ド・タヴェルネ嬢を悲劇が襲ったあの晩に目撃された謎の人物のことを指して、ジルベールがこう言ったのには、然るべき理由があった。「誰だかばれるのではないか?」と。
ジョゼフ・バルサモ、ド・フェニックス伯爵の住処をフィリップが知らないのは確かだ。
だがあの貴婦人――五月三十一日にアンドレを休ませてくれたド・サヴェルニー侯爵夫人のことなら覚えていた。
サン=トノレ街の住まいを訪問できないほど遅い時間ではない。フィリップが昂奮も感情も抑えて夫人の住まいを訪れると、小間使いからすんなりと、バルサモの住所を教えてもらった。マレー地区、サン=クロード街。
フィリップは直ちにそこに向かった。
だが問題の家のノッカーに触れた時には、少なからぬ昂奮を隠せずにいた。フィリップの推測では、ここにアンドレの安らぎと名誉が永久に飲み込まれたままなのだ。だが訪いを告げる頃には、憤懣も癇癪もようやく抑え込み、これから必要とする力を温存することが出来た。
そこで迷いなくノッカーを敲くと、扉が開いた。
フィリップは中庭に入り、馬の手綱を引いた。
だが四歩と進まぬうちに、玄関の階段上に現れたフリッツから問いただされた。
「ご用件は?」
これには思いもかけなかったらしく、フィリップはぎょっとした顔を見せた。
フリッツが召し使いの義務を果たしていないとでも言いたげに、眉をひそめて睨みつけた。
「この家のご主人であるフェニックス伯爵とお話ししたい」フィリップは手綱を輪に通し、そのまま歩いて家に入った。
「主人は不在でございます」と言いながらも、フリッツはフィリップを丁寧に受け入れた。
あらゆる場合を想定していたが、これほど素っ気ない返答だけは予期していなかった。
フィリップは虚を衝かれた。
「何処に行けば会えるでしょうか?」
「存じません」
「と言いつつ知っているのでは?」
「遺憾ながら行き先を告げられておりません」
「すぐに話をしなくてはならないのだ」
「それは難しいかと存じますが」
「何が何でも話がしたい。極めて重大な用件なんだ」
フリッツは無言でお辞儀をした。
「出ていると言うんだな?」
「さようでございます」
「だが戻って来るんだろう?」
「そうは思いません」
「そうは思わないって?」
「はい」
「わかったよ」フィリップの声に怒気が滲み始めた。「取りあえずは、ご主人に伝えてくれ……」
「重ねて申し上げますが、主人は不在なのです」フリッツは飽くまでも冷静に答えた。
「命令されているのはわかるし、それに従うのも否定はしない。だがぼくはその命令の適用外だ。突然の訪問なのだからね」
「どなたに対してもという命令でございます」フリッツが口を滑らせた。
「つまり命令はしたんだから、フェニックス伯爵は家にいるんだな?」
「だとしたらどうだと仰るのですか?」あまりのしつこさに、今度はフリッツの方が苛立ちを見せ始めた。
「だとしたら、ここで待つとしよう」
「主人は不在だと申し上げたはずです。しばらく前に火が出たせいでこの家には住めなくなってしまいましたので」
「だが君は住んでいるじゃないか」今度はフィリップが口を滑らせた。
「管理人として寝泊まりしているのです」
フィリップは乱暴に肩をすくめた。何を言われようと一言も信じられなかった。
フリッツがいよいよ苛立ち始めた。
「そもそも伯爵閣下がいらっしゃろうといらっしゃらなかろうと、ご在宅だろうとご不在だろうと、力ずくで家に入ろうとなさる方などおりません。しきたりに従わないと仰るのでしたら、私といたしましてはやむを得ず……」
フリッツは語尾を濁した。
「何だと言うんだ?」フィリップが腹を立てた。
「やむを得ず外に連れ出さざるを得ません」
「君が?」フィリップの目が光った。
「私がでございます」フリッツのドイツ人らしいところが出て、怒りが大きくなるにつれてうわべはますます冷やかになっていた。
フリッツが足を踏み出すと、フィリップは思わず剣をつかんでいた。
フリッツは剣を見ても狼狽えもせず、誰かを呼びもしなかった――とは言え、もともと誰もいないのだろう。フリッツは短いが鋭く尖った金属のついた杭のようなものをつかむと、剣術ではなく棒術のような動きでフィリップに飛びかかった。その一撃で、短剣の刃がきらめいて跳ね飛ばされた。
フィリップは怒りの声をあげ、武具飾りの方に駆け寄り、武器を取ろうとした。
その時、廊下の隠し扉が開いて、薄暗い戸枠の中に伯爵の姿が浮かび上がった。
