この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百三十四章 人と神

 これまでお伝えして来た恐ろしい光景がバルサモと五人の親方の間で繰り広げられている間も、家のほかの部屋には見たところ何一つ変化はなかった。一つだけ変わったところといえば、バルサモが部屋に戻ってロレンツァの死体を運び出すのを見たアルトタスが、こうした新たな動きに触発され、周りで起こっていたことを思い出して正気を取り戻したことだった。

 バルサモが肩に死体を担いで階下に降りて行くのを見て、これが最後だ、老いた心を打ち砕いた男ともこれで永久にお別れだ、と思い込んだ。取り残された老人を恐怖が捕らえた。アルトタスにとって、それも不死にすべてを捧げて来たとあっては、常人以上に死ぬのが恐ろしかった。

 バルサモが何をしに行ったのかも何処に向かったのかもわからなかったが、とにかく声をあげて叫んだ。

「アシャラ! アシャラ!」

 幼名を呼べば、素直だった頃のように従順になるのではないかと期待して。

 だがバルサモは降り続けた。下に降りても揚げ戸を戻そうともせず、廊下の奥に姿を消した。

「糞ッ! 所詮こんな男だわい。無知で恥知らずの畜生め。戻って来い、アシャラ! 戻って来い! そちは女という馬鹿げたものより、儂のような完璧な人間の方を選ぶであろうな! 永遠の生命の欠片を選ぶであろうな!

「馬鹿馬鹿しい!」すぐに声を荒げた。「あのチンピラは師匠を裏切り、儂の信頼をもてあそんだのじゃ。儂が長生きするのを見て、科学の分野で儂に追い越されるのを見るのが怖かったのじゃろう。完成間近だった研究成果を受け継ぎたがって、儂を罠に嵌めたではないか。師匠であり恩人であるこの儂を。アシャラよ!……」

 徐々に老人の怒りに火がつき、頬に熱気が戻って来た。閉じかけていた目にも暗い光が戻り、悪戯小僧が頭蓋骨の眼窩に塗りつけた燐光のような輝きを放った。

 アルトタスは再び声をあげた。

「戻って来い、アシャラ! 用心するがいい。儂が火を呼び起こしあの世の精霊を呼び出す呪文を知っているのはそちも承知しておろう。儂は司祭たちにフェゴールと呼ばれていたガド山の悪魔を呼び出し、闇に沈んだ深淵に押し込められていた悪魔が姿を現したのじゃ。神の怒りを担う七人の天使と口を利いたこともある。モーセが律法の石板を授かったあの山の上でじゃぞ。トラヤヌスがユダヤ人から奪った七つの燭を持つ三脚を、意思の力だけで燃え上がらせたこともある。用心するがいい、アシャラよ、今に見ておれ!」

 だが答えはなかった。

 アルトタスの意識がだんだんと混濁して来た。

「馬鹿め、そちにはわからぬのか」絞り出すように声をあげた。「そこらの人間と同じように死神が儂を捕らえに来るのだぞ。いいか、戻って来ても構わぬ、アシャラ。悪いようにはせん。戻って来い! 火を呼び起こしたりはせぬ。邪悪な精霊や復讐の七天使を恐れんでもよい。復讐は諦めよう。それでもそちを恐怖に陥れ、理性を奪い去り大理石のように凍えさせることは出来る。儂には血の巡りを止めることが出来るからの。アシャラ。戻って来い。ひどいことをするつもりはない。それどころか幾らでもそちの役に立てるのだぞ……アシャラよ、見捨てんでくれ。儂の命を見守ってくれ。儂の財産も秘密もすべてそちのものじゃ。それを伝えるまでは、生き長らえさせてくれ、アシャラ。頼む!……アシャラ、頼む!……」

 アルトタスは震える指を上げ、部屋にある幾つもの品物や書類や巻物を目顔で示した。

 そうして少しずつ抜け出してゆく体力をかき集めながら、耳をそばだてて待った。

「そうか、戻っては来ぬのか。儂がこのまま死ぬと思っておるのか? 見殺しにすればすべて手に入ると思っておるのか? 儂が死んだら殺したのはそちじゃぞ。糞ッ垂れめ、儂にしか読めぬ覚書を読めたとしても、一生と引き替えにして二百年三百年をかけて儂の科学を精霊から学ぶことが出来たとしても、儂が集めた材料をどう用いればよいかはわからぬぞ。何度でも言おう。絶対にわからぬ。そちには引き継ぐことは出来ぬ。考え直せ、アシャラ。アシャラ、戻って来い。戻って来てこの家が滅びるのを見るがいい、そちのために素晴らしい光景を用意しておくから見とれるがいい。アシャラ! アシャラ! アシャラ!」

 答えはなかった。その頃バルサモは親方マスターたちの告発に応えて、殺害されたロレンツァの死体を放り出していたのだ。見捨てられた老人の叫び声は徐々に高まり、絶望に増幅されて、しわがれた咆吼が廊下にまで轟き、恐怖が遠くまで伝わって来た。それはあたかも虎が鎖を千切り檻の柵を曲げて吠えているようだった。

「そうか、戻っては来ぬのか! 見捨てるのだな! 死にかけているから都合がいいというわけか! よかろう、見ているがいい。火事じゃぞ、火事じゃ、火事じゃ!」

 客たちを追い払うことに成功したバルサモは、アルトタスの憤怒の叫びをはっきりと耳にして、苦しみの淵で目を覚ました。ロレンツァの死体を抱え直すと階段を上り、二時間前には催眠術で寝かせていた長椅子に今は亡骸を横たえ、昇降台に上がると、前触れもなくアルトタスの目の前に姿を表した。

