ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百四十七章 トリアノンへの道

 一連のやりとりや話し合いにはかなりの時間がかかっていたので、サン゠クロード街を出たのは午前二時を回っていた。

 ヴェルサイユまでは一時間十五分かかり、ヴェルサイユからトリアノンまでは十分を費やした。つまり目的地に到着したのは三時半に差し掛かったばかりだった。

 旅も後半になると朝日も顔を出し、セーヴルの丘やひんやりとしている森を薔薇色に染め上げていた。目の前で幕が上げられたように、ヴィル゠ダヴレーの池や遠くに見えるビュク(Buc)の池が、鏡のように照らされている。

 やがてヴェルサイユの列柱と屋根が見え始めた。太陽はまだ姿を見せぬものの、建物は既に赤く染まっている。

 時折り、朝日を反射して窓ガラスがきらめき、紫色の朝靄に穴を穿つ。

 ヴェルサイユからトリアノンまで通ずる並木道の端まで来ると、フィリップは馬車を停めさせ、同乗者に声をかけた。バルサモは道中むっつりと黙り通しだった。

「伯爵、もしかすると待たされることになりそうです。トリアノンの門は朝の五時まで開きません。規則に逆らえば、ここに来た理由を衛兵や門番に疑われかねません」

 バルサモは何も言わず、首を縦に振って同意を示した。

「もっとも、その時間を利用して、道中あれこれ考えていたことをお話しするにはいい機会です」

 バルサモはフィリップをぼんやりと見つめた。その瞳には倦怠と無気力が浮かんでいる。

「話したいのなら、そうなさい。聴きましょう」

「お話によれば、五月三十一日の夜に、妹をサヴェルニー侯爵夫人のお宅に運んでくれたのでしたね?」

「そのことを疑ってはいないのでしょう。侯爵夫人にお礼をしに行ったくらいなのだから」

「その際には王室厩舎の馬丁が侯爵夫人邸からコック゠エロン街のぼくらの宿までお供していた、つまりあなたは妹と二人きりではなかったとも仰った。あなたの名誉を尊重して、ぼくはそれを信じました」

「当然のことです」

「ですが、最近の状況を考えてみると、一か月前にあなたが妹と話をする為にトリアノンの庭に忍び込んだあの夜、妹の部屋にも入り込んだのだと思わざるを得ないのです」[*1]

「トリアノンで妹さんの部屋に入ったことはありません」

「ですが!……アンドレに会う前に、すべてをはっきりとさせておかなくてはなりません」

「すべて明らかにするのは望むところです。その為にここにいるのですから」

「でしたらあの晩――答えにはお気をつけ下さい、これから申し上げるのは確実なことなのですから。何しろ妹本人の口から聞いたのです――あの晩、妹は早い時間に床についていました。つまりあなたは寝台にいる妹を見つけたのではありませんか?」

 バルサモは否定の印に首を振った。

「否認するのですか!」

「否認ではない。質問に答えたまでだ」

「では質問を続けますから、引き続き答えて下さい」

 バルサモは苛立ちを見せるどころか、急かすように合図した。

「あなたは妹の寝室に行き――」フィリップはだんだんと昂奮していた。「妹を見つけた。アンドレは横になって本を読んでいたが、あなたの霊力のせいでいつものように眠気を催し、意識を失った。質問しただけだ、と仰いましたね。いや、そのほかに、立ち去る際に術を解くのを忘れたとも仰った」フィリップはバルサモの手首をつかんでぎりぎりと締めつけた。「ところが――妹が翌日になって目を覚ますと、寝台ではなく長椅子の下にいた。服のはだけた状態で……この点について申し開きをお願いします。言い逃れは許しません」