「何事だ、フリッツ?」
「何でもございません」フリッツは矛を下ろし、それをバリケードのように主人の前に掲げた。それを伯爵が隠し階段の上から見下ろしていた。
「フェニックス伯爵」フィリップが声をかけた。「客人を矛でもてなすのがお国のしきたりなのですか? それともあなたの家だけの特殊な事情でしょうか?」
フリッツは矛を下ろし、主人の指示に従って玄関の隅に置いた。
「どなたですか?」伯爵がたずねた。控えの間を照らしている明かりの下でも、フィリップのことがわからないようだった。
「是が非でもあなたとお話しをしたがっている者です」
「是が非でも?」
「ええ」
「それではフリッツに分があるようですな。私は誰とも話したくありませんし、家にいる時に誰かが訪ねて来ても話し合いを認めることはありません。あなたは私に対して過ちを犯したわけですが――」バルサモは溜息をついた。「早々と立ち去って静かにしておいてくれると約束して下さるなら、許して差し上げましょう」
「静かにしておいて欲しいとはさすがですね。ぼくの静けさを奪った癖に!」
「あなたから静けさを奪ったですと?」
「ぼくはフィリップ・ド・タヴェルネだ!」この言葉ですべての説明がつくと信じていた。
「フィリップ・ド・タヴェルネ?……そうでしたか。お父上にはお世話になりました。どうぞお寛ぎ下さい」
「ありがたい!」フィリップは呟いた。
「こちらへどうぞ」
バルサモは隠し階段の扉を閉めてフィリップのところまで来ると、この物語の中で読者には何度もお見せして来た応接室まで案内した。もっとも近いところでは、五人の
誰かをもてなす予定だったのかのように、応接室はこうこうとした明かりに照らされていた。だがそんな贅沢もこの家では普段通りのことに過ぎないのだ。
「今晩は、タヴェルネ殿」穏やかでくぐもったバルサモの声に、フィリップは思わず目を上げた。
だがいざバルサモを見るや後じさっていた。
伯爵はもはや本人の影にしか過ぎなかった。目は落ち窪んで光も失せ、頬はそげて二本の皺となって口を囲い、骨張った剥き出しの顔の出っ張りを見ていると死者と対面しているような気にさせられた。
呆然としたままのフィリップを見たバルサモは、暗く悲しげな微笑みを白い口唇にかすかに浮かべた。
「使用人のことはお詫びいたしますが、命令に従ったまでのこと。それに言わせていただければ、力ずくで押し入ろうとしたのはあなたの方だ」
「伯爵、極限状況下における命の問題はご存じでしょう。今のぼくがまさにそれなのです」
バルサモは答えない。
「お会いしてお話ししたかったのです。あなたに会えるなら、死にさえ立ち向かう覚悟でした」
バルサモは無言を貫いていた。フィリップが説明するのを待っているのだろうか、問いただすだけの気力も好奇心もないようだった。
「こうしてお会い出来たからには、話し合わせてもらえませんか。ですがその前に、この男を追い出して下さい」
フィリップがフリッツを指さした。フリッツは闖入者をどうするか指示を仰ぎに来たのか、扉のカーテンを持ち上げたところだった。
フィリップから逸らされることのないバルサモの視線の先が、心の奥まで突き刺さりそうだった。だが身分も階級も同じ男を前にして、フィリップは落ち着きや威厳を取り戻していた。
バルサモは顔どころか眉を動かしただけで、フリッツを立ち去らせた。二人は向かい合って坐り、フィリップは暖炉を背にし、バルサモは円卓に肘を預けた。
「では端的にお話し下さい。こうして話をお聴きするも好意からに過ぎませんし、正直に申し上げると飽きっぽい人間なのですよ」
「ぼくとしては失礼に当たらないと判断した限りで、話すべきことを話すまでです。よろしければ、質問から始めさせていただきたいのですが」
これを聞いてバルサモの眉が寄り、目から火花が散った。
この言葉から思い出したことがあったのだ。バルサモの心の奥で蠢いているものを知れば、フィリップは震え上がったに違いない。
だがバルサモはすぐに我に返った。
「おたずね下さい」
「伯爵。あなたはあの五月三十一日の夜どのように過ごしていたのかを、お話しして下さったことはありませんでしたね。ルイ十五世広場を埋める怪我人や死者の山から妹を連れ出してから後のことです」
「何を仰りたいのですかな?」
「以前から気になってはいたのですが、あの夜のあなたの行動に極めて疑わしいところがあると申し上げているのです」
「疑わしいとは?」
