アンドレが気絶した場所からほど近いところに、庭師助手が二人働いていた。二人はジルベールの声を聞いて駆けつけて来ると、ド・ジュシュー氏の指示に従ってアンドレを部屋まで運びあげた。それをジルベールは遠くから顔を伏せて追いかけていた。殺し屋が標的の死体につきまとうように、生気のない動かぬ身体を追いかけていた。
使用人棟の玄関までたどり着くと、ジュシュー氏は庭師たちを重荷から解放した。その時になってちょうどアンドレが目を開けた。
騒ぎ声や慌ただしい様子を聞きつけてド・タヴェルネ男爵が部屋から出て来た。そこで目にしたのが娘の姿だった。まだふらついているものの、ジュシュー氏の助けを借りて身体を起こして階段を上ろうとしている。
男爵は駆け寄って国王と同じ質問をした。
「どうしたんだ?」
「何でもありません、お父様」アンドレが弱々しい声で答えた。「ただちょっと気分が悪くなって、頭痛がするだけです」
「あなたの娘さんでしたか?」ジュシュー氏が男爵にお辞儀した。
「まあそうじゃな」
「でしたらこれほど安心なこともありませんね。ただし僭越ながら、医者にお見せした方がいい」
「そんな、大丈夫です!」アンドレが口を挟んだ。
これにタヴェルネも同調した。
「もちろん大丈夫じゃとも」
「それに越したことはありませんが、お嬢さんは真っ青じゃありませんか」ジュシュー氏が言った。
それから石段までアンドレに手を貸すと、ジュシュー氏はいとまを告げた。
父と娘だけが残された。
タヴェルネはアンドレのいない間に考える時間がたっぷりあったので、立ったままのアンドレの手を取って長椅子に坐らせてから、自分も隣に腰を下ろした。
「すみませんけれど、窓を開けていただけますか。苦しくて」
「実は大事な話があるのだが、こんな住まいではあちこち隙間風だらけじゃな。まあよい。小声で話せば済むことじゃ」
そう言って男爵は窓を開けた。
それからうなずきながら娘のそばに戻って腰を下ろした。
「話というのはほかでもない、最初こそあれほどわしらに関心を抱いて下さった国王が、こんなあばら屋にお前をほったらかしにしておいて、ご好意を見せてくれん」
「だってお父様、トリアノンには住むところがありませんもの。あんなところに住めるなんてとんでもありませんわ」
「ほかの場所にも住むところがなかったというわけか」タヴェルネが当てこすりを言った。「百歩譲って納得もして来たが、お前の為には譲るつもりはないぞ」
「お父様はわたくしのことを随分と評価して下さっていますけれど、ほかの方々から見ればそうではありませんもの」とアンドレは微笑みを浮かべた。
「何の、お前のことをちゃんとわかっている者たちなら、みんなわしと同意見じゃよ」
アンドレは見ず知らずの人に向かってするようなお辞儀をした。というのも父から褒められて何処となく不安を感じ始めたのだ。
「しかもな……」タヴェルネはなおも優しい口調で続けた。「……国王はお前のことをちゃんとご存じなのじゃろう?」
そう言いながらも、耐え難いほどに厳しい目つきをアンドレに向けていた。
「国王はわたくしのことなどほとんどご存じありませんわ」アンドレはごくさり気なく答えた。「国王にとってわたくしなど物の数ではありませんもの」
それを聞いて男爵が飛び上がった。
「物の数ではないじゃと! お前の言っていることはさっぱりわからん。随分とまた自分を安く見積もっているようじゃの!」
アンドレは驚いて父を見つめた。
「何度でも言ってやるぞ。謙虚にもほどがある。自分の価値というものをわかっておらん」
「大げさなことばかり仰って。国王はわたくしたち一家の窮状を気にして下さっているに過ぎませんわ。わたくしたちの為に幾つかのことをして下さいましたけれど、玉座の周りにはほかにも山ほど不幸があって、慈しみ深い国王の手から洩れているんですもの。今はご厚意を見せて下さっていてもいずれわたくしたちのことなど忘れてしまうに違いありません」
タヴェルネは娘をじっと見つめて、度の過ぎた慎みにむしろ感嘆していた。
「よいか、アンドレ」と言って近づいた。「お前の父親はお前とその肩書きにとって一番最初の請願者になるつもりだ、拒絶はせんでくれよ」
今度は見つめるのはアンドレの方だった。女らしい仕種で説明を求めた。
「お前頼みなんじゃ。わしらのために取りなしてくれ、家族のためになることをしてくれ」
「ですけど何がお望みですか? わたくしは何をすればよいのでしょうか?」アンドレの言葉からは混乱が窺えた。
「わしや兄のために何かする気はあるのか、ないのか? はっきりせい」
「やれと言われたことなら何でもいたします。ですけれど、あまりがっついているように思われるのはお嫌ではありませんか? 既に陛下は十万リーヴルもする宝石を下さいました。そのうえお兄様に聯隊を任せる約束をして下さいました。これほど多くのお恵みをかけていただいているのですもの」
タヴェルネは哄笑を抑えることが出来なかった。
「つまり充分に報われていると思っておるのか?」
「お父様のご尽力のおかげだということは承知しております」
「何じゃと! そんな話を誰から聞いた?」タヴェルネが爆発した。
「そもそも何の話をしてらっしゃるのですか?」
「隠しごとをして遊んでいる場合か!」
「いったい何を隠しているというのです?」
「すべてお見通しじゃ!」
「お見通しですって……?」
「すべてをじゃ」
「何のすべてでしょうか?」
慎ましい心に遠慮のない攻撃を受けて、アンドレの顔が赤らんだ。
