ロレンツァの予言通り、門を叩いていたのはデュ・バリー夫人だった。
この美しき貴婦人は応接室に案内されると、バルサモが来るまで死に関する風変わりな本を眺めていた。マインツ製になるこの本には、見事な版画によって、死が男の生を掌握している様子が表現されていた。死は、恋人の手を握ったばかりの男を舞踏室の戸口で待ち伏せしていたり、水浴びをしている水の底に男を引きずり込んでいたり、狩りに持って行く銃身の中に潜んでいたりした。
一人の婦人が化粧をしたり鏡に姿を映したりしている版画まで進んだところで、バルサモが扉を開けて、にこやかに挨拶した。顔中に喜びが溢れている。
「お待たせして申し訳ありません。距離を見誤ったうえに、あなたの馬がどれだけ速いのか存じ上げませんでしたので、まだルイ十五世広場にいらっしゃるものとばかり思っておりました」
「何ですって? あたくしが来ることをご存じでしたの?」
「無論です。二時間ほど前、青繻子の寝室にいらっしゃるあなたが、馬車に馬を繋ぐようお命じになっているところを目にいたしましたから」
「青繻子の寝室にいたですって?」
「生き生きとした色の花綵が飾られている部屋です。長椅子に横たわっておいででした。その時、『ド・フェニックス伯爵に会いに行こう』という素晴らしい考えを思いつかれ、呼び鈴を鳴らしたではありませんか」
「誰がやって来たかご存じ?」
「ご
「あなたって本当に魔術師なのね! 一日中あたくしの寝室を覗いてらっしゃるの? 教えて下さらなきゃ困るじゃありませんの!」
「ご安心下さい。目に見えるところしか見てはおりません」
「目に見えるところだけ覗いて、あなたのことを考えているとわかったというの?」
「はい。しかも好感をもって考えて下さっていました」
「もちろんよ。あなたのことは素晴らしい方だと思ってますもの。でも正直に言うと、それ以上に親切でかけがえのない方だと思っておりますの。あたくしの人生において保護者の役を演じて下さることになるんじゃないかしら。どう考えても何よりも難しい役どころですけど」
「返す返すも光栄に存じます。それで、お役に立てることがございますか?」
「あら!……やっぱり魔術師なのね、それとも見抜いていたわけではないの?」
「それについては差し控えさせていただけませんか」
「そういうことなら。じゃあまず、あなたのためにして差し上げたことについて話をしましょうか」
「その必要はございません。むしろ伯爵夫人についてお話を聞かせていただけませんか」
「いいわ。では差し当たっては、姿が見えなくなる石を貸して頂戴。大急ぎでここに来る途中で、ド・リシュリューさんの密使を見かけたような気がしたの」
「それで、その密使は……?」
「伝令と一緒に馬車を尾けていたわ」
「これをどうお考えになりますか? 公爵はどういう目的であなたを尾けていたのでしょう?」
「あの人流の嫌がらせをするつもりじゃないかしら。あなたは謙遜なさるけれど、あなたは王さえ妬むような幸運を神から授かっている方よ……こうしてあなたのところを訪れたり、あたくしのところに来ていただいたり」
「リシュリュー氏でしたら、如何なる場合でもあなたにとって危険はございません」
「それが危ないところでしたの。もう少しで一大事になるところだったんですから」
ロレンツァがまだ見抜いていない秘密のあることをバルサモは嗅ぎ取った。そこで見知らぬ領域にわざわざ踏み込むことは避け、微笑みによって返答に代えた。
「リシュリューさんは危険な方よ。あたくしったらもう少しで、あなたも参加していた巧妙な陰謀の犠牲になるところだったんですもの」
「私が? あなたに対する陰謀に参加したと? まさか!」
「リシュリューさんに媚薬を差し上げたのはあなたじゃありませんの?」
「媚薬とは?」
「狂えるほどの恋に落ちる媚薬です」
「それは違いますな。大方リシュリュー氏がご自分で処方なさったのでしょう。作り方はとっくの昔にご存じのはずですから。私はただの麻酔薬しか差し上げませんでした」