「総体的に見て、とても立派な人間のすることとは思えません」
「よくわかりませんな。失礼ですが頭が重くてはっきりしないのです。そのせいで短気になっているところもあります」
「伯爵殿!」激情と落ち着きが綯い交ぜになったフィリップの苛立ち声に、バルサモが目を向けた。
「失礼ですが」と答えたバルサモの声には変化はない。「初めてあなたにお会いしてから、不幸に遭いましてね。家の一部が焼けて、あまりにも貴重なものの数々が失われてしまったのです。それ以来というもの、辛くて頭がどうかしてしまいそうなのです。お願いですからもっとはっきり仰っていただけませんか。そうでなければ直ちにお引き取りいただきたい」
「とんでもない! そう簡単においとまするわけにはいきませんよ。ぼくの事情を汲んでくれれば、あなたの側の事情を袖にするつもりはありません。というのも、ぼくも大変な不幸に遭ったのです。恐らくはあなたが遭った不幸よりも大変な不幸に」
バルサモは悟ったような微笑みを浮かべた。先ほどから口唇に浮かんでは消えていたものだった。
「ぼくは、家族の名誉を失ったのです」
「それで、私に何が出来るというのですか?」
「何が出来るかですって?」フィリップの目が光った。
「ええ」
「失ったものを返してくれることが出来るではありませんか!」
「何ですって! 正気ですか!」
バルサモが呼鈴に手を伸ばした。
だがその動きには勢いがなかったし、怒った様子もなかったので、すぐにフィリップに腕をつかまれた。
「正気かと言うのですか?」フィリップの声はかすれていた。「では妹の話だということもわかりませんか? 五月三十一日、あなたの腕の中で気絶していた件についてです。妹はある家に連れて行かれた。あなたに言わせれば『名誉にも』だったのでしょうが、ぼくに言わせれば『汚らわしくも』です。結論を申し上げましょう。どうか剣を手にしていただきたい」
バルサモは肩をすくめた。
「単純な話を随分と回りくどくなさいましたな」
「人でなしめ!」フィリップは叫んだ。
「何という声だ!」バルサモは辛く苛立った声をあげた。「耳が潰れそうだ。私が妹さんを侮辱したと言いに来たわけではないのでしょう?」
「まさにそう言いに来たのです、卑怯者め!」
「無意味に怒鳴ったり罵ったりするのはおやめなさい。いったい何処の誰から吹き込まれたのです。私が妹さんを侮辱したなどと?」
フィリップが躊躇いを見せた。バルサモの声を聞いているとわからなくなって来た。よほどの厚顔無恥なのか、まったくの無実なのか、どちらかだろう。
「誰から聞いたかですって?」
「ええ、教えていただけますかな」
「妹本人からですよ」
「そうか。妹さんも……」
「何が言いたいんですか?」フィリップが脅すような仕種をした。
「お話を聞いた限りでは、あなたも妹さんもお気の毒に。ご婦人を辱めようとは、これ以上におぞましいことはありません。それであなたは、イタリア劇に登場する髭面の兄貴のように、脅しを口にしにやって来たのですな。剣を取るか、妹さんと結婚するか、選択を迫る為に。妹さんが結婚を望んでいるのか、あなたの為にお金を作ろうとしているのかはわかりませんが、あなた方としては私が金持だとご存じなのですからな。ところがあなたは二つの点で間違っている。あなたの手には一銭も入らないだろうし、妹さんはこれからも独身のままだろうということです」
「あなたが腹を立てているというのなら、ぼくも同じように血をたぎらせることに異存はない」
「腹を立ててさえおりません」
「何ですって?」
「血をたぎらせるとしたら、もっと重大なことが起こった時です。あなたも血を静めてもらえませんか。騒ぎ立てるというのでしたら、頭が痛くなるので、フリッツを呼びます。フリッツが来れば、命令に従ってあなたを葦のように真っ二つにしてしまいますよ」
バルサモが呼鈴を鳴らした。フィリップに止められそうになると、円卓に置かれた黒檀の箱を開いて、拳銃を取り出した。二発の弾丸が装填されている。
「望むところです。どうぞ殺すがいい!」フィリップが怒鳴った。
「どうして殺さなくてはならないなどと?」
「あなたを侮辱したからですよ」
フィリップの言葉には真実の重みがあった。バルサモがそれを穏やかに見つめていた。
「それを本心から仰っているとでも言うのですかな?」
「嘘だとでも? 紳士の言葉を疑うのですか?」
