恐ろしい悲鳴がほとばしった。
シーツの下から現れたのはロレンツァの死体だった。ロレンツァは大理石に横たえられ、顔は土気色だというのに今も微笑みをたたえ、長い髪の重さに引っ張られたように顔を仰け反らせていた。
鎖骨の下に開いた大きな傷口からは、もはや血の一滴も流れてはいない。
両手は強張り、目は薄紫色の瞼の下で閉じられていた。
「さよう、生娘の血じゃよ。生娘の動脈血の最後の三滴、それが儂には必要じゃった」アルトタスはまたもやフラスコに口を近づけた。
「人でなしめ!」絶望の叫びが毛穴の一つ一つから洩れ出しているようだった。「死んでしまえばいい。ロレンツァは四日前から俺の恋人だった、俺の妻、俺の女だったんだ! 殺しても何の意味もない……ロレンツァはもう生娘じゃなかったんだからな!」
この言葉を聞いてアルトタスの目が揺らいだ。電流に貫かれたように眼窩の中で眼球が跳ねた。瞳孔が恐ろしいほど広がった。歯のない代わりに歯茎が軋りをあげた。手からフラスコが擦り抜け、床に落ちて粉々に割れた。アルトタスは心と頭を同時に打ち砕かれ、すっかり呆けて押し潰されたように、ゆっくりと椅子に倒れ込んだ。
バルサモは泣きながらロレンツァの遺体にすがりつき、血塗れの髪に口づけすると意識を失った。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXXI「Le sang」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月2日(連載第131回)
Ver.1 11/11/26
Ver.2 25/06/01
[註釈・メモなど]
・メモ
[更新履歴]
・25/06/01 Et Althotas allongea sa main amaigrie sur le bras du fauteuil, et y prit une fiole dont il savoura le contenu avec délices. savourer はこの場合、「楽しみを味わう」ではなく、文字通り「食べ物を味わう」の意なので、「アルトタスは骨張った手を肘掛けに伸ばしてフラスコをつかみ上げ、その中身を嬉しそうに眺め回した。」 → 「アルトタスは骨張った手を肘掛けから伸ばしてフラスコをつかみ上げ、その中身を嬉しそうに味わった。」に訂正。
・25/06/01 En face de lui, la table du vieillard, cette immense table de marbre, toujours remplie de plantes, de livres, de fioles ; devant lui cette table était recouverte d'un long drap de damas blanc à fleurs sombres, sur lequel la lampe d'Althotas envoyait sa rougeâtre lueur et dessinait de sinistres formes que Balsamo n'avait pas encore remarquées. 最後の部分は大過去形なので、「(さっきまでは)まだ気づいていなかった→今は気づいている」ということだろう。「正面にはアルトタスの作業台がある。いつもならこの大理石の作業台は、植物や本やフラスコでごちゃごちゃしていた。それが今は薄気味悪い花柄の白緞子のシーツで覆われており、ランプから放たれた赤みを帯びた光の先には忌まわしい輪郭が浮かんでいたが、バルサモはまだそれには気づいていなかった。」 → 「目の前にアルトタスの作業台があった。いつもならこの大理石の作業台いっぱいに、薬草や書物やフラスコが所狭しと並んでいるはずだった。それが今はくすんだ花模様をあしらった白い緞子のシーツで覆われていて、そのシーツにランプが赤い光を投げかけ、不気味な輪郭を浮かび上がらせている。今になってようやくバルサモもそれに気づいた。」に訂正。
・25/06/01 「」 → 「」
[註釈]
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▼*2. []。
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▼*6. []。
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