「本当ですの?」
「名誉にかけて」
「ちょっと待って、公爵殿はいつ麻酔薬をお求めになったの? 思い出して頂戴、重要なことなの」
「この間の土曜日のことです。ド・サルチーヌ氏のところに来ていただきたいというあなた宛ての手紙をフリッツに託した日の前日のことでした」
「あの日の前ですって! 国王がタヴェルネ嬢のところに行くのを目撃された日の前日ってことじゃない? それですっかり説明がついたわ」
「でしたら、私が関わっているのは麻酔薬だけというのもご理解いただけたでしょうか」
「ええ、あたくしたちが救われたのは麻酔薬のおかげよ」
今回ばかりはバルサモにも話の見当がつかなかったので、相手の出方を待つことにした。
「たとい偶然にせよ、お役に立てたのならこれに勝る喜びはありません」
「あら、あなたはいつだって素晴らしかったわ。でもまだしてくれていないことで出来ることはたくさんありますもの。ああ
「医者は治療のために詳しい病状を知らなくてはなりません。できればどんな徴候も省かずに、どうかもっと詳しく話していただけませんか」
「幾らでもお聞かせしますわ、お医者さん。それとも魔術師さんの方がいいかしら。麻酔薬が使われた日の前日のことです、陛下がリュシエンヌに立ち寄るのを見合わせて、疲れたことを理由にトリアノンに残ったんですの。後で知ったのですが、陛下が嘘をついたのは、ド・リシュリュー公爵とド・タヴェルネ男爵と一緒に夜食を摂るためだったんです」
「そういうことか!」
「わかっていただけたわね。その夜食の間に、恋の媚薬が垂らされたに違いないの。国王はとっくにアンドレ嬢に夢中ですもの。翌日になってもあたくしに会いに来ないのは目に見えてましたわ。だからあの子の部屋で何かがおこなわれたはずなんです」
「それで?」
「それだけよ」
「何が起こったのでしょうな?」
「正確なことはわからないわ。陛下が使用人棟の方に向かわれたのを見たと言って知らせてくれた人がいるの。つまりアンドレ嬢の部屋の方ってことね」
「アンドレ嬢の住まいは存じております。それからどうなりました?」
「それからですって! 馬鹿なこと言わないで頂戴! お忍びの陛下を尾けるなんて危ない真似できるわけないじゃない」
「しかし最終的には?」
「あたくしに言えることはね、嵐の中をトリアノンまで戻っていらした陛下の顔は青ざめ、身体は震え、錯乱したように熱を出してらっしゃったってことだけ」
「国王が怯えていたのが嵐だったとは思ってらっしゃらないでしょうな?」バルサモが笑みを浮かべてたずねた。
「ええ。第一、従者が叫び声を聞いているんですもの。何度も『死んでいる! 死んでいる!』と叫んでいたそうよ」
「ああ!」
「麻酔薬だったのね。国王が死ほど恐れているものはないし、死者の姿がその次に怖いんですもの。不自然に眠っているアンドレ嬢を見つけて、死んでいると思い込んでしまったんじゃないかしら」
「なるほど、死んでいたのなら、アンドレを起こさずに逃げ出したのもうなずける。死んでいたか、または死んだように見えていたのなら。それで合点が行く。それからどうなったんです?」
「結局、その夜には何も起こらなかったの。少なくともその夜の初めには。国王はただ部屋に戻っていらして、激しい熱を出してがたがたと震えていたので、翌日になるまで何も起こらなかったんです。そのうち王太子妃殿下が陛下のお部屋を開けて、にこやかにお顔を照らす太陽をお見せしようとお考えになったんですの。でも夜のうちに生み出されていた恐ろしい幻覚は、夜と共に消え去っていたようでしたわ。
「昼頃にはかなりお元気になって、ブイヨンと山鶉をお召しになり、夜には……」
伯爵夫人はそこで口を閉じ、他人には真似できないような微笑みを浮かべてバルサモを見つめた。
「夜には?」
「ええ、前夜に恐ろしい体験をしたトリアノンにはいらっしゃりたくなかったんでしょうね、夜にはリュシエンヌにおいでになりましたの。そこであたくしは、リシュリューさんがあなたと同じくらい優れた魔術師だということに気づいたという次第なんです」