「それともタヴェルネ嬢が卑劣な考えを思いついただけで、あなたをそそのかしていたと?……そう思いたいところですな。ではすっきりさせて差し上げましょう。名誉にかけて誓います。五月三十一日の夜、私が妹さんに取った行動は、非難のつけようのないものです。名誉に照らしても、人間の法廷に於いても、神の審判を仰いでも、何処の裁判所からも反論されるような点はありません。信用していただけますかな?」
「何ですって!」
「こちらとしては決闘も厭わない。それはあなたもご承知だ。目を見ればわかります。体調が悪そうだと思っているのなら大間違い、見た目だけですよ。確かに顔色は悪い。だが筋肉は衰えちゃいない。証拠が見たいですかな? では……」
ブールの手になる家具の上に青銅製の大きな花瓶が置かれてあるのを、バルサモは片手だけで軽々と持ち上げて見せた。
「わかりました。五月三十一日については信じます。ですがあなたは誤魔化しておいでだ。別の日のことも同じように証明なさろうとしていますが、後日また妹に会ったはずです」
バルサモが躊躇いを見せた。
「確かに会いました」
一瞬だけ顔が輝いたが、それも瞬く間に翳った。
「ほらご覧なさい!」
「確かに妹さんには会ったが、それがどうしたと?」
「どうしたもこうしたも、これまで三度にわたっておかしな力を使って眠らせて来たではありませんか。あなたに近づかれて発作を起こした妹を、無力なのをいいことにもてあそんで知らんぷりを決め込んでいるのではありませんか」
「改めてたずねるが、誰がそんなことを?」バルサモが大声でたずねた。
「妹本人がです!」
「眠っていたのに何故わかる?」
「では、眠っていたことを認めるのですね?」
「認めるどころではない。この手で眠らせていたことを認めよう」
「眠らせていた?」
「そうだ」
「辱める為でなければ、何の為に?」
「何の為に?」バルサモはがっくりと頭を垂れた。
「話して下さい!」
「俺にとっては命よりも大事な秘密を教えてもらう為にだよ」
「嘘だ! 言い逃れだ!」
「あの夜のことか……」バルサモは、フィリップの侮辱に応えるというよりも、自らの考えを追うようにして呟いた。「あの夜、妹さんが……?」
「辱められたのです」
「辱められた?」
「妹は母親になったのです!」
バルサモが声をあげた。
「そうだった! 忘れていた。術を解かずに立ち去ってしまったんだ」
「お認めになるのですね!」
「ああ。何てことだ。あの夜。俺たちにとって悲劇だったあの夜、何処かの卑怯者が妹さんが眠っているのにつけ込んだんだ」
「からかおうと言うのですか?」
「いや、説得しようとしているのだ」
「それは難しいでしょうね」
「妹さんは今どこに?」
「よくご存じの場所ですよ」
「トリアノンに?」
「ええ」
「ではトリアノンに行こう」
フィリップは驚きのあまり動けなかった。
「俺は間違いを犯した。だが罪は犯しちゃいない。催眠術にかけたまま放っておいてしまっただけだ。だがそのお詫びに犯人の名前を教えよう」
「誰なんです?」
「俺は知らない」
「では誰が知っているのですか?」
「妹さんだ」
「でもぼくには教えてくれませんでした」
「恐らく俺には言ってくれるだろう」
「妹が?」
「妹さんが犯人を名指ししたら、信じるな?」
「ええ。無垢な天使のような人間なのですから」
バルサモは呼鈴を鳴らした。
「フリッツ、馬車の用意を!」
フィリップは狂ったように応接室を歩き回っていた。
「犯人ですって! 犯人を教えると約束してくれるんですね?」
「先ほどの小競り合いで剣を折ってしまったようだが、よければ別のを差し上げようか?」
そう言って椅子の上から金柄の見事な剣をつかみ、フィリップのベルトに通した。
「あなたはどうするのです?」
「俺には必要ない。自分を守らねばならぬとしたら、トリアノンに着いた時だ。妹さんが話してくれたら、その時はあなたが俺を守ってくれるだろう」
十五分後、二人は馬車に乗り込み、フリッツが二頭の馬を操ってヴェルサイユまでの道を全速力で走らせた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXLVI「Deux douleurs」の全訳です。
Ver.1 12/04/21
[註釈・メモなど]
・メモ
※サヴェルニー侯爵夫人(Saverny。69章ではサヴィニー Savigny)。
・註釈
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