 フィリップが話している間、バルサモは目が覚めたかのように、心を曇らせていた暗い考えを払っていた。

「本音を言えば、その問題をほじくり返すべきではないし、いつまでも諍いを続けようとするのも間違っている。俺が此処に来たのは善意からであり、あなたに興味があったからです。それを忘れておいでのようだ。あなたはまだ若いし、そのうえ軍人だ。剣の柄に手をかけて高圧的に話すのに慣れているのでしょう。そういった事情のせいで、深刻な事態に対して間違った解釈をしてしまったんでしょう。俺はさっきまで我が家であなたを説得して少しでも安心してもらおうと、必要以上のことをしたつもりです。また同じことの繰り返しですか。あまりうんざりさせるようなら、深い悲しみの底に閉じ籠って眠りに就いてしまうから、そのつもりでいてもらいましょう。俺の悲しみに比べたら、あなたの悲しみなど、戯れ言みたいなものに過ぎない。眠りに籠った俺を起こす奴など死んでしまえばいい。俺は妹さんの部屋には入らなかった。言えるのはそれだけだ。俺の意思が大きかったとはいえ、妹さんが自分で庭まで会いに来たんだ」」

 フィリップが動きかけたが、バルサモが制した。

「約束通り証拠をお見せしましょう。今からで構いませんな? 結構。トリアノンへ行こうではありませんか。無駄な時間を費やしていても仕様がない。それとも待つとしますか? それならそれで構わないが、静かに取り乱さずにお願いしたい」

 こう言うと、これまで同様バルサモは一瞬だけ目を光らせ、また元のように物思いに沈んでしまった。

 フィリップは咬みかかろうとする猛獣のように、低い唸りを発したが、すぐに態度を変えて考えを改めた。

 ――この男を相手にするには、切り札を武器に説得するなり主導権を握るなりしなくてはなるまい。だが今のところは支配する方法も説得する手段もない。まずは我慢だ。

 だがバルサモのそばで衝動を堪えるのは難しかったので、馬車から飛び降りると、馬車を停めている青々とした並木道を歩き回り始めた。

 十分もすると、もう待つのには耐えられなくなった。

 怪しまれる危険を冒してでも、鉄門を早めに開けてもらう方を選ぼう。

 フィリップはこれまで幾度となく心に浮かんでいた考えを改めて反芻した。「だいたい、衛兵が怪しんだりするだろうか? 妹の具合が悪いから心配になってパリまで医者を呼びに行き、日の出とともに此処まで連れて来たと言えばいいだけじゃないのか?」

 ひとたび思いついてしまうと、実行したくていてもたってもいられなくなり、そのうち危険性も忘れてしまい、馬車に駆け戻った。

「仰る通りでした。長々と待つのも意味がありません。行きましょう……」

 だがフィリップはその言葉を繰り返さなくてはならなかった。ようやく二度目にバルサモは外套を脱ぎ捨てると、鈍色をしたウプランドの黒光りする鋼のボタンを留めて、馬車を降りた。

 庭園の鉄門に向かう小径を、フィリップは近道をして斜めに横切った。

「急ぎましょう」

 言葉に違わずフィリップは足を早め、バルサモが遅れ気味になるほど急いだ。

 門が開くと、フィリップはスイス人衛兵に事情を説明して通してもらった。

 門が元通り閉じられたところでフィリップが立ち止まる。

「最後に一言だけいいでしょうか……これが最後です。あなたが妹に何をたずねるつもりなのかはわかりませんが、眠っている間に起こった恐ろしい出来事については、詳しい話をするのを避けてもらえませんか。肉体こそ汚されてしまいましたが、せめて魂だけは清らかなままでいさせてやって欲しいのです」

「よく聞いて欲しい。俺はあそこに見える木立より奥には入ったことがない。妹さんの住まいの向かいの木立だ。だからタヴェルネ嬢の部屋にも入ったことがない。それは名誉にかけて誓った通りだ。恐ろしい事実に妹さんの魂が耐えられるかどうか心配しているようだが、不安があるとしたらあなたの方だ。眠っている人間には関係ない――というのも、今から――俺が一歩踏み出してから、動物磁気による眠りに就くよう妹さんに命じるからだ」

 バルサモは動きを止めて腕を組み、アンドレが住んでいる離れに向き直ると、そのまま動かずに眉を寄せ、抗い難い意思の力を顔中に漲らせた。

「これでいい」バルサモは腕を戻した。「今頃はもうアンドレ嬢は眠っているはずだ」

 だがフィリップの顔には不審の色が浮かんでいる。

「ほう! 信じていないのですな? いいでしょう! お待ちなさい。部屋に入る必要がないことを証明して見せましょう。これから妹さんに命じて、眠っているままでいいから、階段の下まで会いに来るように伝えましょう。妹さんとこの間お話ししたのもその場所です」