伯爵夫人の勝ち誇った顔や、優雅で嫋やかな仕種で話すのを見て、まだまだ王に対する影響力が夫人からは失われていないことを知って満足した。
「それでは、私には満足していただけたのですな?」
「それ以上よ。不可能を生み出せると仰ったのは本当のことでしたのね」
伯爵夫人は感謝の印に、香水をつけた白く柔らかい手を伸ばした。ロレンツァの手ほど瑞々しくはなかったが、その温もりには同じくらいの感情が籠もっていた。
「今度はあなたの番よ、伯爵」
バルサモは男らしくお辞儀して耳を傾けた。
「危険から守って下さったんですもの、今度はあたくしがあなたを少なからぬ危険から救って差し上げる番だったのじゃなくって」
バルサモは感情を隠して答えた。「そこまでしていただかなくとも構いませんが、仰ろうとしているのは……」
「ええそう、あの小箱」
「それがどうしましたか?」
「中に入っていた暗号を、サルチーヌさんが部下の専門家全員に解読させたんです。各々解読したところ、すべて同じ結果が出たらしいの。そこで今朝あたくしがヴェルサイユにいる時に、サルチーヌさんが解読結果と暗号事典を抱えて乗り込んで来たんです」
「それで、国王は何と?」
「初めは驚いていたみたいだけど、やがて怯えてらしたわ。陛下が物騒な話を聞かされていると、それがすぐにわかるの。ダミアンの短刀の音がして以来、誰であろうとおそばに寄って一言だけ、『お気をつけを!』と言えばいいのだもの」
「つまりサルチーヌ氏は陰謀を企んだかどで私を告発したと?」
「サルチーヌさんは最初あたくしを追い払おうとしたの。でも突っぱねてやりましたわ。陛下はあたくしに対し誰よりも愛情をかけて下さっているのだから、陛下の身に危険が迫っていることをお耳に入れるという時にあたくしを追い出す権利など誰にもありません、と言って。サルチーヌさんは反論なさいましたけど、あたくしも頑固に言い返したところ、陛下がいつものように笑みを浮かべてこちらを見つめ、仰いましたの。
『よいではないか、サルチーヌ、今日は伯爵夫人に何一つ隠さぬつもりだ』
「あたくしがそこにいるとね、サルチーヌさんとしては別れ際の挨拶を覚えていたものですから、あなたを告発したらあたくしの不興を買うんじゃないかと思ったのね。そこでプロイセン王がフランスに悪意を持っているだとか、叛逆の動きを容易にするために超自然の助けを借りようとする傾向があるだとか言うに留めたんです。一言で言えば大勢の人を告発したのね。その人たちが有罪であることは、手元の暗号が証明していると言って」
「何のとがで?」
「何の?……国家の秘密をお伝えしなくちゃなりませんの?」
「ここだけの話ですから。あなたには何の危険も及びませんよ! 口を開いても私には何の得もありませんからな」
「そうね、もちろん口は閉じているべきよ。大胆で巧妙な、腹を決めた信徒たちから成る幾つもの強力な秘密結社が、陛下に対するある噂を広めることで、陛下に支払われるべき敬意を秘密裡に破壊しようとしている――サルチーヌさんはそれを証明しようとしているの」
「噂とは?」
「一つ挙げれば、陛下が国民を飢えさせていると非難されてるんです」
「それを聞いて陛下は?」
「陛下はいつも冗談に紛らせてますわ」
バルサモは深呼吸をした。
「それはどのような冗談なのでしょうか?」
「『余が国民を飢えさせているというのなら、その非難に応えるには一つの回答しかあるまい。食糧を与えてやればよいのだ』
『どのように?』とサルチーヌさんがたずねました。
『噂を流している者たちを王国が養って進ぜよう。そのうえ住処まで提供してやろうではないか。バスチーユにな』」
バルサモは血管がぞくりと震えるのを感じたが、笑みを絶やさずにたずねた。
「それから?」
「それから、国王が笑ってあたくしの意見を聞いているようだったので、