「ほほっ! やはりな」老人の声は喜びに酔いしれていた。「不安になったのじゃろう! 儂が自分の片くらいつけられるのはわかっておろうからな。確かにやって来たな。やって来るのが正解じゃった。もうちょっと遅ければ、この部屋に火をつけていたところだわい」

 バルサモは肩をすくめてアルトタスを見つめたが、一言も口を利こうとはしなかった。

「喉が渇いた」アルトタスが叫んだ。「喉が渇いたぞ! 水をくれ、アシャラ」

 バルサモは口も開かず、動きもしなかった。死にかけた老人の断末魔の苦しみを目に焼きつけておこうとでもするように、じっと見つめているだけだった。

「聞いておるのか?」アルトタスが吠えた。

 鬱々としたバルサモからは答えも反応もないままだった。

「聞いておるのか、アシャラ?」アルトタスは怒りを吐き出すために、最後の力を振り絞って喉を開いて怒鳴り散らした。「水じゃ、水をくれ!」

 アルトタスの顔が見る見るうちに苦痛に歪んだ。

 目にはもはや炎はなく、邪悪でおぞましい光があるだけだった。肌の下にはもはや血の気もなく、身体も動かず、息さえほとんどしていなかった。長く筋張った腕は、先ほどまではロレンツァを赤子のように軽々と抱え上げていたというのに、持ち上げようとしても動かず、ポリプの触手ようにふわふわと揺れるだけであった。絶望に駆られて束の間甦っていた力も、怒ったせいで使い果たしてしまった。

「は、は! そう簡単にはくたばらんぞ。は! 干涸らびさせて死なせるつもりなのであろう! 儂の研究、儂の宝を物欲しそうに見つめおって! はん! もう手に入れたつもりなのじゃろう! ふん、待っておれ!」

 アルトタスは力を振り絞って、椅子に敷いてあった座布団の下からガラス壜を取り出し、栓を抜いた。空気に触れると、液体が炎となって壜から流れ出し、アルトタスの周りを魔法のように取り巻いた。

 途端に、椅子のそばに積み上げられていた研究成果や、部屋に散らばっている書籍、クフ王のピラミッドやヘルクラネウムの遺跡から苦労して盗んで来た巻物が、火薬に着火したように瞬く間に燃え上がった。火は大理石の床にまで届き、ダンテが語った地獄の火の輪のようにバルサモの面前で揺らめいた。

 アルトタスとしてはこうした貴重な財産と共に滅ぶつもりであったので、バルサモがそれを救おうとして炎に飛び込むものと考えていたのだろう。だがそうはならなかった。バルサモは慌てる素振りも見せずに、炎が届かぬように昇降台の上でじっとしていた。

 炎がアルトタスを包み込んだ。だが老人は怯えたりはせずに、むしろ本来の元素に還ることを受け入れているようであった。それはあたかも古い城館のペディメントに刻まれたサラマンダーが、炎によって焼かれるのではなく愛しまれているかのように見えた。

 バルサモはアルトタスを見つめ続けていた。炎は板張りにまで達し、老人を完全に包み込んでいる。炎は楢で出来た椅子の脚を舐め、とうに下半身に喰らいついているというのに、どういうわけか老人は何も感じていないようだった。

 それどころか炎が浄化装置の役目を果たしたらしく、炎に炙られて筋肉が徐々にほぐれ、得も言われぬ安らぎが仮面のように顔中に貼りついていた。最後の瞬間になって肉体から離れた老予言者は、火の戦車の上で天に昇る準備をしているように見えた。全能の老人の心は最後の瞬間になって物質界のことなど忘れ捨て、もう何も期待する必要はないのだと悟り、炎に連れ去られるようにして至高の世界を真っ直ぐに目指した。

 それまでは炎に照らされてこの世に舞い戻ろうとしているように見えたアルトタスの目も、その瞬間から虚ろな目つきになって彷徨い、天でも地でもなく地平線を射抜こうとしているように見えた。穏やかなまま醜態も見せず、あらゆる感覚を分析しあらゆる苦しみに身体を預け、この世に別れを告げでもするように、力と生と希望に向かってひっそりと声を洩らした。

「よいか、儂は後悔しておらぬぞ。儂は地上のすべてを手に入れた。すべての智識を身につけた。神から人間に与えられたことで出来ないことはなかった。もうすぐ不死になれるところであった」

 バルサモがくつくつと笑い出した。その嘲るような笑い声を聞いて、老人ははっと我に返った。

 するとアルトタスはヴェールのように覆っている炎の向こうから、威厳と憤怒に満ちた目つきで睨みつけた。

「うむ、そちが正しい。儂に予想できなかったことがある。それは、神の存在じゃ」

 その激しい言葉に魂を引っぺがされたように、アルトタスは椅子に倒れ込んだ。神から掠め取ろうとしていた最期の呼気を、今ようやく神に返したのだ。

 バルサモがため息をついた。アルトタスという第二のツァラトゥストラが死の床に選んだ貴重な薪から逃れようともせずに、ロレンツァのそばに足を降ろして揚げ戸のバネを動かし、元通り天井に戻しておいた。そうしておけば燃えさかる猛火も目に触れることはない。

 炎は一晩中頭上で嵐のように唸っていたが、バルサモは火を消そうとも逃げようともせず、危険も顧みずにロレンツァの冷たい死体から離れずにいた。だが炎の勢いも続かなかった。すべてを貪り尽くして立派な装飾を煉瓦の穹窿を裸にしてしまうと、炎は勢いを失った。アルトタスの声にも似た咆吼が最後に洩れると、それもやがて衰えて呻き声に変わり、臨終の溜息を吐くのが聞こえた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXXIV「L'homme et Dieu」の全訳です。


Ver.1 11/12/10

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