タヴェルネが正気に戻って、災難の原因をじっくりと考えてみると、機会と大義が幾つもの警報を俎上にして深刻にぶつかり合っていたことに気づいた。
そこでタヴェルネは、かんかんに怒ってアンドレの住まいに向かった。
アンドレは身繕いを終えようとしていたところで、ふっくらとした腕を上げて頑固な髪を耳の後ろに留めようとしていた。
控えの間に父親の足音が聞こえると、腕に本を抱えて戸口を跨いだ。
「ご機嫌よう、アンドレ。出かけるのかね?」
「はい、お父様」
「一人か?」
「ご覧の通りです」
「まだ一人なのだな?」
「ニコルがいなくなってから、小間使いを使っておりませんから」
「それでは着替えも出来まい。それはいかんぞ。そんななりでは宮廷で出世できん。それはそれとして話したいことがあったのじゃが」
「申し訳ありませんがお父様、王太子妃がお待ちですので」
「悪いがの、アンドレ」タヴェルネは話しているうちに昂奮して来た。「そんな質素ななりでは、笑われるのが落ちじゃぞ」
「お父様……」
「何処であれ笑いものにされるのは死の宣告に等しいが、宮廷ではなおのことだ」
「覚悟はしております。ですが現時点では質素な身なりであれすぐにおそばに駆けつける方が妃殿下もお喜びになると思っております」
「では出かけるがよい。お許しが出たらすぐに戻って来てくれ。重大な話がある」
「わかりました、お父様」
アンドレはそう言って先を急ごうとした。
男爵はそれをまじまじと見つめていた。
「待ちなさい。そんななりで出かけてはならぬ。紅を忘れておるぞ。ひどく真っ青ではないか」
「そうでしょうか?」アンドレが立ち止まった。
「鏡を見てもそうは思わんか? 頬は蝋のように真っ白で、目には隈が出来ておる。そのまま出かけては、人を驚かせてしまうぞ」
「ですがやり直している時間はありません、お父様」
「何てことだ!」タヴェルネは肩をすくめた。「世の中はこんな女ばかりで、それがわしの娘と来ておる! まったくひどいこともあったもんじゃ! アンドレ! アンドレ!」
だがアンドレはとっくに階段の下まで行っていた。
アンドレが振り返った。
「せめて具合が悪いのだと言ってくれぬか。めかし込む気はなくとも、自分のことを気に掛けてくれ」
「そういうことでしたら簡単です。嘘をつく必要もありませんわ。実際に気分が優れないんですもの」
「左様か」男爵が唸った。「問題はそれだけだ……具合が悪いのだな!」
それから歯の隙間から絞り出した。
「まったく澄まし屋どもと来たら!」
男爵は娘の部屋に戻り、懸命になって自分の憶測が正しいことを確かめようとした。
その間にもアンドレは広場を横切り花壇に沿って歩き続けた。時折り顔を上げて、空気をもっと貪るように吸い込もうとした。新鮮な花の香りが脳に染み入り五感のすべてを揺るがしていたのだ。
こうして太陽の下で眩暈を起こして何処かにつかまりたいと感じ、経験したことのない辛さと戦いながら、アンドレはトリアノンの控えの間までたどり着いた。王太子妃の小部屋の前に立っているド・ノアイユ夫人の一言で、アンドレはたちまち理解した――とっくに時間は過ぎ、待たせてしまったのだ。
大公女公認のフランス語教師である×××修道院長が妃殿下と朝食の席に着いていた。王太子妃は親しい間柄の人々をよくこうして招いていたのだ。
修道院長はバター入りのパンの出来に舌鼓を打っていた。ドイツ製の食器が綺麗に積み上げられた横には、クリーム入りコーヒーが置かれてある。
修道院長は朗読ではなく、情報屋や外交官のところで仕入れてきたウィーンの現状を王太子妃に話していた。この時代には政治は屋外でおこなわれていた。屋外というのは穴蔵に隠してある大法官府の最高機密と同じくらい安全なのである。パレ=ロワイヤルの貴族たちやヴェルサイユの植え込みの陰から見抜いたりでっちあげたりした報せが内閣に報告されるのも、この時代には稀ではなかった。
なかでも修道院長はつい先日起こった小麦高騰に絡む密かな暴動について話をしていた。「暴動」という言葉が用いられた。大きく買い占めていた五人をド・サルチーヌ氏が迅速に逮捕してバスチーユに送ったという。
アンドレが入って来た。王太子妃もここ何日かは気まぐれと頭痛に悩まされていた。修道院長もそれが気になっていた。会話が弾んでいる最中にアンドレが本を手にやって来ると、王太子妃の機嫌が悪くなった。
そこで王太子妃は朗読係に速やかに出て行くように命じ、朗読のようなことには何よりも頃合いというものがあるのだと言い添えた。