『陛下、サルチーヌさんが持っていらしたこの黒い数字の塊が、陛下が悪い国王だと書かれているのだとは、あたくしには信じられそうにありませんわ』と答えましたの。
「すると警視総監が抗議なさいました。
「だからあたくしも、『部下の方々の解読が正しいのかどうかも証明できないじゃありませんか』と言ってやりましたの」
「国王は何と?」
「あたくしが正しいかもしれないが、サルチーヌさんも間違ってはいない、と」
「ええ」
「やがて封印状が発行されたんですけれど、サルチーヌさんがそこにあなた宛てのものを滑り込ませようとしているのをはっきり見てしまったんです。でもあたくしだって負けじと呼び止めました。
「あたくしは国王の前ではっきりと言ってやりました。『そうなさりたいのならパリ中の人間を逮捕なさればいいわ、それがあなたの仕事ですもの。でもあたくしの友人に触れようとはなさらないことです……さもないと!……』
「『おやおや! 伯爵夫人はご機嫌が斜めだぞ。気をつけるがいい、サルチーヌ!』と国王が仰いました。
「『ですが陛下、王国の利益のためには……』
「『あなたはシュリー公ではありませんし、あたくしもガブリエルではございません』あたくしは真っ赤になって怒りましたの。[*2]
「『アンリ四世を暗殺したように、陛下を暗殺しようとしている連中がいるのです』
「そう言われて国王が青ざめて震え出し、手で額を押さえたんです。
「あたくしは負けを悟りました。
「そこで『陛下、どうかお話の続きをお聞きになるといいわ。きっとこの方たち、あたくしが陛下に対して陰謀を企てていることもその暗号の中に読み取ったに違いありませんもの』と言って、退出しようとしましたの。
「それが媚薬の翌日のことなんです。国王はサルチーヌさんではなくあたくしをお選びになって、後から追いかけていらっしゃいました。
「『伯爵夫人、どうか怒らないで』
「『だったらあの男を追い払って下さいな。監獄の匂いがします』
「『仕方ない、サルチーヌ、出て行ってくれ』国王が肩をすくめて命じました。
「『今後はあたくしのところを訪れることはもちろん、声をかけることも禁止いたします』と、あたくしも畳みかけました。
「今度ばかりは警視総監も顔色を失い、へりくだってあたくしの手に口づけしましたの。
「『そういうことでしたら、これ以上はお話しいたしません。しかしあなたは国を滅ぼすことになりますぞ。あなたが断固として譲らぬ以上は、私共もあなたのご友人に敬意を表しますが』」
バルサモは物思いに沈んでいるようだった。
「これでもうバスチーユ行きを免れたといって感謝していただく必要もありませんわ。そんなの不当なだけじゃなく、不愉快なことですものね」
バルサモは何も言わずに、ポケットから血のように真っ赤な液体の入った小壜を取り出した。
「お受け取り下さい。私の自由を守って下さったお礼です。これで後二十年の若さを保つことが出来ます」
伯爵夫人は小壜をコルセットに仕舞うと、うきうきとして勝ち誇って出て行った。
バルサモはなおも物思いに沈んでいた。
「女が媚びなければ、あいつらも救われていただろうにな。あの女が小さな足で崖の底まで蹴落としたというわけか。やはり神は俺たちの味方だぞ!」
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXX「Le philtre」の全訳です。
Ver.1 11/11/26
[註釈・メモなど]
・メモ
・註釈
▼*1. [ご姉妹]。デュ・バリー夫人ジャンヌは1743生、夫ギヨームは1732生、ションは1733生、ジャン子爵は1723生。ションの方がデュ・バリー夫人より年上だが、夫ギヨームから見たら妹なので、現在の日本語に訳するなら「義妹」が適切か?。[↑]
▼*2. [シュリー公]。アンリ四世の腹心シュリー公マクシミリヤン・ド・ベチュヌ(Maximilien de Béthune, duc de Sully)と、アンリ四世の愛称ガブリエル・デストレ(Gabrielle d'Estrees)。[↑]