「実際に目にすれば信じるのもやぶさかではありません」

「この並木道の中まで入って、熊垂の生垣の陰で待つとしよう」

 フィリップとバルサモはその場所まで向かった。

 バルサモがアンドレの部屋に向かって手をかざした。

 だがそうした途端、一つ向こうの生垣からかすかな物音が聞こえた。

「誰かいる! 気をつけて」バルサモが言った。

「何処ですか?」フィリップは目を凝らした。

「そこです、左の茂み」

「あっ! ジルベールだ。昔の使用人です」

「見つかるとまずいことでもありますか?」

「そんなことはありません。でもそれよりも、中止しませんか。ジルベールが起きているのなら、ほかにも起きている人がいるかもしれません」

 そんな話をしているうちに、ジルベールは怖くなって逃げ出していた。フィリップとバルサモが一緒にいるのを見て、もうお終いだと直感的に理解したのだ。

「さて、どうしますかな?」

 フィリップはいつの間にかバルサモの魔力に囚われているのを感じていた。「アンドレをここまで連れて来るほどあなたの力が大きいのが事実なら、誰にでも盗み聞き出来るようなこんなところに妹を連れて来るのではなく、何か別の証拠を見せていただけませんか」

「ぎりぎりだったな」バルサモがフィリップの腕を摑んで、使用人棟の廊下の窓に注意を向かせた。アンドレが部屋から抜け出し、バルサモの命令に従って、階段を降りようとしていた。

「止めて下さい」フィリップが恐慌と驚愕を露わにした。

「そういうことなら」

 バルサモがタヴェルネ嬢に向けて腕を伸ばすと、すぐに歩みが止まった。

 それから、『石像の宴』の歩く彫像のように、くるりと向きを変えて部屋に戻った。[*2]

 フィリップがそれを追い、バルサモも後に続いた。

 フィリップはアンドレとほぼ同時に部屋に入り、腕を摑んで坐らせた。

 やがてバルサモも追いついて来て、扉を閉めた。

 だが入室の間隔がどれほど短くとも、第三の人物がバルサモより先に扉をくぐってニコルの小部屋に忍び込むだけの時間はあった。身を隠した人物は、これから始まる一幕が己の運命を左右することを理解していたのだ

 第三の人物とは、ジルベールであった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXLVII「La route de Trianon」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月22日(連載第145回)。


Ver.1 12/05/05
Ver.2 12/10/19
Ver.3 26/05/06

[註釈・メモなど]

・メモ
 石の饗宴。(festin de pierre モリエール『ドン・ジュアン あるいは石の饗宴』)

[更新履歴]

・12/10/19 「魂は清らかなままでいさせてやって欲しいのです。清らかな魂は清らかな肉体に宿るものなのですから」→「肉体こそ汚されてしまいましたが、せめて魂だけは清らかなままでいさせてやって欲しいのです」

・26/05/06 – Non, je ne crois pas ; mais n'importe, arrêtez, monsieur : si Gilbert est levé, d'autres peuvent être levés comme lui. この「n'importe」は「どうでもいい」ではなく「それでも~」の意。「lever」は「人を起こす」。「そんなことはありません。でも放っておきましょう。ジルベールが追い出されたら、ほかの人間も追い出されかねません」 → 「そんなことはありません。でもそれよりも、中止しませんか。ジルベールが起きているのなら、ほかにも起きている人がいるかもしれません」に訂正。

・26/05/06 「」 → 「」

・26/05/06 「」 → 「」

 

[註釈]

*1. [一か月前に……]
 第120章〜()。バルサモがアンドレにロレンツァのことを透視させ、薬で眠ったアンドレを死んでいると国王が誤解し、意識のないアンドレをジルベールが犯した夜のことである。[]
 

*2. [石像の宴]
 モリエール『ドン・ジュアン もしくは 石像の宴』には、ドン・ジュアンが石像を晩餐に招待したところ、像が動き、やがてドン・ジュアンを破滅させる顚末が描かれている。[]
 

*3. []
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*4. []
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*5. []
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*6. []
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