父としての我が子に対する敬意など、数々の疑問の前では急な坂道で足を止める如く止まっていた。
「まあよい! お前の好きなようにするがいい。静かにしておきたいというのなら、おかしな話だがそれでいい。父と兄をどん底にほっぽっておくというのならそれも結構。だがわしの言葉を覚えておくがいい。初めから帝国を持たざる者は、最後まで帝国を持てぬかもしれんのだ」
タヴェルネはくるりと背を向けた。
「わたくしにはわかりません」とアンドレが答えた。
「構わん。わしにはわかっておるからの」
「話をしているのは二人なのに、それでは困ります」
「でははっきりさせよう。我が一族の美徳である、お前の持っている武器を余さず使えと言っておるのだ。そうすれば、機会さえ来れば家族とお前自身のために幸運を引き寄せられる。国王にお会いしたら真っ先に伝えてくれ。お前の兄が任命状を待ち望んでいること、それにお前が空気も景色も悪い住まいで打ち沈んでいることを。要するにだな、あまりに愛や無私を貫くような馬鹿なことはするな」
「でもお父様……」
「今夜からは、国王にそうお伝えしろ」
「いつ国王にお会いしろというのです?」
「それから忘れずに、わざわざお越しいただく必要はないと陛下に伝えてくれ……」
恐らくタヴェルネは直截的な言葉を使うことで、アンドレの胸に群がりつつある嵐を呼び起こし、疑問を晴らしてくれるような説明を求めるつもりだった。ところがちょうどその時、階段に足音が聞こえた。
男爵はすぐに口を閉じて手すりから訪問者を眺めた。
アンドレが驚いたことに、父親は壁際にぴったりと身体を避けた。
それと同時に王太子妃が、黒い服を着て長い杖を突いた男性を連れて部屋に入って着た。
「妃殿下!」アンドレが力を振り絞って王太子妃の前まで進み出た。
「そうよ、患者さん。お見舞いとお医者さんを連れて来ましたからね。こちらです、先生。まあ、タヴェルネさん」王太子妃が男爵を見て言った。「お嬢さんはお加減が優れないようですが、お一人ではあまりお世話が出来ませんでしょう」
「妃殿下……」タヴェルネが口ごもった。
「さあ先生」王太子妃にしか出来ないような魅力的な心遣いを見せた。「わたしの患者さんの脈を取って、目の隈を調べて、症状を教えて下さい」
「そのようなご親切を……!」アンドレが口ごもった。「わたくしのような者がお受けすることなど……」
「こんなあばら屋で、と仰りたいの? こんなひどいところだったなんて申し訳ないわ。考えておきます。ですからルイ先生に手を見せて。大変よ、この人は何でも見抜く哲学者であるうえに、何でもお見通しの学者なんですから」
アンドレは微笑んで医師に手を預けた。
医師はまだ若かったが、その顔は王太子妃の信頼を窺わせる智的なものであり、部屋に入ってからはすぐに病人の様子を眺め、次いで部屋の様子を、さらには奇妙なことに不安ではなく不機嫌を浮かべている父親の顔を眺めていた。
学者として調べようとしたが、哲学者としては既に見抜いていたのではないだろうか。
ルイ医師はしばらく脈を診てから、アンドレに病状をたずねた。
「何を食べても受けつけないんです。それから突然の引きつけ、急な発熱に、痙攣、動悸、失神があります」
アンドレの話を聴いて、医師の顔がだんだんと曇り出した。
とうとう手を離し、目を逸らした。
「どうでしょうか、先生?」王太子妃がたずねた。「病状は如何でした? 危険な状態ですの? 死を宣告しなくてはなりませんの?」
医師はアンドレに目を戻し、無言でもう一度診察をした。
「殿下、こちらのお嬢様の患いは特別なものではございません」
「深刻ではないの?」
「普通はそうでございます」医師は微笑んだ。
「そう、よかった」大公女はほっと息をついた。「あんまり辛い目に遭わせないであげてね」
「辛い目に遭わせることなど一切ございません」
「薬を飲ませたりしないの?」
「こちらのお嬢様には一切必要ございません」
「そうなの?」
「ええ」
「何も?」
「何もいりません」
そう言うと医師は、それ以上の説明を避けるようにして、患者が待っていると言って大公女にいとまを告げた。
「先生、わたしを安心させるためだけにそんなことを仰っているのでしたら、わたしの方が具合が悪くなってしまいます。どうか今晩いらっしゃる時にはわたしがよく眠れるように、約束なさった
「戻ったらこの手でご用意いたします」
そう言って医師は立ち去った。
王太子妃は朗読係のそばに残った。
「大丈夫ですからね、アンドレ」王太子妃は励ますような笑顔を見せた。「心配するようなものではないわ。ルイ先生が何も処方しなかったんですから」
「安心いたしました。妃殿下へのお仕えを休まなくて済みますもの。それだけが心配でございました。でもお医者の先生には悪いのですが、実を申しますと少し具合が悪いのです」
「でも医者を嘲笑うようなひどい病気の苦しみではないはずよ。ぐっすり眠ることです。あなたのお世話をする人を手配しておきます。一人きりですものね。お見送りいただけますか、タヴェルネ殿」
王太子妃はアンドレの手を取り、励ましをかけ約束してから立ち去った。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXXVIII「Le docteur Louis」の全訳です。
Ver.1 12/01/28
[註釈・メモなど]
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