アンドレはそうした非難に恐縮しつつ、それ以上に不当な思いを感じながらも、口答え一つしなかった。父に引き留められたために遅くなったうえに、体調が悪くてゆっくりとしか歩けなかった、と言い訳することも出来たのだが。
だが何も言わずに狼狽えて慌てて頭を下げると、死んだようになって目を閉じてぐらりと身体を傾けた。
ノアイユ夫人がいなければ倒れていたところだ。
「お行儀がなっておりませんね!」とエチケット夫人が呟いた。
アンドレから答えはない。
「具合が悪いのではなくて?」王太子妃が立ち上がってアンドレに駆け寄ろうとした。
「大丈夫です」慌てて答えたアンドレの目には涙が浮かんでいた。「具合は悪くありません。いえ、よくなりましたから」
「でも顔色が手巾のように真っ白じゃありませんか。公爵夫人もご覧なさいな。わたしが悪かったわ、叱ったりして。どうかお坐りなさい」
「妃殿下……」
「命令ですよ!……修道院長、その折りたたみ椅子を譲って差し上げて」
アンドレは腰を下ろした。王太子妃の気遣いのおかげで、少しずつ頭も落ち着き頬にも色合いが戻って来た。
「では本を読んで下さるかしら?」
「ええ、もちろんです。どうかお願いします」
アンドレは昨日の続きから本を開き、出来る限り聞き取りやすく耳に快い声を出そうとした。
だが二、三ページほど目を通したところで目の前を小さな黒点が飛び回り、渦を巻いて震え出したので文字が見えなくなってしまった。
再び顔が土気色になり、嫌な感じの汗が胸元から額にまで滲んで来て、男爵が厭ったような黒い隈がどんどん目元に広がっていた。アンドレが堪えているのを見て、王太子妃が顔を上げた。
「まただわ!……公爵夫人、この子はやっぱり具合が悪いのよ。気を失っているじゃないの」
王太子妃は気付け薬を朗読係に吸い込ませた。アンドレが意識を取り戻し、本を拾おうとしたが上手くいかなかった。手の震えがしばらく止まらなかったのだ。
「やはりアンドレは体調が悪いようね、公爵夫人」王太子妃が言った。「ここに引き留めてはさらに具合が悪くなってしまうわ」
「では直ちにお部屋に戻っていただきましょう」
「あらどうして?」
「恐らくこれは――」夫人は恭しく答えた。「天然痘の徴候でございますから」
「天然痘?」
「そうです、失神、人事不省、震え」
修道院長はノアイユ夫人から指摘され、天然痘を移されてはかなわないと思い、椅子から立ち上がったが、誰もがアンドレの様子を気に掛けていたので、爪先立って密かに逃げ出しても誰一人それには気づかなかった。
アンドレは王太子妃の腕に抱かれるような恰好になっていることに気づいて、畏れ多くも大公女にそんな迷惑を掛けていると思うと申し訳なくなり、そのために力が――いやむしろ勇気が――湧いて来た。そこでアンドレは窓辺に近寄り深呼吸をした。
「そんなんじゃなく、外の空気を吸った方がいいわ」と王太子妃が言った。「お部屋に戻りなさい、ついて行ってあげますから」
「とんでもございません。もうすっかり良くなりました。席を外すお許しをいただけるのでしたら、一人で戻れます」
「わかったわ、お大事にね。もう叱ったりはしません。これほど繊細な方だとは知らなかったものですから」
アンドレはまるで姉妹のような心遣いに感激し、王太子妃の手に口づけして部屋を出た。王太子妃がそれを心配そうに見守っていた。
アンドレが階段の下まで行くと、王太子妃が窓から大きく声をかけた。
「すぐに戻らずに花壇を少し散歩なさい。陽に当たれば良くなりますよ」
「何てお優しいんでしょう!」アンドレは呟いた。
「それから修道院長に戻って来てもらって頂戴。あそこのオランダ・チューリップの花壇で植物学の講義をしているわ」
アンドレは修道院長に会いに、行き先を変えて道を曲がり、花壇を横切った。
アンドレは下を向いて歩いていた。朝から続く眩暈のせいで今もまだ頭が重い。花の咲いた生け垣や並木道の上を驚いて飛び回る鳥たちにも、タイムやリラの上でぶんぶんと羽根を鳴らす蜜蜂にも、まったく意識が向かなかった。
だから少し離れたところで二人の男が話をしていて、そのうちの一人が戸惑い顔で心配そうにアンドレを見つめていることにも気づかなかった。
二人はジルベールとド・ジュシュー氏であった。
ジルベールは鋤にもたれて著名な師匠の話に耳を傾けていた。草状の植物に水をやるに当たって、地面に水を溜めずに染み込ませるやり方を説明している最中だった。
ジルベールはその説明を真剣に聴いているようだし、ジュシュー氏の方でもこうした技術に興味を持つのは当然のものだと思っていた。というのも、教室に坐っている生徒の前で同じ話をすれば拍手が巻き起こるような内容であったのだ。哀れな庭師の青年にとって、教材を目の前にして偉大な教師に教えを受けることほどの幸運はあるまい。
「いいかい、ここには大きく分けて四種類の土壌がある」とジュシュー氏が説明していた。「私ならこの四種類をさらに細かく十に分けられる。だが見習いの庭師が見分けるのは難しいだろうね。いずれにしても栽培人は土を知らなくてはならないし、庭師は植物を知らなくてはならない。わかるね、ジルベール?」
「はい、わかります」そう答えたジルベールの目は一点に釘付けで、口は半開きだった。アンドレを見つめていたのだ。それでも態度を変えたりはしなかったので、ずっとアンドレを目で追っていても、上の空で講義を聴いて空返事をしているとは気づかれずに済んだ。
「土を知るには――」ジュシュー氏はジルベールが脇見している間も話し続けた。「簀の子に土を乗せて、そっと水を注ぐといい。土で濾された水が簀の子の下から出て来たら、水を舐めてみなさい。しょっぱいか、苦いか、水っぽいか、育てたい植物の性質に合った成分の香りがするのか。あなたがお世話になっていたルソーさんが言っていたように、自然界のものはどんなものでも似たもの同士や同じもの同士が引かれ合うものだからね」
「大変だ!」ジルベールが腕を前に伸ばした。
「どうしたね?」
「気絶してしまいました!」
「誰のことだ? 大丈夫かい?」
「あの人です!」
「あの人?」
「ええ、ご婦人です」ジルベールは必死で伝えた。
ジュシュー氏が指の先に目をやりジルベールから視線を外さなければ、言葉はもちろん怯えて青ざめた表情から何もかもばれてしまっていたことだろう。
だが指さす方向に顔を向けて、ジュシュー氏もアンドレを見つけた。熊垂の並木道の向こうからのろのろと歩いて来て、並木道までたどり着くと腰掛けに倒れ込み、そのまま動かなくなってしまった。最後まで残っていた意識の欠片が消え失せてしまったかのようだった。
ちょうどその時はいつも国王が王太子妃を訪問する時間帯だった。国王がグラン・トリアノンからプチ・トリアノンに向かおうとして、果樹園から姿を現した。
つまり陛下は突然現れたのである。
早なりの桃を手にわがままな国王は、フランスの幸福のためには国王自身がこの桃を味わうよりは王太子妃が味わった方がよいと言えるのだろうか、と自問していた。
ジュシュー氏がアンドレの方に慌てて駆け出すのを見ても、目の悪い国王には事情がよくわからなかったが、押し殺したようなジルベールの叫びを聞いて足を早めた。
「どうしたんだ?」ルイ十五世は道を挟んだ反対側に来ていた。
「陛下!」アンドレを抱きかかえたジュシュー氏が声をあげた。
「陛下!」アンドレは囁いて気を失った。
「それは誰だね?」国王がたずねた。「ご婦人だな? 何が起こったのだ?」
「気絶なさったのです」
「何と!」
「意識を失っています」ジュシュー氏はぐったりとしたアンドレを、改めて腰掛けに横たえ直した。
国王はそばに寄ってアンドレに気づき、悲鳴をあげた。
「またか!……恐ろしい。それほど具合が悪いなら部屋に籠もってなくてはならん。しょっちゅうみんなの前でこんな風に気を失っているとは言語道断だ」
ルイ十五世はきびすを返してぶつぶつと文句を垂れながらプチ・トリアノンに向かった。
ジュシュー氏はそれまでのことを知らなかったので、しばらくぽかんとしていたが、ふと振り返ってジルベールがすぐそばで不安そうにしているのに気づいた。
「来てくれ、ジルベール。君なら力があるからド・タヴェルネ嬢を部屋まで運んでくれるかな」
「僕がですか!」ジルベールは震え出した。「僕が手を触れて運ぶんですか? いけません、そんなの絶対に許してくれません。絶対に出来ません!」
ジルベールはその場から逃げ出し、助けを呼びに行った。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXXVII「Les évanouissements d'Andrée」の全訳です。
Ver.1 12/01/28
[註釈・メモなど]
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